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2011年09月 アーカイブ

2011年09月01日

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紅毛城概史

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1628年にスペイン人がセントドミニカ砦を築き、オランダが淡水港を攻撃したがこれを撃退した。
1634年頃、200人程度のスペイン人が住んでいたという。
スペイン人がフィリピンなどの混乱で撤退したあと、オランダ人が砦を再構築し、1646年にアントニー要塞として整備された。
1662年に鄭成功がオランダ勢力を追い落とし、淡水防衛のため紅毛城の修理を行っている。
1683年に清朝がこの地を支配するようになると紅毛城は一時放棄されたという。
数十年後に大規模な修復が行われたが、清の鎖国状態からやがて放置されてしまう。
1858年に天津条約で淡水が開港されることになるがこの条約は批准されず、1860年の北京条約で開港され、1867年に紅毛城一帯はイギリスが永久租借し、構内に領事館を建てた。
1896年に日本による台湾統治が始まると、1912年に日英政府間で租借協定が締結され領事館はその後も維持されていた。
1941年に大東亜戦争が始まると日本に接収され、戦後イギリスに返還されたが1972年に台英断交によりイギリス領事館は撤退した。その後紅毛城はオーストラリア大使館により代行管理が行われたが、台豪断交によりアメリカ大使館が管理を行い、米台断交後はアメリカの在台協会により1980年まで管理が継続されていた。同年6月30日に台湾政府に返還され、1984年から一般公開されている。
国家一級古蹟に指定され、紅毛城とイギリス領事部に分けて管理されている。
但し、入場料を払って入場すれば両部間の仕切はなく自由に行き来出来る。


2011年09月02日

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油車口の和平公園

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滬尾砲台のある油車口の地に和平公園が開園したということは、昨日の本欄に述べた経緯からも意義のあることである。

前線で あるいは赴任地へ赴く途上で倒れ、あるいは艦載機の空襲で命を落とした台湾や日本の人達ばかりでなくスペイン人、オランダ人、フランス人など敵味方を問わず亡くなった方々を慰霊し、世界平和を祈念するために「淡水和平公園」がつくられた。

慰霊碑も建設される予定である。

2011年09月03日

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平成23年度「淡水会」

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今年度の淡水会の開催日と場所が決まった。

日時: 平成23年10月18日(火):18時ころ

会場: 三重県三重郡菰野町千草「グリーンホテル」

場所は近鉄湯の山温泉(近鉄四日市経由)の終点から直線距離で4〜5百メートルほどのところである。

紅葉の美しそうなところであるが紅葉の見頃になってくれれば良いと思っている。

近鉄特急は久しぶりである。

難波から特急に乗って四日市で乗り換えると良いかもしれない。


2011年09月04日

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木下静涯画伯故居

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臺北縣淡水藝術舞動街坊・文化古蹟巡禮地圖(2009年版)に掲載されていた13箇所の古蹟に「木下静涯晝家宅邸」が含まれていた。

古蹟をそのまま使ってレストランになっている「紅樓」の傍である。

画伯は淡水河越しに観音山を望む見晴らしの良いところに居を構えていた。

戦前、台湾には画伯と呼ばれる画家が4人居た。
石川欽一郎、桃甫:塩月善吉、古統:郷原藤一郎、それに静涯:木下源重郎である。

石川欽一郎は総督府通訳官を兼ねて台北師範学校の美術教師をしており、塩月桃甫は台北高等学校・台北一中の美術教師、郷原藤一郎は台北一中、台北二中、台北第三高女の図画教師を歴任していたが木下画伯は教壇に立つことなく祭永氏を唯一の内弟子としていた。
終戦後、引揚船で北九州に帰国されて百歳の天寿を全うされたが、2000年頃静涯画伯の収集品であった600点もの日本画が見つかったと報じられていた。

修理を終えて見学できるようになる日を待ち望んでいる。

2011年09月05日

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淡水会出席連絡

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先日 案内を貰っていた淡水会の出席通知を出すことにした。

