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2007年09月 アーカイブ

2007年09月02日

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飛行船用格納庫

 飛行船航空振興会社(Gesellschaft zur Frderung der Luftschiffahrt)が、ツェッペリン伯爵の最初の飛行船建造のために1899年にフリードリッヒスハーフェンのマンツェルに水上格納庫を建造したことはよく知られている。しかし「LZ1」の実験終了後、長さ130m、幅25m、高さ25mの格納庫は飛行船と同様解体され、会社は清算された。従って「LZ2」を建造するために、同じくマンツェルに長さ140m、幅26m、高さ25mの水上格納庫を1903年に建造した。1906年に初飛行した「LZ2」と「LZ3」はこの格納庫で組み立てられたと思われる。メーアスブルクにあるウーバン氏のツェッペリン博物館の発行している「ツェッペリン・クーリエ」2006年版によれば1907年に同じマンツェルに1903年に建造されたものとほぼ同じ寸法の格納庫が建造されているが、水上格納庫か陸上に建設されたものか判らない。

 同誌によると1906〜09年にかけて、ベルリンのライニケンドルフ(2棟)、テーゲル、ライプチッヒの北にあるビットフェルト、ケルンのニッペス、その北のライヒリンゲンなどに長さ7〜80mの短い格納庫が建設されているようである。高さ、幅とも概ねフルサイズの格納庫と似たようなものであり、飛行船の中央部のみを収容する目的だったのであろうか、よく判らない。この種の格納庫は1913年以降建造されていないようである。

 1908年にはフリードリッヒスハーフェンに長さ145m、幅28mの格納庫が建てられ、翌年には別の場所に長さ178m、幅46mの大きな格納庫が建設されている。

 エヒターディンゲンの事故の後、ドイツ国内から寄せられた醵金で1908年9月にツェッペリン飛行船製造社が設立された。企業経営能力と事業開発の企画力に優れたアルフレート・コルスマンが尽力して翌年11月にドイツ飛行船運輸会社(DELAG)を設立し社長となって「LZ10:シュヴァーベン」「LZ11:ヴィクトリア・ルイゼ」「LZ13:ハンザ」「LZ17:ザクセン」を建造し飛行船事業に見通しをつけた。エッケナー博士が広報担当役員としてこれに参加し4年間にわたって地方各都市の市長に精力的に広報活動を行った結果、ドイツ各地に飛行船格納庫が建設された。

 1909年にはケルンのビッケンドルフに長さ190m、幅40mの大格納庫、マンハイムに長さ137m、幅26m、メッツに長さ150m、幅40mの格納庫などが建設された。翌年にはバーデン・オース、ベルリン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ゴータ、ヨハニスタールなどに続々と飛行船格納庫の建設が続いた。

 長さが200mを越える格納庫が建設されるのは1914年のフリードリッヒスハーフェン第2格納庫からであり、世界大戦間近の1915年になると北部を中心にノルトホルツ、トンデルンをはじめとする軍事用格納庫の建設が多忙を極めた。

 1916年にベルリン・シュターケンに作られたツェッペリン新工場の格納庫では飛行船ばかりでなくツェッペリン社製の大型爆撃機の生産も開始された。

 1936年にフランクフルトに「LZ129:ヒンデンブルク」北米定期便のために建造された長さ275m、幅52mの大格納庫や、フリードリッヒスハーフェンの第5格納庫が建設されるまでにドイツ国内で建設された格納庫は大小あわせて約90棟に及び、このほかにアフリカ飛行の際に使われたブルガリアのヤンボリの格納庫、「LZ129:ヒンデンブルク」のためにブラジルのサンタクルスに建造された270mの格納庫などドイツ国外に建設されたものを含むと100棟に近くなる。

 ちなみに霞ヶ浦の海軍航空隊に移設された格納庫は1916年に建造されたユッターボック第2格納庫で、これを移設する際に追浜にあった横須賀航空隊は飛行機と併存するには狭すぎたのでこの機会に移転されたのである。
 秋本実著「日本飛行船物語」によれば起工式は大正11年9月4日に挙行された。関東大震災の大正12年9月1日には屋根のスレート葺きが行われていたが、昼食のため作業員が地上に降りた直後で転落事故はなかったという。


2007年09月03日

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(南独飛行船紀行:9) フリードリッヒスハーフェン(2)

