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往時の淡水街探訪(5:小公園界隈)

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上図、左下の「洪成枝」氏は淡水弁務署(警察)事務嘱託をしていたそうである。

その前に「十全病院」があり、ちょっと離れて「淡水歯科院」、「広瀬資生堂」、「淡河時計店」が並んで、小公園に面する角には「谷商店」が描かれている。

「資生堂」は広瀬ノブさんが経営していたが、そこにはマリ子という、同じ年頃の女の子が居た。
父が出征するときにはとても世話になったと言っていた。

小公園の河岸側に「葉応元写真館」が描かれているが、この地図は商店などしか掲載されていない。
従って店舗を構えていない民家は省略されているらしい。
小公園のあたりから「淡水郵便局」まで、淡水河との間には借家などが建っていたと思われる。

なお、小公園の淡水基督長老教会側には鄭子昌(日本名:岩井昌雄)医師の興亜医院が建っていた。この地図には描かれていないが、1936年以降に建ったのであろうか?

教会に入る角には明石商店という店があったがこれも描かれてない。
ここは戦後「三山飲食店」になっていたが、いまは「MACANNA」というレストランか喫茶店になっている。

この地図に描いてあるのは「淡水基督長老教会」だけ、その先の坂の上に「公会堂」が見える。

郵便局の先には「警察署」、「郡役所」があり、そのあいだに武徳殿がある。

「公会堂」の背後に隣接するように「街長宅」があり、そのあいだの道を登ると「女子公学校」、「小学校」、「淡水中学校(淡江中學)」があり、英国領事館寄りに「淡水女学校」も描かれている。

「領事館」前の坂を下りたところに「税関」があり、領事館の裏手に「血清製造所」がある。
台湾にはハブという毒蛇がいるのでそのために血清をつくっていた。

淡水神社の竣工、鎮座式は1939年の3月であり、この地図を作成した時点には公会堂に隣接して小さな祠があっただけである。
ゴルフリンクの入り口近くに描かれているのは砲臺であろう。

その上に「無線電信受局」とあるが、実際には遥かに遠く、小学校に通うのも大変だったことであろう。


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2013年05月07日 16:55に投稿されたエントリーのページです。

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