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2013年02月 アーカイブ

2013年02月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

立春にご無沙汰のお詫び

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先ほど、クリスティーナからEメールを貰いました。

「長い間、このページを更新していないので、元気かどうか心配している」と言ってきたのです。

実は、今月初めから内容の濃い書籍にとりつかれて、何冊か読み考え込んで居ました。

それに先日、60年以上前に卒業した同期生会の案内が来たり、十数年前に英国諸島をクルーズしたときにコーディネーターをしていた人から「寄せ書き日の丸」返還運動の連絡が入ったりしていて、このブログの更新を出来ませんでした。

ここ1ヶ月くらいの間に受信したEメールにも対応出来ていないものもありました。

申し訳ない次第です。

こんなつまらないブログを見てくれる人が居るのは有難いことです。

これから真面目に更新します。反省!

写真はクリスティーナが送ってくれたものです。


2013年02月10日

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「廟」

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先月、LCさんから送られた写真である。

遅くなったが転載させて貰う。

『日本の何処に行っても神社佛閣があるように、台湾のどの街にも廟がある。
淡水の廟と言えばすぐ、人々に親しみられた下町の媽祖宮廟を思い出す。
母の信仰する、清水街にある清水祖師廟は昭和一桁時代に再建された。
学校に上がって字が読めるようになり、祖師廟の壁に親父の名前と献金二千円が地方の有志家許丙さん献金五千円の次に並んでいたのを発見した。
土建屋の親父は廟の再建の工事をも請け負ったようで、今は北新庄海岸、高層建築の養老院に引退した周明徳さんからの手紙で、家の兄が祖師廟で工事監督をしていた思い出に触れていた。
因みに周さんの家は廟の数軒隣だったのです。
祖師廟の直ぐ坂の下には観音様を祀る龍山寺があったが、寺の前の広場は今では市場に取って代わられ、寺は何処か?と探さないと見つからない程に混雑を極めている現状だ。
淡水四大寺院の4つ目、汽車駅の向こう側にあった山寺、俗に公佛と呼ばれる寺廟も忘れられない。
本像はミイラと聞いて、一年坊主のある日一人で恐る恐る奥へ忍び込んだ。
そこで目にしたのは等身大の本像、でも、けばけばしく飾りたてていてミイラの正体は判別出来なかった。
記憶の山寺は田んぼの真ん中、でも最近Google Mapで調べたそのお寺は多数の高層アパート群に囲まれて窮屈そうだ。
廣川さんが第一回淡水訪問の際、奥さんの背影を撮った写真の廟、家の親父の家の横のちっぽけな廟など、指を折って数えてみると、淡水の街のあちこちに小さな廟がまだ十軒近くも残っていた。

添付の写真は1963年の初め頃、淡水駅の汽車の供水塔付近、元本願寺の向かいでのスナップ。
写真機は同じく例のAires、45mm/1.9の標準レンズにフイルムはKodakのplus x panでした。
寒い冬、オーバコートを着て仏像を持ち運ぶ人物の真面目腐った表情が面白い。
よく見ると佛像は男性の顔、媽祖様ではないのは確かだ、なら祖師様かなと疑う。
でも媽祖様や祖師様がお出かけの時には、殿様行列のように前後に七爺八爺の家来を従え、等身大の本像は駕籠に乗って街中を練り回るから、この小型の仏像は多分何方でもなさそうだ。
その佛像を見送りながら、その人は汽車に持ち込んだ佛像を床下に置くか座席に座らせるかと考え、神様は切符を買う必があるかなと頭を傾げた。』

