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淡水から広島までの一千浬(56)

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1972(昭和47)年3月に父は役員をやっていた水道工事店を辞任した。

戦後、広島で上水道工事に携わって以来、それまで地元の工事店で施行していたが、大手建設業者が参入してきたこともあった。
その時も同業者と広島市管工事親睦会を作ったりしたこともあって、管工事の株式会社を設立することになった。

見出しの写真は皆実町の3階に住んでいた頃のものである。
父の背景は、右奥に季節には櫻や躑躅の咲く仁保の丘であり、その向こうはマツダの工場のある向洋である。
住居は和室を幾つか並べて、玄関横にはダイニングキッチンがあった。
屋上は母がコスモスなどの花を育てており、その横に浴室も作った。
父の後の非常階段を降りると社長宅にわたることが出来た。

その3年前に短期大学を卒業して某製作所に勤務していた妹、由起が辞めて事務をすることになった。

しかし、退社したのであるから住まいを明け渡さねばならない。

市内の牛田新町に新しいマンションが建設されることを知り、的場の事務所に何度か足を運んで契約していた。
当初はなんとか、3月末には入居出来る見通しであったが、建設業者の資金繰りのためか工程が延び、完成が予定より遅れてしまった。

僅か2〜3ヶ月の間、住んでいたところに居ることも出来たのではないかと思うが、父の気性ではすっかり引き払ってしまわなければならないと思ったのであろう。

建設中のマンションに入居出来るまで仮住まいが必要になったが、皆実町5丁目に狭い家を借りることが出来た。
しかし、実に狭く古い家であった。

退職金代わりに西蟹屋町に民家一戸程度の土地を貰ったので、そこにプレファブの2階建てを建て、階下を駐車場や機材置き場に、階上を事務所にした。

1972(昭和47)年5月5日に「瑞穂工業株式会社」の事務所開きをすることが出来た。

配管工も2、3人来てくれた。

そのうちの橋渡氏は、ずっと後年まで「社長、社長」と言って何やかやと訪ねて来て呉れていた。

7月に、牛田新町に建設していたマンションが出来上がった。
「牛田翠苑」と名付けられたマンションに家財を持ち込んで我が家が最初の入居者となった。

旧藩主毛利家の墓地が近くにあり、坂を上ったところにユースホステルがあった。

6階建ての5階で、窓の正面には太田川本流とやっと完成した放水路の分岐点の水門が見え、その背景に己斐の西の茶臼山を望む良い展望が開けていた。


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2012年02月28日 10:56に投稿されたエントリーのページです。

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