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父の応召(2)

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父のメモの続きである。

敗戦から、引き揚げて広島に住み着くことになった処までが記されている。

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日本の敗戦により昭和二十年九月、部隊は現地で解散になりました。
その前夜、部隊本部の下士官たちがひそかに会って話し合いました。
兵は私一人、将校達はたのむに足らない、吾々だけ どうするかと深夜話し合いました。蕃地に入り込んであく 敵の軍門に降らないと言うもの ジャンク船を使って大陸で活路をひらき生き抜こうなどいろいろありましたが結論が出ぬ内に朝が来て、缶詰など食料品をリュックに一杯と、上等兵の襟章をもらって皆と別れました。
一年半近く兵隊であったのに人を殺さず、身の危険を感ずることも病気以外にありませんでした。
内地から来た人達は復員船で帰りますが私などは台湾に家族が居て それをつれて帰らなければならなかったのでいろいろな手続き、様々なデマの中で、それでも毎日、家族が食べるだけのことはしなければなりません。当時、留守宅に家内と家内の母、長男(五才)長女(三才)が居りました。
家族の処に帰って、頼まれて船会社の倉庫番、内地人・本島人を問わず荷物運びの車ひき等やりました。
21年3月やっと台北に集結ということになりました。ありがたいことに永く居住していた淡水の街を出るときは、駅に本島人の官民が見送って呉れました。台湾総督府の一階の広間の土間に馬小屋みたいに藁を敷いて寝るのです。二、三日は手続、船便、検査等で過ごしました。その間に家内が病気になり、出発の日は家内を荷車にのせて台北駅に向かいました。所持金は一人宛五千円、中には枕の中などに現金や貴金属を入れて、それが乗船前の検査で見つかって、その集団が出航の足留めをくわされたとか流言がとびました。
やっと基隆移動したが、ここで又検査、船便待ちです。
やっと乗船の運びになったが、その船が小さな海防艦で、どこもここもすし詰めで、大浪にがぶられて、それでこの船がどこにつくかも知らされていません。船の中で二晩は吐く、泣く。哀れなもので私は船に強いので、幾回となく皆の汚物をバケツで上甲板に運びました。
皆呆けた様な姿で、ついたのは鹿児島・天保山桟橋でした。三月二十三日、寒い朝ホームで夏蜜かんを売っていたが、ひどく高いとかで内地の風当たりのきびしさを感じたことでした。とりあえず私の生家に兄達が居る処に身を寄せたのですが、いくら身内でも四人もつれて、食糧のない住宅のない内地では落ち着けません。
内地も衣食住すべて乏しい時で、外地に出て居た者が続々引揚げて来るので、すべてに難儀で片身のせまい思ひをしました。
居候で食うために森林伐採の監督、玩具商の店員、そして近郊のお祭りの時、道端に座って出店もやりました。
郷里で教員に戻れと言う兄達の言葉を振り切って、当時広島に居た家内の叔父からのさそいで半年余りで原爆直後の広島に来ました。
私と家内は、仕方がないけれどけれども家内の母と子供二人にはみじめな思いをさせたくありませんでした。始めに叔父の家の岩国にこしかけ、広島市水道課の雇で焼け跡に方々吹き出している水道管をとめて処置し、鉛管を埋設する仕事で、夜昼ツル、スコ(註:ツルハシ、スコップ)をもちました。栄養不良と過労がたたって肺結核で中保健所、本川の記念病院に厄介になりました。
後に市の水道局の上下水道の工事をやる建設業に三十年勤めました。
引揚以来住居は、先ず兄の処、岩国の叔父のところ、皆実町、西蟹屋、中島、基町、牛田、川内と転々としました。
中島は居候で、基町で市で最初の木造白壁の市営住宅に入りました。
引揚の三十四才から今日来た昔を時折偲びます。
今にして、台湾に行ったことも、兵隊も、建設業も懐かしい良い思い出になったことを心から喜んでいる昨今です。


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祖母が生前、「私の一生を書いたら面白いものになる」と笑っていた。

戦後、両親や祖母は苦労して育ててくれたものと感謝している。

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2011年04月14日 12:38に投稿されたエントリーのページです。

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