2011年05月23日

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1955年の広島(戦後の広島:2)

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1945(昭和20)年8月6日、原子爆弾を投下された広島は市街地も住宅地域も一瞬にして焦土と化してしまった。

太田川の三角州には、本川(太田川)のほかに6本の支流(猿猴川、京橋川、元安川、天満川、福島川、山手川)が流れ、水の都として栄えた。

戦前は東京、大阪、京都、名古屋、神戸、横浜とともに7大都市の一つであった。

特に賑やかな街並みが三角州の中心に位置する中島であった。
旧町名を挙げれば中島本町、材木町、天神町、元柳町、木挽町、中島新町とあったが、最も賑わったのが相生橋、元安橋、本川橋で囲まれた中島本町であった。

世界館という映画館もあり、元安橋からクランク状に曲がって本川橋まで続く中島本通り商店街が最も賑やかな商店街であった。

しかし、原爆の炸裂により一挙に灰燼と消え、70年間は草も生えないと言われた。

中島地区には毛利輝元によって開基された誓願時など数ヵ所の寺社があり、終戦後も平和公園になるまで存続した寺院もあった。

戦後は家を失った人達が何処にでも小屋を建てた。市は官有地などに市営住宅を建設したが、千戸建てても二千戸建てても間に合わなかった。

市内各地に不法建築物が建った。
中島も例外ではなかった。

上の写真は1955(昭和30)年8月6日、原爆記念日(「百二十八枚の広島」:明田弘司、2009年より転載)であるが、慰霊碑の背後には多くの不法建築物が見える。

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現在は平和大通り(百メートル道路)以北はすべて平和公園になっている。


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