私は小さい頃、頻繁に行われる祭礼の獅子舞が怖かったように憶えている。

今年も神戸や横浜、それに長崎の中華街は賑わっているのであろう。

2013年02月11日

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北投の善光寺

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昨日、KGさんからEメールを貰った。

年が明けてから一週間も台湾に行って帰ってきたばかりであった。

このブログに北投の善光寺のことを載せたら何処にあるか訊かれたので、国内で発行されているガイドブックから導入路をコピーして届けたことがある。

それを見て今回登ってきたということであった。

私が2004年8月に撮った写真を2012年1月11日の本欄に載せたが、それから10年近く経過しており、少し増築されたのかもしれない。

KGさん、ありがとうございます。


2013年02月12日

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春節のカードを貰った

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2月10日には淡水のクリチーナから春節を寿ぐカードが7枚も届いた。

上のカードはそのうちの一枚である。

(このほかに誕生祝いのカードも、14枚貰った。
 ありがとう。)

2013年02月13日

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戦前の台湾のフィルム

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2008年に国立台湾歴史博物館が戦前の記録映画を修復しDVDビデオにまとめたものを持っている。

牧野周一氏がナレーションを担当した「南進台湾」などがほぼ120分に編集されている。

台北の市内などが収められているが、淡水に関する限りゴルフ場がちょっと出てくるだけであり、そのほかには草山温泉、国立公園の候補地であった大屯山、北投温泉くらいで淡水の影像を期待していたものには少し物足りない。

それでも、台北街並みの亭仔脚、台北車站、博物館、新公園などが載っているので見返すことがある。

それにしても古いフィルムから編集するのは大変な作業であったと思う。

2013年02月14日

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懐かしい観音山

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この観音山の写真はクリスチーナが今月送ってくれた。

穏やかな水面には漣も光っている。

淡水の街も大きくなって、八里との間の連絡船や漁人碼頭からの観光船などが航走している賑やかな淡水河も悪くないが、このように静かな河面も良いものである。


2013年02月15日

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淡水信用組合落成記念写真

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昨年6月にクリスチーナから送って貰った淡水信用組合の創立二十周年/落成記念写真(1937(昭和12)年12月26日撮影)である。

40人以上の人物が威儀を正して写っている。

当時、これほど立派な建物は目立ったことであろう。
そして、おそらく3/4世紀以上建っていることであろう。

2013年02月16日

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淡水街附近の地図(上)

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2010年9月に淡水に帰ったときに、陳淑女先生に「淡水國小九十周年記念誌」を戴いた。

上掲の図はその記念誌に載っていた「淡水街附近」という略地図である。

何年頃のものか定かでないが、当時中洲が大きかったことはこれで判る。

しかしちょっと縮尺が過ぎるので、先ず停車場寄りの部分を取り上げてみる。

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この地図に公会堂は載って居らず、鳥居のみが描かれている。
これは淡水稲荷社であろう。
1928年の昭和天皇即位大典記念行事として寄付金を募って公会堂をが、の西隣に建てられたらしいので、それ以前の略地図であろうと思われる。

その近くの河岸沿いに郵便局と郡役所があり、鳥居の山側には小學校が描かれているが、LCさんによれば煉瓦建ての立派な幼稚園のあった場所だという。

そこから西寄り(河下側)の紅毛城の下手に台湾銀行(淡水支店)と税関が見える。

淡水は日本郵船や大阪商船のような外航船も出入りしており、出入港の水先を務めるパイロットも住んでいた。
しかし淡水河の堆積で喫水の深い船は航路開設後間もなく入港出来なくなった。
施合発の木材船は沖で木材を水面に降ろして筏に組み、喫水を浅くして接岸していた。

この地図の描かれた後、区画整理によって新路(後の中山路)が敷設された。

停車場から公会堂や郵便局、郡役所までは数百メートル離れていたが乗合自動車もなかったので人力車が街角で客待ちをしていた。

その後、香港やシンガポールと内地を連絡した飛行艇は郡役所裏の水面に繋がれていたと思う。

2013年02月17日

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淡水街附近の地図(下)

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もう少し河口の方を見ると、ゴルフ場、砲台、燈台、海水浴場のほかに海水浴場、無線電信の文字が見える。

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この地図の描かれたあとで、油車口の河岸近くに鳥居が立てられ、砲台の方へ参道が造られて淡水神社が造営された。

