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2011年12月 アーカイブ

2011年12月01日

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龍目井の我が家(再掲)

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3月1日(9ヶ月前)の本欄で「龍目井の我が家」として写真を載せた。

その欄で、戦後何度も淡水街の写真を送ってくれた父の教え子の人が示してくれた家を黒ペンで、私がそのとき推定していた家を赤ペンでマークしていた。

いま、父のメモを読み直してみると『(前略)・・小路があり、入って左2軒目が当時 龍目井の宿舎で・・(後略)』とある。

どうやら、そのとき赤ペンで印した建屋より一軒、通り側の家らしい。
そうすると父の書き残しておいてくれた原稿の『(前略)・・郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。(後略)』とも合致する。

写真の上左に、三角形が二つ並んだ「小公園」があり、そこに接してボストンの博士の生まれた、鄭先生の興亜医院の大きな屋根が見える。
左下にはキリスト教長老派教会の大屋根と尖塔があり、右下のL字型の建物が淡水郵便局で、その裏は河面である。

小公園の河寄りは区画整理のあと建て替えられたが、ここから河岸へ抜ける小路は当時のままの様である。

手許に残った限られた資料を幾度も眺めていると判ってくることもあるものである。


2011年12月02日

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長老派教会と観音山

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昨年訪台したときに鎮公所と淡水国小を訪問した。

そのときに淡水国小創設百十周年記念誌を貰った。
淡水鎮公所からも三芝国小からも記念誌などを貰ったので台北の宿舎から別便で送った。

その記念誌の思い出の写真の一つに、当時幼稚園のあった坂の上から長老派教会と対岸の観音山を望んだ一齣があった。

LCさんによると、当時風景画を描く人はみな、ここで写生をしていたと教えて貰ったことがあるが、なるほど絵になる光景である。

戦後、淡水街のバイパスとして中山路が拡幅・直線化されたときに幼稚園の用地が供用されたと聞いた。


2011年12月03日

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淡水に住んでいた頃のこと

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私は淡水で生まれ、父の転勤で一時、三芝に居たことがあるがそれ以外は引き揚げまで淡水に住んでいた。

戸籍謄本では、淡水街新店参拾七番地で生まれたことになっているが、祖母の居た砲臺埔参拾八で生まれている。

そこから龍目井に移り、そこから転勤で三芝庄字埔興百十八番地に転居した。

そこから淡水に戻ったのは終戦後であったのであろうが、一時、龍目井の郵便局分館の二階に居たことがある。
淡水で頻発する空襲警報で、防空頭巾を被って防空壕に逃げ込んだことがあるから終戦前かもしれない。

いずれにしても、引き揚げ直前には紅毛城の前の烽火十四に居たと思う。

この辺りの記憶が定かではない。


2011年12月04日

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玩藝淡水嚮樂趣

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今年8月に紹介したページである。

少し更新されている様である。

表示されているポイントの番号がなくなり、順序や表記が微妙に異なるところがある。

◎紅毛城
◎龍山寺
◎マカイの墓園
◎福佑宮
◎山寺
◎牛津学堂
◎淡水礼拝堂
◎滬尾偕医館
◎シェル倉庫
◎海関埠頭
◎気象観測所
◎淡水水上飛行場
◎多田栄吉の旧居
◎日本の警察宿舎
◎人形芝居のテーマ館
◎忠烈祠
◎イギリス領事官邸
◎婦学堂
◎淡水女学校
◎八角塔
◎マカイの故居
◎紅楼
◎清水巌祖師廟
◎マカイの頭像
◎淡水漁業生活文化影像館
◎淡水の灯台
◎牧師楼と姑娘楼
◎外国人墓園
◎淡水漁人埠頭

それにしても真理街沿線の日本時代の古蹟のなんと多いことか・・。


2011年12月05日

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木下静涯画伯旧居への石段

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馬偕博士の頭像のあるロータリーのある場所は三民街と呼ばれているが、中正路から緩やかな昇り坂になって建設街へつながっている。

