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川西式四発飛行艇「神津」

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終戦直後の9月9日、横浜から飛来した大日本航空海洋部の川西飛行艇「神津」(J−BACT)である。

一昨日、(2010年11月27日掲載の「小公園」に)コメントを付けてくれたYさんが写真の出典を教えてくれたので、台湾師範大学の曽令毅の論文「航空南進と太平洋戦争:淡水水上機場の設立と発展」から転載した写真である。

昭和9年に海軍から川西航空機(株)に九試大型飛行艇の試作指示があり、同年11月に菊原静雄技師を設計主務者として設計に着手された(社内名称S型大型飛行艇)。

1号艇の初飛行は11年7月14日、近藤勝次操縦士により行われ、同月25日に海軍に領収された。
九試大艇は昭和13年1月に97式1号飛行艇と呼ばれることになったが、製作されたのは合計4艇である。
その後、昭和17年までに179艇が製作された。
97式飛行艇は7.7ミリ旋回銃4丁、20ミリ旋回銃1丁、60キロ爆弾12、あるいは500キロ爆弾2を搭載する遠距離哨戒/爆撃飛行艇であったが、このほかに武装のない97式輸送飛行艇36艇(15号艇、16号艇の改装を含めると38艇)が製作された。

このうち、大日本航空海洋部の使用艇は18艇、残りの20艇は海軍で運航された。
日航艇には「綾波」、「漣」、「磯波」、「あさしほ」、「叢雲」、「白雲」などの艇名が付けられている。

昭和16年の開戦に伴いインドネシアのアンボン島の934航空隊に配属になった北出少尉の著述によれば、彼は横浜航空隊で海軍の新任者と日本航空海洋部の操縦士の操縦指導をしていたという。

淡水郵便局裏の淡水河に繋留された「神津」の背景に郵便局の別館が見える。
その左は淡水郡役所裏の広場であろう。

別館の上には淡水公會堂の本館と洋館とそこに登る細い坂道が見える。

このあと、公会堂の裏側に大きな中正路が貫通した。このとき煉瓦建ての立派な幼稚園がとりこわされ、淡水小学校や女子公学校は中正路の向こう側の高台になり、公会堂の跡に建設された図書館からそこに行くために陸橋が架けられた。

私は幼い頃、高台にある公会堂から水面滑走する飛行艇を見たことも、河岸で繋がれている状態も見たことがあるが、淡水河に繋留されている川西大型飛行艇の写真を見たのは今回が初めてで、少し興奮している。


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2013年03月19日 21:01に投稿されたエントリーのページです。

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