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淡水から広島までの一千浬(24)

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入学した春には二葉山の東照宮などに遠足があった。

フェリーに乗って松山にも行った。
松山城や子規庵、道後温泉、石手寺などを巡った。
往きのフェリーは呉に寄港して三津浜に着いたと思うが、四国に行ったのはこのときが初めてで、海上でフリゲート艦を見たのも初めてであった。

一年生の頃、組で木を削って船を作り、校内の水路で走らせることを競い合っていた。
私は3本マストの帆船を作ったりしていたが、漁港のある坂町から呉線で通っていた柚木は船体を削るのが上手かった。他のものは木片の両端を削ったようなものであったが彼はフレアもシアもついた「船体形状」を形作っていた。
船を作ることに漠然とした興味を持ち始めたのはこの頃かも知れない。

夏には倉橋島の海越で臨海学校があった。
夏休みの分教場を借りて教室の床の間で寝起きした。
まだ、母親に頼まれて夜中に小便に起こされるものも居た。
朝食前に島の頂きに登ったり、夜は浜に寄せる夜光虫を手に取ってみた。
臨海学校だから水泳の教練が主体であった。
泳げない者は漁船で背の届かないところから浜に向かって泳がされた。
途中で教師が立ち泳ぎしているので、ホッとして足をつこうとする者も居た。
その後も臨海学校は継続して行われていたようであるが1992(平成4)年、サメ騒動をきっかけに中止となった。

修道の体育の時間は、雨が降ってなければサッカー、降っていれば柔道であった。
雨の日に、他人が着て汗をかいた柔道着は湿っていた。しかし、このおかげで受け身などは身についた。何時か本館の二階で廊下から地上に下げてあった非常用ロープで遊んでいた一年生が落ちたことがあったが、無意識に腕で受け身をしていたためか大した怪我もなかったと聞いた。高校になるころには「日本講道館初段(黒帯)」となった。昇段試験があるわけではない。市内で接骨院を兼ねた道場を持っている師範が練習を見ていて認定してくれるのである。

国体では、サッカー、水泳、バスケットが強く、野球は弱かった。私は体育系部活はやっていなかったが、同級生に一人、私を見つけると相撲をしようと挑んでくるのが居た。
休憩時間は相撲を取ることが多かった。学生服のズボンのベルト通しはみな切れていた。
体育と言えば「人絹一周!」を記しておくべきであろう。
忘れ物をしたとか、何らかの理由でよく土手を走らされた。
修道の中高部は南千田町にある。東は京橋川、西は元安川に囲まれ、傍に筏で運ばれてきた木材を浮かせている貯木場があり、南端には戦前、帝国人絹の工場があったらしい。
戦後は回収した破損ガラスなどを原料にした広島硝子工場があった。
運動場から正門を出て、土手に上り、それを一周するのである。ひどいときには「二周!」と言われることもあった。走ることがあまり得意でないのでこれは嫌であった。
いま、その一帯は下水処理場や広島市水道局の管理部などがある。

授業はどれも面白かった。
バラック校舎の掲示板には英語の教師が中学生向けの英字新聞を貼り解説したりしていた。
スエズ運河を巡ってエジプトとイギリスが軍事衝突していた記事は憶えている。

授業の開始と終了時刻にはサイレンがなったが、停電のときは用務員がチャラン、チャランと鉦を振って知らせていた。

音楽教室は敬道館という建屋の二階で、蓄音機も置いてあったが授業で聴くことはなかった。

中学のときの同級生にTと言うのがいた。
ターゲットを見つけると陰湿な悪戯や虐めをやっていた。
一度、下校時に往来で彼と取っ組み合いの喧嘩をした。
随分やっていたのだと思う。誰かが学校に告げに言ったのであろう。
数学担当の山崎教諭が来た。そして一言「今日は、黙って帰れ」と行った。
後にも先にも組んずほぐれつの喧嘩をしたのはこの時だけである。
高校になって別の組になって忘れていたが、結婚してから夜訪ねて来たことがある。
勘当されて、知人を訪ね歩いて生活しているようであった。
よく、訪ねて来たものだと思ったが飯を食わせて一泊させてやった。
帰り際に「幾らか恵んで欲しい」ようなことを言っていたと思う。
親はかなりの地位の公務員であった。

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修道中学校の卒業式は講堂で行われた。
教頭が神官であった。
「越天楽」が流れると、誰かが「黒田節!」と言うのを聞いて傍にいるものが笑い、壇上から睨まれた。
些細なことが面白い年頃であった。


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2012年01月27日 10:34に投稿されたエントリーのページです。

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