その鳥居から遠くないところに燈台の文字が見えるが、実は鉄塔なので燈台ではなく燈塔である。

当時、台湾海峡に向かって海水浴場という文字が見える。
沙崙に海水浴場があったのだろうか?
この辺りは清法戰爭のときにフランス軍陸戦隊が上陸したと思う。

その後、淡水河の方に遠浅で波の穏やかな街営の海水浴場「和樂園」が出来たのであろう。
その和樂園の運営を任されていた浅野タツを頼って祖母の原田ユクが幼い母を連れて渡台したという。

上の地図にはそのほかに無線電信、海底電信陸場という文字が見える。

台湾全島から発信された電報は淡水から長崎に敷設された海底電線で内地に送信された。
日露戦争の頃から実用化されていた無線通信も、淡水の無線局から遙か洋上の船舶や南方に向かって発信されていた。
当時、淡水の郵便局は電信局も兼ねていた。

上の地図で見るととても遠く生活にも不便であったのであろう。
淡水会の豊福さんは幼少時ここで暮らしていたのだろうか?

現在は遠洋漁船向けの気象情報などを伝送するために高いアンテナが林立している。

2013年02月18日

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素晴らしいレストランの紹介

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先日、クリスティーナからMRT淡水車站前のデパートの9階に鳥窩窩レストランのことを知らせてくれた。

美味しそうな料理の写真を沢山添付してくれた上、日本語のメニューまでつけてくれた。

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数多くの写真を載せるわけに行かないので一齣を代表として載せてみた。

今度、淡水に行ったら訪ねて見たいものである。

2013年02月19日

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古い淡水の写真

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淡水國小九十周年記念誌を見ていて、また古い写真を見つけた。

いま、淡水の図書館の建っている文化路の辺りから三民街越しに紅楼、白楼を望んだものと思われる。

木下静涯画伯が住んでいたのは、その下の通りから階段を上ったところではなかっただろうか?

この写真の右外側に三角形の小公園があり、左外側に煉瓦建ての立派な幼稚園があって、LCさんのお姉さんやKGさんのお母さんが先生(保育士)をしていた筈である。

その幼稚園も、公会堂の裏を通る新道(→中山路→文化路)が建設されるときに取り壊されたらしい。

淡水の街も随分大きくなり、表通りには大きなビルが建って、当時の面影がなくなりつつあるが、ちょっと路地に入ると戦前そのままの小径や階段がそのまま残っているところがある。

2013年02月20日

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淡水和平公園

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淡水和平公園は、新北市淡水区になるずっと以前から蔡葉偉鎮長や、鄭宏銘、郭芳瑩、林國峰など各位による淡水和平公園後援会によって、砲臺や忠烈祠(淡水神社)に近い油車口に設置が企画され、実現されてきた。

1999年9月21日に台湾で大地震が発生したときに、その数年前に起きた阪神大震災を経験した人たちが復興を手伝うために渡台した。
そして、築後90年以上経った福井県の古民家が解体されるときに、この日本家屋を台湾に再建する話が持ち上がった。

解体されるときに、作家水上勉氏の父親が大工の棟梁として建設された建屋だと判ったが、再建場所も決まらないまま基隆の倉庫に置いていたためにシロアリなどの損傷が出始めたが、やっと油車口の忠烈祠前に整備される和平公園の一角に再建されることになった。

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最近、グーグル・マップを見ると砲臺や忠烈祠の傍に「和平公園」と載っていた。

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淡水一帯の攻防戦で亡くなったスペイン人、オランダ人、清法(仏)戰爭で亡くなったフランス人、暴風で遭難した日本人水兵、大東亜戦争で亡くなった淡水人などを弔うために、数珠を掛けて合掌した慰霊碑も建っている。


2013年02月21日

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許文龍氏

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許文龍氏は台南で生まれ、台南高級工業学校機械科を卒業し、1959年に奇美実業を設立して、同社をABS樹脂生産世界一まで成長させた人物である。

