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淡水から広島までの一千浬(42)

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1956(昭和31)年にイギリスを抜いて世界最大の造船産業となり、船台や新造用船渠を新設するなどにより船型の拡大、新船種へのニーズも促されて右肩上がりに推移してきた日本の造船業界を震撼とさせる出来事が発生した。

「ぼりばあ丸」と「かりふぉるにあ丸」の沈没である。

「ぼりばあ丸」は1965(昭和40)年9月に、石川島播磨重工の東京第2工場で竣工し、ジャパンラインに引き渡された、載荷重量5万4千トンのバルクキャリア(撒積貨物船)で、主要寸法は全長223メートル(垂線間長:213メートル)、型幅31.7メートル、型深17.3メートル、喫水11.5メートルであった。
ペルーから5万トン余の鉄鉱石を満載して川崎港に向かっていたが、1969(昭和44)年1月5日に東京湾の入り口に近い野島崎沖で波浪のために船首部を折損して航行不能になり、遭難信号を発信したが、その嵐の中で沈没した。
付近を航行中の健島丸が漂流していた乗組員2名を救助したが、船長を含む31名が行方不明となった。

「ぼりばあ丸」の海難について調査が行われていた翌1970(昭和45)年2月10日、同じ野島崎沖の海域で「かりふぉるにあ丸」が沈没した。

「かりふぉるにあ丸」は「ぼりばあ丸」とほぼ同時期に三菱重工業横浜造船所で竣工した、第一中央汽船向けの載荷重量5万6千トンのオアキャリア(鉱石運搬船)で、主要寸法は全長218.25メートル(垂線間長:210メートル)、型幅32.2メートル、型深17.8メートル、喫水12メートルであった。
ロサンゼルスから東京湾に向かっていて、野島崎沖で荒天のため航行不能になり救難信号を発信し、沈没した。
乗員29名中25名は救出されたが、船長は沈み行く本船に残り殉職した。

建造後4、5年というのは最新鋭の船舶と言って良い。
現在就航中のクルーズ船「飛鳥Ⅱ」は船齢20年を越しているし、ショウ・サビル・ラインの客船「サザンクロス」は転籍、改名を重ねながらほぼ半世紀にわたって運航されていた。

「かりふぉるにあ丸」の沈没した年に、財団法人日本船舶技術研究会に第124部会(SR124)「大型鉱石運搬船の船首部波浪荷重および鉱石圧に関する実船試験」が設けられた。
1970(昭和45)年9月から1975(昭和50)年3月まで実船計測や模型による構造強度実験、衝撃波浪応答などの研究行われた。
1970(昭和45)年9月〜1975(昭和50)年3月までの長期研究で、研究費はおよそ3億5千万円規模であったように記憶している。
この研究資金のスポンサーは船舶振興財団(現:日本財団)であった。

この実船試験の供試船となったのが、広島造船所で建造中のH213番船であった。
総トン数6万6千トン、載荷重量11万トンの鉱石運搬船で、船主は大阪商船三井船舶であった。進水時に「笠木山丸」と命名された。

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1970(昭和45)年4月27日に第3船台で起工され、8月31日に進水、11月30日に竣工したが、船台上で建造中から船首部や船底の外板に孔を開け、水圧計を取り付けるなど大変な準備工事が行われていた。

「笠木山丸」には計測室を設けて新規開発の観測機器やデータ収録装置を搭載し、露天船橋には波浪を撮影するステレオカメラなども設置された。

当時、産業の米と言われた形鋼や鋼板の需要は大きかったが、鉄鉱石の生産地はアフリカや南米など政情の不安定なところや、インフレなど経済的変動の大きいところが多く、三菱商事などが安定した濠州に大規模な露天掘りの鉄鉱脈を開発していた。

第一次航は往復2ヶ月の南米チリに行き、その後は片道10日で行けるオーストラリア北岸に数度乗船観測を行った。

私は設計部から研究所に移籍したばかりであったが、設計部の杉岡技師と往復2ヶ月のアフリカ西岸まで実船計測第8次航に乗船することになった。
ちなみに杉岡技師は船舶工学科の2年後輩で、新米コンビみたなものであった。

見出しの写真は、構造実験場で行われた「かりふぉるにあ丸」の部分縮尺模型に荷重をかけて歪みや座屈の状況から実船の最終強度を確認するために行われたときのものである。

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2012年02月14日 11:55に投稿されたエントリーのページです。

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