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淡水から広島までの一千浬(48)

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福山港を出港して1週間後の8月18日の夕刻にはシンガポールの沖合を航行していた。
海岸道路を走る自動車がヘッドライトを点灯するころであった。
左舷後方にビンタン島が過ぎ、バタム島が見えるころ右舷側はシンガポールのチャンギー空港から市街地に向かう街路が見えていた。

沢山の船が停泊しており、航行している船も多かった。
マラッカ海峡にかかる頃、夜になった。船橋から見ると右舷側にも左舷側にも航海灯や舷灯が移動していた。
レーダーの画面を見ると無数の点が散在し、この水域で巨大船を操船するのは容易なことではないと思った。

19日の正午位置はペナン島の沖合であった。
先の大戦では日独の潜水艦基地のあったところである。

20日にはスマトラ島の北西端をまわり、インド洋に出た。
これから何も無いインド洋を、南東に針路をとって10日間も走り続けるのである。

このインド洋航行が大変であった。

東シナ海、南シナ海のように点在する島はなく、インド亜大陸の南に僅かにモルディブ、ラッカディブ諸島があるのが例外のような大洋である。
従って、常時吹く貿易風により、最初は数メートルほどの風浪が成長を続け、波長数百メートル、波高数十メートルのうねりが生じている。

居室はDデッキだから上甲板から10メートル程度高い。
海面からは20メートルを優に超える。
その側面の窓から、平水を航行中は遙か遠くの水平線が見えていたが、インド洋に入って2〜3日すると小波を浮かべる海面が見えるようになった。
そして数秒後には水平線を通って雲の浮かぶ空が見えるようになる。
さらに数秒経つと空の雲が上に移動して水平線が見え、波立つ海面が見える。
横揺周期十秒前後で本船がローリングしているのである。
ある日、定常の観測業務を終えてキャビンのドアを開けて驚いた。
テーブルが4本足を上にして転倒しており、戸棚や天袋に入れておいた物が部屋中に撒き散らされていた。
船舶の内装は揺れに対応した仕様になっている。
扉には煽り止め付けられ、引き出しにも多少の傾斜で滑り出さないようにストッパが設けられている。
しかし、これがあまりきついと日常の動作が大変なことになるのである程度に調整されている。
それが全部外れて部屋中に散乱していた。
片付けるのに2〜3日掛かったと思う。

Kas041.jpg

こうなると食事の時刻に食堂に行っても空席がある。
二等機関士が欠席していた。それが2〜3日続いたと思う。
船酔いで寝台で寝たきりだったのであろう。
船長でも航海士でも船酔いすることはあるようであるが、やはり機関士のほうが船酔いには弱い人が居るようである。

Maurisuis.jpg

インド洋に入って8日目くらい、マダガスカル島に近くなってモーリシャス島が見えたときにはブリッジでクォーターマスターが双眼鏡で覗いていた。

日本との通信もインド、セイロン付近を通るの東経100度辺りから途絶えてしまった。従来は船舶局も3直で、無線を傍受し、自局宛でないものは再送(リピート)していた。従って、大西洋上からも何度か中継されて銚子局などに届き、電報で連絡することができた。
しかし、船舶局も局長さんと次席さんだけになり、他局宛の電報の中継も行わなくなっていたのである。
当時は衛星通信などは高価で緊急の連絡にしか使えなかった。
局長さんは「三角大福だと。」とテーブルで話題提供していたが、これは三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫が、佐藤栄作総裁を後任を競合していた話である。

機関長は、主機故障(復航に発生し、洋上で巨大なピストンを引き抜いてジャケットを取り替えた)などのトラブルがなければ、朝から紐の付いたゴルフの玉をひっぱたいて、マストに掛かれば登って回収していた。
運動をしなければ身体が鈍ると言っていた。

午後に、データを整理していると電話で「計測員ですか?船長がお呼びです。」と電話が掛かってきた。
サロンに行くと「1人足りなかった。」という。麻雀の時間であった。
本船では、流石に午前中にはやらなかったようである。
下船する前に精算するのであるが「わしは麻雀はしたが、賭け麻雀はしていない。」と払わずに降りた猛者も居たらしい。


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2012年02月20日 10:26に投稿されたエントリーのページです。

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