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淡水から広島までの一千浬(44)

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1969(昭和44)年の1月に、父と母と広島で生まれた妹が、バスで南九州の三社参りに行った。
その年、妹は短期大学を卒業し、大洲の会社に入社した。
上の妹、恭子のところでは5月27日に明子が生まれた。
昔、海軍記念日と言っていた日であった。

この年の11月1日、第3回淡水会の総会が広島地区で開催された。
会場は、厳島の対岸に出来た安芸グランドホテルであった。

1970(昭和45)年1月25日に純子が岩国の病院で誕生した。
その頃、日本の造船業は定常的な繁忙期を迎えており、造船設計業務を電算化するプロジェクトが始まっていた。
私は横浜造船所の船坂恭平、神戸造船所の平山俊次、長崎造船所の梅田 博の各氏と一緒になって各造船所の設計業務分析を行っていた。
その数年前まで三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船の基幹造船所として、ときには同じ商談を競い合ってきた横浜造船所、神戸造船所、長崎造船所は数十年から百年の伝統があり、基本設計、船体設計の各段階に実績と標準を持っていた。
これを引き合い段階から鋼材の発注、マーキング、ガス切断、曲げ加工、溶接、ブロック組立、船台上での搭載まで一貫統合した船体構造設計システムと各船毎のデータベースを構築しようと言うものであり、壮大なプロジェクトであった。
1月には横浜造船所で3週間ほどの業務分析を行い、計画仕様書のようなものをまとめていた。
一度帰って岩国の病院を訪ねたこともあったが、予定は少し遅れていた。
横浜の宿舎は、高島町の病院を改造した艤装員宿舎であった。
クリーニングなどを頼むと寮の従業員に「これはお客様のためのサービスですから」と、我々を厄介者扱いしているような言われ方であった。
電話で「産まれた」と連絡を受けた。

出産のため入院していたのは岩国市山手町1丁目12番1号の富山産婦人科であった。
1月25日午後4時17分に産まれた。
身長:52cm、頭囲:34cm、体重:3520g、胸囲:33.5cmであった。

長崎造船所から来ていた梅田氏を誘って、桜木町の展望レストランみたいなところで祝杯を挙げた。

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この写真は、横浜で設計業務分析を行っていた頃撮ったもので、隣は梅田 博氏である。

そして、その年の10月1日付けで、それまで広島研究所構造強度研究課から構造研究室に移行したところへ移籍となった。

職場は江波工場の中にあった。
1961(昭和36)年に建設された構造実験棟は東西に何度か増築された。
舗装道路を隔てて、北側に海洋構造物用実験水槽が建設されていた。
当初は暴露水槽であったが、計測部分に上屋が設置された。
後には水槽全体を覆う建屋が建てられた。

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造船設計部などの配置されていた江波本館の南側にあたる。

西側の外階段を上がったところに研究要員、実験要員が30名程度居た。

そして今年(2012(平成24)年2月18日に「三菱広島研究所 江波50周年記念祝賀会」が開催されると往復葉書で案内があった。
寄せて貰おうと楽しみにしている。

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2012年02月16日 10:40に投稿されたエントリーのページです。

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