2009年06月16日

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ヘイルズ・トロフィー

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別ページで20世紀、大戦間の客船・飛行船・飛行艇が競合していた、世界に航行の進展していった時代の様子を調べている。
そのなかで特に飛行船についてはさらに別の場所で主として独・米・英の文献による調査中である。

エポックメーキングな高速客船「ブレーメン」処女航海でが20年間イギリスのキュナードが保持していたブルーリボンを1929年に奪還し、翌年には遅れてデビューした姉妹船「オイローパ」がさらにその記録を更新している。

航洋旅客飛行船「グラーフ・ツェッペリン」は1928年に北大西洋を往復し、翌1929年には世界周航を行っている。

同年完成した超大型飛行艇「ドルニエ・DoX」は1930年11月にボーデン湖の東端アルテンハインから各地に寄港しながらニューヨーク訪問を果たしたが帰港は2年後の1932年11月であった。

これらの船艇は、乗組員の配置も制服も、船艇内のサービスも航洋客船を目標にしていた。
1区間を100時間以上飛行した飛行船では無理な話であったが、目的地まで一週間もかかる長距離便の飛行艇では、夕刻明るいうちに寄港地に着水してホテルで宿泊し、翌日は朝食を済ませてから飛行艇に乗り込み、次の寄港地に向かった。
サザンプトンからシンガポールまでは約5日、ダーウィンには9日、シドニーまでは12日を要したという。
航空運賃にはホテルの宿泊費や食事代も含まれていた。
艇内にはプロムナード・ラウンジもバーのサービスもあったし、トイレも2個所設置されていた。

アメリカとフィリピンや香港を結ぶ太平洋ではパン・アメリカンがマーチンやシコルスキーに開発させた大型飛行艇に「クリッパー」の愛称をつけて運航していた。
運航開始までに離島に建設していたホテルが間に合わず、寄港地に着水して乗客がディナーを楽しんでいるあいだに乗組員が座席をベッドに模様替えしていた。

勿論、この当時の長距離陸上機は寝台付きが人気を集めていた。

これらに対抗するために北大西洋航路では「ブルー・リボン」競争が新聞で大きく取り上げられていた。

しかし、ブルー・リボン賞という公式な賞もないし、ブルー・リボンの授与式も聞いたこともない。

これに関してクルダスの「北大西洋のブルーリボン」という名著に面白い逸話が載っている。

イギリスの国会議員ハロルド K.ヘイルズが1935年に1万ポンドもするトロフィーを寄贈したのである。トロフィーは「オイローパ」の記録を更新したイタリア客船「REX」に授けられ、その後フレンチラインの「ノルマンディ」に渡った。

ところがキュナードの「クィーン・メリー」がこれを破ったとき、キュナードは「我々は賞をとろうとして頑張ってきたのではない。」としてこの受賞を辞退したのである。

それからは、暗黙のうちにイギリス以外の船舶が対象となり、最終的にアメリカの「ユナイテッド・ステーツ」が受賞したという話である。


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