2010年08月28日

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(生い立ちの記:39)Y女子大学へ移籍

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非常勤講師を約半年担当したあと、11月初旬に学科長と面談し、その1週間後事務局長同席の上、学長室で面談した。
このとき、大学では学科の構成を見直しているところであり、常勤としてやって貰う場合に児童教育学科に所属し情報関連学科が出来るときに移ってもらうか、さし当たり短期大学籍で入って貰うかもしれないと言われた。

翌年1月中旬に法人本部に行き同学園理事長、事務局長、事務局次長、秘書室長の面接を受けることになった。
その席上、大学のパーソナルコンピュータをリプレースする場合、どんな機種を推奨するかという質問があり、ちょっと驚いたがNECよりDOS/Vを推薦すると答えたことは記憶している。

翌年4月1日に法人本部で正式採用の辞令を貰い、そこから学園のバスで大学・短大のあるキャンパスに移動した。

このとき採用になった大学教員は教授1名、助教授1名、講師2名、短期大学は教授1名、助教授2名、講師1名であった。

研究室は某棟2階の階段脇であった。同じフロアには研究室がもう一つと情報教室、LL教室の準備室だけで良い環境であった。

入学式のあと学生が登校するようになると階段を上がり降りする履き物の音がうるさいと思ったことはある。

当時、情報系教員は教授2名、助教授3名(含女子)、講師1名で、打ち合わせをしながら設備の整備(GUI対応、インターネットシステム化等)やカリキュラムの見直しに当たっていた。

このとき配属されたのは児童教育学科であった。
小学校や幼稚園の教員を養成する学科である。
ただ、その2、3年前から児童教育コース(2組)のほかに情報教育コース(1組)、3年からの編入組と、2コース4組編成となっていた。

児童教育コースの学生には情報処理概論やコンピュータ・リテラシを教育するが、情報教育コースには、ハードウェア構成やアルゴリズムについて講義するだけでなくプログラミングやインターフェースについては実習で体得させることが出来た。

2年生で当時の第2種情報処理技術者試験に合格し、3年生になると第1種に挑む学生もおり、大変ではあったが非常に面白くやり甲斐のある仕事であった。


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