その東側は紅楼の建つ丘になっている。

店舗の間に、その丘に登る石段がある。

この石段を上ったところに木下静涯画伯は居を構えていた。

いま、そこも古蹟として整備されていると聞く。

近いうちに公開されるのであろう。

2011年12月06日

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新公園(228公園)に保存されている臺鐵の機関車

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国立台湾台湾博物館の脇に、古い機関車が2台保存されている。

一台は日本から海上運送された蒸気機関車で、もう一台はドイツのホーエンツォルレン機関車製造社から輸入されたものである。

日本から輸送されたものは、新橋〜横濱間に用いられていた10台のうちの1台で、イギリスのエイボンサイド社製のA-3型2台のうちの一台だそうである。
固有名詞はなく、日本で走っていたときには「7号機」と呼ばれていた。
片倉氏の著書によれば、主に打狗(高雄)と台南の間を走っていたという。
そして1906(明治39)年に「9号機」と改名された。

上掲の写真がその「9号機」である。

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こちらがホーエンツォルレン社製の「騰雲」号である。

ドイツのホーエンツォルレン家といえばプロイセン(プロシア)の王家として知られているが、機関車製造社を経営していたとは知らなかった。

2011年12月07日

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臺鐵淡水線の時刻表

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1929(昭和4)年7月10日に改正された、臺湾総督府交通局鉄道部発行の時刻表によると、臺北發淡水線の列車(二・三等)は5本(午前7時35分發:191号列車、午前11時30分發:193号列車、午後2時50分發:195号列車、午後7時發:197号列車、午後10時25分發:199号列車)あった。
所要時間は50分から60分程度であった。

これらの列車は大正街と宮ノ下は通過していた。
おそらく、4輌編成の列車に乗降出来る長いプラットホームが設けられて居なかったのであろう。
このほかに、当時自動客車と呼ばれていたガソリンカーが運行されていた。
ガソリンカーは、淡水行きが5本(午前5時30分發:201号、午前9時20分發:203号、午後0時45分發:205号、午後4時50分發:207号、午後8時55分發:209号)あったが、宮ノ下に停車するのは201号だけで、あとは通過していた。

北投から分岐した盲腸線で新北投まで行くものが17本(午前5時58分發:231号、午前6時40分發:233号、午前7時16分發:235号、午前8時10分發:237号、午前8時40分發:239号、午前9時50分發:241号、午前10時30分發:243号、午前11時50分發:245号、午後1時10分發:247号、午後2時10分發:251号、午後3時20分發:253号、午後4時發:255号、午後5時30分發:257号、午後6時10分發:259号、午後7時50分發:261号、午後9時35分發:263号)あった。
新北投に行くガソリンカー(時刻表には「汽」と略記されていた)は全て大正街にも宮ノ下にも停車していた。

片倉佳史氏著「台湾鉄道と日本人」によれば、1937(昭和12)年の時刻表では半数が淡水行き、半数が新北投行きで、30分ヘッドのパターンダイヤで、この時代に待たずに乗れるサービスを実施していたのは、台湾ではここだけであったという。

2011年12月08日

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淡水郵便局

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淡水郵便局は、清朝の1888年に設立され台湾北部の郵政の拠点であった。
当時、台北地区の郵便物の多くは大稲から淡水に運ばれ、ここから貨物船に搭載されていた。

日本統治後の1896年1月には、現在郵便局、電信局のある場所に第17野戦郵便局が設置されたが同年4月1日に普通郵便を取り扱う滬尾二等郵便電信局となった。

1915年3月に、局舎はヴィクトリア様式に改築され、河岸側も2階建ての洋館に改築され、淡水の景観スポットになっていた。
1921年には淡水二等郵便局と改称された。

