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2011年11月 アーカイブ

2011年11月01日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(App1:「海防艦」とは)

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日本海軍において、海防艦という艦種は1898(明治31)年に制定された。

当時の海防艦とは、戦艦や装甲巡洋艦など主力艦の艦齢が経過すると海防艦に編入され、主力艦隊から鎮守府に移籍されるなどしていたので立派な軍艦であった。

練習艦隊に加わり世界一周した海防艦もいる。

連合艦隊の戦列艦であった戦艦「富士」も1912(大正元)年に一等海防艦になった。
日露戦争でバルト海から長駆回航してきた第二東洋艦隊(バルチック艦隊)に圧勝したときの旗艦「三笠」も、日清戦争で鹵獲され、二等戦艦になっていた清朝甲鐵砲塔艦「鎮遠」も一等海防艦になった。
日露戦争で鹵獲された「壱岐(旧インペラトール・ニコライ一世」)も二等戦艦から海防艦になり、同じく「石見(旧アリヨール)」、「周防(旧ポビエダ)」、「相模(ペレスウェート)」、「丹後(旧ポルタワ)」なども同様である。

しかるに1942(昭和17)年7月1日の類別変更により「海防艦」の定義が全く変わってしまった。

昭和12年以降に新造された小型護衛用艦艇を「海防艦」と改めたのである。

当然ながらその「海防艦」は軍艦ではない。
軍艦とは、戦艦、航空母艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、水上機母艦、敷設艦、潜水母艦、飛行艇母艦、それに揚子江などに配備される河用砲艦など、艦首に菊の紋章をつけた艦艇で、これらの指揮官は艦長と呼ばれていた。
駆逐艦や潜水艦も後期には基準排水量2千トンを越えるものもあったが、これらの指揮官は駆逐艦長、潜水艦長と呼ばれて艦長と区別され、艦隊の停泊する泊地で「艦長集合」によって旗艦に集合するのは駆逐艦3〜4隻で編成された駆逐隊司令、潜水艦3〜4隻で編成された潜水隊司令であった。
すなわち、駆逐艦、潜水艦は3、4隻で軍艦扱いであった。
なお、ここでこれらよりずっと小さな河用砲艦が軍艦に類別されているのは外地に在泊する軍艦は国土の延長と見なされ、治外法権を獲得することが出来るからであった。
従ってこれら砲艦の艦長は大佐あるいは中佐が務めていた。

以降、海防艦とは1942年の類別変更後のものを指すことにする。

海防艦は戦時急造に備えた設計であったが幾つかの艦型に分類される。

Shumushu_1.jpg

[甲型(基本計画番号E15:設計三菱)]占守(同型艦4隻)
「占守(賠償ソ)」、「国後(解体)」、「石垣(戦没)」、「八丈(解体)」
基準排水量:860トン
全長:77.72メートル
速力:19.7ノット
航続距離:8000海里(16ノット)

Etorofu_1.jpg

[甲型(基本計画番号E19)]択捉(同型艦14隻)
「択捉(賠償米)」、「松和(戦没)」、「佐渡(戦没)」、「隠岐(賠償華)」、「六連(戦没)」、「壱岐(戦没)」、「対馬(賠償華)」、「若宮(戦没)」、「平戸(戦没)」、「福江(賠償英)」、「天草(戦没)」、「満珠(解体)」、「干珠(自沈)」、「笠戸(解体)」
基準排水量:870トン
全長:77.70メートル
速力:19.7ノット
航続距離:8000海里(16ノット)

Mikura_1.jpg

[甲型(基本計画番号E20)]御蔵(同型艦8隻)
「御蔵(戦没)」、「三宅(解体)」、「淡路(戦没)」、「能美(戦没)」、「倉橋(賠償英解体)」、「屋代(賠償華)」、「千振(戦没)」、「草垣(戦没)」
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
速力:19.5ノット
航続距離:5000海里(16ノット)

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[乙型→甲型(基本計画番号E20b)]日振(同型艦9隻)
「日振(戦没)」、「大東(触雷沈没)」、「昭南(戦没)」、「久米(戦没)」、「生名(海保「おじか」)」、「崎戸(解体)」、「目斗(触雷沈没)」、「四阪(賠償華)」、「波太(賠償英)」、「大津(解体)」、「友知(解体)」
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
速力:19.5ノット
航続距離:5000海里(16ノット)

[乙型(基本計画番号E20b]鵜来(同型艦20隻)
「鵜来(海保「さつま」)」、「沖縄(解体)、「奄美(賠償英)」、「粟国(解体?)」、「新南(海保「つがる」)」、「屋久(戦没)」、「竹生(海保「あつみ)」、「神津(賠償ソ)」、「保高(賠償米解体)」、「伊唐(解体)」、「生野(賠償ソ)」、「稲木(戦没)」、「羽節(賠償米)」、「男鹿(戦没)」、「金輪(賠償英解体)」、「宇久(賠償米解体)」、「高根(解体)」、「久賀(解体)」、「志賀(海保「こじま」)」、「伊王(解体)」、「蔚美(解体)」、「室津(解体)」
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
速力:19.5ノット
航続距離:5000海里(16ノット)

