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2013年05月 アーカイブ

2013年05月01日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

三芝の蛍

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5月になった。

日本では蛍を見ることが出来る季節も近くなった。

ここに移り住んで来た頃は、バス停から自宅に帰るまでに蛍の飛んでいたこともある。
戦後、農薬を使っていたために殆ど絶滅していたが、近頃は蛍の生育を図っているところもあるが水田が減ったので見ることは稀である。

台湾の各地に60種類以上の蛍がいて、何時でも見ることが出来ると何処かで読んだ。
しかし、蛍を見るのに適した時期は4〜6月ころであろう。

私が思い出すのは三芝に住んでいた頃で、田植えをしたばかりの田圃に蛍が乱舞していた。
黒翅蛍(タイワンボタル)であろうか?

2013年05月02日

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淡水の資料の宝庫

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クリスチーナが戦前の淡水の資料が大変多く載っているウェブサイトを教えてくれた。

作成したのは、2010年11月27日に挙げた「小公園」にコメントをくれた吉川太一郎氏である。
淡水郵便局の河岸に建っていた洋館は何であったのかという問い合わせであったが太古洋行の上屋であったものを中野金太郎氏を経由して淡水郵便局の別館になったと返信したところ、台湾師範大学の曽氏の論文を教えて貰った。

1944年10月12日に爆撃されたとき、空母イントレピッドからの第18攻撃隊により撮影された淡水の写真も複数載っている。

上掲の地図はそのなかの一齣で1936年に中国商工地図が集成し、1998年に柏書房が復刻したものである(赤文字は氏の追記による)。

両親が一時二階を借りていた塩屋の黒川さんは黒川義夫さんであったことも判った。

時間を掛けてじっくり読もうと思う。

2013年05月03日

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往時の淡水街探訪(1:黒川専売店、移転?)

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このたび知らせて貰った資料から1936年当時の淡水街について多くの事実が判った。

1936年と言えば父、研一が台北州庁の吉森八郎氏を頼って門司から基隆に渡った前年であり、祖母、原田ユクが淡水街嘱託として公会堂の管理を行いながら料亭のおかみのようなことをしていたときである。

祖母が街営海水浴場「和樂園」の管理人をしていた、親戚の浅野タツのもとに身を寄せて13年経っており、海水浴場には「和樂園」のほかに「街営休息所」や「淡水街設泳浴場(?)」も建っており、台北から海水浴列車が運行され、割引切符やシャトルバスもあったという賑わいが想像される。

しかし、今回は両親が結婚後短期間小学校のそばの宿舎に居たのち、二階を借りて住んでいたという黒川塩店のことである。

この地図によると小公園の河岸側に「葉応元写真館」があり、河岸に抜ける小路を経て何軒か役場寄りに「洪三才」、「洪成枝」、「宏生病院」があり、「黒川義夫」、「酒類大蔵」の文字が見え、その先に「多田商店」、「某商店」の先に「市場」がある。
この市場は当時の公設市場であろう。

さらに進むと「泉成商店」、「呉錦豊呉服」、「江相美陶器店」、「淡江信用組合」、「新華興洋服店」、「蓮生薬房」、「保安薬房」、「三協成菓子店」、「淡水信用組合」、淡水街役場」が河岸側に並んでいる。

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これは父のノートに描かれた想い出の淡水街のスケッチの一部であるが、「黒川」、「多田」、「街役場」の相対位置関係は上図と同じである。

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この写真の手前右手に見えるのが黒川塩店である。

「塩」、「煙草」、「酒」などの楕円看板が見える。
当時、煙草、塩、アルコール、阿片、それにセルロイドの製造に必要な樟脳などは専売品で認可を受けた店でなければ取り扱えなかった。

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この写真は上の街区を2010年9月末に撮影したものである。
縮尺したのでよく判らないが右に並ぶ縦看板の水色、黄色の向こうに見える赤地に白文字でで「許明祥命相館」とあるのが黒川塩店であった建物である。
隣接する建物とともに補修を加えられながらも現存している。

と言うことは、黒川塩店は小公園近くの河岸寄りから街役場や信用組合の向かい側に移転したのであろうか?

大きな謎が見つかった。

1936年以降、新店街に新しく建物が競うように建てられ、黒川さんの店舗も移転したのであろうか?