私とJは新幹線でMさんと合流して名古屋経由会場のホテルまで行くことにした。

MさんはJと同室を希望すると連絡したということで、私はKGさんと同室を希望しておこう。

懇親会が終わったら部屋で、昨年淡水・三芝に行ったときのことを話すことになるだろう。

いまから楽しみである。

2011年09月06日

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淡水の古蹟

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台湾には沢山の古蹟が指定されており、一級古蹟(24)とこれに準じる国定古蹟(16)が合わせて40件ある。
二級古蹟(50)とこれに準じる直轄市定古蹟(59)が合計109件、三級古蹟(223)と縣市定古蹟(184)が合計407件、総計で556件もの古蹟が保護法により定められている。

このうち、淡水には赤楼級の一級古蹟として淡水紅毛城が指定されており、龍山寺級の二級古蹟には、滬尾砲台、山寺、理学堂大書院の3件が指定されている。

また三級古蹟には淡水龍山寺、淡水福佑宮、馬偕墓、旧清淡水総税務司官邸の4件が指定され、縣市定古蹟には淡水外僑墓園、淡水禮拜堂、滬尾偕醫館、滬尾湖南勇古墓、原英商嘉士洋行倉庫、淡水海關碼頭、淡水氣候觀測所、淡水水上機場の8件が指定されている。
台北と台南は別格としても淡水の古蹟は多い。
直轄市である新北市淡水区となったが清時代から賑わっていた街であったのであろう。

もし淡水公會堂が焼失しなかったら、旧街長官舎とともに縣市定古蹟に指定されていたのではないかと考えたりするのである。

2011年09月07日

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ボストンの博士からメール到来

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一昨日の本欄で「淡水会」に出席の葉書を出したと報告したらボストンの博士から「よかったね」とメールを貰った。
久しぶりのメールであった。
多忙中にもかかわらず「淡水和平公園」の歴史的背景を執筆中でもあり、こちらから連絡するのを遠慮していたのである。

博士は今月18日から20日まで仙台と盛岡で集中講義を行い、淡水に行くと知らせてくれた。

9月26日には新北市淡水区の蔡区長に逢うので、淡水会のことを報告するという。

博士や横浜のKGさんと現地で合流して当時の鎮公所や淡水国小、三芝国小を表敬訪問し、もう1年が経過しようとしている。
淡水国小では校長先生に同校の現況を紹介してもらい構内を案内して貰った。
昼食に招待されて、多くの方と談笑した。

近いうちに淡水で現地の皆さんと再会したいと思う。
そのときはカリフォルニアのLCさんにもお目に掛かりたいものである。

2011年09月08日

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穀牌倉庫

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臺北縣淡水藝術舞動街坊・文化古蹟巡禮地圖(2009年版)に公開されている19箇所の古蹟景點の2番目に挙がっているのが、戦前に施合発の製材工場やその専用桟橋のさきにあった煉瓦建ての穀物倉庫である。

旧縣定古蹟に淡水外僑墓園、淡水禮拜堂、滬尾偕醫館、淡水海關碼頭、淡水氣候觀測所、淡水水上機場とともに「原英商嘉士洋行倉庫」として掲げられている。

手前に見えるのは水上生活者の住居と漁船である。

2011年09月09日

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LCさんからメールが届いた

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カリフォルニアで、いつもこの拙いページを見てくれているという。
有難いことである。

今日は、台北市大橋小児科の林彦郷先生の近作、基隆水産学校交友録を送ってくれた。
広島台湾会の中谷 武 さんの話が載っていたからである。

著者の林先生のところに中谷さんから電話連絡があったことで2010年10月に基隆水産学校の同窓会に出席した。
そのときのことを書いたエッセイである。

私は広島台湾会などというものがあることさえ知らなかった。
ウェブで探したけれども見つからない。
広島は百万都市であり、私が年賀状を交換している知人の中に淡水に在住していたのに淡水会にも入っていないひとが何人かいる。
龍目井で生まれた妹も、終戦前に岩国に帰っていたYさん一家も兄弟で広島市内に住んでいる。
このようなネットワークの修復は難しいがそれだけに、いま誰かがやらなければならない地道な活動だと思う。
淡水会の会員が、子や孫、その配偶者に世代を超えて広げて行くと言う当たり前のようなことが難しくなっているのだろうか?