CDS17_1.jpg

[丙型(基本計画番号E21b]第1号海防艦(56隻)
「第1号(戦没:漂流者に機銃掃射、生存者なし)」、「第3号(戦没)」、「第5号(戦没」、「第7号(戦没)」、「第9号(戦没)」、「第11号(戦没)」、「第13号(第47号海防艦の漂流者を救助活動中米潜に撃沈さる)」、「第15号(戦没)」、「第17号(戦没)」、「第19号(戦没)」、「第21号(戦没)」、「第23号(戦没)、「第25号(戦没)」、「第27号(賠償英)」、「第29号(解体)」、「第31号(戦没)」、「第33号(戦没)」、「第35号(戦没)」、「第37号(賠償米解体)」、「第39号(戦没)」、「第41号(戦没)」、「第43号(戦没)」、「第45号(擱座)」、「第47号(戦没)」、「第51号(戦没)」、「第53号(戦没)」、「第55号(賠償英)」、「第57号(解体。船体は宇部防波堤)」、「第59号(復員輸送艦、触雷沈没)」、「第61号(触雷大破)」、「第63号(触雷座礁)」、「第65号(戦没)」、「第67号(賠償華)」、「第69号(戦没)」、「第71号(賠償ソ)」、「第73号(戦没)」、「第75号(除籍)」、「第77号(賠償ソ)」、「第79号(賠償ソ)」、「第81号(賠償華)」、「第83号(未成)」、「第85号(賠償華)」、「第87号(賠償華)」、「第89号(未成)」、「第95号(終戦時横須賀で中破状態)」、「第97号(解体)」、「第105号(賠償ソ)」、「第107号(賠償華)」、「第205号(賠償華)」、「第207号(賠償米)」、「第213号(戦後触雷)」、「第215号(賠償華)」、「第217号(賠償英解体)」、「第219号(戦没)」、「第221号(賠償ソ)」、「第223号(未成)」、「第225号(解体)」、「第227号(賠償ソ)」
基準排水量:745トン
全長:67.5メートル
速力:16.5ノット
航続距離6500海里(14ノット)

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[丁型(基本計画番号E22)]第2号海防艦(67隻)
「第2号(舞鶴で終戦)」、「第4号(戦没)」、「第6号(戦没)」、「第8号(賠償米)」、「第10号(戦没)」、「第12号(賠償米解体)」、「第14号(賠償華)」、「第16号(賠償英)」、「第18号(戦没)」、「第20号(戦没)」、「第22号(賠償米)」、「第24号(戦没)」、「第26号(賠償米解体)」、「第28号(戦没)」、「第30号(戦没)」、「第32号(賠償英)」、「第34号(賠償ソ)」、「第36号(賠償米解体)」、「第38号(戦没)」、「第40号(賠償華)」、「第42号(戦没)」、「第44号(賠償米解体)」、「第46号(戦後触雷沈没)」、「第48号(賠償ソ)」、「第50号(終戦時大阪で船尾切断状態)」、「第52号(賠償ソ)」、「第54号(戦没)」、「第56号(戦没)」、「第58号(賠償米解体)」、「第60号(賠償英)」、「第62号(沈没解体)」、「第64号(戦没)」、「第66号(戦没)」、「第68号(戦没)」、「第72号(戦没)」、「第74号(戦没)」、「第76号(賠償ソ)」、「第78号(賠償ソ)」、「第82号(戦没)」、「第84号(戦没)」、「第102号(賠償ソ)」、「第104号(賠償華)」、「第106号(賠償米)」、「第112号(戦没)」、「第116号(擱座除籍)」、「第118号(賠償華)」、「第124号(終戦時触雷、解体)」、「第126号(賠償英)」、「第130号(戦没)」、「第132号(戦後復員輸送)」、「第134号(戦没)」、「第138号(戦没)」、「第142号(賠償ソ)」、「第144号(戦没)」、「第150号(賠償米)」、「第154号(賠償英解体)」、「第156号(賠償英解体)」、「第158号(賠償米解体)」、「第160号(賠償英解体)」、「第186号(戦没)」、「第190号(終戦時大阪中破)」、「第192号(賠償華)」、「第194号(賠償華)」、「第196号(賠償ソ)」、「第198号(賠償華)」、「第200号(中破解体)」、「第202号(触雷解体)」、「第204号(終戦時中破状態、解体)」
基準排水量:740トン
全長:69.5メートル
速力:17.5ノット
航続距離4500海里(14ノット)
計画乗員141名


写真を較べると、艦首のカーブも省略され、簡素化が進んでいった様子が判る。
木造漁船を作っていた地方の造船所まで動員されたのである。

次回は、これら海防艦に便乗者を乗せるために、困難な状況下で如何に改造したかを示す予定である。
准士官以上16名、兵員84名程度で、4百人を越える便乗者を乗せて航走したのである。


2011年11月02日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(2:丙型海防艦の輸送施設)

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海防艦のような小型艦艇でなぜ引き揚げをと訝る向きがあるかもしれない。

内地も外地も、終戦直後はひどい状態であった。

至るところが焼き尽くされて焼け野が原になり、雨露をしのぐところもなく、無論、食い物もない状態である。

海上では海軍の艦艇よりも商船のほうが被害が大きかった。

大東亜戦争で亡くなった軍人軍属は、海軍47万3800人(死亡率16%)、陸軍164万7200人(死亡率23%)と言われるが、海運・水産業の船員は6万人という。
推定死亡率で43%に達するという。

開戦前、世界第3位の保有船舶を擁していた商船の88%にあたる2500隻以上が沈没し、漁船や機帆船の喪失は4000隻を越える。

どんな小さな艦艇でも雑船でも航洋性のあるものは陸海軍の復員と民間人の引き揚げに動員された。

金属が払底し、木製の戦闘機が作られており、艦艇も商船も鋼製ではなく、木製やコンクリート製の船体が実際に造られていた。

そんな状態で、残存船艇を入渠させ、改造して輸送艦としたのである。

平時でも改造船は、設計も工作も困難が多い。よほどのことがなければ新たに建造する方がずっと易しい。
そんな中で、よく中小造船所や船渠が頑張ってくれたと思う。

艦艇や軍用機の武装解除や撤収、近海に敷設された機雷(我が国も近海の港湾や水道を敵潜から防御するために多くの各種機雷を敷設したが、米軍は大陸や南方からの物資の流通を阻止する、いわゆる飢餓作戦のために20000個以上のパラシュート付き機雷をばらまいていた。