1966年にはハリウッド映画「砲艦サンパブロ」のロケーション撮影がここで行われている。

しかし、1986年に改築のため取り壊され、後棟の洋館も火災で失われてしまった。

母はこの郵便局で為替主任をしていたこともあると聞いた。

父が三芝国民学校から応召したあと短期間、郵便局の洋館に住んでいたこともある。

この写真は蔡坤煌醫師の撮影したものであるが、左に洋館2階のアーチの一部が見える。

2011年12月09日

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淡水街の公会堂

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日本特別展覧会資料「拝啓 日本様−淡水より−」によると、淡水公会堂は1909年4月に完工し、一般市民に図書閲覧、食事と囲碁将棋、交流と健康など藝術文化活動の場を提供していたという。
同資料によれば税関吏など地方官吏、台湾銀行や日本商社の社員、淡水の有力者などを構成員としていた「五十會倶楽部」が当時の淡水の社会文化活動を推進しており、公会堂や淡水海水浴場、台湾で初めてのゴルフ場建設などの設立に寄与したと掲載されている。

一方、淡水の歴史を丹念に追跡している「漁人碼頭的戰爭(http://danshuihistory.blogspot.com)」には、税関の職員などによる「淡水倶楽部」が街営の海水浴場や公會堂を建設したと掲載されているが、1909年の公會堂竣工には疑問を呈しており、「1918年:興建淡水公会堂(即今淡水文化大楼所在地)、1928年8月1日:淡水公会堂落成」としている。
当時としては大きな建造物ではあったが、それにしても工期10年というのは長すぎる感がある。

淡水の名士であった周明徳氏の私家本(2000年著)「続・夕日無限好」によれば淡水街で昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)記念行事として寄付金を公募し公會堂を建て、同年8月16日に竣工したという。
この寄付金の大半は施合発製材工場の施坤山氏が提供したという。

1909年に公會堂が開設されたのは事実であろう。
砲台埔二八に淡水稲荷社(1906年11月15日鎮座)の区画を表した地図があるが、隣接地は「公會堂地塊」とのみ記されている。ここに公會堂(旧館?)が建てられたのではあるまいか?
そこを1920年代に改築したのではないかと思うようになった。

別項で紹介したが、戦後(1950年前後)、水上飛行場傍の測候所に勤務する空軍気象観測班が空き屋になっていた公會堂に住んでいた。沢山の家族がここを住居とするため、幾つもの小区画に仕切られ、電線もしばしば過負荷で短絡することもあったらしい。
そして懐かしい公會堂は漏電で消失してしまった。


2011年12月10日

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淡水海水浴場

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当時、台湾には海水浴場という概念は無かった。

日本統治の頃 滬尾國語傳習所が出来、後に公学校となるが現地の人にとって体育が教科に入っていたことが理解できなかったと言う。

運動など、学校で教えるのもではなく子供達は自然に経験するのもであるという認識であったらしい。

従って、馬偕博士が毎日浜辺で「海水浴」をしていたと伝えられているが当時は奇異の目で見られていたのであろう。

1923年に淡水街はずれの沙崙に海水浴場が設けられたが、当時の海水浴場は街役場が経営していた。

当時は毎年、6月から9月まで運営されており、この期間 台湾総督府鉄道部は2割引の優待往復切符を売り出し、列車を増発し。駅から海水浴場までバスを運航するなど観光客の便を図っていた。

この海水浴場の経営者に浅野タツが当たっていたが、そのいきさつはよく判らない。

しかし、ゴルフ場と同じく台湾で初めての海水浴場については、LCさんのようによく憶えているという人もいる。

公学校でもよく海水浴に行っていた様である。

片倉佳史氏はその著書「台湾風景印」のなかで『三方が小高い丘に囲まれ、一方が海に面していることから本土の鎌倉に似ていた。そのため淡水鎌倉海水浴場と名付けられた』と紹介している。


2011年12月11日

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淡水街

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日本特別展覧会資料「拝啓 日本様−淡水より−」によると、『清朝時代にまず栄えた米市、元吉および公館口から次第に坂の下の後街仔、東興、公館口、新店などの地区に移り、その中でも東興付近が最も繁栄していた。(中略)1920年に福佑宮の前に公有市場が設立され、商業地域は新店一帯に移り始めた。この地区の商業は種類が多く、台湾人と日本人の店が同じようにあった。行政機関は主に烽火段では小売り業を主とした商店は置かずに、多くは会社の形態を採り、労働力の仲介は南国公司と不動産業の川口屋が行っていた。』とある。

