2006年10月28日

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(飛行船:130) ツェッペリンアルバム(写真:第18回) 写真33 −エッケナー博士−

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[33枚目:ツェッペリン伯爵の後継者、フーゴ・エッケナー博士]

エッケナーは1864年生まれでありツェッペリン伯爵より26年若い。
父はフレーンスブルクのタバコ工場を経営していた。

フーゴはフレーンスブルクのギムナジウムを卒業し、ミュンヒェン・ベルリン・ライプツィヒの各大学に学び学位を取得している。

博士号は工学ではなく、哲学と経済学の分野で取得したものである。

彼は若い頃ヨットマンであったことは有名であるが、キール湾やリューベック湾あたりシュレスヴィッヒ・ホルスタインの海で帆走していたのであろう。

エッケナーがツェッペリンの飛行船を知ったのは、病気療養のためフリードリッヒスハーフェンに転地に来ていたときのことである。

1900年10月17日にツェッペリンの飛行船「LZ 1」が2度目の飛行でマンツェルの湖岸から浮上した2日後、10月19日付けのフランクフルト新聞に Dr.E としてこの操縦可能な飛行船に関する論評を書いている。

伯爵はこの記事を読み、エッケナーの自宅を訪問し後に後継者となるこの人物と飛行船について語り合ったという。

1903年にエッケナーはツェッペリンの事業に参加し、宣伝・広報・対外折衝などを担当していた。

その後、DELAGの社長に抜擢されていたが、飛行船の運航技術を学び1911年2月にはツェッペリン飛行船運航技能試験に合格し、「ドイッチュランドⅡ」の船長として同船が破損し解体されるまで30回も遊覧飛行を指揮している。

しかし、彼が飛行船の運航指導者・教育者としての能力を発揮したのは第一次大戦の勃発で拡大されたドイツ海軍飛行船隊の指導者養成に関してであった。

ドイツ海軍飛行船隊の指揮官であるペーター・シュトラッサー中佐の技術・運用両面での指導を要請されたのである。

それは50隻以上の海軍飛行船隊の千人を超える乗組員の訓練に責任を持つことであった。
こうして大戦末期にエッケナーは大型飛行船の膨大な技術と運用に関する知識と経験を蓄積していたのである。

第一次大戦末期に起きたドイツ革命によりヴァイマール共和国となり、ナチスが台頭していたがエッケナーは国民の英雄となり政治的にも発言力を増していった。
社会民主党も、カトリック中央党もヒットラーに対抗する候補としてエッケナーを候補として立てようとしていた。
このアルバムの発行された1933年、1月1日の新聞の一面は『ヒンデンブルクの後に来るのはヒットラーかエッケナーか』の見出しでヒットラー、ヒンデンブルク・エッケナーの写真や似顔絵を掲載している。
ヒットラーが政権を取った後はゲシュタポのブラックリストに載っていたようであるがヒンデンブルクがヒットラーに、エッケナーは飛行船開発に尽力した国民のシンボルであり彼を処分しないように進言したため収容所に入らずに済んだと伝えられている。

後にナチによりエッケナーが追放された後社長に就任し「LZ-129:ヒンデンブルク」の惨事で死亡したレーマン船長も彼が指導した一人であった。

「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」の計画・設計・建造・運用に携わり、世界一周飛行でアメリカの大統領に『現代のコロンブス』と賛辞を送られたが「LZ-129:ヒンデンブルク」の頃はナチに抹殺されていたために災難を免れ第二次世界大戦後の1954年に亡くなっている。

フーゴ・エッケナー博士はその息子クヌートをツェッペリン飛行船製造の技術面での責任者に育成している。
「グラーフ・ツェッペリン」の世界一周飛行には26歳で舵手として乗船していた。

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