このため基隆から内地に向けての引き揚げ船は1週間も迂回して航行しなくてはならなかった。

本来の掃海艇や掃海艦のほか、海防艦も改造し掃海任務に従事した。

瀬戸内海でも、いまだに沈設機雷の発見されることがあるが、これら掃海艇による水路啓開業務は運輸省水路部、海上保安庁設置後は同省水路部、海上自衛隊掃海隊群に引き継がれている。

最低限の水路が確保されると、これら残存艦艇には輸送艦施設が設けられ、復員、引き揚げ業務に従事した。

海防艦丙型の実施要領を紹介する。

兵装を撤去したので、砲術、水雷、機銃などを担当する乗員数は半減する(主として航海科と機関科のみで運航可)。
このために空いた乗員区画では足りないので、前後部弾薬室や水測室、爆雷庫を便乗者室とする。
兵装を撤去すると重量が余り、重心が過大に下降するので後檣以降の甲板上にデッキハウスを設け、便乗者区画とする。
准士官以上の乗員数も減りベッドが余るのでこれを利用するほか、士官寝室のベッドも出来るだけ増設した。
多数の便乗者のために固有の調理室に隣接して機械室上の上甲板(煙突直前)に別の調理室を追設し、便所は上甲板最後部の両舷に仮設した。

このようにして収容人数は次の通りとなった。

[固有乗員室]
艦長室・予備室(旧司令用)、士官寝室:16人(准士官以上)
第1兵員室(上甲板前部):14人
第2兵員室(中甲板、前檣下方):34人
第3兵員室(中甲板、後檣下方):26人
第3兵員室(船艙、旧後部弾薬庫):10人(兵員84名)

[便乗者用区画]
第1船室(上甲板後部):93人
第2船室(中甲板、前部士官室下方):70人
第3船室(中甲板、旧兵員室後部、第1船室下方):78人
第4船室(中甲板、旧兵員室後部、第1船室下方):48人
第5船室(船艙、旧前部弾薬庫):58人
第6船室(船艙、旧水測関係区画):40人
第7船室(船艙、旧爆雷庫):56人(便乗者合計443人)

かくして、排水量約800トンの小艦で一行動毎に400〜500名の便乗者を収容することが出来た。
海防艦としての定員は、准士官以上9(実際は9〜14)、下士官31(実際は32〜39)、兵117(実際は164〜196)であった。

なお、復員行動は台湾、中北支を主としていたので航続力を減じ、重油タンクの一部を廃止して船室を広くとり、真水、糧食は兵器関係倉庫をあてて増載した。

私達の乗船したのは丁型の海防艦34号であったが、丙型と類似の構造であった。

基隆を出港してから、父がハッチから後部露天甲板を覗かせてくれ、夕闇迫る基隆港を港外から眺めた記憶がある。

船室の中には木材で四周に棚が造られていたが、上下のスペースが狭く、その上で座ることも出来なかった。

おそらく、船尾部の爆雷庫のあとであったのであろう。

父の話では、出港してから乗務員に聞いても、どこに入港するのか知らなかったようである。

二晩揺られたあと、鹿児島湾に入り、鹿児島市街地の桟橋に着いた。
おそらく桜島との連絡船乗り場であったのであろう。

我々は近くの天保山小学校に移動して、その日の中に国鉄で博多駅経由浜崎まで帰ることが出来たが、しばらくここに留め置かれた人も居たようである。

ただ、現在調べて見ると鹿児島市に天保山中学校はあるが、同学区の小学校は八幡小学校である(改名も記されていない)。
天保山中学校であったのかもしれない。


2011年11月03日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(3:中華民国に移籍された艦艇)

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艦艇の賠償に関して、当初の連合軍の意向は、保管中の艦艇約150隻を整備して、引き渡し発令後20日以内に必ず行動可能な状態にすることにあった。

一時仮設したデッキハウスなどは大部分を撤去し、つまり完成状態から兵装のみを撤去した状態にして船体・機関・艤装等を良好に保つことになった。

行動の目標は、一応マニラまで自力で航行しうる点においた。
整備は "Good Material Condition" とすることを要求され、次のように具体的に指定された。

1.揚錨装置を良好にすること。
2.揚艇装置を良好にすること。
3.発電機は計画力量の3分の2以上を保持すること。
4.主機械は巡航速度を出し得ること。
5.無線装置は、送信機は長、短各1台、または兼用のもの1台。受信機も同様。

保管船は各指定港(横須賀・佐世保・舞鶴)にあって、それぞれ艦種・艦型によって保管群が編成された。

米国・英国・中華民国・ソ連、4ヵ国の代表者は引渡艦船を視察し、抽選により引渡先が決定された。

中華民国とソ連は配分された全艦艇を最も喜んで受けたのに反し、米英両軍は実際にこのような艦艇で、その海軍力を増強する必要は全くなかった。
両国に引き渡された艦艇は、そのまま日本で解体されたものも数多い。