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 フリードリッヒスハーフェンの見どころをウェブで調べてみると、ロールシャッハ産砂岩で出来たバロック様式のシュロスキルヒェ、高さ22mの突堤の展望台、それに奇跡的に爆撃を免れフリードリッヒ通りに立っているツェッペリン噴水が載っているが、何と言っても1930年代に建てられたツェッペリン博物館が一番の見どころである。

 市駅の前に立つゼーホテルにチェックインすると赤と白のマロニエが咲き誇っている湖岸の公園を抜けてツェッペリン博物館に向かった。ツェッペリン噴水の脇を通って数百m行くと、港の船着き場に沿ってオープンカフェテラスや土産物屋の軒先を行くと白亜の博物館が建っていた。

 フリードリッヒスハーフェンには鉄道の駅が2つある。宿舎の傍の市駅とツェッペリン博物館前の港駅である。フリードリッヒスハーフェンからは対岸のロマンスホルン(スイス)へ1時間ごとに連絡船が出ており、東はリンダウ経由オーストリアのブレゲンツ、西はメーアスブルク、ユーバーリンゲン、コンスタンツなどと結ばれているのでフリードリッヒスハーフェン市駅から引き込み線が敷かれており、ツェッペリン博物館は、その港駅正面に建っていた。

 3階建ての堂々とした白亜の建物で、一部6層の塔屋がある。この建物の1階、2階部分がツェッペリン関係硬式飛行船の博物館になっている。最上層の3階は中世から現代に至までのボーデン湖一帯の芸術作品を展示した美術館になっている。

 一階のエントランスの北は駅に、南は港に開かれており、西側に広いロッカールームや売店があり、東の入り口の上には霞ヶ浦やリオデジャネイロなど「グラーフ・ツェッペリン」が寄港した地名が三十数ヶ所アルファベット順に掲げられており、その下がゲートになっていた。

 早速入場する。入ったところは広い空間で中央に置かれたリムジンが小さく見える。前に回ってみると、マイバッハのツェッペリンであった。ウィルヘルム・マイバッハはダイムラー社の主任技師としてメルセデス第1号機を設計したのち、1909年にダイムラー社を辞め、息子カールと共にツェッペリン伯爵のためにマイバッハ・モーター社を設立し飛行船のエンジンを供給した男である。ここに設置されているセダンはグローサー・メルセデスに匹敵する超高級車マイバッハ・ツェッペリンである。マイバッハが居なければ後のダイムラー・ベンツはなかったと言われるほどの人物であった。

 この広間の壁には「ヒンデンブルク」の索を引いて着陸を支援する人達の大きな写真が貼られていた。1899年に伯爵がマンツェルに建設した水上格納庫の模型や、その当時使われた木製梯子の実機大模型も置かれている。そのほかケースに入ったその水上格納庫や、フランクフルトに建設された格納庫の縮尺模型、それに飛行船船首先端部材や浮揚ガス安全弁などが展示されていた。ここには「LZ-129:ヒンデンブルク」の実寸大部分模型への昇降階段が用意されていた。この広い空間は「ヒンデンブルク」の主船体の下だったのである。

 昇降階段を昇ると「ヒンデンブルク」のBデッキである。173リングから188リングまでの右舷側が実物と同じジュラルミン枠にキャンバスを張った構造で作られている。実物のBデッキにはキッチン、士官食堂、部員食堂、シャワー室、トイレット、バー、喫煙室などがあった。この模型ではその右側が再現されていた。

 そこからさらに階段を昇るとAデッキである。中心線側にツインキャビンが2列に作られ、その外側は広いラウンジ、さらにその外はプロムナードになり、広い展望窓から外が展望できる。壁紙もテーブルや椅子も実物に似せて作られていた。乗客用キャビンも覗いてみた。

 その隣の展示室を見ると、「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」のエンジンゴンドラの本体、「グラーフ・ツェッペリン」や「ヒンデンブルク」の接合されたガーダーやジョイントなど各種部品が展示してあった。要所々々には学芸員のような掛員が待機しており、自分から積極的に説明するわけではないが、質問すると待っていましたと言わんばかりに展示品や関連事項を詳しく説明してくれる。どこの展示場でもその説明に自信と誇りを持って展示場に待機していることがよく判った。

 2階の展示場には駅の方に突き出した展示部が2箇所あり、それぞれ軍用飛行船と旅客用飛行船の実物や模型、それに写真などの展示があり、この一画だけ撮影禁止の標識が表示されていた。
 また、このフロアには初期の飛行船から「ヒンデンブルク」の惨事まで動画や静止画で画像表示しているコーナーがあり、いつも殆ど満席の状態であった。