台湾で他に先駆けて週休二日制を実施した人でもある。

その許氏が後藤新平、新渡戸稲造、浜野弥四郎、鳥居信平、八田與一など台湾の近代化や産業育成を支援した日本人についてまとめた本が「日本人、台湾を拓く」である。

私は、氏の名前は知っていたが、台湾の発展に貢献した人物の胸像を、その人物とゆかりのある場所や施設などに寄贈したことは知らなかった。

しかも、そのなかには新渡戸稲造をはじめ、ご本人が製作した胸像のあることを知って驚いた。
許氏のプロデュースによって彫刻家が製作したものもあるが、八田與一、浜野弥四郎、新井耕吉郎、鳥居信平、磯永吉、末永仁などは許氏の製作になるものである。

粘土の形を修正しつつ像をつくり進めていくうちに、うまく出来なかったりしたときにはバイオリンで曲を奏でたりしたという。

許氏はバイオリンの演奏家としても知られている。

後藤新平の項と松木幹一郎の項は山岡淳一郎、新渡戸稲造の項は楠木榮、浜野弥四郎の項は稲葉紀久雄、鳥居信平の項は平野久美子、八田與一の項は片倉佳史、磯永吉と末永仁の項は早川友久、新井耕吉郎と羽鳥又男の項は手島仁の各氏が執筆している。

それぞれの胸像所在地、関連台湾史年表、執筆者の紹介なども載っている。

じっくり読ませて貰おうと思う。


2013年02月22日

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浜野弥四郎

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昨日入手した許文龍氏と胸像の物語を読んでいる。

山岡淳一郎氏の後藤新平、楠木榮氏の新渡戸稲造の項でも台湾の近代化に貢献した両人や当時の台湾のことについて知らなかった多くのことを知った。

今日は稲葉紀久雄氏の筆になる浜野弥四郎の項を読んだ。

浜野弥四郎は、その師バルトンとともに台北、基隆、台南など主要都市の水道事業を行い台湾をペストやコレラ、マラリアの流行る土地から衛生的な市街地にした「都市の医師」である。
(淡水は浜野の着任より前に、牧野實主任技師が手掛けて台湾で最初に上水道が整備され、淡水街長官舎には台湾で最初に水道が引かれている)

内地に引き揚げたあと、広島に辿り着いて父が苦労して水道事業に関わったこともあり、感銘深く読んだ。

許文龍氏が最初にデッサンから粘土の原型をつくった初めての胸像だそうである。
(台南市山上郷浄水場と後藤新平記念館にある)

2013年02月23日

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鳥居信平

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許文龍氏と胸像の物語を引き続き読んでいる。

後藤新平、新渡戸稲造、浜野弥四郎のあとに環境型ダム二峰を構築した鳥居信平の話が載っている。

彼は「台湾精糖」が潮州郡の未開の地に地下堰堤「二峰」を完成させ萬隆農場を開設し、力力渓の伏流水を利用して大響農場の灌漑工事などを行った。

パイワン族、ルカイ族、ブヌン族など高砂族の生活している荒廃した地に水源を求め、原住民の頭目と義兄弟の契りを結ぶなど現地の人たちと一緒になってこれらの大工事を完遂した。

高砂族の頭目から「おまえは立派な顔をしている。その首を家に飾りたい。」と真面目に申し込まれて、「まあ、待て。この仕事が終わったらくれてやっても良い。」と言う剛胆な人物だったらしい。