ここでは中華民国に配分された艦艇の中国名を示す。

[駆逐艦]
「波風」→「瀋陽」
「雪風」→「丹陽」
「宵月」→「汾陽」
「初梅」→「信陽」
「楓」 →「衡陽」
「杉」 →「恵陽」
「蔦」 →「華陽」
[海防艦]
「隠岐」→「長白」
「対馬」→「臨安」
「四阪」→「恵安」
「屋代」→「正安」
「14」→「済南」
「40」→「成安」
「67」→「営口」
「81」→「黄安」
「85」→「新安」
「104」→「泰安」
「107」→「潮安」
「118」→「長沙」
「192」→「同安」
「194」→「威海」
「198」→「吉安」
「205」→「長安」
「215」→「遼海」
[輸送艦]
「16」→「武夷」
「172」→「廬山」
[敷設艇及敷特]
「済州」→「永靖」
「黒島」→「?」
[掃海艇及掃特]
「14」→「掃雷201」
「19」→「掃雷202」
「22」→「掃雷203」
[駆潜艇]
「9」 →「?」
「49」→「?」
[特務艦]
「白崎」→「武陵」


見出しの写真は「宵月」である。


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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(App2:WEYER'S FLOTTENTASCHENBUCH 1960)

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ここに、ヴァイヤー(西ドイツ)のポケット版海軍年鑑(1960年)がある。

同書では、アルバニア、アルゼンチン、エチオピア、ベルギー、ブラジル、ビルマ、カンボジア、チリ、コロンビア、英国連邦、キューバ、デンマーク、ドイツ(東/西)、ドミニカ、エクアドル、フィンランド、フランス、ラオス、ギリシャ、グァテマラ、インドネシア、ハイチ、イラク、イラン、アイルランド、アイスランド、イスラエル、イタリア、日本、ユーゴースラビア、朝鮮(南/北)、メキシコ、オランダ、レバノン、リベリア、ノルウェー、パラグアイ、ペルー、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スェーデン、スイス、スペイン、タイ、チェコスロバキア、トルコ、チュニジア、ハンガリー、ウルグアイ、アメリカ合衆国、ソ連、ベネズエラ、アラブ連合、ベトナムとともに中国の艦艇が掲載されているが、一国の記載のなかで国民政府側と中共側に書き分けられている。

中国の艦艇には、アメリカから供与された駆逐艦なども僅かに含まれるが、大部分は旧日本海軍の艦艇を戦時賠償により取得したものである。
中には旧日本海軍の同型海防艦が国共両側に分かれているものもある。

中国は戦後に、国民政府軍と中国共産党軍が勢力争いを続けた結果、今日の状況になったことはこれらの史実からも明らかである。

当時、台湾は日本の一部であり、NHKの言うような日台戦争など存在しなかったし、中国共産党軍と日本が宣戦布告を交わした事実もない。


2011年11月04日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(App3:WEYER'S FLOTTENTASCHENBUCH 1960)

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艦艇の欲しかったのはソ連の極東艦隊も同様であった。

詳細は省くが、このページにも「春月」、「響」、「初桜」、「榧」などが掲載されている。

ソ連は日本の劣勢なるを見ると、1945(昭和20)年8月8日に、不可侵条約を反古にして一方的に日本に宣戦布告を行った。

そして、その翌日の9時前に日本海で食糧などの運送に当たっていた大阪商船の「めるぼるん丸」はイリューシン爆撃機の来襲をうけた。

当直の乗組員は、まさかその前日に対日宣戦したソ連から直ぐ攻撃を受けるとは思わず、友軍機と思って眺めていたという。

2等運転士など3名が戦死したが、そのうちの一人は負傷して羅津満鉄病院に入院していてソ連機の機銃掃射で戦死したものである。

そして戦勝国として、戦時賠償船艇を、米英華と等分に譲渡されたのである。

ソ連への賠償船艇は、日本側の運航ですべてナホトカに回航された。

2011年11月05日

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父のこと

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父はスポーツが大好きであった。

水泳も得意であった。

TVでも、野球、サッカー、柔道/剣道などを好んで見ていた。
当時、中国新聞社福山支社前を出発点に、八丁堀の本社前をゴールとする中国駅伝にはゴールに近い稲荷橋の傍にある同業者の店先に行って見るファンであった。

教師をしていた頃は朝礼台で漕艇体操などの指導をしていたし、学校対抗のスポーツ大会には選手で出ていた。

応召してからも銃剣術(木銃を持ち、剣道の胴や面をつけて戦う格闘技)大会にも選手で出来た話していた。

だから子供心に「父さんはスポーツマンなのだ」と思っており、小学校の運動会で徒競走に勝てないと申し訳ない気がしたものである。

しかし、実は 父は若い頃からあまり健康には恵まれていなかったことを知った。

1932(昭和7)年に徴兵検査を受けたときに心臓弁膜症のために丙種合格となっている。父が20歳で佐賀県東松浦郡横田尋常小学校訓導をしていたときのことである。

1944(昭和19)年6月12日、に32歳で応召し、台南の部隊に入営した。その数ヶ月後(11月)にマラリアに罹病し、腎臓結石を併発して野営病院で入院していた。
マラリアは引き揚げて帰ったあとも何度も発作に襲われて苦しんだらしい。

引き揚げのときは母が熱を出し、荷車を借りて集合していた総督府から貨物列車まで母を載せていったと言う。

引き揚げのときに持ち帰ることを許されたものは、大人も子供も自分で持って移動できるものに限られていたので、当時の苦労が偲ばれる。

引き揚げて来て、住居もなく食糧もない状態で毎日、筋肉労働を続けていた無理がたたり、やっと市営住宅に入居出来た1949(昭和24)年4月に肺結核になった(37歳)。
今でこそ、ストレプトマイシンやパスなど抗生物質で治る病気であるが、このような薬が一般に使われるようになるまで、肺結核は不治の病であった。
その市営住宅の隣には満州から引き揚げて来た若い夫婦が住んでいたが、若い奥さんが小学生から未就学の男女児3人を残して肺結核で亡くなっている。