写真は1995年3月に撮った基隆港である。
白い巡視船の向こうに見える上屋と、その左の港湾当局の建物の左には基隆駅があり、当時は駅前にケープを羽織った蒋介石の像があった。

駅から構内引き込み線が岩壁に沿って長く延びていた。
引き揚げのときは台北から貨物列車でここに送られて、くたびれ果てた人達は貨車の下の線路を枕に横臥していた。

引き揚げ以来、半世紀ぶりに訪れた基隆港である。

いまは港湾機能も満杯状態で、淡水の対岸八里に大規模なコンテナヤードが拡張されている。

LCさん、ありがとうございました。

2011年09月10日

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朗報

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昨日受信したなかに次のようなメールがあった。

「はじめまして。
 (中略)
私の曾祖父は台湾で施合発の役員をしていたそうなのですが、
戦爭とその後の引き揚げでほとんど何も資料も記録も残っておりません。
父も高齢で、段々と更に調べにくくなると心配していた折、
このブログを発見しました。
淡水会という会合や淡水のことをもっとよく知りたいので、
可能であればお会いしたく思います。
(以下略)」

ブログを書いていてこのようなメールを貰うと嬉しい。

私もよく知らなかったので淡水国小創立百週年記念式典で大先輩の一人として表彰されている気象技官であった周明徳氏の私家本から、施合発関連の箇所を引用する。

このとき表彰者の筆頭は台湾の阿片政策功労者の杜聡明博士、第二位は台湾の総統になった李登輝博士、そして第三位が周明徳氏であった。

なお、周明徳氏の御尊父は施合発に勤務し、34歳で高雄支店長に抜擢された秀材であったが、1944(昭和19)年10月12日に米艦載機が淡水を空襲したとき、淡水駅の近くで命を落としている。
また、周氏の従兄違いの許澄松氏は施合発の東勢、高雄両支店長を歴任したという。

(以下、引用)
施合発は台湾一、あるいは日本一の材木商で、1926年に株式組織に改編されたときは資本金60万圓であった。本社は従来通り淡水に置き、三つの出張所(台北、羅東、嘉義)と一つの支店(福州)と一つの姉妹店(基隆。当時の財閥・顔国年氏と共同出資)などがあった。全従業員約290名(船舶部74名を含む、但し約50名の臨時苦力を含まず。1931年現在の資料)、当時としては大世帯の会社であった。1933年に施合発が新興都市の高雄市に進出して支店を新設した。この支店は水運を利用することが出来る高雄川のほとりにあって、本社に次ぐ規模を持ち、従業員90名(約20名の臨時苦力を含まず)の世帯であった。
(引用おわり)

大きな企業で、従業員やその家族を合わせると淡水人口の4分の1になったという記述をどこかで見たような気がする。

今月28日には久しぶりのクラス会で舞子ビラに泊まることになっており、翌日そこのロビーで対面することになった。

来月開催される淡水会の開催通知も先方にお届けするよう幹事役の旅行業者に依頼した。
「淡水会」は任意団体である。
高齢になって総会や懇親会に出られなくなったからと退会した人もいる。

もっともっと会員が増えて、2〜3年に一度は淡水に集まって交歓するようになることが夢である。

市内にいる淡水出身者に機会があれば声を掛けてみようと思う。

2011年09月11日

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父のメモから(5)

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4月の「父のメモから(4)」に掲載したスケッチの一部を取り上げたものである。

