2011年05月22日

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1948年、中島本町(戦後の広島:1)

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この写真は淡水から九州の本籍地に引き揚げて2年半後、現在広島の平和公園になっている中島に寄寓していた頃の父である。このとき父は36歳であった。

引き揚げて2〜3週間で就学する新学期になったので本籍地の小学校に入学したが、担任の女教師は父の教え子であった。

台湾からだけでなく大陸や半島からも引き揚げ者が帰ってきたので何処にも住むところはなかった。

原子爆弾で焼け野原になった広島市は至るところで水道管が破損し漏水しているので大八車を曳いてツルハシ、スコップで補修する筋肉労働であった。
一年余り水道工事を営む土建屋に家族で住んでから、広島駅の近くの西蟹屋町にあった雨漏りのする旧家屋を借りた。

そこの仕事を辞めたので借家を出なくてはならなくなったが、独りで水道屋をやっていたK氏が中島に建てた不法建築に同居をさせてくれた。背後に見えるのはその小屋である。
中島にも基町にも何百軒という不法建築があり、よく火事になった。
お互いにもたれ合うように建てられた木造なので、1回の火事で何十軒も燃えた。

ここに移って3〜4ヶ月でやっと市営住宅に入居が認められた。
それまでに数え切れないほど申請して、やっと認められたとき両親はとても嬉しかったと思う。

基町の市営住宅に入居したときに広島市立幟町小学校に転校した。
4年生の2学期であったが、佐賀県浜崎で入学して山口県岩国と、広島市内を転々とし通学した小学校は6校目であった。

戦後の広島を振り返って見ることにする。


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