そして『1929年に狭隘になった淡水市街の再開発が始まり、1930年に完工、淡水駅から税関までの道路が拡幅された。1934年には「現在の道路は道幅が狭く、拡張工事の実施で交通の円滑化を図る」として旧市街地の道路を幅9.1メートル(両側に各1.3メートルの歩道が設けられた)に拡張して、下水道も敷かれて公共衛生の維持が図られた。住民は両側に大量に建設された2階または3階の「昭和様式」の建築物に住むようになり、現在の淡水中正路の主要な伝統市街地が形成された。1938年までの間に、公共市場も建て替えられた。』と解説は続いている。

写真は整備された新店の街並みである。


2011年12月12日

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淡水河口港湾整備計画

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1858年に清国と英仏露米間で結ばれた天津条約は清国で批准されなかったために、同条約で取り決められていた開港は実施されなかった。

しかし、いわゆる「アロー号事件」などの経緯により締結された北京条約で開港された結果、淡水は1895年から1905年の10年間で、台湾全島の貿易額の6割を越える主要貿易港となった。
淡水以外の台湾各港では安平(20%)、高雄(4%)、基隆(1%)しかなく(1895年)淡水の独占状態であった。

当時出入りしていた船は、戎克(ジャンク)のように喫水の浅い船で、そのまま淡水河を遡り台北のや大稲に荷揚げすることも出来たので淡水河の航行は非常に賑わっていたという。

日本統治が始まると、日本郵船や大阪商船も淡水と福州や香港を結ぶ定期航路を開設したが、当時、外航船がどんどん大きくなっていた時期で接岸出来ない船もあった。
接岸できないときは沖泊まりして、で荷役をするのであるが淡水河には堆積した砂で大きな中洲があり、泊地も限られていた。

このため、内地との連絡港として基隆が整備されると貨物や旅客は急速に基隆に集中するようになった。

1927年には淡水郡守山本正一などによる「淡水港施設期成同盟会」が淡水港振興戦略に関する計画書を発表し、淡水港の修復を訴えた。
計画のなかで、築港の実現、大陸への短距離航路の開設、淡水線鉄道の延長と駅の新設、大稲との間の小蒸気船の往復、大小2つの公園設置、登山道の整備、淡水・台北間道路改善、関渡駅の振興などが含まれていた。
一部は実現されたものもあるが、この計画は達成出来なかった。

そして淡水は夕陽の美しい観光の街と変貌してきた。

現在、基隆港は旅客船や連絡船のほか、コンテナ船や、漁船、沿岸警備隊、艦艇まで狭い内港、外港にひしめき合い、コンテナヤードも確保できない状況にある。

そこで再び淡水河口が見直され、対岸の八里に大規模な港湾が建設途上である。

このほど発表された新北市の計画では淡水の対岸八里を含めた長期計画によると河口には、大スパンの斜張橋も建設されることになっており、MRTも路線の延長が計画されている。


2011年12月13日

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台湾銀行淡水支店長宿舎跡

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今日、グーグル・ストリートで見ていると、淡水河の河沿いにあった台銀支店長宿舎跡(↑写真)が見当たらなかった。

当時あった建物の幾つかは古蹟として整備されているようであるが、支店長宅はその中に含まれていなかったので撤去されたのかも知れない。

以前から、周りは徐々に舗装され、駐車場のようになっていた。

少し残念な気もするが、全部当時のままにしておくわけには行かないのでやむを得ない。

2011年12月14日

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滬尾から淡水へ

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淡水街は以前滬尾と呼ばれており、いま馬偕博士の頭像のある龍目井のあたりから紅毛城近辺の烽火街にかけての河岸地域、それに沿った高台の砲臺埔あたりに大多数の人が住んでいた。

紅毛城はスペイン人が築いた要塞であったが、スペインが撤退したあとはオランダ人が17世紀に再建したという。
1867年以降、イギリス政府が租借し、英国領事館を建てた。

その少し前、北京条約により淡水、基隆、安平、打狗(高雄)が開港されたが、台北に近いこともあって淡水港の取扱量が圧倒的に多かった。
清朝は税関業務をイギリスに委ね、その税務官の官邸が建てられた。
これが、現在古蹟になっている小白宮である。

