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2011年06月 アーカイブ

2011年06月01日

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淡水和平公園、一滴水記念館

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淡水、油車口に和平公園がある。

ここに日本家屋があることは知っていたが、昨日 淡水鎮(現:新北市淡水区)の発行した小冊子を読んで、多くの人の熱意と協力があって移設されたことを改めて知った。

1995年に神戸でマグニチュード7.2の大地震があり、1999年に台湾南投中部地区でマグニチュード7.3の大地震が発生した。
神戸地区のボランティアが自分たちの経験を生かして支援しようと行動を起こした。
この事業に協力したいと福井県から申し出があり、古い民家が2004年に解体された。

その日本家屋を台湾に移設したいと希望があり、解体した部材を台湾に送ったが再建する土地が決まらず木材も傷み始めた頃、やっと淡水の和平公園に移築することが決まり棟梁など多くの日本人と更に多数の台湾のボランティアの努力で再構築されたものである。

この淡水世界和平公園に、関係者の努力で戦没者の慰霊碑が建設されることになっている。

2011年06月02日

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冊子「淡水和平公園の歴史的背景」

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淡水郊外のかつて淡水神社が鎮座していた油車口に淡水和平公園が整備され、移築された「一滴水記念館」のそばに記念碑の建造も計画されている。

このほど、その和平公園の背景となる淡水の歴史を綴った冊子の原稿を見せて貰うことが出来た。
第一部:戦時下の淡水(5章)
第二部:淡水の生活(8章)
それに5編の付録などからなるA4、174ページの大作である。

第一部ではスペイン時代、オランダ時代、清仏(法)戰争、日清戦争、大東亜戦争などの戦況やその終焉のほか戰争の犠牲となった民間人、戦時中の淡水人の味わった苦しみなどが数十ページにわたって詳述されている。

第二部では平埔族など原住民の時代から、戦前・戦後の今日までの淡水住民の生活や教育などが具体的に記述されている。

淡水和平公園に建設する記念碑のデザイン案に対する意見を聞くためにスペイン、オランダ、フランスとともに送られた交流協会への招待状が何かの手違いで届かなかった。
このため、台湾で精力的に執筆活動を展開しているK氏にお願いしたところ、ご多忙中にもかかわらず連絡をとって戴いた。

淡水世界和平公園の完成したしたときは是非、寄せて貰おうとその日を楽しみにしている。


2011年06月03日

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LCさんのお姉さんとKGさんのお母さん

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1937年に撮影された淡水の幼稚園の写真である。

カリフォルニアのLCさんのお姉さんと横浜のKGさんのお母さんが保母として写っている。

このブログで一昨年知り合ったLCさんが送ってくれたものである。

昨年同じご縁で知り合ったKGさんは、お母さんがLCさんのお姉さんと同じ幼稚園に勤めていたとは知らなかったそうだ。
LCさんも当時、園児であったそうである。

それにしても背景の大きな煉瓦建ては何処だろう?
キリスト教長老派の教会であろうか?

2011年06月04日

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広大な名門幼稚園の園庭

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昨日、淡水幼稚園の写真を載せてこんな立派な幼稚園がどこにあったのだろうと書いたら、早速LCさんがメールで教えてくれた。

当時 小公園とか三角公園とか言っていたロータリーには、いまマッカイ博士の頭像が立っている。
そこから建設街を少し行ったところにあったそうである。

とても広くて、矢野サーカスが公演に来たときに、その幼稚園の庭を借りて興行したと言うから驚きである。

LCさんは、その幼稚園を撤去して淡水老街のバイパスとなる中山路が貫通したのだと教えてくれた。

その広い幼稚園の敷地を利用出来たから都市計画が実行に移せたのであろう。

少し小高くなっているので観音山、長老派キリスト教会を望む素晴らしい眺めである。

芸術家たちが競って描いたポイントであったことがよく判る。
公会堂は向かって右側になるのであろう。

知らなかったことを教えてくれる同郷人は有難い。
また知らなかったことを教えて貰った。


2011年06月05日

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世界文化遺産候補

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淡水の街が世界文化遺産の候補になっていることを知った。

自然遺産候補である台北市の「大屯山の陽明山地熱」や花蓮縣の「太魯閣渓谷」、嘉義市の「阿里山森林鉄路」などとともに世界遺産候補(自然遺産候補:5件、文化遺産候補:5件、複合遺産候補:2件)になっているそうである。

