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淡水から広島までの一千浬(49)

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時化るときは船橋にまで衝撃が伝わるように思ったこともある。

5万総トンのクルーズ船「クリスタル・シンフォニー」が竣工後、乗客を乗せて航行中に時化に遭い、船橋のフロントグラスを損傷したことがあると聞いたことがある。
航行中に海が荒れたら逃げ場がない。

しかし、海象が穏やかなときは、当直以外全員でリクレーションもやった。
こんな時は厨房で、遠足の時のような折詰弁当を作ってくれた。

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運動会をやったときには局長さんも作業帽を被って、やる気になっていた。
ただ、航行中の船上で綱引きは難しかった。
広い場所も限られているし、デッキにマンホールの様な起伏があるところではそれを足掛かりに頑張った方が有利である。

航行しているうちにインド洋も乗り切っていた。

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8月29日の正午位置はマダガスカル島の真南、東経45度であり、9月1日の昼過ぎには南アフリカのポートエリザベス港が見えた。
アフリカ大陸最南端アグラス岬までは一日の航程となった。

アフリカの南端を喜望峰と思っている人も居るようであるが、最南端はアグラス岬で、喜望峰はテーブルマウンテンで有名なケープタウンから2〜20キロ先である。

喜望峰はよく見えたが、ケープタウンの街はテーブルマウンテンの奥なのでよく判らなかった。
2日の正午位置はアグラス岬沖、3日の正午位置は南アフリカ共和国と南西アフリカ(ナミビア共和国)との国境に近かった。
この辺りはダイアモンドの産地として有名である。
4日の正午位置はナミビアにある南アフリカ共和国の飛び地、ウォルビス沖で、5日の正午位置はナミビアとアンゴラの国境で、この頃になると海岸線に沿って航行していた。

大西洋の海の色はインド洋より薄く、青より緑がかっていた。

そしてその日の22時15分に目的地モサメデスの沖に投錨した。
アンゴラは、ポルトガルの植民地であった。
当時、ポルトガルはアントニオ・サラザールが首相、あるいは大統領として独裁者として君臨していた。
アンゴラにある鉄鉱石の積出港もポート・サラザールと呼ばれていた。

翌朝、船橋に上がって行くと、パイロットボートが接舷し、ポルトガル人のパイロットが到着したところであった。
階段をあがると「モーニング!」と声を掛けられた。

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午前7時前に抜錨し、朝霧をついてやってきた2隻のタグボートに曳航され、船首を港外に向けて鉱石埠頭に接岸した。
航海日誌には、7時15分接岸と書き込まれていた。

鉱石ヤードから長いコンベヤの先には、クルップ(独)製ローダーが設置されていた。

PtSalasarArrival.jpg

12万トンもの鉄鉱石の搭載前後の船体応答を計測するための準備もセットした。

本船の接岸時は空槽だから喫水は浅く、船橋の海面上からの高さは高かった。

ローダーの背景は高い崖になっていたが、その上には原住民の集落があり、モスクもあったようである。
寄港して上陸するのが楽しみで、後で撮影しようと思ったのがいけなかった。
本船は連続して荷役しているので、明くる日に見ようと思ったら船体が沈んで崖の上を見ることは出来なくなっていた。

乗組員も上陸が楽しみな様子で、昨日も一昨日も司厨員が臨時の散髪屋さんとなり繁盛していた。


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2012年02月21日 10:12に投稿されたエントリーのページです。

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