当初、北台湾の主要輸出農産品は米で、福建から日用品や雑貨を積んできた船が米を積み出していた。
開港後は、茶、樟脳、石炭、米が輸出されるようになり、太古洋行(ダグラス海運)などが土地を借りて居住し、倉庫を建てたりしていたが、馬偕博士が厦門から帆船「金陵号」で滬尾に上陸したのもこの頃である。
このようにして医院、礼拝堂、外人墓地なども造られた。

馬偕博士は「淡水は繁華な街で、ほかの街と同じように、市内には市場があり、漁師、農民、庭木売りや花売り、物売りが大声で品物を売っている。米穀店、阿片窟、廟、薬品店などが軒を連ね、店の旦那たちが通行人を呼び込んでいる。木工店、鉄工場、理髪店、車夫などが街道の往来を行き来し、街には黒煙がもうもうと立ちこめていて、相当汚い。医院の近くに礼拝堂と宣教師の宿舎があり、近くには汽船会社の小さな事務所が幾つかある」と述べている。

台湾総督府が台鐵淡水線を敷設したときに設置した淡水駅は、現在のMRT車站と殆ど同じ場所であったが、当時は淡水の街外れであった。

1920年に福佑宮の前に公設市場が開設され、商業地区は新店一帯に移り始めた。この地区の商店は種類が多く、台湾人と日本人の店が混在していた。郡役所、税関など官公庁舎は主に烽火街に置かれ、商店街と官公庁の棲み分けが実現した。

以前からこの地区は滬尾と呼ばれていたが、滬尾公学校、滬尾警察署なども順次、淡水公学校などと改称された。


2011年12月15日

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街長 多田栄吉旧宅

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淡水の初代街長は洪以南であった。
彼は1913年に淡水の豪商、李怡和の旧居「達観樓」を買い取り、文化人のサロンとしていたという。
この「達観樓」は現在「紅樓」として知られている。
洪氏は1921年から1924年の間、初代街長を務めた。

多田栄吉は1930年から1933年の間、淡水街長(鎮長)を務めた。
現在、馬偕街19号に旧宅が残されている。
ここは台湾で初めて水道を引いた住居であった。

両親の結婚式には当時、街長を務めていた中原 薫氏が親代わりとして参列してくれた。
そのほか、街長を務めた人には鳥井勝治氏、小副川猛氏などがいるが、古蹟として「淡水街長多田榮吉故居」と表記されているのは、淡水地区の近代化過程で氏の施政上の功績が偉大であったからであろう。

2011年12月16日

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観音山の雪

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今日、日本列島には寒波が来襲して当地でも、ときおり雪が降っていた。
四国でも九州でも雪が降ったらしい。

地球の温暖化により、南極大陸も北欧の氷河も溶壊が進んでいると言われている。

数十年前はもっと寒かった。

淡水の大屯山にも対岸の観音山にも雪が積もったことがあったそうである。

しかし、前景に椰子の木が写っている写真を見ると雪など積もりそうに思えない。

私が自分で見た記憶のある南国の雪は、鹿児島の桜島と屋久島の宮浦岳くらいである。

2011年12月17日

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駅の傍には施合發の碼頭があった

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淡水は、かつて大陸との交易港であっただけでなく、沿岸の漁業も行われていたし、対岸の八里との連絡船もあった。

従って、紅毛城近くの河岸には海関碼頭があり、小漁港もあったし、台湾中から淡水郵便局に集められた郵嚢を汽船に積み込むための郵便碼頭があった。
それに渡し船の発着する渡船頭など多くの船着き場もあった。

しかし、それらにも増して戦前には現在MRT車站のそばにあった台湾一の木材工場、施合發の存在が大きかった。

施合發は、1930年代には2千トン級の2軸船「大観丸」などを所有していただけでなく、3千トン級の「杭州丸」も傭船していたので、現在駅前公園になっている場所に専用埠頭を3つも持っていた。
淡水河は砂の堆積で水深が浅いので、日本から満載してきた木材は河口で降ろし、筏に組んで貯木場へ曳航し、船の喫水を浅くして本船を接岸させていたという。

