2014年01月05日

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渡洋飛行への挑戦(0)

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年が明けたので、ライト兄弟による初飛行から111年目に入った。

ライト兄弟によるフライヤーでは人間が吹きさらしの状態で腹ばいになり、滑車から下りる錘の助力で飛揚し、何とか操縦可能と言うもので車輪もついてなかった。
飛行機が旅客輸送や郵便飛行業務に適用されるのは第一次世界大戦のあと、有り余った剰余軍用機の再利用としてであった。

従って、世界で初めて運航された航空会社は1909年に設立されたDELAG(Deutsche Luftschifffahrts-Aktiengesellschaft:ドイツ飛行船航行株式会社)であった。
フランクフルト、デュッセルドルフ、バーデンバーデンなどドイツ国内の各市が株主となり格納庫を建設して、硬式飛行船でこれら都市間の連絡や遊覧飛行を行っていた。
大型硬式飛行船によれば、海外旅行の手段であった大型航洋客船のように運航出来るという実証試験船を兼ねて、世界各国の気象海象調査と無線による気象情報の交信を行いつつ世界中を航行してデモンストレーションするためにLZ127:グラーフ・ツェッペリンが建造された。
1929年にはアメリカのハースト新聞社が大口スポンサーとなって、同船は旅客を乗せて世界周航を行った。

そのころ、飛行機はやっと定期的な郵便運送業務を始めていた。
旅客を乗せての定期運航は国内路線か、せいぜい隣国間であった。

DELAGの硬式飛行船「グラーフ・ツェッペリン」が世界周航を行った1929年に北大西洋横断航路に就航した北ドイツロイドの高速客船「ブレーメン」は処女航で、永らくイギリスのキュナードの保持していたブルーリボンを奪還した。

その「ブレーメン」の2本の太く短い煙突の間にはハインケル社製のカタパルトが設置されており、ニューヨーク入港前日、郵嚢を載せた単葉双浮舟のハインケルHe12が射出され速達郵便物を先行して港内に届けた。

ドイツ移民の多い南米にはアフリカ大陸沿岸を伝って郵便物が空輸されたが、1939年に第二次世界大戦で南米路線から撤退するまでに飛行艇で運ばれた郵便物は480回以上の飛行で10万通以上に及ぶ。
しかし、アフリカ大陸西端のセネガルからヴェルデ岬諸島にまでは行けたとしても南米大陸までは遙かに遠い。
それでルフトハンザは汽船「ヴェストファレン」と「シュヴァーベンラント」をチャーターしてハインケルの設計した大きなカタパルトを装備して南大西洋上に配備して、飛行艇「ヴァル」を近くに着水させ、クレーンで引き上げてエンジンの点検、燃料の補給を行って渡洋飛行を実現したのである。

ホルマン(Jrg-M. Hormann)著「渡洋飛行への挑戦」(Flugbuch Atlantik: Deutsche Katapultflge 1927-1939)は、これら791回以上の飛行について日時、発着地点、実飛行時間、パイロット名まで記した著書である。

飛行艇や水上機に興味を持っているので読み始めたが、まえがきから難関にあたってしまった。

単葉か複葉か、飛行艇か浮舟をつけた水上機について記述してあると思って辞書を引いてみると原子力空母やジェットが出て来たのは予想外であった。

アメリカ海軍の巡洋艦から民間人パイロットが初めてカーチス複葉機を発進させたのはライト兄弟の初飛行から僅か7年後、その2ヶ月後に彼は別の巡洋艦に着艦している。

今年はこの本を読んでみることにした。

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