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2007年08月 アーカイブ

2007年08月15日

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このブログについて

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20世紀は科学技術の時代であった。

産業革命の成果として人類の繁栄に役立つ技術を発展させ、19世紀から継続されてきた原動機や電気を応用した多くの製品が発明された。

20世紀の最も偉大な発明を2つ挙げよと言われたら、私は躊躇なく航空機とコンピュータを挙げる。

航空機は20世紀初頭の発明であり、コンピュータは中期に発明され様々な用途に用いられてきた。

この2つは同じ条件で比較することが出来ない。

航空機は、人や物を載せて空を飛ぶという具体的で明確な目的があり、その効用や性能を数値で示すことが出来る。

これに対してコンピュータは、その目的が限定できない。
航空機の制御や運航にもコンピュータは多用されているが、これについては他の機会に譲ることにして、ここでは航空機に限定して話を進める。

2度の世界大戦で飛躍的発展を遂げた航空機であるが、北大西洋を航空機で渡った人の数は1948年から52年頃は20〜30万人規模であり、船舶で渡航した人数の半分以下であった。

それが20年も経たないうちに700万人を越え、船舶による渡航者の30倍に達する勢いとなった。

乗客や貨物を載せて2地点間を空輸する会社をエアライン、そこで運用される航空機をエアライナーと呼ぶと、最初のエアラインは1909年に設立されたDELAG(Deutsche Luftschiffahrts A.G.:ドイツ飛行船輸送会社)であった。

DELAGがツェッペリン飛行船製造社(Luftschiffbau Zepperin GmbH)に発注した最初の飛行船「ドイッチュラント」(「LZ-7:Deutschland」)はデュッセルドルフで運航開始されたが、まもなくトイトブルクの森で立木にあたって解体され、代船として建造された「ドイッチュラントⅡ」(「LZ-8:Deutschland II」)もデュッセルドルフの格納庫の屋根に掛かって壊れてしまった。

しかし、これらの事故に負けることなく「シュヴァーベン(LZ-10:Schwaben)」、「ヴィクトリア・ルイゼ(LZ-11:Viktoria Louise)」、「ハンザ(LZ-13:Hansa)」、「ザクセン(LZ-17:Sachsen)」を建造し、1914年に世界大戦が始まるまでに経営基盤を固めることが出来た。
(「LZ-9:ZⅡElsatz」、「LZ-12:ZⅢ」、「LZ-15:ZⅠErsatz」、「LZ-16:ZⅣ」は陸軍に「LZ-14:L1」は海軍に納入されている。)

この頃、飛行機の方では、1913年12月4日にセントピーターズバーグ・タンパ・エアポートラインが開設された。
米国フロリダ州のタンパとピーターズバーグ間に運航されたのは単葉複座のベノイスト14型飛行艇であった。

しかし、この世界最初の飛行機による定期運航旅客輸送路線は採算にのらず4ヶ月で運航中止となった。

第一次世界大戦のあと、ヨーロッパ・アメリカではエア・ラインが続々と誕生したが、その路線は国内か隣国間に限られていた。

太平洋や太平洋を渡る定期空路はツェッペリンに代表される硬式飛行船の活躍する舞台であると考えられていたが、1930年の英国飛行船「R101(G-FAAW)」、1937年の「ヒンデンブルク(LZ-129:Hindenburg)」の大事故により飛行船による長距離飛行の時代は突然終焉を迎えた。

ルフトハンザやエールフランス・英国航空などの前身各社が北大西洋航空路、南米航空路の開発に乗り出していたが、これらの路線はドルニエ・ヴァル、ショート・エンパイア、シコルスキー・S42のような飛行艇の独壇場になった。

そして第二次世界大戦が終わると、各地に空港が整備され、陸上航空機の時代になった。
しかし、強力なエンジンを積んで大量の燃料を消費しながら飛ぶ大型ジェット機に、直感的に危惧を感じている人は少なくない。

1970年頃からドイツ、アメリカ、イギリスなどで飛行船のようなLTA(Lighter Than Air)航空機に関する検討があらためて取りあげられるようになったと紹介されていた。
我が国でも細々と飛行船が運航されていたが、現在は複数の飛行船が空を舞っている。

このブログは「飛行船」という、最も知り尽くされているようで最も知られていない航空機である飛行船を、開発し運用した先人の足跡を辿り、飛行船の価値を再認識しようと試みようと立ち上げたものである。