2011年12月18日

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淡水の漁業は沿岸零細漁業であるが・・・

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淡水にも地元の漁民が操業しているが、これらは沿岸で漁を行うもので魚屋の店頭で売られたり、すりつぶして淡水名物の魚丸にされる。

しかし、どうも東海に面した宜蘭縣あたりでは様子が異なるらしい。

下の『』内は網友のHさんの電子メールから抜粋したものである。

『……蘇澳の南澳漁港に行って海鮮料理に満足した話に関連するが、漁港の数百米沖合いに大型漁船みたいなのが何隻も描舶中なのが望見される。
最初は気にも留めなかったが、食事をしながら眺めていると船の大きさに比べ乗ってる人数が異常に多い。それも甲板上を引っ切り無しにうろうろ行きかっている。
変な船だな?…と食堂の親父に聞いてみたところ、「ア〜あれは大陸の奴等だよ」あっさり答えた。

後で調べて判ったのだが、これは台湾の網元に雇われた中国の出稼ぎ 漁民達なのだ。
台湾でも経済の発展に伴い3K労働に従事する若者が少なくなり、特に危険できつい漁業の仕事は成り手が居ないのが現状だ。
それの穴埋めの為、大陸からの出稼ぎをつれてきて働かせる。
彼等も台湾に行ったほうが稼ぎになる…両者の利害が一致して大陸出身漁師が誕生したと言う訳だが、台湾当局はその様な大陸からの働き手を認めていない。
だから入国ビザは出ない。ならば上陸して台湾の土を踏ませなけりゃ違法にならないだろうと言う事から、沖合いの船で生活させ、出漁時各漁船に乗せ帰港する際は、また沖合いの船に戻す。
これを繰り返しているのだが、狭い船内に閉じ込められた彼等の生活環境は劣悪で病人も多く発生していると聞く。
領海内で台湾船籍だから、例え上陸しなくとも入管法に触れるのは明瞭だけど、台湾漁業関係者の生活も有るので当局も見て見ぬ振りをしているのが現状だ。
これがもし日本だったら規則一点張りのお役所は絶対認めないだろう。
お国柄とは言え杓子定規と緩やかな法の運用。どちらが正解か?考えさせられる問題では有る。』

ちなみにHさんは頻繁に現地に行き、しかも現地の人と間違えられるほど会話にも堪能である。

そういえば、中国漁船が大挙韓国水域で操業しており、検挙に向かった官吏に切りつける事件が報じられていた。

総括して、著しい経済発展と言われる中で格差が広がっているのであろう。

2011年12月19日

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太魯閣渓谷

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昨日ここで紹介したHさんは、今年も3回も訪台している。

そして行ったときのことを教えてくれるので楽しみにしている。

私は台北、淡水以外あまり他所へ行っていないが、新竹や花蓮、太魯閣など行ったことのあるところの話はよく判るし、懐かしい。

今日のメールでは花蓮で床の間の付いた和室に格安で泊まったという話があった。

一度だけ、松山空港から復興航空のATR72で花蓮空港に行き、翌日太魯閣に行ったことがある。
本当に凄い景勝地である。

これほどの処をもっと紹介すれば良いのにと思ったが、交通機関が渓谷を縫って走るバスくらいしかなく、次々と団体が押し寄せてもつまらないことになるからであろう。

写真は2009年3月に行ったときに撮ったが、太魯閣の素晴らしさを写真に収めることはとても難しい。

そこから台北までは台鐵の北回線(自強号)に乗った。

2011年12月20日

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台湾の国内便

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台湾では国内航空も頻繁に運航されている。

離島もあるし、東岸は険しい絶壁で道路も鉄道も限界があるのであろう。

2009年に訪台したときは松山から花蓮まで飛んだことがある。

そのときは予約していた便がキャンセルとなり、1時間あとの便に乗った。

台湾では日本であまり見かけないリージョナルなターボプロップ機が運航されている。
フランス、イタリアなど欧州の合弁事業で開発されたATR72という。

それにしても、羽田・松山間の定期便は便利そうだ。
松山国際空港は台北市の市街地にあり、ターミナルの前にはMRTの車站もある。
市内に宿泊しているとひっきりなしに発着する国内便を見ることが出来る。