何十年も前のことであり、記憶をたよりに描いているので多少の誤差はある。

名前を丸で囲っているのは人名で淡水公学校の松田常己校長は同校に建てられていた官舎に住んでいた。

街役場の右にある荒という字の書いてあるところには本願寺があり、荒操天という僧侶が住んでいたという。

左端の黒川さんというのは塩屋で、私の両親が結婚してその2階に住んでいた。

淡水劇場についてはカリフォルニアのLCさんが航空写真や資料をメールに添付して教えてくれた。

老義発、施合発というのは当初判らなかったが、KGさんが送ってくれた周明徳撰などで概要が判った。
台湾で木材を扱う最大級の企業で、後に合併して台湾木材になったという。

来月の「淡水会」で、両社に務めていた人達の子孫にあたる会員が面談出来るかもしれないと思うと気持ちが高ぶって、はやくその日にならないかと思う。


2011年09月12日

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淡水会参加予定者

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KGさんが11日現在の淡水会出席予定者リストを送ってくれた。

約16名であるが多少増減もあることであろう。

当日、出席者の皆さんに現在の淡水の街並みを見て貰おうと、事務局にインターネットに接続できるパソコンを借用したいと打診したら断られてしまった。
何でそんなところでやることにしたのだろう。
山のなかの宿に現地集合と聞いて心配そうにしている人もいた。

仕方がないのでPSPでも持っていってグーグルに繋いでみようと思う。


2011年09月13日

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奇縁

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4日前「はじめまして」と貰ったメールから、遙かに時空を越えた縁が繋がった。

一年前淡水に行き、ボストンの博士と一緒に鎮公所や淡水国小・三芝国小を訪問したKさんとメールを寄せてくれたIさんが戦前、淡水で知り合いであったことが判ったのである。

Kさんもボストンの博士もブログを介して知り合い、現地で合流することが出来た。

そして今回はメール交信の翌月に懇談することができる。

こんなことがあると、つまらないブログであるが続けていて良かったと思う。


2011年09月14日

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明石大橋の袂で

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話はとんとん拍子に進んで、今月中に明石大橋の傍で3人で逢うことになった。

Iさんのお父さんは近くに住んでおられるそうなのでひょっとするとお目に掛かれるかもしれない。

本当にインターネットの恩恵である。

私が初めてコンピュータのプログラムを書いた頃は東京にある真空管式電子計算機などにパンチャーがキーパンチしたカードを入力していた。

テストの終末期になると東京や長崎に出張し泊まり込んでデバッグしていたものである。
当時個人的に専用できるコンピュータなど考えられなかった。

2011年09月15日

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楽しみにしていたのに

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今年は案内が来ないので諦めていたところ、やっと案内が来たので喜んで参加を申し入れたという下松のFさんが参加を断念したと連絡してきた。

毎年、娘のNさんと参加していたが、今年はついて行けそうにないので新幹線で合流して一緒に行くことにしていた。

娘さんがついて行けないので諦めたらしい。

道中や懇親会場でいろいろ話が聞けるとおもったのに残念である。

2004年には新幹線で合流して淡水に行った。
そのときはFさんと一緒にタクシーで北投の善光寺に登った。

本堂が見えなかったので入らなかったが、寺は半地下のように畳敷きの本堂があるそうである。堂守さんが住んでる様子だったが声を掛けて入ってみればよかったと思っている。


2011年09月16日

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祐二さん、ご一緒しませんか?

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6月11日にこのページにコメントをつけてくれた祐二さん、見ていますか?

10月18日に八里の対岸に住んでいた人達の集まり「淡水会」が開催されます。

会場は湯の山温泉ですがご一緒に当時のお話しなどしませんか?

