2009年07月26日

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ヨハン・シュッテの設計した客船

Schnelldampfer_1.jpg

ツェッペリンと並ぶ硬式飛行船の開発者であり、ドイツ第2の飛行船メーカーの代表として有名なヨハン・シュッテ博士は造船学の権威であった。

1873年にブレーメンに近いオルデンブルクに生まれた彼は、若い頃から北海に面した東フリージアで過ごし、帆走を楽しみ造船技師を志していた。
ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で研鑽を積み、その間にキール海軍工廠で実習を行ったり、船舶に乗務するなど見習士官も経験し、1898年前後に技師の資格を得、造船技師の試験にも合格した。

卒業するとハンブルク・アメリカ・ラインとともにドイツの2大海運会社であった北ドイツロイドの造船部門に入社し、1904年まで在籍している。
その頃、ドイツはイギリスに伍して大海運国になるべく、北大西洋航路に商船隊を整備している時期であった。

北ドイツロイドはブルーリボンの獲得を狙って高速客船を発注していたが、試運転で造船所の保証した速度を達成することが出来なかった。
若いシュッテがイタリアの試験設備を使用して流体力学的に抵抗が少なく速度の出る船型を突き止め、北ドイツロイドはその船の引き取りを拒否したのである。

その後、シュッテは設計部門の責任者となり、船型研究試験設備の担当も兼ねた。
特に、速度の向上には当時主流であった船尾形状をカウンタースターンよりクルーザースターンの方が有利であることを確信したと言われている。

これらの実績が評価されて、1904年に30歳という若さでダンチヒ工科大学の教授に迎えられた。
ツェッペリン飛行船「LZ4」が炎上したエヒターディンゲンの事故のあと一週間で飛行船の船体構造と推進に関する改良設計を行い、伯爵に提案したが採用を拒否されたため官民に働きかけてシュッテ・ランツ飛行船製造者を設立したことはよく知られている。

上掲の側面図はシュッテが設計した北大西洋航路の高速定期客船である。

北ドイツロイド社(NDL)はこの建造に踏み切らなかったので幻の高速客船となった。
(アーノルド・クルダスの著書「北大西洋のブルーリボン」から転載)

上図を一見して気がつくのは特徴のある船尾形状である。
一般にクルーザースターン(巡洋艦型船尾)といわれるものは船尾の船体側面形状を喫水線まで下げるが、上図は後方に大きく張り出されている。
クルーザースターンは「最大船速は水線長の平方根に比例する」というフルード則に基づいて考案されたものと思われる。


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