2007年01月23日

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(飛行船:221) ツェッペリンアルバム(写真:第100回) 写真153 −世界周航に出発−

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このツェッペリンアルバム(写真集)も100回となり、いよいよ「グラーフ・ツェッペリン」の世界周航に入る。
これまでの数え方で言うと第10部である。

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「グラーフ・ツェッペリン」は1929年8月、世界周航に旅立った。

このアルバムの解説では8月15日の朝、4時35分にフリードリッヒスハーフェンを一路東京目指して飛び立ったと記されている。

一方、8月7日23時39分にアメリカ・ニュージャージー州レークハーストをフリードリッヒスハーフェンに向かって世界周航を始めたとする説もある。

どちらが真実だろうか?

実はどちらも間違いではない。

「LZ-127・グラーフ・ツェッペリン」は建造計画の段階から世界一周飛行が大きな目標であった。

当時、飛行機は郵便物や乗客を載せて定期空路に就いてはいたものの、乗客は高々10名前後、飛行区間は国内か隣接国相互に止まっていた。

大洋を越えて大陸を結ぶ航空路が現実のものとなったことを知って貰うためには乗客を乗せて世界周航するのが一番であった。

それまでに世界一周飛行がなかったわけではない。
その5年前にアメリカ陸軍の水陸交替機による世界一周が行われている。
しかしこれは命知らずの冒険飛行であり、4機で出発したものの途中で2機を失った。
しかも、4月のはじめに出発して帰り着いたのは9月末で所要日数は176日に及ぶ。

客船で航行するように昼間はラウンジで映画を見たり食事をしたり、夜はキャビンのベッドで就寝して2〜3日で大西洋を渡れるなど夢であった頃の話である。

しかし、世界周航には百万マルク(25万ドル)の資金が必要であった。

敗戦後のワイマール政府には何も期待出来なかった。

独占取材を条件にドイツの新聞社に打診したところシェルル出版、ウルシュタイン出版、フランクフルト新聞の3社で5万ドル出すことになったがこれでは不足額の方が多かった。

こんなとき「ジャーナル」紙を発行するアメリカのハースト社が全世界の独占報道権を購入したいと提案してきた。

交渉の結果、ヨーロッパを除くという条件でハースト社が最大の出資をすることになった。
その額は10万ドルとも15万ドルとも言われている。
ちなみにフランスのマタン社も、日本の新聞社もスポンサーとなり、朝日も毎日も世界周航に記者を同乗させている。

このハースト社の提示した条件の一つに世界一周飛行はレークハースト発着で実施することが含まれていた。

それで「グラーフ・ツェッペリン」はフリードリッヒスハーフェンから大西洋を渡り、レークハーストから改めてフリードリッヒスハーフェンに向かって飛び立ったのである。

アメリカ人は1929年8月7日にレークハーストを離陸して、8月29日にレークハースト着陸で世界一周したと思っているし、ドイツ人は8月15日にフリードリッヒスハーフェンを発って世界を巡り9月4日に同地に戻ってきたと思っている。

乗客・乗員は寄港地で乗降しているので、搭乗員数はフリードリッヒスハーフェン・東京・ロサンゼルス・レークハースト(フリードリッヒスハーフェンとレークハーストの間は重複している)の着陸4地点間で多少の推移がある。
総指令のエッケナー博士もレークハーストで下船し、最終行程はレーマン船長が指令を務めた。

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[153枚目:ダンチッヒ沖の遭難船]

この写真はフリードリッヒスハーフェンを飛び立った「グラーフ・ツェッペリン」が数時間後にバルト海に出たときに撮影されたものである。

船体中央部で破断された難破船から油が流れ出している。

このあと飛行船はモスクワとセントペテルスブルクの間を飛行し、ウラル山脈を越えてシベリヤを東京に向かって飛行し続けた。

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