2007年06月26日

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(飛行船:368) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(24)

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(フリードリッヒスハーフェンの「グラーフ・ツェッペリン」:コレクションの絵葉書から)

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 グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(4)

しかし、この空模様では出発しようと思ってもどうしようもなかった。

激しい風が格納庫の出口から吹き込み、飛行船を搬送することは出来なかった。

そのときの疑問は翌朝も同じような状況だろうかということであった。

その日は一日中吹き荒れており、夜 就寝するときも風が寝室を音を立てて通り抜け、雨が激しく窓を打っていた。

このような気の休まらない夜は過ごしたことがない。

屋根にあたる風の音と、窓に打ち付ける雨を聞きながら一夜を過ごした。

1時間毎に起きあがり、様子を見て、神が 飛行船操縦者の私を怒っていることを感じながら床に戻っていた。

やっと午前5時に嵐は弱まり始めた。

とても睡眠どころの話ではなかった。

服を身につけて庭に踏み出すと、ありがたいことに殆ど静かで雨も上がっていた。

私が、午前6時に飛行船発着場に着いたとき、皆 大変忙しそうにしていた。

飛行船に積み込む荷物と郵便物は届いており、飛行船は出発の準備に掛かっていた。

大きく反響する格納庫では、エンジンが専門家の調整で爆音を奏でており、ガス嚢は満載にするため最後の充填を受けていた。

しかし私の最大の関心は、これから本当にジブラルタルを越えて長い航路に旅立てるのかということであった。

フレミング船長、シラー船長との打ち合わせで、その時点ではアゾレス経由より短いと思える飛行ルートを決めた。

しかし、個人的には予備案を用意していた。

天候次第では、ローヌ渓谷のリヨンからビスケー湾に向かわなければならないかも知れなかったからである。

だが出発の時刻となったとき、地中海経由のルートを選んだ。

それからは、すべてが素早く静かに進んだ。

午前7時半、乗客は手荷物を持って乗船した。

乗客には航空省の代表が4人おり、10人は有料の一般乗客で、6人が大新聞の代表であった。

そのうちに2人のアメリカ・ハースト新聞の代表、フォン・ヴィーガント氏とヘイ女史がいた。
女史は、のちにすべての大飛行に参加し、ツェッペリン飛行船の熱烈な友人・支持者となった。

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[註1]乗客と手荷物
当時の飛行船の手荷物には20kgという非常に厳しい重量制限があった。
世界周航の際も、これにまつわる逸話は多い。
このとき乗船した大阪朝日の北野記者は、ゴルフバッグもレコードも書籍も蓄音機も見送りに来た友人に処分を頼んだと伝えられており、各国政府代表や、スポンサーとなった新聞社の記者のなかで、数少ない実際に乗船料を支払って乗船した大富豪の子息は、その手回し蓄音機を載せると駄々をこねたと言われている。

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