2007年06月08日

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(飛行船:350) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(6)

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(「LZ-7:ドイッチュラント」の客室:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(「LZ-8:ドイッチュラント(II)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(格納庫上の「LZ-8:ドイッチュラント(II)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

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(続き)

この企業活動の成功は驚くべきものであり、簡単に9千万円の資本を得た。

多くの大都市の市長は、とても熱心にDELAGの役員になりたがったが、結局20人以上が加わり、それぞれの市長がその街に、飛行船格納庫を建設するために駆け回った。

なぜなら、ツェッペリン航空路は大きな都市を結ぶ計画であり、それに乗り遅れまいとしていたのである。

フランクフルト、ケルン、デュッセルドルフ、バーデン・バーデン、ミュンヘン、ライプチッヒ、ドレスデン、ハンブルクが最初の飛行船基地に手を挙げた。

それらは徐々にその目的を達成していたが、途中で失敗したところも多かった。
維持・運営の難しさは、予想を超える場合もあったのである。

そして、残念ながら私もその責任を負わねばならない。
なぜなら、それらの市長の楽観論は、その前の4年間に私が行った広報活動の結果でもあったからである。

しかし「すべての結果は最後に清算されるべきである」し、現時点では、個人的にツェッペリン飛行船の可能性を証明することの困難を背負っていると思う。

このことで、成功を勝ち取るまでには、幾夜も眠れぬ夜があり、悩んだ時期があった。

最初のDELAGの飛行船ドイッチュラントはデュッセルドルフからの最初の飛行で、トイトブルクの森で難破した。

その飛行船は激しい西風に立ち向かうには低速に過ぎ、とりわけエンジンの1基が故障したことが原因であった。

代船が就航したが、ドイッチュラントの指令(船長)が不適任として解任された後、誰が指令を務めれば良いのだろう?

コルスマン氏は、私にやってみないかと打診した。

当然、私は同意した。
なぜなら、私はいつもツェッペリン飛行船に寄与したかったからである。

私は「飛行運用部長」となり、DELAGの飛行船船長になった。

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[註1]
「ドイッチュラント」は、初めて固有名が付けられたツェッペリンの飛行船で、製造番号は「LZ-7」である。

同船はDELAGが初めて発注し、引き受けた飛行船としても知られている。
長さ148m、直径14m、ガス容量19,300立方mと、それまで建造された中で最も大きい飛行船であった。
船体中央部に籐の椅子を設けた客室が作られ、簡単な食事も用意されていた。

特筆されるべきは、ガス嚢にゴールド・ビーターズ・スキンと呼ばれる牛の腸を何層も重ね合わせたものを初めて採用したことである。
ナイロン・ビニールのような人造繊維や人工皮膜のなかった時代に、イギリスなど外国でも広く使われた。
ゴールド・ビーターズ・スキンとよばれるのは金箔細工師が、日本で和紙を使うようにこれを使っていたからだと言われている。

[註2]
1910年6月28日に「LZ-7:ドイッチュラント」に20人ものジャーナリストを招待して試乗会を行っているときに、この事故を起こし、人身事故にはならなかったが飛行船の信頼性を強調しようとして逆に評価を落としてしまった。
「LZ-7:ドイッチュラント」が解体され、代船として建造された「LZ-8」は殆ど同型で、おなじく「ドイッチュラント」と命名された。

[註3]
エッケナー博士は訓練の末、1911年2月にツェッペリン飛行船運用技能試験に合格し、船長資格を得た。
「ドイッチュラント」の指令として30回程度遊覧飛行を実施したといわれる。
しかし、同年5月にはデュッセルドルフの格納庫に当ててしまい、同船も解体された。

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