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淡水から広島までの一千浬(18)

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1950(昭和25)年4月、5年生になるときに組替えがあり、このときは転校生の挨拶をしなくて済んだ。
担任は小川武男という若いスポーツマンであった。
校庭が狭いのでグラウンドに対角線に百メートルコースを作って短距離の練習をしていた。

男27名、女34名であったが、男女比は4組とも似たようなものであった。

クラスメートは大体憶えている(男子は全員、女子は9割程度)。

広島は城下町であり、幟町のほか鉄砲町、蟹屋町、台屋町などの町名があったが男子6名、女子6名と基町勢が多かった。

クラスメートの寺本弘太は、修道中学校にも一緒に入学して同じ1組になったので長いつきあいになった。薬問屋の一人息子であった。

このほか、校長の息子や商店主の子弟や、双子の兄弟などが居たが、京橋川を渡って広島駅近くの大須賀町から通ってくる学友が居た。

彼は小児麻痺の後遺症で手足が少し不自由であった。
彼の通学路に架かる栄橋には三篠橋や相生橋と同様に爆撃で路面に穴が開いていた。
無論、防護用に柵は設けられていたが、彼は1人でこの橋を渡るのを怖がった。
それで毎日、栄橋を渡るまで彼をエスコートし、それから来た道を家路についた。
彼とは休憩時間もよく話した。当時未だTVはなかったが、ラジオの番組の話しなどをすると楽しそうによく話した。
彼の父か祖父は海軍軍人だったらしく旧海軍のアルバムを学校に持ってきて見せてくれたことがある。
彼の母親は、友達として付き合っていることを大層感謝していたようであったが、家には呼ばないように言っていたという。
彼の家のあったところは、ほかの地方都市と同じく駅の周辺であまり風紀のよい処とは言えなかったからである。

ここに掲げた写真は、卒業アルバムのために撮ったものであるが、男子27名のうち、彼を除く26名が写っている。
今でもこの写真を見ると往時のことが思い出される。

クラスメートの住んでいる地域は、東は広島駅周辺から、西は基町の太田河畔まで、北は白島から南は当時百メートル道路と呼ばれていた平和大通りの向こうまで、旧市街と言って良い程広がっていた。


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2012年01月22日 12:21に投稿されたエントリーのページです。

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