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(南独飛行船紀行:10) フリードリッヒスハーフェン(3)

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 フリードリッヒスハーフェンを訪れたのは、4月から5月に変わる時期であったが、初夏のようであった。日本の初夏のように湿度は高くなく、どの街にも赤や白のマロニエが咲いていて、一年で最もよい季節ではないかと思った。

 宿舎は駅前広場に面しており、そこに立つ大きなマロニエの木に赤と白の花が咲き誇っていた。その前のフリードリッヒ通りを横切ると湖畔の公園で正面はヨットハーバーである。フリードリッヒ通りを東に約百m行くとドイツ鉄道のガードがあり街の北側と連絡している。その丁字路にツェッペリン噴水が立っていた。戦前マルクト広場に立てられていたもので、ガイドブックに寄ればフリードリッヒスハーフェン・マンツェル家出身の彫刻家、トニー・シュナイダー・マンツェル教授の作品だそうである。小さな坊やが両手で飛行船を抱えてる姿が微笑ましい。この噴水は1944年の爆撃にも殆ど無傷で残ったという。

 この辺りから階段で湖畔公園に下りると爽やかな緑地公園が続いている。湖畔にはヨットハーバーなどのほか、突堤の先に立てられた高さ22mの展望台やドイツ・スイスの湖によく見られる湖面から高く吹き上げる噴水などがある。

 湖畔公園の東端には広場があり、カフェテラスなどで大人も子供もソフトクリームを食べている。本当にアイスクリームが好きな人達である。その東の通りにはセントニコラウス教会の塔が聳えている。ここが街の中心でラートハウスがある。もしかしたらツェッペリン噴水はここに設置されていたのかも知れない。ツェッペリン博物館や港駅はすぐ傍である。

 ツェッペリン博物館や連絡船乗り場を越えて少し東に行くと川沿いにキャンプサイトもあり、鉄道は飛行場に並行してウルムに行く本線から分かれてリンダウに続いている。自然に囲まれた良い街である。

 飛行船建造が盛んな時期はツェッペリン飛行船の従業員村が建設された。第一次大戦中8000人に達した従業員のうち、5000人がこのツェッペリン村の福祉施設を利用したといわれている。大ホール、食堂、文化施設から工業製品、農作物、酪農場、スーパーマーケット、煉瓦製造、屠殺場まであったという。今も街の北、飛行場の西にツェッペリンドルフという地名が残っておりヒンデンブルク通り、ルードヴィッヒ・デューア通りなど縁のある名前の通りがある。

 その南西に世界的に有名なトランスミッションとステアリングのZF社、マイバッハ社の後身であるディーゼルエンジンのMTUの工場が並んでおり、その西隣に市の中央墓地がある。両社の工場敷地に匹敵するほどの広い墓地であるがさらに西に拡張される様子である。

 ここに、エッケナー博士、カール・マイバッハ、ルードヴィッヒ・デューア、クラウディウス・ドルニエなどの墓碑と、1937年にレークハーストで爆発炎上した「ヒンデンブルク」犠牲者の慰霊碑がある。どのお墓も植え込みに草花がきれいに咲いていた。

 フリードリッヒスハーフェンからボーデン湖沿いにタクシーで西に走るとメーアルブルクの街に着く。ここには旧領主の館が2つある。アルテスシュロスは7世紀に建てられた砦の中を見学することが出来る。この旧城の前にウーバン氏のコレクションを展示したツェッペリン博物館があり、新城ノイエスシュロスの2階には飛行艇の写真や模型を展示したドルニエ博物館がある。

 フリードリッヒスハーフェンの新しい施設としてはツェッペリン飛行船格納庫に隣接したメッセ・フリードリッヒスハーフェンがある。10棟の大きなホールの展示面積は7万平方mで、450人収容出来る会議場もある。我々が訪ねたときは自動車チューニングの展示会が開かれていた。

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2007年09月04日 14:28に投稿されたエントリーのページです。

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