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淡水から広島までの一千浬(40)

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1965(昭和40)年の1月に、家族で本家に行った。
本籍地に住んでいる浚治伯父は1月1日生まれであり、誕生祝いを兼ねて家族全員で浜崎に帰った。

そして、伊万里、松浦を鉄道で諫早まで行き、そこからバスで雲仙にある会社の保健会館(保養施設)「雲仙荘」に行った。
1月2日であったと思う。

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その翌年、妹の恭子と私が相次いで結婚したので、結果的に終戦前後から一緒に生活してきた家族としての最後の旅行となった。

今年(2012年)になって冷え込んでいるが、地球温暖化の影響か近年だんだんと暖かくなっているようである。
当時はとても寒かった。
雲仙の仁田峠に登り、そこからロープウェイで頂上の妙見神社にお参りしたが、霜で真っ白であった。

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宿泊した雲仙荘は雲仙山上の温泉街の入り口にあった。
そこから、地表に硫黄の匂いのする蒸気の噴き出す「地獄」と呼ばれるエリアのまわりには「富貴屋」、「九州ホテル」、「有明ホテル」など有名なホテルが並んでおり、一番奥まったところに「東洋館」があり、その前がバスターミナルであった。

硫黄蒸気の噴き出す傍には、その熱湯で茹でた鶏卵を売っていたり、写真屋が三脚をもって待ち構えたりしていたが、本当に寒かった。

そのころ、越路吹雪のシャンソンが流行っており、「サン・トワ・マミー」などが聞こえていた。

とても楽しい旅であった。
何度も、そのこぢんまりとした温泉街を歩いたが、温泉街によくあるストリップ小屋などはなく良い雰囲気であった。

1月の2日と3日を予約していたと思うが、あまり楽しいので管理人にもう一泊、泊めて貰えないかと相談したところ、明日から休館となり、朝食の用意も出来ないが、それでも良いならと泊めてくれた。

その夜、宴会場では従業員の慰労会が行われていた。楽しそうであった。

その翌年の11月6日に恭子が河本馨氏と結婚式を挙げ、12月11日に同じ会場で私たちも結婚した。

それまで、就職した1963(昭和38)年から、独りで基町の市営住宅に住んでいたが、大竹から列車通勤していた星野君を一緒に棲まわせていた。

基町は木造の不法建築が立ち並ぶ原爆スラムと呼ばれる地域が広がっており、火事になると消防車も近寄れないので大火が屡々発生していた。

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その前にも数十メートル先の木造家屋が燃えたことがあるが、そのときは類焼せずに済んだ。

しかし、星野君を棲まわせていたときに、近火が発生し2〜30軒燃えて、うちにも火が点いた。
台所から見ると窓ガラスが熱でパリパリと割れていた。
夜の火事で、書籍などを窓から外に出していたら朝方雪が降ってきた。

派出所に行って警察の電話で、皆実町に住む家族に連絡することが出来た。

この時は、当時預かっていた星野君に何かあってはいけないと心配した。

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2012年02月12日 16:20に投稿されたエントリーのページです。

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