父は仕事中に自転車に乗っていて路面電車にはねられて鎖骨を折る大怪我をしている。

そんな苦労を重ねながら家族を養い、我々を育ててくれたことに今更ながら感謝している。


2011年11月06日

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台湾で最初に敷設された鉄道と台北駅

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台湾に最初に鉄道が敷設されたとき、台北駅は淡水河の傍で折り返し駅であった。

基隆へ行くのも、新竹に行くのも台北駅から東に向いて出発し、基隆へはそのまま、新竹方面に行くには途中で分岐して淡水河を渡っていたという。

ちょうど、四国の高松駅のようではなかったかと思う。
(高松は鉄道連絡線、宇野・高松線の接続駅として建設され、鉄路は予讃線も高徳線も西に向いて発車する)

後に清国統治時代のこの軌条は廃止され、やや東に台鐵の台北駅が建設された。

その正面の道路が表町通りと呼ばれ、その正面に博物館があり、有名な台北鉄道ホテルもこの通りに面していた。

現在の駅舎は更に東に寄っている。
台北駅の近くで鉄道は地下に敷設され、MRTもそこから接続している。

台鐵時代の淡水線は、現在のMRT淡水線とほぼ同じ経路を走っていた。

挿絵は片倉佳史氏の「台湾鉄路と日本人」から複写した。

2011年11月07日

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二胡練習再開準備

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二胡の練習を再開するために、弓を買ってきた。

二胡の弓は古くなると馬毛が切れて使えなくなる。
消耗品扱いらしい。

街に出たので、二胡音楽院に寄ってみたらちょうど先生が教室でピアノと音合わせをしていた。

2、3本較べて使い勝手の良さそうな弓を買ってきた。

写真は一緒に買ってきた松脂である。
オーストリア産らしいが透明でとてもきめ細やかと薦められたものである。

2011年11月08日

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二胡の数字譜例

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数字譜は、スイス生まれの哲学者であり、政治/教育思想家であり、作家で作曲者でもあったジャン・ジャック・ルソーが考案した記譜法である。

五線譜と較べて五線紙など専用の用紙を必要としないが、他の文字譜と同様、和音や合奏や合唱などの場合の多声部音楽の表記には向かない。

日本では明治時代から昭和初期までは五線譜よりも普及していたという。
ハーモニカや大正琴などではいまでも多用されている。
中国へは西欧から直接、あるいは日本を経由して伝わったとされるが、今日でも多く用いられている。

例に挙げた「蘇州夜曲」は服部良一が戦前、蘇州を訪れたときの印象を描写したものという。

2011年11月09日

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小型チューナー

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二胡のレッスンを始めるために少しずつ準備をしている。

これは小型のチューナーである。

KORGの製品であるが、本体の長さ55ミリ、幅13ミリと弱音器よりも小さいので見失ってしまいそうである。

予備の弦も一組あるのを確認した。

2011年11月10日

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中華民国海軍旗艦「丹陽」となった駆逐艦「雪風」

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「雪風」は、藤本喜久雄海軍技術大佐(当時)が設計し、世界を驚かせた特型駆逐艦「吹雪」型(24隻)、のあと「初春」型、「白露」型、「朝潮」型を経て完成された「陽炎」型駆逐艦の第8番艦として1940(昭和15年1月に佐世保工廠で竣工した。
本艦は第16駆逐隊、のちに第17駆逐隊に所属し、16回以上の主要な作戦に参加しながら、朝潮型、陽炎型、夕雲型等50隻のなかで、ほとんど無傷のままで唯一終戦まで残った幸運艦であり、奇跡の駆逐艦と呼ばれた。
終戦後の1946(昭和21)年12月30日、「雪風」は特別保管艦に指定され、戦時賠償艦として連合国に引き渡されることになった。乗組員は最後まで入念に整備を行い連合国側から「敗戦国の艦艇で、かくも見事に整備された艦を見たことがない。まさに驚異である」と感嘆されたという。
1947(昭和22)年7月3日、「雪風」は上海に到着し、7月6日に中華民国に引き渡されて「丹陽」と改名され、中華民国海軍旗艦となった。引渡時に武装は撤去されていたが、一番砲塔には89式12.7センチ連想高角砲、2番、3番砲塔には98式10センチ高角砲などが装備されたらしい。
国共内戦で上海から基隆に渡台したが、蒋介石総統の乗艦になったと言われている。幾度かの実戦に参加し、中華人民共和国海軍の巡洋艦2隻と交戦し、1隻を撃沈、1隻撃破したという。
1965年12月16日に退役し、1966年11月16日付けで除籍され、1971年末までに解体された。
1971年12月8日、中華民国政府から舵輪と錨が返還され、舵輪は江田島の教育参考館に、錨はその庭に展示されている(スクリューは左営の海軍軍官学校に展示されている)。

2011年11月11日

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二胡と胡弓

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まれに二胡のことを胡弓と呼ぶ人がいる。

しかし、胡弓は二胡とは全く違う。

むしろ三味線に近い。

弦の数も、弓も二胡とはまるで別物である。

胡弓は、「おわら風の盆」で踊り手と一緒に夜の明けるまで町を流すことで知られている。越中おわら節の調べの流れる富山県の八尾町は、9月1日から3日の間に25万人の観光客が押し寄せるという。