淡水は戦前、台湾八景のひとつに挙げられていた。

いま油車口の淡水和平公園は「淡水世界和平公園」にするために関係者が鋭意努力中である。
太魯閣(自然遺産)や阿里山鉄路(複合遺産)などと登録されることを願うものである。

2011年06月06日

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淡水・中山路

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LCさんが戦前の航空写真と、淡水幼稚園近くの写真二葉を送ってくれた。

航空写真には赤ペンや赤のマーカーで細かく説明用の線が書き込まれ、枠外にはびっしりと説明が加えられている。

煉瓦建ての淡水幼稚園は、現在 新生街と呼ばれる地域にあったようだ。

公会堂の建っていたところは図書館・公民館などの入っている鎮立文化センターになっているが、その辺りから重建街までの一帯が新生街と呼ばれているらしい。

戦前は油車口から来た道が、英国領事館から少し龍目井に寄った漁船の船溜まりのあたりで分岐して緩い坂道となり公会堂の前を巻くように曲がっていた。

淡水街の迂回路としてこの道から清水街の山の手にかけて中山路が整備されたようだ。

そのとき淡水幼稚園や木材を積み上げていた杉塊庭が新しい中山路として利用されてという。
淡水駅の近くには施合発、老義発などがあり、木材業は淡水の主要産業であった。

航空写真の枠外には淡水幼稚園の建物や運動場まで描いた見取り図が添えられていた。

これで公学校から公会堂までの当時の様子をうかがうことが出来る。

太平洋の彼方から当時の事物を教えて貰えることは非常に有り難い。

これもインターネットの大きな恩恵だと感謝している。

電子メールには、幼稚園のまわりの様子とその傍を下る牛車の写真がも添付されていた。淡水河の対岸に観音山を望む、芸術家でなくても写生したくなるような絶好のポイントである。

ちなみにLCさんに教えて貰ったところによると、公学校の東側には公設の食肉解体処理場があったという。
片倉佳史氏の著書「台湾に生きている『日本』」によれば、そこには大きな自然石の畜魂碑が立っており今でも月に二度、関係者により家畜たちの供養祭がとりおこなわれているそうである。

2011年06月07日

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淡水で有名な写生ポイント

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淡水幼稚園は小公園から緩やかな坂道を上ったところにあり、そこから長老派のキリスト教会と淡水河対岸の観音山の眺めは素晴らしい。

LCさんが送ってくれた絵は李永沱氏の作品だそうである。

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このとき一緒に送って貰った、この写真は同じポイントから撮ったものであるが牛車が時代を感じさせる。

木下源重郎(静涯)画伯もインド旅行の途中、病気になった友人に付き添って台湾で下船してこの地が気に入って居を構え家族を呼び寄せたという。

木下画伯の家は左上の丘にあり素晴らしい眺望だったと思われる。

画伯は我々家族と同じ時期(19446年3月)に九州に引き揚げている。

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この写真で右の石垣の上に幼稚園があり、絵描きさんは左の木陰で写生していたという。

2011年06月08日

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淡水旧公設食肉加工場の畜魂碑

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淡水区水源街一段三十一号にいまも畜魂碑が立っている。

場所はMRT「淡水」の駅から英専路を進んだ先である。
淡江大學のグランドの下で、淡水国小との間にある。
グーグルの地図には淡水鎮農會超市(農協のスーパーマーケット)と記入されている。

以前、ここには食肉解体処理場があったそうである。
台湾総督府民政長官 後藤新平は衛生管理の観点から私設の食肉解体処理を禁じ、そこに公設の食肉加工場を設けた。ここもその一つであった。
そして家畜の霊を慰める石碑が建てられた。

