2010年08月27日

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(生い立ちの記:38) Y女子大学非常勤講師

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非常勤講師を担当した当時、Y女子大学には50人程度の授業の出来るコンピュータ教室が4教室くらいあったと思う。

そこに設置されているパーソナル・コンピュータはN社の16ビットマシンで、OSはMS-DOS2.11であった。

学生卓は2人一組となり、そのあいだにCRTモニターが設置されており、教卓のコンピュータが表示されるようになっていた。
2つのコンピュータ教室は準備室を挟んで向かい合っており、授業中はマイクの音声と教師用端末画面が両方の教室に表示される様になっていて、学生のアシスタントがつけば一人で百人近くの学生に授業することが出来た。

コンピュータ相互のインターフェースはRS-232C接続で、教卓には学生席に着席している学生を出席番号で確認することが出来た。

プリンターは教室の後ろに5、6台設置され、それぞれ学生の端末一列分を分担していた。

エディタは、ラインエディタが主流であったが、やっとスクリーンエディタが普及し始めた時代であった。

従って、いくら教えてもスクリーン・エディタとワードプロセッサ・ソフトの違いが理解できない様子であった。

ワードプロセッサは「一太郎」であり、画描きツールとして「花子」がインストールされていた。

そんな環境なので、教室の端末からエディタの課題を提出させる仕組みになっていなかった。

予備教室にシリアル通信の出来るパーソナルコンピュータが2台設置されており、それを端末にしてレポートを送信させるようにしていた。

一年間、非常勤講師をやって日文、英文、児童教育学科、秘書科、生活科学科などの学生にコンピューター・リテラシーの教育を行っていたが、ある日授業のあとで児童教育学科長の部屋に呼ばれた。

授業の感想や、学園の印象などを聞かれたような気がするが、常勤として採用するかどうかの学長や事務局長面接の事前聴取であったようである。

学生は真面目で礼儀もわきまえていて、これならここで教員をやっても良いと思った。

それから1、2ヶ月経って学長室に呼ばれたが、そこには学園の実質的な経営者である事務局長も同席していた。


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