小学生の頃、神楽の楽団のなかに胡弓があることは知っていた。

しかし、リズムもメロディもなく、やたらキコキコとやっている物だと思っていた。

あの悲哀溢れるメロディを奏でることの出来る楽器であると知ったのは随分後のことである。


2011年11月12日

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基隆を発った日

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様式第12号「在外事実・引揚事実等に関する証明書」なる紙片が2枚ある。

一枚は「証明の対象たる引揚者」が父の名前であり、もう一枚は母のものである。

これによると、母は1923(大正12)年12月7日に渡台し、父は1937(昭和12)年3月27日に渡台したと記されている。

海防艦で基隆を出港した日はいずれも1946(昭和21)年3月21日、鹿児島港に上陸した日は3月23日となっている。
別の小さなメモ用紙には
「1946(昭和21)年3月17日 引揚命令により、台湾総督府に集結
            3月19日 基隆港に集結
            3月21日 基隆出発
            3月23日 鹿児島上陸  」
とあるので信憑性は高い。

しかし、引揚者在外事実調査票と父の字でメモした控えによれば「海防艦34号で鹿児島港に3月25日」に上陸したと書かれたものが残っている。

「在外事実・引揚事実等に関する証明書」の「証明者の申立事項」という欄に小野操さんと思われる記述がある。
『昭和10年3月、結婚のために台湾に渡る(1935(昭和10)年3月10日)下関発「蓬莱丸」。当時、主人小野範男は淡水郡役所に勤務していた。同家とは、主人は個人的に、またスポーツ関係等で親交があった。また夫人の実家とは特に親しかった。渡台し、淡水街に居住を始めて以来、近所にあって親類同様のつきあいをしていた。その後、主人の転勤、疎開と離れたがずっと往来、文通あり。昭和21年4月8日、リバティ船で引揚。』
とあり
『上記の証明事項を証明することの出来ると思われる者』の項には両親が新婚時間借りしていた黒川さんの娘、高橋清子さん名が挙がっている。

2日ほど日程に違いがあるが、当時の状況が察せられる。

3月19日に有蓋貨車で基隆に行き、標掲写真の建屋の影の引き込み線で疲れ果てた引揚者がレールを枕に横になっていたことは憶えている。

貨物上屋で2泊したのであろうがそれは憶えていないが、子供心に仮設便所の下に波が寄せていて不安を感じた。


2011年11月13日

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坂の町、淡水

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淡水は河岸に沿った街である。

場所によっては丘が河岸まで迫っているところもある。

公会堂もそんな高台にあり、前には細くて急な坂道が馬偕博士の旧居の前を通って河岸の道路に連絡していた。

紅毛城の前も坂道になっているが、現在は途中ですこし湾曲し、拡幅舗装されているので自動車も通れるが、その近くには民家の軒下から石段や急な細い坂道のままのところも多い。

引き揚げて何十年かして、久しぶりに淡水に行ったときは既に公会堂の跡地は整備されていたので何処か判らなかった。

しかし、河岸道路から急にせり上がった高台に上る細い坂道や石段を見たときに、直感的に懐かしさを感じた。

戦後の都市計画ですっかり戦前の面影を失ったところもあるが、ちょっと路地に入れば昔のままの淡水がそこにある。

名もない細道が当時を偲ばせることがある。


2011年11月14日

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油車口の高台

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淡水の街外れ、油車口には1939年に淡水神社が鎮座したが、そのあとは忠烈祠となっている。

榕樹や楠が繁っていて良い日陰を作ってる。

その横には和平公園が造成され、川向こうには優美な観音山が望める。

私が訪れたときも、木陰で写生をする人がいた。

もう少し先に行くと旧砲台もあり、有名な台湾ゴルフ場もある。

散策には良いところである。

2011年11月15日

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施乾像

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淡水国小の駐車場入り口に施乾氏の像があったことを別のウェブページで見つけた。

施乾は淡水国民学校の卒業生で、台湾総督府に勤めていたが、萬華地区で貧民生活の惨状を見て救済施設、愛愛寮を建て救済事業に献身した。

京都出身の清水照子と結婚したが、大戦末期の1944年に高血圧で亡くなった。

照子夫人は終戦を迎えて帰国か滞在かで悩んだが、寮と収容者を放置することが出来ず、施設に留まり事業維持にあたった。

現在も創設者、施乾の仁愛と愛護の精神は今日も受け継がれているという。

台湾を訪れた菊池寛が、愛愛寮のことを聞き、施氏の著書を内地で紹介したことから、その功績が認められ宮内省を通じて恩賞を受けている。

施氏のことは淡水国小の90週年記念誌にも紹介されており、知ってはいたがその頭像が校地にあるとは知らなかった。

記念誌には、李登輝、許丙、杜聡明、周炳銘などの各氏とともに紹介されている。


2011年11月16日

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淡水郵便局と飛行艇

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淡水の河岸道路の先端近くにスターバックスの店がある。

ここは淡水の郵便局(裏口)であった。

「台北ナビ」に「マカイ先生を訪ねて、淡水へ」(http://www.taipeinavi.com/special/5001946)というページがある。

その一角に上掲の写真とともに
『隣には、スタバと郵便局。日本時代、実はこの目の前の淡水河は、飛行艇が着水する場所で、日本と台湾を行き来する郵便物が飛行艇で届けられ、このスターバックスの後ろの郵便局を介して、台湾各地に届けられて行ったんだとか。』
と紹介されていた。

ほかのページで淡水に内地から郵便物を運んでいた川西の飛行艇について記載してあるのを見たことがなかっただけに嬉しかった。

ここには以前、2階に淡水郵便局カフェがあり、郵便番号ラテ、普通郵便モカ、速達カプチーノ、小包マキアートなどのメニューが並んでいたと言うし、1階では記念切手、記念コイン、ポスト型貯金箱、切手の図案を印刷したカップ、郵便配達人フィギュアが展示されていて、その場で撮影した写真で個人記念切手も作成してくれたという。