淡水の食肉加工場は戦後も継続されていたが、処理場は郊外に移転し跡地は農會(農協)に譲渡されスーパーマーケットが建てられた。

しかし敷地の隅のこの石碑は残された。

周囲には段ボールやビールケースが雑然と積まれて忘れられたような碑だったそうである。
しかし、日本時代の遺跡を調査している片倉佳史氏が台湾の読者から教えられてここを訪ねたとき、通りがかった店員から忘れ去られたわけでないことを知ったという。

いまでも月に二度、関係者が集まって慰霊の祈祷が行われているという。
淡水にも萬善堂がある。
台湾を愛した司馬遼太郎は「萬善堂を拝したかったのは台湾の心に接したかったからです」と台湾紀行取材を案内した老台北(蔡焜燦氏)に記したという。
この畜魂碑の例も、萬善堂と同じように台湾の人の優しさの表れであろう。

別のブログでプロ級の写真家 蔡坤煌醫師が淡水国小付近から大屯山を撮った写真を載せたときLCさんからここのことは教えて貰ったが未だに祈祷が行われているとは驚きであった。
畜魂碑は淡水のほかに、台北、北投、嘉義、台南などに残されているという。

2011年06月09日

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洋式のボートは中央に乗って後ろ向きに座って櫂を漕ぐ。

日本の和船は船尾に立って横向きで艪を漕ぐ。

は船尾に立って艪を漕ぐ。

櫂は船端に支点のあるものをオール、支点がなく腕で漕ぐものをパドルというが、英語圏には艪の概念はない(ベニスのゴンドラは艪で漕いでいるが・・・)。

櫂は、その先端で水面を後に押し反動でボートを前進させるので後まで押し切ったあとは水面から上げてボートの前方に戻して水面をとらえる。

艪はその先端を水中に浸けたまま移動させ、飛行機の翼や汽船の舵のように水との相対速度によって得られた揚力で船体を推進させる。
調査しても文献によっては「原理はよく判らない」などというものもある。

淡水でに乗って中洲に渡ったときのことを思い出した。

文字で説明するより図で示す方が判りやすいが、最近では淡水にも香港にも手漕ぎのはない。

どこかに手漕ぎのに乗せて貰えるところがあれば良いのだが・・・。

(10日追記:
写真を見ていると、手前のは左を水面から持ち上げている。
艪ではなく、櫂なのだろうか?)


2011年06月10日

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1995年3月の紅毛城前

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上の写真は1995年3月に49年ぶりに淡水を訪れたときに撮影した紅毛城入り口の写真である。

いまは、このあたりもすっきり整備され歩道も街路灯も設置されて写真正面に真理大學大礼拝堂の前で新婚さんが写真撮影をすることもあるが、当時は樹が生い茂り、進入禁止や工事用標識が見える。

バイクやスクーターに4人乗りは珍しくない。

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戦争末期から引き揚げまで紅毛城の向かいに住んでいた。
未就学の頃でもあり、生け垣を潜って英国領事館の庭に入った記憶がある。
その場所には住居が建っていた。

現在はこの一帯も塀で囲われている。

2011年06月11日

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2006年、大晦日の紅毛城前

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それから10年後の2006年の大晦日に再訪したときの同じ場所である。

道路は舗装され、真理大學に上る坂道には大礼拝堂も建設されている。

右手の家には中山路から入れる車庫があり、裏口もあったが塀が築き直され、繁った樹に覆われてしまっている。

この頃には河岸側には喫茶店やレストラン、土産物屋やコンビニエンスストアなどが営業していた。


2011年06月12日

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2006年、大晦日の淡水駅前

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この写真も2006年12月31日の淡水駅前である。

英専路であろうか?

淡水は大晦日から正月にはとても賑やかになる。

環河道路などは家族連れでいっぱいになり、子供はソフトクリームや垂れのついた串を食べながら歩くので、多少汚れても構わない服装で出かけるのが良い。

この日も台北からMRTで到着したときに、自動券売機の行列に並んで帰りの切符を買ってから街歩きに出掛けた。

いまは悠遊(イージーカード)を持っていれば切符を買わなくて済むので便利である。


2011年06月13日

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手書きのメモ

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書斎の手箱を整理していたら丁寧に手書きされたメモ用紙が出てきた。