 この博物館の3階はこの地方の芸術協会の美術品の展示会場になっているそうであるが飛行船のことで頭が一杯になり、とてもそこまで回れなかった。

 階下に降りると、マンバッハモーターの後身であるMTUのディーゼルエンジンやツェッペリン社製建設機械などが展示されていたが、壁にはツェッペリン伯爵、アルフレッド・コルスマン、フーゴー・エッケナー、ルードヴィッヒ・デューア、カール・マイバッハ、クラウディウス・ドルニエなどツェッペリン企業グループに貢献した人々の彫像が掲げられ、それぞれに解説が記されていた。

 ゆっくり見ると幾ら時間があっても足りそうにない。閉館時間になったのでロッカーに預けていたものを取り出して退館した。


2007年09月04日

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(南独飛行船紀行:10) フリードリッヒスハーフェン(3)

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 フリードリッヒスハーフェンを訪れたのは、4月から5月に変わる時期であったが、初夏のようであった。日本の初夏のように湿度は高くなく、どの街にも赤や白のマロニエが咲いていて、一年で最もよい季節ではないかと思った。

 宿舎は駅前広場に面しており、そこに立つ大きなマロニエの木に赤と白の花が咲き誇っていた。その前のフリードリッヒ通りを横切ると湖畔の公園で正面はヨットハーバーである。フリードリッヒ通りを東に約百m行くとドイツ鉄道のガードがあり街の北側と連絡している。その丁字路にツェッペリン噴水が立っていた。戦前マルクト広場に立てられていたもので、ガイドブックに寄ればフリードリッヒスハーフェン・マンツェル家出身の彫刻家、トニー・シュナイダー・マンツェル教授の作品だそうである。小さな坊やが両手で飛行船を抱えてる姿が微笑ましい。この噴水は1944年の爆撃にも殆ど無傷で残ったという。

 この辺りから階段で湖畔公園に下りると爽やかな緑地公園が続いている。湖畔にはヨットハーバーなどのほか、突堤の先に立てられた高さ22mの展望台やドイツ・スイスの湖によく見られる湖面から高く吹き上げる噴水などがある。

 湖畔公園の東端には広場があり、カフェテラスなどで大人も子供もソフトクリームを食べている。本当にアイスクリームが好きな人達である。その東の通りにはセントニコラウス教会の塔が聳えている。ここが街の中心でラートハウスがある。もしかしたらツェッペリン噴水はここに設置されていたのかも知れない。ツェッペリン博物館や港駅はすぐ傍である。

 ツェッペリン博物館や連絡船乗り場を越えて少し東に行くと川沿いにキャンプサイトもあり、鉄道は飛行場に並行してウルムに行く本線から分かれてリンダウに続いている。自然に囲まれた良い街である。

 飛行船建造が盛んな時期はツェッペリン飛行船の従業員村が建設された。第一次大戦中8000人に達した従業員のうち、5000人がこのツェッペリン村の福祉施設を利用したといわれている。大ホール、食堂、文化施設から工業製品、農作物、酪農場、スーパーマーケット、煉瓦製造、屠殺場まであったという。今も街の北、飛行場の西にツェッペリンドルフという地名が残っておりヒンデンブルク通り、ルードヴィッヒ・デューア通りなど縁のある名前の通りがある。

 その南西に世界的に有名なトランスミッションとステアリングのZF社、マイバッハ社の後身であるディーゼルエンジンのMTUの工場が並んでおり、その西隣に市の中央墓地がある。両社の工場敷地に匹敵するほどの広い墓地であるがさらに西に拡張される様子である。

 ここに、エッケナー博士、カール・マイバッハ、ルードヴィッヒ・デューア、クラウディウス・ドルニエなどの墓碑と、1937年にレークハーストで爆発炎上した「ヒンデンブルク」犠牲者の慰霊碑がある。どのお墓も植え込みに草花がきれいに咲いていた。

 フリードリッヒスハーフェンからボーデン湖沿いにタクシーで西に走るとメーアルブルクの街に着く。ここには旧領主の館が2つある。アルテスシュロスは7世紀に建てられた砦の中を見学することが出来る。この旧城の前にウーバン氏のコレクションを展示したツェッペリン博物館があり、新城ノイエスシュロスの2階には飛行艇の写真や模型を展示したドルニエ博物館がある。

 フリードリッヒスハーフェンの新しい施設としてはツェッペリン飛行船格納庫に隣接したメッセ・フリードリッヒスハーフェンがある。10棟の大きなホールの展示面積は7万平方mで、450人収容出来る会議場もある。我々が訪ねたときは自動車チューニングの展示会が開かれていた。

