2010年11月30日

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「グラーフ・ツェッペリン」は冬期には運休していたのか?

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「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」は1928年9月18日に試験飛行のために離陸し、同9月20日には、指令:エッケナー博士、レーマン船長、フォン・シラー船長で第2次航を行った。
それ以来、多少のトラブルはあったものの1937年6月18日にフリードリッヒスハーフェンからシュトットガルト、エッピンゲン、ヘイデルベルクを経由してフランクフルトAMまでの第584航まで一人の人命も損なうことなく9年近く運航された。

その間、144回も大西洋・太平洋を横断し、169万5千キロメートルを飛翔し、延べ乗船客は13110におよぶ。

人身事故もなく長期間運航出来たのは大西洋の荒れる冬期は運休していたからだと言うひとも居る。

しかし、1934年第12回リオ・デ・ジャネイロ往復航行は12月8日に出航し12月19日に帰航しているし、1935年第16回リオ往復は11月7日に出航、12月10日に帰航、1936年第13回リオ往復飛行は11月11日に出航、12月1日に帰航している。
必ずしも冬期はシーズンオフの運休ではなかった。
1935年最後の南米飛行ではルフトハンザが南米とアフリカを連絡する飛行艇の中継船が入渠のため帰国したので、その郵便業務を肩代わりしている。
特にこの間の11月22日にレシフェを飛び立ち、アフリカのバサーストで着陸せずに郵嚢を交換してブラジルに帰って来るとレシフェ周辺で反乱が起き、発着場が占拠されていたので118時間40分という滞空記録まで樹立している。
このとき、通りかかったハンブルク・アメリカ・ラインの客船からジャガイモなど食料を吊り上げ、代わりに比較的新しい新聞をお返しに届けている。

「グラーフ・ツェッペリン」が「ヒンデンブルク」の事故が起きたことで乗客を乗せた定期運航を休止したことは残念である。

歴史に「もし」はないと言うが、もし「ヒンデンブルク」をベテラン船長が指揮していたらあの事故は防げたかもしれないと思うのである。
当時指揮していたプルス船長は新任の指令であった。

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