基隆、台北、北投、淡水と大屯山まわりが丁寧に手書きされている。
観音山も富貴角灯台も書き込まれている。

桃園の空港や宜蘭、羅東、蘇澳や烏來蛮社の文字も見えるが、基隆・台北・淡水との位置関係を示したものに違いない。
基隆川、淡水川が青鉛筆で描かれ、故宮博物館、円山大飯店も書き込まれている。

わざわざ書いて貰ったものに相違ないが何時、誰に貰ったものか覚えていない。
きっと私が淡水に行くと知って書いてくれたものであろう。

そうであれば、Y女子大学のM教授が描いてくれたものであろう。
台湾の資料を貰ったが、そこに添付されていたものであろう。

ありがとうございました。

2011年06月14日

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滬尾旧砲台で丁寧に案内して貰った

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2009年3月に淡水を訪問したときに、博物館の学芸員と思われる人に丁寧に案内して貰った。

そのあと、公会堂は何処に建っていたのですかと質問した私達を連れて博物館員の事務所に案内し、どこかに電話で問い合わせて呉れた。

案内地図など資料も貰い、鎮立図書館となっていた公会堂の跡地を訪ね、幼い日微かに覚えていた馬偕旧居に下る坂道を確認することが出来た。

それまで何度も行ったが、この辺りであろうと類推の域を出なかったものが確認できて嬉しかった。

帰国後、臺北縣立淡水古蹟博物館に電子メールを送り、お礼を述べるとともに案内してくれた人の名を訪ねたがそのままになっている。

いまも感謝の気持ちでいっぱいである。

2011年06月15日

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電子メール

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台湾を 訪いし友より メールあり
蓬莱島は 極暑なりきと

       (詠み人知らず)


2011年06月16日

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淡水・中正路(中山路の分岐近く)

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この写真は淡水駅前で、竹囲の方から来た中正路が中山路と分岐するところである。

2011年9月29日にボストンの博士が 淡水鎮公所(当時)、三角公園(小公園)、淡水国小、三芝国小に案内してくれ、海鮮料理で有名な海風餐庁で夕食をご馳走になり、そこからまた台北まで送って貰ったときに撮った一齣である。

最初は場所も路名も判らなかったが、グーグル・ストリートで何度も見ているうちに少しずつ判るようになってきた。

4月5日のブログでは中山路と中正路を間違えて載せたらLCさんに間違いを教えて貰った。

それにしても、戦前に較べると大きな街になったものである。

2011年06月17日

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2年前の淡水街長旧居

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淡水鎮立図書館から、戦前の淡水街長旧宅を見た写真である。
図書館の併設されている淡水の文化センターのあった場所に公会堂が建っていた。

淡水街長であった中原氏の住居は、そこから近かった。

戦後、淡水老街のバイパスとして新しく中山路が建設されたので、現在は文化センターから陸橋が架けられている。

写真中央の陸橋の下に見える石垣が旧街長の住居であった。

この写真は2009年3月に撮影したものであるが、鬱蒼と繁っていた榕樹は剪定されて景色が変わったようである(5月28日のブログに比較掲載)。

眼下には淡水河、その向こうには観音山を望む眺めの良いところであったに違いない。

時折飛来する川西式大型飛行艇は、この辺りから見下ろせる水面に繋留されていた。

2011年06月18日

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1940年の端午の節句

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私が生まれた年の端午の節句には資生堂の広瀬さんや公学校の松田校長などから武者人形や鯉幟を貰った。
祖母からも、佐賀の本家からも祝って貰ったそうである。

それで、若い者がご飯を食べていた表側の部屋に鎧甲や武者人形を飾ったときの写真である。

父は小栗兄弟に手伝って貰って、高台にあった公会堂に鯉のぼりや吹き流しを掲げる柱を立てたという。

その穴に埋めたのか、父は眼鏡を無くしたと言っていた。

そのとき父は28歳、母は23歳であった。


2011年06月19日

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東港の管制塔跡

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片倉佳史氏の『台湾に生きている「日本」』を見ていたら口絵のカラー写真にこの写真が載っていた。

