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淡水から広島までの一千浬(17)

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未だ建具も来ていない吹きさらしで、祖母が下の妹を負ぶっていた記憶があるから、熊毛郡の親戚に身を寄せていたのを呼び寄せたのであろう。

私は幟町小学校の3年生になった。
3年竹組の担任は渡辺菊子先生というちょっと怖い先生であった。
先生は小学校の近くの建設省太田川工事事務所の官舎に住んでいた。
この辺りで年次と記憶のずれがある。
竹組に編入になったのは4年生だと思っていたが、持ち上がりで4年になったのであろう。

当時、幟町小学校は流川教会の近くの校地に木造のバラック建てであった。

その頃、もう少し北の広島女学院(中高部)寄りの新しい校地に木造2階建ての校舎を建築中で、学童が自分の机を持って運んだ。

この年、あまり強くないのに身体に無理を重ねて父は肺結核となった。
母は、何かに縋りたかったのであろう。近くにあった天理教の布教所を経て、皆実町の白光分教会の信者となった。
もともと、祖母の嫁いだ原田家は神官であったらしいが、天理教の湖恩分教会を勤めて居たらしく、淡水在住のころは無沙汰していたが、浜崎で守浜分教会(当時は布教所?)を訪ねたこともある。

恭子は基町に引っ越して、ここで幟町小学校に入学した。
学校から比治山に花見に行って母と撮った写真がある。

この頃、上下水道の事業者や配管工の制度が整備されつつあり、父は広島市の第1回試験で配管工に合格した。

国家資格として配管工が技能検定の対象になった10年以上後のことである。
のちに給水工事主任技術者の認定を受けた際、広島市が配管工資格の返納を求めたことがあった。

ともあれ、1949(昭和24)年は、引き揚げて以来久しぶりに正規の住居を得た年であった。

この頃、小学校では1組、2組・・という組名を付けず、各校毎に組の名前を付けていた。幟町小学校では、松組、竹組、梅組と名付けていたが、戦後のベビーブームで学童数が増え、私の学級では櫻組までの4組があった。
それからも学童数は増え続けた。
校歌の歌詞も「一千余人もろともに・・・」と言う部分が「二千余人もろともに・・・」と改訂され、その後、藤、桐など、まるで花札のような組名が追加された。

4年竹組に田口秀樹というクラスメートが居た。
市営住宅の551号であったが、彼の父は絵描きのようで広くない住居をアトリエにしてイーゼルを立てていた。
当時の住所録を見ると基町北区551となっていたが、組替えで同じ組になった森武夫は第五基町461となっている。同じ列びの市営住宅であった。
無論、不法建築に住む学童も居た。これも住所録には基町相生区1などとなっていた。いい加減なものであった。

竹組で同じ組であったのは上記の田口のほか、笠間卓治、滝川雄壮、金子秀生、田中収、児玉信之、山本泰子、板谷冨美子、魚浜洋子などの名前を憶えている。
このうち滝川雄壮は後年、気象庁長官になった。

上掲の写真は入居した広島市営南鯉城住宅19号の玄関で妹と撮った写真である。
二人とも、足には下駄を履いている。
私が3、4年生で、妹はここで幟町小学校に入学した。

玄関脇には柊が植えてあったが、いま植えたばかりのような若木であった。

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2012年01月21日 14:17に投稿されたエントリーのページです。

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