2007年09月05日

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(飛行船の原理:1) 水上船舶との違い(1)

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 飛行船は誰にでも最も知り尽くされているようで、最も知られていない航空機である。ここで、何故空中に浮かんで居られるのか、逆立ちしたり横転することはないのかについて少し考えてみる。

 ロケットは液体か固体の燃料を燃焼させ、それを噴射させて引力に逆らって上昇してゆく。飛行機は大きな翼を持ち、エンジンでプロペラを回すかジェットエンジンの噴射によって前進し、空気と翼の相対速度によって揚力を生じ機体を浮揚させる。従って静止していては揚力が生じないので空中に浮いていることは出来ない。これを動的揚力という。

 これに対して水上の船舶は船体が水に浸かることによって排除した水の質量に見合う浮力で釣り合った状態で浮かんでいる。従って静止していても水に浮かんで居ることが出来る。これを静的浮力という。

 静的浮力については「アルキメデスの定理」としてよく知られている。真水の密度は3.98℃で 1.000g/立方cmであるが、空気の密度は気圧、温度によって変わり水銀柱760mm、5℃で 0.00127g/立方cmと真水のおよそ千分の一である。飛行船のガス嚢に空気より軽い気体を充填し、構造・エンジン・人間を含む搭載物を含む飛行船全体の質量が、飛行船の排除する空気より小さければ浮揚し、等しければ空中に静止する筈である。浮き上がるためにガス嚢に入れる気体を浮揚ガスというが、硬式飛行船の時代には主に水素ガスが用いられていた。水素は空気と混合すると 4〜75% の範囲で爆発するため現在は不活性ガスヘリウムが用いられている。熱気球もこれと同じ原理であるがガスバーナーで空気を熱し浮揚ガスとしており、バーナーの燃焼を調整しながら飛翔する。

 しかし飛行船ではこのような揚力調整は出来ず、微妙なバランスは気流・気温・気圧によって状態維持が困難であり、数万トンの載荷を積載しても揚荷しても多少喫水が変動するだけで安定して浮いている水上船舶とは根本的に異なるところである。

 基本的には飛行機は動的揚力で浮揚し、飛行船は静的揚力で浮揚するが、飛行船も動的揚力を使って操船される。「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」の場合、相対速度で時速115kmの場合、1度のトリムで2トン、2度の場合3.5トン、3度で4.5トンの動的浮力が期待されていた。

 現在、フリードリッヒスハーフェンで遊覧飛行を行っているツェッペリンNT07型では主船体両側に取り付けられている推進器は可変ピッチで上下にチルト出来るので、これで浮力の調整をすることも出来る。戦前の硬式飛行船ではアメリカ海軍の同型船「ZRS4:アクロン」、「ZRS5:メーコン」の推進器はチルト方式であった。

 飛行船は空中に浮揚するにも微妙なバランスが必要であるが、浮遊状態での姿勢制御も重要である。「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」が最初の訪米飛行で大きく傾斜し、朝食の準備が出来たテーブルをひっくり返すことがあった。空中あるいは水上に浮揚している物体の重心と浮心は常に鉛直線上にある。この関係が崩れればたちまち転倒してしまう。同船は44度、49度と傾斜したことがあり、アメリカに納入した「LZ126:ロサンゼルス(ZRⅢ)」はレークハーストで1927年8月に殆ど垂直になる85度に立ち上がってしまった写真が残されている。

 ベルリンオリンピック競技場に現れた「LZ129:ヒンデンブルク」は船首を下げて敬意を表したが、そのとき飛行船では手空きの乗組員が長さ245mの船内通路の後端から船首に向かって一斉に走っていたのである。

 これに較べると水上船舶は、千倍も密度の異なる流体の境界面に浮かんでいるので例え100トンのものが吊り上げられたり、船上で100m移動したとしても殆どトリムに影響はない。僅かに喫水やトリムが変わるだけで大きな浮力によるモーメントでこれを吸収してしまうからである。

 このように静止状態の水上船舶では当直は何か異常がなければすることがないが、飛行船では静止状態を維持するために一瞬の気の弛みも許されないのである。

 余談ながら、船舶工学を習い始めた頃、船尾に重いエンジンを載せた機関室があり、中央部の船倉が空でも船は殆ど傾かないのは何故だろうと思った記憶がある。水の浮力は鋼鉄の塊のような軍艦を浮かせることでも判るように強大なものである。

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