写真を見ても気にとめなかったが「(大鵬湾)屏東県の東港水上飛行場の管制塔はカフェとなって残っている」という2行足らずの説明文に驚いた。

東港と言えば飛行艇や水上機の基地として内地の横浜や詫間のような飛行艇の基地であった。

本文を何度読み返しても関連する記事は見つからなかった。

片倉氏には、つい先日淡水世界和平公園の件で助力を依頼したところご多忙中にもかかわらず対応して貰ったばかりである。
いつか、機会を見つけて東港の様子など教えて貰いたいと思っている。

嘱託で淡水公会堂の管理人をやっていた祖母は幼い私の編上靴を飛行艇の艇長に頼んで買ってくれたが、サイズが合わず香港だかシンガポールだかに取り替えに行って貰ったと笑っていたことがある。

淡水にはときどき、南洋からの帰途や内地から要人を乗せて川西の飛行艇が来ていたが、艇長や来賓は公会堂に宿泊していた。

2011年06月20日

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大日本航空の川西大型飛行艇

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1940(昭和15)年11月22〜27日、横浜を離水した川西式大型飛行艇「綾波:艇体付字J-BFOZ)」はサイパン・パラオ・淡水・横浜間9237キロメートルを飛行時間37時間12分で飛翔した。

これはその前年、横浜からサイパン・パラオに定期運航されていた大日本航空の南洋線を延長し淡水まで定期運航を延長し、将来的にはサイゴン、バンコックまで運航することを意図したものであった。

間もなく開戦となったため、残念ながら定期便が就航することはなかった。

従って淡水に飛来していたのは海軍の輸送飛行艇であった。

南洋線は1941(昭和16)年11月25日にパラオから赤道を越えてポルトガル領チモールまで延長されたが、その2週間後に大東亜戦争が勃発したため、1往復で終わってしまった。

大日本航空の川西式大型飛行艇には「黒潮」、「綾波」、「磯波」、「白雲」などの艇名が付けられていた。

大日本航空で使用されていた川西式4発飛行艇は18艇とされているが、民間航空の付字で登録されていたものは23艇あったとする説もある。

客室定員は10名で、座席は角度調整が出来るほか寝室には両舷に2段の折り畳み寝台があり、貨物室、化粧室のほか調理室もあったという。


2011年06月21日

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臺北第二高等女学校であった建物

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臺北には第一から第四高等女学校まであった。

臺北第二高等女学校は戦後、廃校となったが当時の建物は立法院の庁舎として使用されているという。

場所は中山南路一段の監察院と濟南教会の間であるという。

臺北第一高等女学校は台北市立第一女子高級中学(台北市中正区重慶南路一段165号)となっている。

ちなみに臺北第三高等女学校は台湾省立台北第二女子中学から台北市立中山女子高級中学になり、臺北第四高等女学校は看護学校に転換され、国立台北護理学院となった。

写真は臺北第二高等女学校の校舎を活用した立法院である。


2011年06月22日

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臺北第二高等女学校は空襲で炎上して廃校になった

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ウェブで調べてみても臺北第一高等女学校や三高女についての記事はあるが、臺北第二高等女学校については殆ど記載がない。

調べて見ると度重なる台北空襲で専売公社などとともに焼失して廃校になったということが判った。

焼け残った校舎は台湾の国会にあたる立法院の建物として使われているらしい。
議事堂ではないがその庁舎の一部に使われているそうである。

我々も1944年10月12日に淡水で空襲を受けたが、その日を含めて3日間連続の空襲であった。
おそらく台北の街が主目標の一つであったのであろう。

台北の空襲による被害は甚大であった。
沢山の非戦闘員が犠牲になった。

臺北第二高等女学校も、その犠牲になったのである。

2011年06月23日

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数字譜

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数字譜という楽譜がある。

父の世代の人はハモニカが上手だった。
自分で主旋律も伴奏も含めて演奏していたものである。
以前、萩に観光に行ったときにバスに乗って案内してくれたガイドさんもハモニカを上手に吹いていた。