2013年05月04日

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往時の淡水街探訪(2:街営海水浴場「和樂園」)

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淡水のゴルフ場は台湾で初めて建設されたことは良く知られているが、淡水街の経営する海水浴場も台湾で最初に整備されたところであった。

1923年に沙崙に建設され、駅から3.3キロの距離であったが販売部や宿泊施設などがあり、浅野タツが街の嘱託として経営にあたっていた。

公学校もここで水泳を教えていたが、毎年6月から9月までのシーズンには台湾総督府の鉄道部も淡水線に列車を増発し、優待割引往復乗車券を発行し、駅からバスも運行されていた。

私も幼い頃によく連れて行って貰ったようであるが、海水浴場の写真は2011年12月10日の本欄に載せた古い絵葉書しか知らなかった。

ところが、このたび教えて貰った地図には、淡水海水浴場に「街営休息所」、「和樂園」、「淡水街営新館」が描かれており、不鮮明ながら「海水浴場新館」の内部と正面の写真も載っている。

道路の距離は縮尺からすると遙かに遠く、またそれぞれの建屋の説明も右から書いたり左から書いたりして判じ物のようであるが、これだけの施設があったことを示す資料として貴重である。

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この写真は経営者、浅野タツの養女の結婚式記念写真である。
おそらく海水浴場の一隅で撮ったものと思われる。

前列、新婦浅野イヨ子の右が浅野タツ、その右が原田ユク、その後は私を抱いた母、時子である。

2013年05月05日

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往時の淡水街探訪(3:淡水駅周辺)

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第三回は駅前周辺を探訪する。

まず、驚いたのは駅前にタクシー会社が軒を連ねていたことである。
私の幼い記憶では、人もあまり居ない駅前に人力車の梶棒を下ろして車夫が日陰に腰を下ろして客待ちしている情景が思い出される。
従って、タクシーの車庫だとか点検整備のための作業所を想像することが出来ない。

駅の河岸側には「施合発」の貯木場などへの引込線があり、製材所や倉庫が並んでいる。

淡水の税関は外航船を対象として、英国領事館前の河岸にあったから鉄道輸送のための「出張所」もあったのであろう。

「施合発」が一時は国内トップの材木業者であったことは知ったが、「老義発」というのは木材を扱う商社だったのであろうか?
その「老義発」に隣接して「浄土宗布教所」が描いてある。

父のメモにも、この辺りに荒操天という住職が住んでいたと記されているが、本願寺派かと思っていた。

駅前通りには川口運送店の隣に「雷俊臣」という人物は、初代の洪以南、二代目の呉輔郷に次いで三代目の淡水街長を勤めていた人である。
煙草販売店を経営し、淡水公学校の教師を務めたこともあり、淡水街協議会員で淡水街評議員であった。
街長を勤めていたのは1926〜1929年でその後、多田栄吉氏(1930〜1933年)が四代目街長となり、この地図に描かれている1936年には五代目の鳥井勝治氏が街長であった。
その先の林清海商店というのは何を商っていたのか判らないが、筋向こうに胡萬精米部という文字が見える。

当時の米穀店では、台湾在来の米を改良した蓬莱米も、船便で取り寄せた内地米も扱っていた。

なお、この地図は薬局を含む商店や医院などと共に、女子公学校、小学校、淡水女学校、淡水中学校は載っているが、不思議なことに淡水公学校は載っていない。

2013年05月06日

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往時の淡水街探訪(4:街役場、三協成)

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新店街をさらに小公園の方に向かってみる。

浄土宗布教所から路地の向こうに「淡水座」が見える。戯劇でもやっていた舞台でもあったのだろうか?

そのすこし先から「張益元薬房」、「台湾銀行淡水支店」、「淡水建築信用組合」と続いてその先に「淡水街役場」、「淡水信用組合」、「三協成菓子店」、「保安薬房」、「蓮生薬房」と並んでいる。このあたりには「薬房」が多い。

その先には「新華興洋服店」、「淡江信用組合」、「江相美陶器店」、「呉錦豊呉服」、「泉成商店」と続き「市場」に至る。公設市場であろう。

その向こうには商店(判読不能)のさきに、番頭さんをおいた文具店「多田商店」がある。
その向こうには「酒類大」、「黒川義夫」と並んでいるが、酒や塩を扱う黒川専売店の酒蔵なのではないだろうか?

その先に「宏生病院」、「洪成枝」、「洪三才」と並んでいる。

向かい側(山側)は浄土宗布教所の路地に面して「黄復振商店」、「ホタル食堂」の角から路地が裏道に通じている。路地の突き当たりには「平楽楼」があり、路地はそこからさらに裏通りに出る。その先には「家畜市場」と描いているが、これは当時、ここにあった食肉解体処理場を指している。後藤新平民政長官のころ、衛生管理の見地から個人による食肉解体処理を禁じ、公設の食肉加工場となったものである。
戦後も食肉解体処理場であったが、1990年に移設され、敷地は農協に譲渡された。
しかし、そこにある畜魂碑にはいまでも月に二度、家畜たちの供養祭が行われているという。

新店街に戻る。「ホタル食堂」の向かいの商店名は読めないが、その隣には「錦上珍菓子店」、「欧米洋服店」、「幅玉華洋服店」「許建成古物店」がならび、路地を経て「祝祥発飲食店」があり、そのさきにレコード店の「朝日屋」、「養元医院」、「宝興済菓子店」、「捷成興薬房」、さらに「徳順商店」がある。