2011年12月21日

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明日は冬至

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明日は冬至。

台湾ではゆず湯(柚子茶)で暖まると聞いた。

それと、各家で冬至圓といって家族で集まって団欒の風習があるらしい。

湯圓といって白玉団子を食べることも冬至の習わしだという。
この湯圓というものを知ろうと思ってウェブで眺めてみたが、いろいろなものがあるらしい。

台湾は近代社会でありながら、昔からの風習を皆で残していることは良いことだと思う。


2011年12月22日

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日本のゆず湯

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冬至になった。
寒波襲来である。

台湾では冬至に柚子湯を飲むと言うが、冬の寒い日本では浴槽に柚子を浮かべて首まで浸かり暖まる。

窓の外を見ると、予報通り一片白いものが見えた。
クリスマスの終末は寒いらしい。

内地に帰った翌年の冬、岩国で初めて雪を見たことを思い出した。


2011年12月23日

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小公園

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馬偕博士の頭像のある三民街のロータリーである。

左手前、歩道の向こうを左に行くとキリスト教長老派の教会へ行く。

その路地の向こう側は戦前、木造の明石商店(?)であったが、戦後コンクリート造に建て替えられて、三山飲食店になっていた。
今は外装も派手なイタリア風になっている。

その向う側に戦前、豆腐屋があったという。

2004年の夏に下松のMさんと、龍目井で生まれた妹とともに淡水を訪れたときにMさんが戦前、豆腐屋のあったところで今も豆腐屋さんのあるのを見つけた。
Mさんは、その頃よく豆腐を買いに行って居たという。

台湾の豆腐にもいろいろあるようであるが日本の豆腐より堅めのようである。

台湾にはいまでも日本式の畳や桶を商っている店があると聞く。


2011年12月24日

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造船技術者の端くれ

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私は在職40年あまりの間に、職業として4つを経験してきた。

最終学歴が船舶工学科だったこともあって最初は造船技師として7年程度勤めた。

それから、構造強度の研究技術者として約12年を過ごした。

その後、ほぼ13年をシステムエンジニアとして勤務した。
その間、2年近くを電子制御研修所の専任講師として単身赴任した。

それから地方の私学に移籍して助教授、教授をちょうど10年間過ごして退職した。

その中で、造船技師(Naval Architecture)をやっていた期間は最も短いのに自分では造船技師の端くれであると思っており、日本造船学会の後身である日本船舶海洋工業会の終身会員になっている。

随分以前のことであり、はっきり憶えてはいないが、航空機や船舶の分野に進もうと思ったのは、淡水で内地から飛来する飛行艇をみた記憶が影響しているかもしれない。

高校を卒業する頃は終戦後のことであり、航空機の運航や製造などで仕事が出来る環境ではなかった。
それでも、航空機産業か造船あるいは海運に進学したいと思うようになった。
卒業する頃には航空工学科を復活させる大学も現れていたが、高校3年になって、それまで視力検査表の一番下まで見えていた視力が0.5〜0.6程度になった。
当時、操縦要員や航海士は裸眼で視力1.0は必要であったので、船舶工学科に進学することにしたと思う。

造船設計部時代は新造船の構造基本設計も担当したが、造船協会(日本造船学会)の構造委員会に出席したことや、徹夜でスケッチを行って入渠船の改造を船級協会に認めて貰うために飛行機で出張したことが思い起こされる。

設計部から研究所に移籍した直後には11万トンの新造船で波浪外力と応答計測の実船試験で日本からアフリカ大西洋岸まで往復乗船した。

システムエンジニアとして仕事では世界初の全没式浚渫ロボットの遠隔運転システムの開発が一番印象に残っている。

大学教員の頃指導していた情報科学ゼミの卒業生が、システムエンジニアとして活躍していることを企業訪問のときに人事担当者から聞くことが嬉しかった。


2011年12月25日

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クリスマス

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このブログを書き始めて2回目のクリスマス。

今年のクリスマス、日本は寒波に覆われているけどメリー・クリスマス!

