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淡水から広島までの一千浬(22)

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龍目井で生まれた妹、恭子は基町に入居した1949(昭和24)年に幟町小学校に入学した。

この写真は4年生のときにクラスメートと校庭で撮ったものである。

世の中は、少しずつ落ち着いてきてはいたが、依然として主食の米は米穀通帳がなければ買えない配給制度が続いていた。

我が家も終戦以来、身体に無理を重ねて働いていた父が肺結核になった。
当時、ストレプトマイシンやパスなどの抗生物質が実用化されてはいたが、未だ若い人が結核に罹り、亡くなっていた時期である。
市営住宅で隣に住み、助け合って生きてきた奥さんも幼い3人の子供を残して結核で亡くなっている。
そのころ、結核になるとせめて滋養のあるものを食べさせて・・という状況であった。

父が倒れると、子供達を食べさせるために母も働いた。
洋裁や内職をやったりしていたが、淡水時代の縁で広島タクシーの車庫に働きに行っていた時期がある。
当時のタクシーは木炭自動車であった。
自動車に木炭を焚く窯を搭載し、細かく砕いた木炭を燃やして得たガスでエンジンを駆動するのである。
ガソリンに較べて力は出なかったがなんとか動いた。
しかし、始動時には窯に火をつけてからエンジンが掛かるまで時間を要した。
母は粉塵のなかでマスクで顔を覆って炭割をしてくれたのである。
最近、レトロブームで国内に幾つか木炭自動車があるという。
この近くでは西岩国で走っている動画を見たこともある。
ビュイックの木炭自動車もあったそうであるが、木炭のパトカーで逃走車を追跡できるのか疑問を感じる。

そんな中で、父は1949(昭和24)年、広島市の実施した第1回配管工試験に1級合格した。
父は前年辞めた水道工事店に呼び戻されて復職していた。

そんな中で、当時名門と言われていた広島大学付属中学校と私立の修道中学校を受験した。

修道中学の試験問題集を買ってくれたのを憶えている。
そのほか、教科書以外で買って貰ったものに少年朝日年鑑があった。
いま、古書を検索してみると昭和26(1951)年版が何冊かある様である。

広大の附属には小学校もあり、中学になるときは1クラス程度の人員しか採用しない。
中学の入試では入学定員の倍程度を筆記試験で選び、その中から抽選で入学者を決めていた。
この抽選に外れたとき母は大層残念がっていたという。

当初、基町の市営住宅から原爆スラムと呼ばれる不法建築群を抜け、相生橋から路面電車で御幸橋まで通学していたが、しばらくして中古の自転車を買って貰って、近くにあった母子寮の寮長の一人息子と、本通りの衣料品店の息子と3人で自転車通学を始めた。


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2012年01月25日 10:20に投稿されたエントリーのページです。

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