2005年05月20日

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(生い立ちの記:5)善光寺

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平穏だった淡水での生活も、戦争の末期になるとだんだん厳しくなってきた。

空襲警報が頻発するようになると、子供も防空頭巾を被って防空壕に走りこむようになった。

3歳の妹は、暗くてじめじめした壕から出たくて「空襲警報解除よ!」と言っていた。
こんな小さな子供に「警戒警報」「空襲警報」「空襲警報解除」「警戒警報解除」「防護警報」の行動を教えていた。

淡水にも零式水上観測機と言うミズスマシのような単浮舟複葉複座の水上機が何機か分駐していたので燃料タンクもあったし、ライジングサン石油会社の石油タンクもあった。

ある日の空襲でライジングサンの石油槽が燃え上がり、延焼をさけて夜道を峠を越えて母親に手を引かれて逃げたこともあった。
父は現地の国民学校の教頭であったが、召集令状が来て台南方面に出征していたのである。

灯火管制で真っ暗な田舎道を歩きながら振り返ると赤い炎が生き物のようで気持悪かった。

台湾沖海戦で完全に台湾の制空権を失ってしまった。

せめて子供たちだけでも助かるならばと、淡水の日本人学童を山寺に疎開することになり、母と祖母は保母として同行することになった。

敗戦濃厚な20年2月のことで場所は台北の裏手にあたる北投庄の善光寺である。
北投の温泉街を抜けて険しい山道を学童をなだめなだめ登ったのであろう。

昨年の夏、妹と当時家族のように一緒に暮らしていた親類と渡台したときに60年ぶりに登ってみた。
北投のMRT停車場からタクシーと交渉して連れて行って貰ったのである。

写真の正面左手遠くが淡水で左の尾根をさらに左に行くと台北に出る。
目の下の集落が北投の街である。

淡水河からちょっと曲がりこんでいるので、いまはMRTに1区間だけの北投線が敷かれている。

戦後初めて登ったが、当然昔日の善光寺は見当たらず、慰霊塔があった。
そこに日本から持ってきたものらしい石灯篭が一対建てられていた。
後日判明したことであるが、畳敷きの善光寺の本堂は戦前のままあるという。
その上に土を盛って慰霊塔が建てられたものらしい。

ここで終戦までの数ヶ月を過ごしたが、いろいろなことが思い起こされた。

学童に危険なことをして真っ暗な防空壕の中で母親に叱られたこともある。
母に謝ったあと「お父さん」と大声で叫んだそうである。

本当は、母のほうがそう言って泣きたかったに違いない。

こんなこともあった。
ある日、グラマンの銃撃を受けたのである。

当時はいまほど建物が建ってなかったから郊外の田舎であった。
その頃、定期便のように艦載機が空襲に来ていた。

下の街の一軒家を上昇しては降下姿勢で銃撃していた。
降下しすぎると地表に激突するから上空から緩降下しながら12.7mm銃弾をたたき込み、そのまま引き起こして次の目標を襲うのである。

いままで、こんなところに来たこともないし、学童を防空壕に入れて寺の本堂の縁に掛けて字義通り高見の見物をしていたのである。

と、一機がいきなりこちらに向かってきた。
親達が慌てて防空壕に走ったけれども間に合わず、本堂の横に仮設した給食用の炊飯所に駆け込んだ。

母と祖母が幼い兄妹を流しの下に押し込んで、その上に被さってきた。

その肩越しに竹拭きの屋根にバラバラと機銃弾が撃ち込まれるのが見えた。

そのせいかどうか判らないが母の話によると、小学校に上がっても稲光を恐がっていたそうである。

Comment on "(生い立ちの記:5)善光寺"

北投の善光寺のことを調べていて、たどり着きました。
貴重なお話を拝見させていただきました。
私は今、台湾に留学中で、台湾における日本がらみの信仰のことを研究しようかと思っています。
善光寺にはまだ行ったことがありませんので、今度行ってみたいと思います。
これからも貴重なお話、楽しみにしております。