彼がその仕事に取り組んだのは、農科大学を出て数年の三十を過ぎたばかりだったという。

一気に読み上げて、ふと見ると友愛第12号に平野久美子、丁澈士、鳥居徹、原田英之などによって書かれた記事が載っていた。

鳥居信平も凄い人物だったには違いないが、これだけの成果を上げるためには台湾精糖も行政もその大事業を託し、それなりに支援したからであろう。

2013年02月24日

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父はスポーツが好きであった

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父は、書も絵画も上手であった。

そしてスポーツも大好きで得意であった。

私には書も絵もスポーツも、忙しい中教えてくれたがどれも上手くならなかった。
不肖の子である。

バレーボールやバスケットなどは学校を代表して対抗戦に出ていたし、応召してからも銃剣術などの試合に出たと聞いているので平均以上に健康なのかと思っていたら、

20歳の時、徴兵検査で丙種合格になっていたことが判った。
心臓弁膜症であった。

スポーツの観戦も好きであった。
晩年、TVで相撲や野球の中継は、あまり見ていた記憶がないが、中国新聞主催で福山支社前をスタート、八丁堀の本社社屋前をゴールとする中国駅伝はゴール近くの同業者の事務所で観戦していた。

私は水泳はあまり得意でなかったので、市内の川で教えてくれた。
父は勤務があるので、母が呉線沿線の小屋浦海水浴場に何度か連れて行ってくれた。


2013年02月25日

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台北の三線道路

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台北の街は、大陸の街のように城壁に囲まれていた。

交易するジャンクは淡水河を遡ってに荷揚げしていたが、後には大稲珵に移り、倉庫を持つ商人の館が建ち並んでいた。

、大稲珵、それに城内の三地区が台北の市街地であった。

城壁には四方に門が築かれていたが、近代都市にするために上下水道と道路の整備が計画された。
それに市街地の拡大も必要であった。

そのため、城壁を撤去して広い舗装道路が設けられた。
城壁の内側と外側にあった路も整備され、街路樹で仕切られた三本の道路となった。
これを人々は三線道路と呼んだ。

城壁が撤去されるときに城門は残された。
景福門(東門)、麗正門(南門)、承恩門(北門)、それに西門である。

加藤壽子さんが、大窪四郎さんが描いた「台北博覧会ガイドマップ(1935年)」を参考に1993年に描いた「旧台北イラストマップ」にはこれらの門が描かれている。

上図の下辺ほぼ中央に東門、左辺下部に麗正門(南門)、その上部に小南門、上辺右側に北門という文字が見える。
そして、これらの門のならびに街路樹で仕切られた三線道路が描かれている。

中央に見える博物館から放送局まで広がる公園は、先に圓山公園が出来ていたので新公園と呼ばれた。

母が台北帝大付属医院の外来に行ったときに、連れて行かれ新公園を歩いたことをおぼろげながら憶えている。

2013年02月26日

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台湾神社

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台湾神社は京都にある圓山公園にちなんで、北海道神宮(札幌神社)が建てられていると同様に圓山公園という名の公園を造り、そこに造営しようとした。

しかし結局、広い平坦地よりも神域にふさわしい北隣の剣潭山に造営され、1900(明治33)年4月に地鎮祭を行い、翌年10月に神殿が竣工し、10月27日に鎮座式が行われ、28日に大祭が挙行された。

ちなみに、淡水神社は1936(昭和11)年に造営が開始され、1939(昭和14)年3月11日に鎮座式が行われている。

加藤嘉子女史の描く台北鳥瞰図から転載した。

基隆川に掛かる明治橋の淡水寄りには淡水線の鉄橋が掛かっていた。

当時、淡水線の駅は台北、大正街、双連、圓山、宮ノ下、士林、北投、江頭(関渡)、竹囲、淡水であり、台湾神社の表参道は圓山駅から延びていた。
宮ノ下駅は台湾神社の裏参道にあたる。

当時、陽明山は草山と呼ばれていた。
右上に青い文字で「草山」と書かれているが、このほか「天母」、「士林」、「宮ノ下」、「大宮町」「圓山町」、「大龍町」、「河合町」なども青文字で記入されている。

図に載っている剣潭寺は戦後、忠烈祠となった。
明治橋の手前には交番の文字が見えるが、現在も警察署のような立派な交番が建っている。
圓山公園には動物園や小さな遊園地もあった。