どうも、そのハモニカや大正琴の譜は数字譜だったらしい。
いまでも、台湾や中国、モンゴルなどでは数字譜が用いられている。
馬頭琴も二胡の譜も数字譜である。

2〜3年前、淡水に行ったときに馬偕博士の頭像のある小公園に陶笛屋さんがあった。
戦前は龍目井と呼ばれていたところである。

そこにはいろいろな形の陶笛があったが水牛の形のものを買って帰った。
そのとき小さなガイドブックが付いていたが、それには基本的な音階の練習から洋の東西を問わず40曲ほどの数字譜が付いていた。
「キラキラ星」、「レッドリバーバレー」、「ロンドン橋」、「荒城の月」などから映画タイタニックのテーマ曲まで、様々な曲である。

上に載せたのは「カプリ島」である。


2011年06月24日

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淡水大事記

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新北市淡水区の区役所のウェブページに「淡水大事記」というページがある。

明鄭時代、清領時代、日據時期、民国時期を全部プリントすると15ページにも及ぶ淡水の詳細な歴史である。

台湾が日本に併合された翌年の1896(明治29)年に行われた人口調査で淡水の人口は6344人であったと記されている。

現在の人口が約20万と言われているから、百十年あまりの間に30倍になったと言うことである。

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終戦で淡水に住んでいた日本人も、住まいも食糧もない内地に引き揚げた。
淡水から引き揚げた人はどのくらい居たのだろう?

友人たちとインドに旅行して帰りの船で病気になった友人に付き添って台湾に上陸し、淡水の地が気に入って家族を呼び寄せて暮らした木下静涯画伯も、我々と一緒に総督府の広間で藁の上に寝たりして何処に上陸するかも判らない引き揚げ船で九州に帰った。

引き揚げて帰った人達の生活は大変であったが、30年ほどしてこの街から引き揚げた人達によって「淡水会」が出来た。

今年の淡水会には是非出席したいと思う。


2011年06月25日

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環河道路へ抜ける道

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淡水車站から区公所の前を通って中正路を行くと右(山手の方)へ三民街が通じているロータリーがある。
いまはマッカイ博士の頭像があることで良く知られている。

以前は、この辺りの地名は龍目井と言い、このロータリーを小公園とか三角公園と言っていた。

写真はそこから環河道路へ抜ける道である。
右のシャッターの降りている店は陶笛屋さんである。

二歳下の妹が生まれたときにこの近く(写真の右外)に住んでいた。
最近、ボストンの博士の生まれた興亜医院の斜め向かいであったことが判った。

面白いのはこの狭い道にバイクが通れるようにスロープが設けてあることである。
歩行者だけなら2〜3段のステップで済むが、ここではどんな狭い道でも人を2、3人乗せたりプロパンガスのボンベを3、4個積んだバイクが幅を利かせている。
老街だろうと市場だろうと遊歩道だろうとお構いなしに走り回っている。

さすがに自動車は進入禁止の標識が見える。
台湾では自動車を登録するときに車庫証明は不要なので街には許容限度(?)を越えた車が溢れている。
この標識は必要なのであろう。

この路地を通ると環河道路である。


2011年06月26日

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三協成餅舗のパンフレット

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淡水、中正路の区公所に隣接して月餅など台湾伝統のお菓子の店がある(中正路81號)。

ここは1935年創業という老舗である。
近くに三協成博物館もある。登峰魚丸博物館もここもまだ見学したことはない。

そこにはA3サイズのパンフレットが用意されており、三協成の創業以来の歴史や製品の紹介のほか、滬尾偕醫館、淡水礼拝堂、環河道路に設置されている彫刻など藝術作品についても写真入りで紹介している。

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その中に「小白宮」の説明があったが、カラー写真を含む7駒の写真を載せたA3版2枚にドイツ語で解説されている。

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小白宮は清朝時代の税関司令の官邸であったこと、そしてこの税関はイギリス人が税務官としていたこと、高雄や基隆が開港されるとここが総税関とし機能していたこと、1867年に税務官ホブソンが白い洋風の建物を建てたこと、日本の施政により税務官ロバート・ハートの私有資産であったことがわかり強引に接収したことなどが記されている。

その後、淡水港の貿易額減少により基隆税関の支所に格下げとなり、迎賓館や淡江中学の学生寮になっていたが建物は荒廃しお化け屋敷と呼ばれるようになった。

廃棄が決定されたが、有志や学者の奔走で1997年2月に3級古蹟として保存され、今日に至っているという。

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現状は整備され、淡水区の観光ポイントの一つとなっている。

