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淡水から広島までの一千浬(23)

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修道中学校入学記念写真である。

こうしてみると当時の制服は、いわゆる学生服であれば良かったようで、黒も紺もグレーも居る。
襟も詰め襟、折り襟があり、制帽も学習院型もあれば慶応帽に近いのもいる。

1組には幟町小学校から進学した寺西、中村、田中らが居たが田中は高校卒業のときには一年次違っていた。病気か何かで休学したのかもしれない。

木造の講堂の前で撮影した。
中学1年1組の担任は、清水範一先生という國語の教師であった。
音楽が趣味で、昼の休憩時間には新入生に黒人霊歌などを唱わせ、自分は上手くないクラリネットを吹いたりしていた。
当時、映画化もされた竹山道雄の「ビルマの竪琴」を読んで聞かせたりもしてくれた。

新入生はおよそ360名で、6組に分かれていた。
中間試験や期末試験の席次が廊下に張り出されていたが、1年のときは40番前後だった。
そのまま行けば東大、京大に合格しそうな成績であったが「こんなものか」と気が緩んだのであろう。その後少し下がった。

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当時、中高部は本館のみ木造2階建てで、別棟に科学教室や敬道館という建屋があった。

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本館の正面右手には藩校時代の学問所から、私立修道学校を設立したときの山田十竹(養吉)先生の胸像があった。
この写真はPTA役員の写真であるが、前列右から3人目が校長の山尾政治先生である。剣道の有段者であった。

その脇に大きなシャコ貝が置いてあったが、謂われは知らない。

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本館の階下は教員室などがあり、2階に中学1年生の教室が並んでいた。
その裏には、長い2棟の木造(バラック)校舎が並んでいた。
本館の裏は温室や花壇があり、生物(植物)クラブの生徒が手入れをしていた。


コメント (1)

氏川 昌和:

懐かしい清水先生の写真を拝見致しました。私は、担任ではありませんでしたが、国語の授業をうけました。中学生の自分としては、何もわからなかったのですが、今頃になって、先生のおっしゃりたかったことが、分かるような気がするのです。遅きにすぎますが。

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2012年01月26日 10:20に投稿されたエントリーのページです。

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