« (南独飛行船紀行:4) ツェッペリンNT乗船(2) | メイン | (南独飛行船紀行:5) ツェッペリンNT乗船(3) »

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

「グラーフ・ツェッペリン」世界周航時の燃料ガス

 ブイヤント航空懇談会の機関誌「ブイヤント航空」のバックナンバーを見ていたら、興味を引く記事が載っていた。石油化学新聞社刊「プロパン・ブタン・ニュース」2003年2月17日のコラム「業界50年前史①」の複写再掲である(ブイヤント航空2003年31巻1号)。

 昭和4年8月19日に飛来した同飛行船に霞ヶ浦で充填した燃料ガスの話である。硬式飛行船が長距離飛行でガソリンを使っていたのでは燃料消費に従って船体が軽くなるので浮力の調整が難しくなる。そこで「グラーフ・ツェッペリン」ではヘルマン・ブラウ博士が発明した石油気化ガスであるブラウガスを燃料に使うことにした。ブラウガスは重油または軽油を高温で分解したオレフィン系・パラフィン系炭化水素であった。主船体の中の17区画中、中央部の12区画は上下に2つのガス嚢を収容したが、容量は浮揚ガスである水素を上に燃料ガスであるブラウガスを下にほぼ6:4の比であった。

 世界一周飛行が検討されたとき、日本の霞ヶ浦を中継点の1つに選んだのは、ここに賠償として移設された飛行船格納庫があったからである。秋本実氏の著書「日本飛行船物語」によるとこの格納庫はドイツのユッターボッグにあったものを解体、舶載して移送し再建されたものとされている。これはバルト海に面した港町リューベックの南20kmの Jutebek であろう。ロンドン空襲には格好な地点である。

 エッケナー博士達は世界一周飛行の必要経費を25万ドルと見積もったときにその大部分は霞ヶ浦での浮揚ガスと燃料の補充に関する経費であったと述懐している。ドイツからブラウガスを輸送出来なかったので、アメリカ海軍経由カーバイト・アンド・カーボン・ケミカルズ(のちのユニオン・カーバイト社)からパイロファックス(Pyrofax)という商品名のガスを霞ヶ浦に送らせている。三菱商事が200ポンド容器で765本のパイロファックスを米国から輸入した。

 ツェッペリン社は浮揚ガス・燃料ガス補充のために機関長カール・ボイエルレを先遣しており、霞ヶ浦でウィルヘルム・ジーゲルと交替して乗船したことは良く知られているが、霞ヶ浦航空隊では副長山田大佐総指揮のもとに準備を進め、燃料ガスは潤滑油の補給と兼ねて機関長櫻井機関中佐が担当した。

 日本石油の重役奥田雲蔵と田口清行技師、カーボン・ケミカルズから来日したスコット技師が技術援助に当たり、所轄の内務省の担当は小野寺季六技師であった。当時高圧ガスは内務省が管轄していたのである。サンプルを商工省燃料研究所で分析し、所長の大島義清博士によってプロパンガスであると発表されたと紹介されたことが紹介されている。

 ツェッペリン飛行船に補充するために保土ヶ谷化学工業と日本曹達が用意した2000本の水素と、本国から送られた設計図でスコット技師が製作した混合充填装置によって作られた空気と同じ比重の燃料ガスが飛行船に補給された。

 なお、この記事によるとフリードリッヒスハーフェン・霞ヶ浦間はブラウガス、霞ヶ浦・ロサンゼルス間はプロパンガスと水素、ロサンゼルス・レークハースト間はプロパンガスと天然ガス、レークハースト・フリードリッヒスハーフェン間はエタンガスと全て燃料ガスの組成が違っていたと言うのは初めて知ったことであった。

[註]担当者氏名
文中、日本海軍関係の担当者氏名は秋本氏の著書に、官庁・企業側の担当者氏名はプロパン・ブタン・ニュースを参照した。


About

2007年08月23日 00:37に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「(南独飛行船紀行:4) ツェッペリンNT乗船(2)」です。

次の投稿は「(南独飛行船紀行:5) ツェッペリンNT乗船(3)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。