河岸側はその後スターバックスになったが、中正路に面した郵便局に立ち寄ってみたいと思う。

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これは郵便局カフェの頃の写真である。

2011年11月17日

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台北駅

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現在の台北駅舎は大きい。

地上6階、地下2階まである。

台鐵のプラットホームは地下2階にあり、MRT淡水線のプラットホームは地下4階である。

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終戦前後の駅は地上駅であった。

この写真では手前左手に人力車が見える。


2011年11月18日

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北投温泉、瀧之湯

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北投の瀧之湯温泉は戦前に開業した公共浴場で、今も営業しているという。

今年、網友(ブログ仲間)のHさんが行ってきたと聞いた。

私は2005年(平成17)年の夏に、戦時中 学童疎開で滞在したことのある善光寺の丘に登っただけである。

ただ、おぼろげながら幼い日に母と北投の町外れを歩いた記憶があるのみである。


2011年11月19日

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龍目井の木造建築物

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上掲の写真は戦後の龍目井である。

手前の平屋建ては郵便局本館の脇を流れる小さな水路に沿って建っていた。
外観上からは普通の民家かどうかよく判らない。

公会堂から転居して住んでいた、下記の「龍目井の宿舎」はおそらく、その建物の向こう側の路地に向いていたのではないかと思う。

ちょっと気になるのは右手の木造建築物である。

二階建てではあるし、公共の建造物であろう。
郵便局に近いし、その分館であろうか?

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この写真の右の大きな木造が郵便局本館で、河岸に近い洋館建てには三芝から転居して住んでいたことがある郵便局の別館である。
件の建物はその手前の木造二階建てである。

なお、その手前の屋根から右上に引出線を引いて、父が「恭子の生まれた龍目井の宿舎」と書いている。

2011年11月20日

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淡水公学校(東国民学校)長官舎

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淡水公学校は1941(昭和16)年4月1日に、淡水東国民学校と改称された。
校長官舎は校舎と隣接して構内にあった。

グランドに面していたので前庭は生け垣で仕切られていた。

1934(昭和9)年3月31日から1945(昭和20)年11月30日まで、第12代校長、松田常已(三重県)が住んでいた。

2011年11月21日

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川西大艇「綾波」パラオから飛来

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1940(昭和15)年10月25日の午後4時過ぎ、淡水に大日本航空の川西4発飛行艇「綾波」(艇体符字:J−BFOZ)が着水した。

この日の午前5時15分に委任統治であった南洋群島のパラオ島(標準時は内地と同じ)を離水して午後4時8分に淡水に着水した。
所要時間は余裕を見て12時間と予測されていたが、10時間53分で到達した。
7時半、朝食の出る頃から天候が悪くなり、低気圧のため風速24メートルの強風を受けて海面すれすれで航行したが2時間ほどで脱出している。
9時5分頃には南洋庁の警戒船「南栄丸」から「機影を南方に認む。御安航を祈る。」と着電あり、返信を返している。
2時半頃、艇上で誰かが「台湾が見える」と喜んだが、またも天候急変し、窓から吹き込む雨で乗務員はびしょ濡れになった。
このため3時半には着けるだろうと予測し無線で連絡していたが、高度100メートルの低空で目的地を探したために着水は4時を過ぎていたという。
花蓮の辺りから海岸沿いに基隆、富貴角と迂回して到達したものであろう。

淡水の郡役所は、紅毛城にほど近く、街路に面して建っていたが、岡野俊郎艇長ら8名の乗組員は短艇で郡役所広場に上陸した。
郡役所広場には天幕が設けられ、日本航空台北支所長の大西氏らに迎えられた。
その後、淡水街主催の祝賀宴のあと、車で台北まで行き、花屋ホテルで宿泊した。
翌26日の正午から台北鉄道ホテルで佐々波逓信部長主催の歓迎祝賀宴に出席し、27日午前6時に横浜への帰途に就いたという。

この飛行は、定期空路啓開のための試験飛行であり、11月22日に横浜を出て、サイパン、パラオを経て淡水に飛来したもので母港横浜に戻るまで、9237キロメートルを飛行時間37時間12分で航行した。

ちなみに同艇は、1939(昭和14)年4月には横浜、サイパン、パラオ4180キロメートルを25時間35分で飛び、1940年10月22日にはパラオからポルトガル領チモール島までの調査飛行も行っている。


2011年11月22日

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飛行艇の飛来した淡水

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淡水に飛来した飛行艇は、郵便局や郡役所の裏の河面に繋留されていた。

遙か南の東港ではなく、台北の傍の淡水に着水出来たのは淡水駅の外れの鼻頭地区に水上機用基地があり、燃料や潤滑油の補給やエンジンの整備が出来たからである。

ここには浮舟付き複葉の水上機が配備され、毎日気象観測飛行を行っていた。

数年前までは、水上機を引き上げる滑りなどがそのままに放置されていた。

すぐ傍までマングローブ(紅樹林)が保全されていたからである。

しかし、戦前海水浴場のあった沙崙を「漁人碼頭」として再開発したように公共用地として開発され始めたようである。

新北市淡水区は、開発に観光とともに環境保全を謳っている。

ここの再開発には疑問を抱きつつ注視している。

上掲の写真は、昨年送って貰った写真である。

2011年11月23日

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長老派教会の壁画

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この写真は2009年3月に訪台したときのものである。

長老派教会の壁に何枚かの壁画が作ってあった。

託児所のようであった。

この教会の前は現在、藝術廣場のようになっているらしい。


2011年11月24日

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台湾総督府鉄道・淡水線

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昭和4(1929)年7月10日改正の時刻表を見つけた。

「時刻表世界」(曽我誉旨生著、2008年、(株)社会評論社刊)に載っていたものである。

その中に淡水線(下りのみ)が掲載されていた。

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これによると蒸気機関車の曳く列車は5往復のみで、あとはガソリンカーである。
始発の臺北から淡水行きが5本あり、そのほかに新北投行きが17本運航されていた。