圓山公園が整備されていたので博物館から放送局までにわたって造営された公園は新公園と呼ばれていた。

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戦後は台湾神社のあとにホテルが建ったが、宋美麗が買い取って圓山大飯店に再建した。

2013年02月27日

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上下水道の整備は淡水が最初であった。

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稲葉紀久雄氏による「近代水道を敷設した都市の医師:浜野弥四郎」によると1896(明治29)年、8月にバルトンと一緒に台北に行ったが、駅で衛生課長、文書課長とともに彼らを迎えたのは淡水の水道事業の主任をしていた牧野實技師であった。

LCさんが昨年、1975年に渡米後最初に帰国したときに撮った写真を送ってくれたが、そのメールには次のような事情を教えてくれた。

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淡水は台湾で最初に水道を敷設した。1899年のことである。
大屯山の麓から重力を利用して泉水を淡水街まで引いて供水した。
当初は個人の家屋に配管するのではなく市街地に23箇所の消防兼用の供水栓(水道頭、あるいは水管頭と呼ばれた)を敷設した。
附近の婦人連が炊事や洗濯をしながら「水道頭端会議」で情報交換をしていたのであろう。
子供は冬でも、ここで冷水浴で遊んでいたという。
(個人の家に上水道を敷設したのは砲臺埔の淡水鎮長官舎であったと言われている。)
なお、当時は写真の水管頭の頂部に半球型の蓋があったそうである。

日本特別展示会「滬道日安」(2009年12月23日)の資料によれば、1895年7月に台北縣淡水支庁長大久保利武がデンマーク人電信技師ハンソンに委託して実地調査を行い大屯山麓の水頭と滬尾に4ヶ所の湧泉を見つけ、滬尾水源、双頭、第三、第四湧泉を水源とする「淡水水道敷設計画」が提出された。

牧野實がバルトンと浜野を迎えに行ったときには、敷設工事に着手する直前であったらしい。

1899年にはバルトンが亡くなり、浜野が台北、台中、基隆などの上下水道を手掛けることになる。

台北の上下水道敷設は首都東京よりも先であった。
伝染病を撲滅し、都市の近代化を図るためであった。
児玉源太郎総督、後藤新平民政長官の頃のことであった。


2013年02月28日

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是誠陶笛

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馬偕博士の頭像が立っているロータリーは淡水のメインロード中正路と三民街の交差点である。

戦前、この辺りは龍目井と呼ばれ賑やかな通りで、このロータリーのことを小公園とか三角公園とか言われていた。

2009年3月に淡水を訪れたときは、ここに父や安武先生が住んでいたとは知らなかった。
それどころか、自分の生まれた淡水公会堂が何処に建っていたのかさえ知らずに、滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)のガイドさんに尋ねたものである。

その龍目井の小公園の一角にオカリナ専門店があった。
グーグルストリート(2012年3月撮影)で見るとシャッターは降りているものの「是誠陶笛」の看板は当時のままである。

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店員さんにことわって撮らせて貰った写真である。
大きな陳列棚2面のほか、カウンターにまでいろいろな陶笛が並んでいた。

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水牛型の陶笛を買ったら小冊子をつけてくれた。

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成形、調整、着色、窯焼まで工程を詳しく載せている。

冊子には吹き方の基本、第1課から第8課までにわたる練習方法、それに4十数曲にも及ぶ数字譜もある。

もちろん中国の歌も多いが「キラキラ星」、「カッコウ」、「ロンドン橋」、「レッド・リバー・バレー」、「アメージンググレース」、「ジングルベル」、「荒城の月」、「タイタニックのテーマ」、「カプリ島」、「ドレミの歌」など聞き知っている曲も多い。

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そのなかに「送別」があった。
これはジョン・P・オードウェイの"Dreaming of Home and Mother"、日本では「旅愁」として知られている曲である。

漢字で表記された曲名から憶えている曲を探すのも面白い。


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