2〜3日前、町内で水仙が咲いていた。
ロウバイの咲くのも、この時期である。

これから、日脚も少しずつ延びる。

2011年12月26日

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水牛のオカリナ

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これは淡水中正路の馬偕ロータリーに面した陶笛屋にあった水牛のオカリナである。

戦前は農耕用に水牛がたくさんいたが、近頃は耕耘機に取って代わられたのか見かけることがなくなった。

台湾では食肉は黒豚で、水牛は食肉には向かないのであろう。
(内地に帰って、白い豚がいることを知った)

河馬のように川があるとすぐ水に入るので水牛というらしい。

母の話では農道などで出会うと怖かったという。

水牛の角は立派で、印鑑などに用いられていた。


2011年12月27日

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淡水河の中洲

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いま、淡水河には木道などを作ってマングローブが保全されているが、中洲は残っていない。
水流で流されたのであろう。

戦前は大きな中洲があった。
ときにはで中洲に蟹を採りに行ったりした。
このあたりには片手が大きく、それを潮が引くとそれを振りあげる様を擬えてシオマネキと呼んでいた。

この写真は清の時代のものであろうか?
戎克は、大陸から日用品や雑貨を運んできて、帰りには米を積んで行っていたという。

戎克は台北の(萬華)や、その後は大稲逞のあたりまで行っていたらしい。

2011年12月28日

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人力車

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淡水の集落は、河の右岸に沿って長く延びていた。

駅から龍目井のあたりまで、およそ1キロくらいあった。

健康な人は歩いて行く距離であったが足腰の弱い人や急ぐ人は人力車を使っていた。
駅前や小公園には客待ちの人力車が客待ちをしていた。

当時、舗装道路は限られており、踏み固められた道であったので、自転車や人力車はゴトゴトして楽ではなかった。

そのため、人力車には車軸と客席の間に緩衝のために大きな重ねバネがあった。
車輪は多少、ゴトゴトしても客の座席に伝わる衝撃をやわらげることが出来る。
後に、自転車の横や後に乗せる自転車タクシー(略称:輪タク)も出来たが舗装していない道では人力車の方が乗り心地が良かったに違いない。

2011年12月29日

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建て替え前の滬尾二等郵便電信局界隈

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12月8日のこのページで、滬尾の郵便局は建て替えられたと書いた。

今日、偶然にウェブページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)で、建て替え前の郵便局の写っている写真に気がついた(上掲)。

臺湾淡水市街全景という絵葉書である。

この写真で全景と言うのだから、当時はこの辺りが街の中心であったのであろう。

1896(明治29)年1月に、ここに第17野戦郵便局が設置され、同年4月に普通郵便を取り扱う滬尾二等郵便電信局となったという。

そして1915(大正4)年3月に、本棟も河岸の別棟も改築され、1921(大正10)年には淡水二等郵便局となった。

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似たアングルから撮影された写真と較べてみると、中に同じ建屋が写っている。

2011年12月30日

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建て替え前の滬尾二等郵便電信局界隈(その2)

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古い写真を探していたら、別の写真が見つかった。

昨日掲載したものとほぼ同時期の撮影と思われるが、時間的な前後関係はよく判らない。
この写真には日本海軍の駆逐艦が2隻、錨泊している。
そして手前に、アーチの並ぶ2階建ての洋館の手前に、11月19日に掲載した2階建ての木造建屋が見える。
(この写真の方が後で撮影されたものであろうか?)

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上の写真の元になったと思われる着色写真である。

海軍艦艇の行動記録を調べると時期が特定できるかもしれない。

2011年12月31日

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大晦日

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今日は大晦日。

皆さんに教えて貰いながら、励まされながら、つまらない事ながらほぼ毎日掲載することが出来ました。

今年は東日本大震災という激甚災害が発生した年でありました。

世界中から激励や義捐金を賜りましたが、台湾からの義捐金は驚くほどの額でした。
とても強い絆を再確認致しました。

来年は穏やかな年になることを祈願し、心を新たに前進しようと思っております。

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