ローカル線であり、基本的に各駅停車であったが、列車はすべて大正街と宮の下は通過し、宮の下はガソリンカーも4本通過している。

所要時間は50分から60分であった。

臺北から淡水までの途中駅は、大正街、雙連、圓山、宮ノ下、士林、ロ基里岸、北投、江頭の各駅であった。

ほとんどの駅名が現在のMRTと同じであるが、関渡だけは似た読みの江頭になっていた。

当時の列車は4両編成であったとLCさんが知らせてくれた。

この時刻表には「二・三等」と書いてあるけれど、二等席があったのだろうか?

2011年11月25日

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内台連絡船

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基隆と内地を結ぶ連絡船は、1896(明治29)年に大阪商船が命令航路として補助金を受けて、「須磨丸(1563総トン)」ほか2隻で毎月3便で運航を始めた。
日本郵船も翌年、「横濱丸」で月2便のサービスを開始した。

当時は基隆から門司港に寄港し、神戸まで運航されていた。

この大阪商船の定期表に描かれているのは「高砂丸」である。

日本郵船は「富士丸」を新造して近海郵船に運航させたが、後に合併している。

「高砂丸」は戦争中、病院船として活躍し、戦後は引き揚げ船としても功績を残している。


2011年11月26日

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MRT松山機場駅

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この地図は現在の台北市内である。

見て貰いたいのはMRT「文湖線」の「松山機場」駅である。

この線は、MRTが開通したときに「木柵線」として最初に運営された路線である。

その当時、「中山国中」までであったが2009年に南港展覧館」まで開通して「文湖線」と改称された。

それにしても、飛行場ターミナルに乗り場を設けるため、異常と言っても良いほど路線を曲げている。
完全に自動運転のため運転手は乗車して居らず、無人運転である。
「中山国中」と「松山機場」の間は減速走行させているのであろう。

羽田−松山便が開設されてとても便利になったが、ここまでしてMRTを空港ターミナルまで敷設したことは驚きである。


2011年11月27日

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基隆内港

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基隆は台湾北部の港の一つであったが、航洋船舶が大型化すると、税関も置いていた淡水に代わって主要港として整備された。

内港の西側に沿って鉄道の引き込み線も設けられ、上屋も列び、繋船堀も整備されたが山に囲まれた狭い港湾で、一般商船のほか、漁船、海軍艦艇、コーストガードと常時満船状態で、コンテナヤードも混雑を極めている。

それで淡水の対岸八里に台湾海峡に面した大きな貿易港が構築中で、台北港と呼ばれるようになった。

写真は1945年当時の基隆港で左下、基隆駅前に港湾合同庁舎が建っていた。

それから50年経って「飛鳥」でここに入港したときは対岸の客船ターミナルに接舷した。

1946年に引き揚げたときは左側の貨物岸壁から出港したはずである。


2011年11月28日

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淡水国小90週年記念誌

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この写真は淡水国小90週年記念誌に載っていたものである。

台湾の人は小さい頃から馴染んでいるから上手いのであろう。

私は仕事を終えてから習い始めたが、何かを始めるのに遅すぎることはないと思う。

来月からレッスンを再開するのが楽しみである。


2011年11月29日

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基隆客船ターミナル

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基隆の客船ターミナル周辺の地図である。

1995(平成7)年の3月に「飛鳥」で行ったとき、港湾事務所で貰ったものである。
湾の一番奥に客船ターミナルがあり、そこから鉄道の駅まで湾岸遊歩道になっていたことが判る。

両側の港湾関係の建物は、ほぼ戦前のままであった。

基隆郵便局は、駅舎とともに立派な建物として知られていた。

西側にも客船ターミナルという文字が見えるが、琉球航路を運航していた有村汽船のフェリーが発着していた。

「飛鳥」の接岸した東側の客船ターミナルのすぐ傍に「第二コンテナ・ターミナル」があった。
どこの港湾を見ても、客船埠頭とコンテナ・ヤードはこんなに近接して設置されることはない。

基隆の港湾設備が如何に狭隘であったか判る。

着色されている区域は、デパートや商店街、飲食店街、それに船会社や鉄道、バスなどの施設があり、乗客が行き来する場所を示している。

2011年11月30日

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基隆客船ターミナル

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基隆の客船ターミナルは大規模な設備であった。

内地から到着した千人もの乗客を、一等、二等、三等に区分けして、入国審査、検疫、所持品検査などを行う間、ここから乗船する人や見送りの人も多かった筈である。

当時の船旅は、昨今のクルーズのような手軽なものではなかった。
行くにしても来るにしても、それ相当の決断をして決めたものであろう。これが最後の見送りになるかもしれないと島内各地から見送りに来たのであろうし、渡航してきた人は出迎えだけを頼りにしていた人も多かったことであろう。

ターミナルの二階には大きなホールがあった。

我々は、クルーズの寄港地エクスカーションであるから何も持たず、パスポートも船に預けてあるので乗船証を見せるだけであった。

下船してちょっと、その辺りを歩いてみた。
今はどうか知らないが、当時は基隆駅前に、ケープを羽織った蒋介石の立像があった。


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