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父の応召(1)

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父は三芝国民学校に転勤して一年余りで応召した。

兵隊に行っていたときのことは訊いたこともないし、父も話さなかった。

亡くなったあとで原稿用紙7枚に「兵隊」と題したメモが残っていた。

引き揚げ後のことも書いてある。

前後二回に分けて挙げてみる。

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私は既に敗戦の色濃い昭和十九年に台湾で召集を受けました。
内地で七、八年 台湾で仝じ位教員でしたのでその時、台湾台北州淡水郡三芝国民学校に居て、三十二才でした。
応召部隊は台南第四部隊(蓬一九七〇二部隊)でした。台湾でも北部と南部では、気温湿度に大きな差があり半襟のぶ厚い単衣でも、色が変わる程ひどい湿度と気温に面食らいました。
淡水街で内地人、本島人の見送りを受けて例の赤襷をかけて、貨物列車で台南に行きました。妻の叔父がついてきて、入隊して軍衣を渡されて、あとの着て居たものを叔父がかたみがわりにもって帰りました。
営庭に「レンム」という特有の樹木に実がすずなりでした。
夕食後、夜間演習に営門を出て街を行進するのにうっそうとした火炎樹が濃緑の中に焔のような真紅の、丁度ねむの花の様な花が印象的でした。
私の所属は部隊本部、暗号班で本部宛の暗号の発信・受信と参謀本部地図の管理で、そのために部隊暗号班長(中尉)と下士官に随分教育を受けました。今でも乱数表などの言葉をきくと懐かしい想いがします。
米軍の反抗が本格的になった時のことで私が入隊すると間もなく、台南部隊は僅かな留守部隊を残して営舎を出て、敵の侵攻にそなえて更に台湾南部の潮州という処の山の麓に仮兵舎を拵えました。いざと言う時は台湾南端で防戦するためでした。草むらから錦蛇が出て、たまげました。
ところが敵は、台湾を素通りして沖縄をつくということで部隊の大半は沖縄救援に輸送船で送られましたが、殆ど生きて帰れなかったでしょう。私は本部に残りました。山の中の仮兵舎でマラリヤに罹り、腎臓結石などもやって仮病舎で幾度か寝ました。
御陰で一等兵から上等兵に進級の時、私だけ残されました。
夜、不寝番の時、遠く台湾北部に残している家族のことを想いました。
訓練中、機関銃の暴発で死んだ友の火葬にも立ち会いました。
時折 山から生蕃が頭と背にタロイモなどをもって部隊に来て物々交換するのです。彼等が一番欲しがって居たものはマラリヤの錠剤キニーネと煙草でした。
時々、敵の編隊爆撃機がごうごうと、しかも低空で頭上をとんで行って高雄、嘉義、屏東を爆撃します。遠く黒煙が濛々と上がるのをよく見ました。山の麓にひそんで居る兵舎など見向きもしません。
一度誤ってその内の1機がガソリンタンクの増槽(これは補助タンク)が兵舎の近くに落ちて大きな音がして私が仕えていた暗号主任の中尉のおじさんが「H、大丈夫か」とかな切り声を出したことがありました。


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2011年04月13日 15:04に投稿されたエントリーのページです。

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