ちなみに「小白宮」とは「小さなホワイトハウス」という意味である。

2011年06月27日

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校名の変遷

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このブログを見たとコメントを貰った。

その人のお祖父さんが淡水国民学校卒業生で、よく当時の先生のことを聞いたという。

滬尾日語傳習所ができたのは始政式翌年の1896年で、このときに設立されたのは滬尾のほか台北、基隆、新竹、宜蘭、彰化(台中)、鹿港、苗栗、雲林、台南、嘉義、鳳山、恒春、媽宮城(澎湖島)の計14箇所であった。

2年後に滬尾公学校となり、1912(大正元)年に淡水公学校と改名された。

1924(大正13)年には現在、文化国小のある地に淡水女子公学校が分離された。

1941(昭和16)年4月には淡水東国民学校と改名された。

1946(昭和21)年に淡水国民学校と改称され、1952年に男女共学となった。

1958年には淡水国民小學と改められ、
1990年に創設90週年記念誌が発行された。

上掲の写真はその記念誌に掲載されていた1944年当時の写真である。
前列中央は松田常己校長、後列左から2人目は廣川研一である。
当時の職名は訓導であった。


2011年06月28日

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今年の淡水会は何処だろう

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昨年の淡水会は東京で開かれた。

一昨年は愛媛県松山で行われたという。

未だ案内が来ないところを見ると秋になるような気がする。

今年は何処で開催されるのであろうか?
九州を希望する声もあったという。

連絡が来たら横浜のKGさんにも声を掛け、ボストンの博士にもカリフォルニアのLCさんにも、昨年訪台したときにアドレスを教えて貰った方々にも報告するつもりである。

2011年06月29日

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三芝国民学校

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父、廣川研一は1937(昭和12)年9月30日で判任文官に任官され、淡水公学校の訓導となった。
1941(昭和16)年4月1日付けで「淡水東国民学校」と校名が変更になり、1943(昭和18)年3月25日で三芝国民学校訓導に補せられた。

三芝国民学校は1911年に老梅公学校の小基隆分校として設立され、翌年小基隆公学校として独立し、老梅公学校はその分校となった。
その翌年には北新庄分校もできた。
1921年には老梅分校も北新庄分校も公学校として独立した。
1941年には三芝国民学校と校名を改めている。

1944(昭和19)年5月5日に三芝国民学校の教頭に補せられ、同年6月12日に応召し、台湾歩兵第四部隊(蓬19702部隊)に配属になった。
1945年に終戦となり、召集解除となり部隊は9月1日に現地解散となった。
この間、1944年9月30日には給六級俸、1945年9月30日には給五級俸とある。

いつまで給与を貰っていたのかと思っていたら、昨年発行された三芝国民小學百年誌の巻末に歴任教職員名簿が添付されていた。
それによると、父は1943年3月31日に赴任し、1945年12月31日に離職したことになっている。
赴任日付けが数日異なるが百年誌に掲載されているだけでなく謄本が創立百年を記念して新設された文物館に収められていたのには驚いた。

前線に行っている間も家族に給与が支給され、応召解除になったあとも年末まで支給されていたことになる。

その後は淡水の海運会社の倉庫番や引っ越しの手伝いなど賃仕事をしていたらしい。

写真は現在の三芝国小である。


2011年06月30日

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滬尾砲台のスタンプ

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台湾の観光地にはいまでもスタンプの置いてあるところが多い。

滬尾砲台にも何ヶ所かにスタンプとスタンプ台が用意してあった。

上のスタンプは有名な砲台の正門である。

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これは、その砲台に設置されていた加農砲や臼砲である。

ところが、下のスタンプは何を表しているのか判らない。

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この辺りで繁る樹といえば榕樹(ガジュマル)を思い浮かべるが、描かれている樹は枝の付き方も違うような気がするし、第一 榕樹の特徴とも言える気根がない。

誰か判る人が居れば教えて欲しいところである。

このスタンプは2006年の年末から翌年年始に同地を訪ねたときの記念である。


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