その先に赤字で「?」と記しているが、おそらく廟であろう。
その先は少し離れて「十全病院」、「淡水歯科院」と続く。

2013年05月07日

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往時の淡水街探訪(5:小公園界隈)

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上図、左下の「洪成枝」氏は淡水弁務署(警察)事務嘱託をしていたそうである。

その前に「十全病院」があり、ちょっと離れて「淡水歯科院」、「広瀬資生堂」、「淡河時計店」が並んで、小公園に面する角には「谷商店」が描かれている。

「資生堂」は広瀬ノブさんが経営していたが、そこにはマリ子という、同じ年頃の女の子が居た。
父が出征するときにはとても世話になったと言っていた。

小公園の河岸側に「葉応元写真館」が描かれているが、この地図は商店などしか掲載されていない。
従って店舗を構えていない民家は省略されているらしい。
小公園のあたりから「淡水郵便局」まで、淡水河との間には借家などが建っていたと思われる。

なお、小公園の淡水基督長老教会側には鄭子昌(日本名:岩井昌雄)医師の興亜医院が建っていた。この地図には描かれていないが、1936年以降に建ったのであろうか?

教会に入る角には明石商店という店があったがこれも描かれてない。
ここは戦後「三山飲食店」になっていたが、いまは「MACANNA」というレストランか喫茶店になっている。

この地図に描いてあるのは「淡水基督長老教会」だけ、その先の坂の上に「公会堂」が見える。

郵便局の先には「警察署」、「郡役所」があり、そのあいだに武徳殿がある。

「公会堂」の背後に隣接するように「街長宅」があり、そのあいだの道を登ると「女子公学校」、「小学校」、「淡水中学校(淡江中學)」があり、英国領事館寄りに「淡水女学校」も描かれている。

「領事館」前の坂を下りたところに「税関」があり、領事館の裏手に「血清製造所」がある。
台湾にはハブという毒蛇がいるのでそのために血清をつくっていた。

淡水神社の竣工、鎮座式は1939年の3月であり、この地図を作成した時点には公会堂に隣接して小さな祠があっただけである。
ゴルフリンクの入り口近くに描かれているのは砲臺であろう。

その上に「無線電信受局」とあるが、実際には遥かに遠く、小学校に通うのも大変だったことであろう。


2013年05月08日

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淡水には水上飛行機のための飛行場があった

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1937年頃、台湾総督府航空局は淡水の鼻仔頭村に飛行場を建設する計画を立てた。

1941年頃に水上機用の飛行場が出来た。

大日本航空はドルニエの飛行艇ヴァルを本土とバンコクの間に、月に二回運航していたが、淡水へは給油のために寄港していた。

しかし、大東亜戦争が始まったため、バンコク便は1941年12月12日に運航停止された。

その後は高雄の東港基地から零式水上観測機が派遣され、哨戒や気象観測に用いられた。淡水の前に広がる中洲をかすめるように離着水していたこの零観は、巷ではゲタバキ(下駄履き)と呼ばれていた。

海軍では広大な太平洋の、まだ飛行場の整備されていない島嶼部で運用するため、飛行艇で編成される横浜航空隊や東港航空隊のほか、索敵哨戒のため水上偵察機や、水上艦艇の砲撃の弾着を上空から観察し報告する水上観測機などを擁していた。
零式艦上戦闘機は陸上航空基地にも多く配備されたが、滑走路の整備されていない前線で運用できるように浮舟を付けて二式水上戦闘機として用いられた。

当初は台南航空隊(陸上:零式艦戦)や東港航空隊(飛行艇部隊)のように地名を冠した隊名をつけていたが、前線の別基地に進出したことと、防諜のため、東港航空隊を第851航空隊のように隊名の呼称を変更した。

この航空写真は、1944年10月12日に台湾沖に来た米空母「イントレピッド(CV-11)」から出撃した第18攻撃隊の撮影したものであろう。
滑台付近の地上に3機、水面に1機、それに右端の掩体壕の前に1機見えるが、この写真では単葉か複葉か判らない。
おそらく、単葉の水上偵察機と思われる。
写真にはライジングサンの石油タンクや淡水線の鉄道線路も見える。

1945年3月には実戦部隊が淡水に移動してきた。
フィリピン方面を転戦していた第634海軍航空隊である。
水上偵察機24機(常用18機、補用6機)を擁する部隊で、司令、飛行隊長、搭乗員、地上員など250名の部隊であったので淡水基地には収容しきれず、士林にも兵舎が設営されたと言う。
この部隊は沖縄方面に来襲した米艦船に何度か爆撃を行い、直撃弾も与えている。
水上偵察機「瑞雲」という単葉双浮舟の機体は、急降下爆撃の出来るもので250kg爆弾、あるいは60kg爆弾2個を搭載可能であった。

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