連絡を頂いたら開催案内がお届けできるのですが・・・


2011年09月17日

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淡水街のバイク

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淡水の街はバイクが多い。

これは淡水に限ったことではなく、台北の街も同様である。

それに皆、大きな柄物のマスクを着用している。

この写真は昨年9月29日に訪問したときの中正路である。

戦後、幹線道路が整備されて街が見違えるほどすっきりしている。


2011年09月18日

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MRT(捷運)淡水線

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台鐵淡水線とほぼ同じ経路でMRT淡水線が走っている。

MRTとは言っても車輌は随分大きく、それに頻繁に走行している。
従ってMRTには時刻表がない。
そのプラットホームでは代わりに次の列車が何分後に入線するか常に表示されている。

淡水から乗るときは始発駅だから好きな席に着席できる。
逆に台北方面から来るときは、時刻によっては混んでいることもあるが士林、北投あたりで下車する人が多いので暫くすると着席できる。

それに儒教の国だけあって、談笑していた若者がごく自然に立って席を譲ってくれる。
おまけにシニア割引まである。

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台北市内は地下を運行するが、郊外に出ると高架線なので快適である。

羽田・松山便が開設されてから特に便利になった。

台北の中心地、松山国際空港のターミナルの前にMRT文湖線が乗り入れている。


2011年09月19日

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台湾の雨

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このブログでは雨の写真をほとんど掲げていないが勿論台湾でも雨は降る。

シトシトと降る雨もないわけではないが、いきなりザーッと降られることがある。気候は乾期と雨期という分け方より長い夏と短い冬があると言った方が近い。
降水量は5、6月から8、9月が多く11月から1月末までは少ない。

熱帯・亜熱帯特有のシャワーにおそわれることもある。
(スコールと呼ばれることもあるが、スコールとは突発性の強風のことで世界気象機関では1分以上継続する突発的な風の強まりを言う。雨を伴うことも多いので誤用されているのであろう)

桃園の国際空港から台北に向かう車中でこの突発性豪雨に遭ったことがある。
晴天だったにも拘わらず、いきなり大粒の雨が降り始め、視界が遮られて自動車道を走っていると追突のおそれがあった。
しかし15分もすれば通り過ぎ台北に着く頃は路面が乾きはじめていた。

昨年届けて貰った雨の小公園(龍目井)の写真である。

2011年09月20日

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龍目井に降る雨

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昨日掲載した写真と同じときに撮られた写真である。

馬偕博士の頭像のある三叉路を河下の方に見たところである。

ちょうど人が三人車道を横切っている辺りの向こう側に龍目井の宿舎があった。
宿舎の裏は安武先生の宿舎と接していたらしい。
そこも中野金太郎氏が家主であったという。

写真の右端に興亜医院があり、そこでボストンの博士は生まれた。

私達家族の住んでいた住居から、正面に見える道を隔てて斜め向かいに住んでいたのである。

そしてその向こうには郵便局の大きな三角屋根が聳えていた。

60年も70年も経って互いのブログで知り合った我々は昨年一緒にここを訪れたことは奇寓であるとしか言えない。

2011年09月21日

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龍目井界隈の移り変わり(1:小公園)

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いま、中正路と建設街とのロータリーは馬偕博士の頭像が建っており、馬偕頭像のあるところと言えばすぐ判る。

このあたり一帯は龍目井と呼ばれていた。

左手前の建物の向こう側の路地を左に入ると馬偕医院やキリスト教長老派の礼拝堂がある。

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この写真はウェブで見つけたものであるが、いつ頃のものであろうか?

