2007年08月17日

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(飛行船:420) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(71)

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 世界周航(24)

やってみた。
そして、うまく行くように見えた。

しかし、地上およそ5mくらいの後部ゴンドラに伴走しているとき、正面に突然高さ約20mに斜めに張られたワイヤがあるのを見つけた。

それを乗り越えなければならない。

もっと高度を取るように昇降舵を一杯に効かせた。

しかしそのとき、船尾では垂直尾翼の下端が地表に触れた。

このままではワイヤに掛かるのは間違いなかった。
もう一度船尾が地面に当たった。

そして、そのときワイヤを1mの差で飛び越えていた。

大変な緊張のあと、やっと少し気分がおさまったが、手足は長時間鉛のように重かった。
次は、垂直尾翼に重大な被害がなかったかどうか確認することであった。

調査に行った技師が戻って報告して、それほど重要でない桁が1本曲がっていたが「ほかに何も生じていない」と言うことであったので、この件でそれ以上心配することなく飛行を続けた。

しかしながら、このアメリカ大陸を渡るこの飛行を、かつて経験したことのない不安で始めたことは認めざるを得ない。

降りかかってくる困難のすべてに打ち勝つことが出来るであろうか?

この飛行の出だしは殆ど絶体絶命であった。
なぜなら飛行船にバラスト水を載せていなかったからである。

この飛行区間をバラスト水なしで、従ってガソリンも最小限度で達成しなければならないのである。

この地域の予測しがたい天候のことを考えた。

アリゾナやテキサスの砂漠では熱帯のような暑さであろうし、突然 寒冷前線や北西からの雷雨前線に遭遇するかも知れないし、この季節にはカリブ海から内陸部に竜巻やハリケーンが来るかも知れなかった。

私はまだ、北米大陸の天候条件について疎かった。

高緯度のシベリアを渡ってきたことと較べようもなかった。

多くの幸運に恵まれなければレークハーストに到達することは出来なかった。

飛行船は、その性能を発揮できる状態ではなかった。

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[註] 最も危険な航程
世界周航は「グラーフ・ツェッペリン」建造の翌年そうそうに行われたが、ロサンゼルスとレークハーストの区間が、この飛行船の生涯のうちで最も危険な飛行となった。
1928年に就航して1937年の最終飛行までの9年間、590回の飛行のうちでこれほど危ない飛行はほかに例を見ない。
気温差で船体が重くなり、途中着陸地点でロサンゼルスだけ整備用の格納庫も補充用の浮揚ガスも無かったので、乗員を降ろし乗客も減らして軽量化し、ガソリン燃料もバラスト水も緊急用のみにして動的浮力を利用してやっと浮揚することが出来た(バラスト水なしで浮揚するということは自殺行為に等しい)。
しかし、この事に触れている文献は少なく、最後の区間は順調であったとして記述を省いている書籍もある。
サンフランシスコのドイツ領事は「ハースト氏のパーティに呼ばれなかった。至急善後策を取って欲しい。」と電話して、エッケナー博士に電話し、いきなり怒鳴りつけられたという逸話もある。
もし、離陸時にワイヤーに掛かっていたら後年の「ヒンデンブルク」のような惨事が起きていたかもしれない。


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