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淡水から広島までの一千浬(43)

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先に書いたように1966(昭和41)年の11月6日、妹の恭子は河本馨氏と結婚式を挙げた。
その当時、いまのようにホテルや葬祭業者の結婚式場が乱立する以前で、舟入の本川沿いに建ったばかりの結婚センターでの挙式であった。

その1ヶ月後に私は、同じ式場で結婚した。
両親はいろいろと大変であっただろうと今にして思う。

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仲立ちをしてくれたのは大阪商船三井船舶の通信長夫人であった。
翠町にあった笹川繁清氏宅で見合いをした。
結婚相手は満州から引き揚げた耳鼻科医の三女であった。

結婚式では造船設計部の三沢次長夫妻に媒酌をお願いした。
披露宴には高校や大学の級友なども参列してくれた。

式場での披露宴が終わって、会社の施設で職場のパーティでも挨拶し、宇品港から九州へ新婚旅行に出掛けた。

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当時の別府航路は船底の広間に雑魚寝であった。

別府には早朝に接岸したので陸の交通機関が動き出すまで船室に留まってもよいと言う。
別府から久住(九重)高原、阿蘇、雲仙を経由して長崎まで行ったが、その日は九州で珍しい大雪であった。
九州では、バスもタクシーも雪に慣れていないので行く先々で交通が麻痺していた。

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これはそのとき、グラバー邸から撮った長崎造船所である。

戦前、戦艦「武蔵」を建造した第2船台と第1船台はガントリークレーンが撤去され、そのあとに広島造船所で作った門型クレーンが設けられていた。

ガントリークレーンはフレームや外板を搭載するのに便利であったが、地上でブロックに組み立てて船台に搭載する方式では制約になった。
建造船舶の大型化時代には船体幅も制限されるので後年すべて撤去された。
当時、まだ本館は建っていない。

家族が皆実町に移転してからも、1人で市営住宅に住んでいたので、新居は新築の市営アパートに入ることが来た。
基町16番17号422である。
間取りは6畳2間に、3畳の小部屋とダイニングキッチンであった。
洗濯機を置く流し場があったのでそこにユニットバスを入れた。よく入ったものだと思う。
ベランダの水槽に金魚を飼って布袋草を浮かべたりしていた。
南向きの展望の良い部屋で、夏には市民球場の照明設備が明るかった。
広島カープが得点をすると歓声がよく聞こえていた。

グランドフロアには果物屋などの店舗になっており、市場もあったので雨でも濡れずに買い物が出来た。

1967(昭和42)年に本家の義祖母、オツさんが亡くなった。
オツさんは、松浦氏から嫁いできた里勢(リセ)さんが1931(昭和6)年に50歳で亡くなったあと、祖父慶太郎の後妻として、私の両親の結婚式にも出てくれた。
時々父と帰郷すると、寝所にしていた離れの二階に上がってきて遅くまで話し込んでいた。
父は「うん、うん、大丈夫。」とときおり笑顔で聞いていた。

1968(昭和43)年の4月から7月末まで、母は天理教の修養科に入った。
1963(昭和38)年に、天理教白光分教会の役員に任命されていたこともあったのであろうが、一時期 信仰一筋の世界に身を投じて精神的な拠り所を求めようとしたのであろう。
本社に出張の帰途、母に逢いに行ったこともある。

その年、造船設計部は改編され船殻設計課基本係となった。


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2012年02月15日 12:29に投稿されたエントリーのページです。

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