右の店舗には「明石商会(?)」の屋号が見える。

中央には淡水中学の生徒らしい鞄をたすき掛けにした3人が写っている。

その手前には人力車が2、3台、客待ちしている。

その左が興亜医院であった。

この頃は煉瓦造りのキリスト教会はよく見えていた。

Tansui_Shokoen_1.jpg

戦後、国府軍が来てこの道路は中正路と改められた。

手前にはコンクリート製の機関銃座が設置されている。

後の建物には「三山飲食店」と看板が掛けられている。


2011年09月22日

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龍目井界隈の移り変わり(2:郵便局傍の小橋)

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一昨日、昨日と載せた写真から僅かに紅毛城の方に寄ったところである。

右の大きな木造建造物は戦前から淡水郵便局であった。

手前の低い石塀の写真手前に路地があり 1、2軒入ったところに住んでいた。

この写真は戦後、父の教え子の一人が送ってくれたものである。

郵便局の手前、ちょうど自転車に乗っている人の辺りに小さな橋が見える。

この橋もLCさんのお父さんが請け負って構築したものである。

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LCさんが1975年に渡米後はじめて淡水に帰ったときに撮ったものを送って貰ったカラー写真である。

通りの斜め向かいには戦前から理髪屋さんがあった。
それがそのまま「滬尾號」理髪廳として残っていた。

道路の反対側であるが、手前には小さな橋の向こう側の欄干がよく判る。

このブログを開設して来月で一年になるが、皆さんに教えて貰って随分 以前のことが判って来た。


2011年09月23日

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淡水神社の名残り

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油車口の淡水神社は新北市忠烈祠となり、社殿も鳥居も姿を変えてしまったが玉垣や石段だけでなく注意深く見ると幾つか名残を見つけることができる。

この手水舎もそのひとつである。

日本の神社では参拝の前に手を清め、口を漱いで神前に立ち、2礼2拍手1礼で参拝するというしきたりがある。

従って神社には必ず手水場がある。

いまは四阿風になっているけれど、明らかに手水舎の名残である。

2011年09月24日

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淡水劇場

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父は何度も淡水街の地図を描いている。
若い教員であった頃の淡水の街が懐かしかったのであろう。

そのなかで知らなかった地名や事物が描いてあった。

淡水劇場もそのうちの一つである。

私より少し年上のLCさんは、そんなときよく教えてくれる。
引き揚げの時、私は6歳であったので数年の年の差は大きい。

淡水劇場についても6月頃、場所を示す航空地図と、淡水劇場の建設について詳しい資料を送ってくれた。
戦後内装を改造して戯台(台湾式劇場)として使われていたが、1995年に炎上してしまったという。

淡水の街も建設ブームの1937(昭和12)年に最初の劇場が建設された。

賊仔栄貴とあだ名で呼ばれていた洪栄貴と日本人の合同投資で街役場から清水街と新路(現:中山路)のあいだの新街の土地を借りて建設されたもので、歌仔劇、新劇、特技団や無声映画などが上演された。

1944(昭和19)年10月12日、米軍第38航空隊による淡水空襲でライジングサン石油や施合発の製材所で市民20人が犠牲となったが、このとき淡水劇場は臨時の救護所になり血清の獣医、劉興明医師も検視に立ち会ったそうである。

1947年の2・28事件の時は市民が淡水劇場に集まり議論や演説が行われたと言うが夜間は平常のように営業していた。
国府軍が大陸から来て淡水を占領していたときは様子を見ていたが状況が収まると興行を再開した。

戦後にできた淡江劇場や光復劇場などと区別して「旧戯台」と呼ばれていたという。

1995年に淡水劇場の内装が一新されたが、火災が発生して全焼となった。
このため鎮公所は土地貸与契約を取り消し、2005年1月に淡水劇場の焼け跡を片付けると発表したので、古蹟保存団体が鎮長に会見し、暫く取り壊しを見合わせるよう懇願し、大急ぎで古蹟審査が開始された。

しかし鎮長の判断で古蹟としての価値はないとして1月20日に取り壊しが始まった。
1月24日に文化局古蹟審査委員が現場を視察したときには瓦礫の山になっていたという。

LCさんの話では、子供の頃淡水劇場に住んでいたLさんは戦後、土木技師として水力発電所建設現場に務めていたが、米国でLCさんと連絡がとれたときには麻酔医として活躍していたというから驚きである。

そして、東日本大震災の一週間前に青森の個人病院に単身赴任したそうである。

おそらくLCさんがこのブログも紹介して呉れているのではあるまいか?

