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淡水から広島までの一千浬(39)

i4004_1.jpg

私は造船設計部基本設計課で7年半勤務したのち、広島研究所の構造研究室に移籍となった。
そこでも、疲労強度など船体構造強度に関わる研究に従事する傍ら、静的、動的な構造応答のデータ解析や自動化システムの開発に従事してきた。
これは真空管時代のコンピュータからトタンジスター世代、DECや三菱電機のミニコンピュータ、これに引き続くマイクロコンピュータの利用技術と無縁ではない。
従って、コンピュータとの接点のできた頃の話の関連として、もう少しコンピュータとのかかわりを記載しておこうと思う。

1971年になるとマイクロプロセッサ、あるいはマイクロコンピュータと呼ばれるものが実現した。

これは日本のベンチャー企業が発案したものを元にアメリカのインテル社が契約期限切れを待って発表したものである。

当時、国内で電卓の開発競争が激しく、数十社がこの業界に参入していた。
小型化、低価格化、計算精度(桁数)向上、機能(関数等)拡張に凌ぎを削っており、毎月のように新製品が発表されていた(いまは淘汰され、カシオとシャープくらいしかないが・・)。
日本ビジコン社は、この開発競争を乗り切るためにアイデアを考案した。
10進一桁を扱うための演算素子や記憶素子を開発し、新しく開発する電卓の仕様が決まったらこれを組み合わせて開発期間を短縮しようとするものであった。

これが最初のマイクロプロセッサ、i4004である。

このとき、インテル社で作られた16ピンのDILのチップには、ほかにROM、RAM、シフトレジスタがあった。

「i4004」の名称は、10進一桁を処理すれば良いので4ビット単位のデータが扱えれば良かったので4千番台がつけられた。
ROMが「i4001」、RAMが「i4002」、SRが「i4003」、そして最後に残ったのが演算部分の「i4004」であった。

後にマイクロプロセッサと名付けられた。

ところが、売り出してもぱっとしなかった。
それで8ビット版の「i8008」を作ったが市場の反応は鈍かった。

i8080A_1.jpg

それでハード的にも改良し、インストラクションを体系化して売り出した「i8080」が爆発的に売れた(「i8080A」は改良版を示す型番である)。

1976年、エド・ロバーツが「i8080A」を用いてマイクロコンピュータ・キット「ALTAIR8800」(MITS社)を400ドルを切った価格で発売すると最初の2〜3週間で4000台を越える注文が殺到したという。
キーボードもなく、トグルスイッチで二進表示で、インストラクションやデータを入力し、結果は八素子LEDで表示するものであった。

プログラムやデータは電源を落とすと消えるので、その都度入力する必要があった。
フィリップス社の開発したカセットテープレコーダに300ビット/秒で記録できるようになったときユーザー(オウナー)は喜んだ。
すぐに600bps、1200bps、2400bpsと高速化していった。

これに、ビル・ゲーツたちの書いたBASICがROMで提供され、キーボードとCRTディスプレイを付けて、パーソナルコンピュータになった。

BASICはもともと、タイムシェアリング用言語として開発された言語であったが、配列計算機能などを省いて、パーソナルコンピュータ用には最低限度のモニター機能が付いていた。

入社した1963(昭和38)年当時、広島地区にはコンピュータのことを聞こうにも知っている人はおらず、専門の書籍もなかったので独学で何とか設計業務の中から電算化出来るテーマを見つけ、プログラミングしていたが、DECのミニコンピュータが出現し、1970年代になるとマイクロコンピュータが登場し、コンピュータのシステムやアーキテクチャを改めて理解することが出来た。

もう、その頃はセンターマシンと言われる大型計算機はハードもソフトも複雑極まるものになっていたのである。
ミニコンピュータやマイクロコンピュータは非常に単純で、各機能を再度学習するには良いタイミングであった。
三菱造船は入社した翌年、新三菱重工、三菱日本重工と合併し、三菱重工業となっていた。

基本設計課に配属されて、基本構造図の製図を分担しながら、造船協会(のちの「日本造船学会」)の構造委員会・西部地区部会に出席して研究作業を行ったり、設計部門の各種計算業務などをプログラムにしていた。

船殻設計課長会の電算小委員会や船殻重量推定委員会にも出張していたが、長崎、神戸、横浜はそれぞれの専門家が出席していたが、設計陣容の薄い広島と下関は、どの委員会にも同じ担当が出ていた。

いま考えると、造船技師(Naval Architect)兼プログラマをやっていたことになる。
センサーシステムやインターフェースまでを含めたシステムエンジニアとは言えないまでもソフトウェア分野では社内造船部門で何とか議論に参加出来る程度になっていた。

後に、DECの代表的なミニコンピュータPDP11をウェスタン・ディジタル製LSIチップ4個を中心に再現したLSI11で、浚渫運転支援システムMIDASの開発を担当したときに、必要なルーチンをアセンブラ言語で組むことが出来たのもこの頃の経験のお陰だったと思っている。

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2012年02月11日 10:41に投稿されたエントリーのページです。

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