2011年09月25日

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9月29日(昨年は淡水で、今年は舞子で)

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昨年の9月29日には台北まで出迎えてくれたボストンの博士が淡水・三芝を案内してくれた。
別便で淡水に行っていた横浜のKGさんと一緒に、当時の鎮公所を表敬訪問し、淡水国小は校長先生に歓迎され、構内を案内して貰い、約10人で昼食会で歓待され。
そして三芝の国小まで訪問し、開校百周年を記念して設けられた出来たばかりの資料展示室(文物館)で当時の写真や資料を見せて貰った。

そして、今年の9月29日には淡水出身者の令息I氏と初対面することになっている。
KGさんもわざわざ横浜から来てくれるという。

場所は、有栖川宮の別邸があった舞子ビラである。
庭園の芝生に散在する小ぶりな松は当時のままであるという。

何か因縁のようなものを感じている。

2011年09月26日

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清仏戦争

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1885年に清仏(清法)戦争が勃発した。

そして翌年10月8日の10時頃、フランス艦隊から陸戦隊が滬尾へ上陸した。

清軍は中崙・油車口あたりでこれを迎撃し、2時間程度の戦闘で撃退した。

それにしても人間はどうして戦争などと言う野蛮なことを何時までもするのだろう?

文明は進化しても戦争は終焉することなく、それどころか無辜の民間人をも含め大量殺戮の効率は恐ろしいばかりである。

愚かなものに斃れた人達を悼んで滬尾砲臺跡の近くには淡水世界和平公園が開園した。

2011年09月27日

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舞子ビラで淡水ゆかりの人に逢ってきます

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明日、クラス会があり舞子に行くことにしています。

この機会にブログを見て連絡を貰ったIさんと逢ってきます。

2011年09月29日

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初対面

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昨年9月29日に淡水鎮公所や淡水国小を訪問した。

今年、その9月29日にKGさんも同席で、Iさんとその妹さんに会うことが出来た。

ホテルのロビーで名刺を交換したが、初対面ということも忘れる程話が盛り上がり、テラスで100分があっと言う間に過ぎ去った。

明石ステーションプラザに移動し、小上がりで第二部と相成った。

話の続きは来月の淡水会ということで新幹線で帰宅した。

帰宅すると淡水区政報告というpptファイルが届いてた。

2011年09月30日

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淡水表敬訪問から1年経過した。

Cathay100930.jpg

昨年9月27日に台湾に行った。

旅行業者で航空券と宿舎をあたって貰ったが、広島から桃園行は満席であったので
福岡からのキャセイで行くことにした。

ボストンの博士は翌日到着する。

KGさんは既に台湾に行っていた。

そして28日夕刻、博士から携帯に連絡が入り、翌朝宿舎まで迎えに来るという。

そして29日の朝、車に乗せて貰って淡水に向かい、KGさんをピックアップして午前10時に当時の鎮公所を訪問した。
鎮長はあいにく出張中であったが助役の人に対応して貰い、記念品や資料まで貰って淡水国小に向かった。

ここでは校長さんが構内を案内してくれた後、お茶を戴きながらスクリーンで同校の歴史や概要を説明して貰った。ローカルTVが取材に来たのにはちょっと驚いた。

それから大円卓で昼食を振る舞われ、ここでも大きな紙袋に記念品を用意していてくれた。

そこから三芝の国小に行き、ここでも暖かい歓迎を受けた。
特に同校創設百年を記念して出来上がったばかりの文物館で貴重な写真や資料を見せて貰うことが出来た。

淡水に戻って海鮮レストランでご馳走になり、遅くなって台北まで送って貰った。

素晴らしい一日であった。
その様子はブログ「紺碧の海」(https://www.shipboard.info/blog/)に数回にわたって載せた。

とても、あれから1年経ったとは思えない。
昨日のことのような気がする。

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