                        越家 納

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[参考文献]
木村秀政監修:とべ!飛行船、山と渓谷社、1976年。
飯沼和正:飛行船の再発見(ブルーバックス)、(株)講談社、昭和54年。
石川純一:旅客機発達物語、グリーンアロー出版社、平成5年。
大島愼子:飛翔へのロマン、東京書籍(株)、1998年。
関根伸一郎:飛行船の時代、丸善(株)、平成5年。
柘植久慶:ツェッペリン飛行船、中央公論社、1998年。
廣川紀夫:クルーズ産業に関する一考察(第一報)、安田女子大学紀要、2004年。
Hugo Eckener:Im Luftschiff ber Lnder und Meere,Heyne Buecher,1979.
H.G.Dick&D.H.Robnson:Graf Zeppelin & Hindenburg,Smithonian,1985
Hermann Hesse:Luftreisen,Hmmer GmbH,1994.
Charles Stephenson:"Zeppelin:German Airships 1900-40",Ospray pub.,2004.
H.J.Nowarra:Deutsche Luftschiffe,Sonderheft,1988
Deutsche Zeppelin-Reederei GmbH:Bordbuch,DZR,2007
H.G.Knusel:Mythos Zeppelin,Aviatic Verlag,2003
B.Waiel&R.Kissel:Zu Gast im Zeppelin,Zeppelin Museum,1998
B.Kazenwadel-Drews:Zeppelin Erobern Die Welt,Delius Klasing,2006
D.Botting:Dr Eckener's Dream Machine,HarperCollins,2001
R.Italiaander:Ein Deutscher namens Eckener,Verlag Stadler,1981
H.Luschnath:Zeppelin-Weltfahrten,Bilderstelle Lohse,1933
H.Luschnath:Zeppelin-Weltfahrten II.Buch,Bilderstelle Lohse

2007年08月16日

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(南独飛行船紀行:1) DZRを訪ねて(1)

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 2007年5月1日、フリードリッヒスハーフェン市駅前のゼーホテルから7時半にベンツ・ワゴンのタクシーで飛行船乗り場に向かった。飛行船乗り場は、街の東北外れにあるフリードリッヒスハーフェン空港の北に隣接していた。アルマンシュヴァイラー通りと言うが、アルマンシュヴァイラー地区は戦前「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」や「LZ-129:ヒンデンブルク」の格納庫のあったレーヴェンタール地区とは隣接している。

 10分程度で着いた。DZRの幟を立てた白いテント張りが遠くからよく見えた。タクシーを降りると運転手が何時に帰るかと聞いてきた。何時になるか判らぬと言うと、電話番号の大きく印刷されたカードを渡し、ここに電話して自分の名前を言ってくれればすぐに迎えに来るという。この人口5、6万の街では、観光シーズンのピーク以外は仕事がないのかも知れない。

 DZR(Deutsche Zeppelin-Reederei GmbH, Friedrichshafen)という社名は、DELAGがルフトハンザの傘下に入りフランクフルトで名乗ったDZRと同じ社名であるのが面白い。ツェッペリンNTを開発した Zeppelin Luftschifftechnik 社の大きな格納庫の前に飛行船の乗船受付のテントがあった。正面入り口には DEUTSCHE ZEPPELIN REEDEREI と大きく社名が掲げられていた。その下に ZEPPELIN LOUNGE (Cafe Bistro Bar)と遠慮げに表示されていた。

 右手には軽飲食のカウンターがあり、従業員が営業の準備作業をしていた。フィールド側にオープンテラスがあり、パラソル付きのテーブルがセットされていた。乗船する人につきあって来てここで待っている人のために用意されたのかも知れない。そこから飛行船発着場と仕切りなしに続いている空港が見える。滑走路の向こうには単発機や双発機が何機も駐機されていたが、その中に小型飛行艇を見つけた。もちろん水陸両用である。

 通りの向かいには見本市会場メッセ・フリードリッヒスハーフェンのホールが並んでいる。そこは、そのとき「チューニング・ワールド」という自動車チューニングの国際展示会が開催されていた。前日の午後連絡があり、この日の第一便に乗れることになったのである。街中にマロニエの花が咲き、もうすっかり初夏であった。

 受付開始はフライトの1時間前と聞いていたのでテントに入ってみた。待合室には木製のテーブルが幾つか用意されてあり、壁にはツェッペリンのイベント写真やポスターが掲示されていた。受付カウンターの脇には小さなショウケースがあり、絵はがきセット、キーホルダー、ピンバッジなど公式グッズも展示されていた。今年はマイナウ島観光年らしく、島の観光パスターも貼ってあった。

 今日の第一便の乗客は中年夫婦、初老の独り者、両手に杖をついた老婦人を連れた家族などであったが、我々以外は地元のドイツ人らしく見えた。

 紺の制服の従業員が準備をしていたが、やがて時間になり受付が開始された。我々は予約確認書を持ってカウンタに行って手続きを行い、搭乗券を受け取った。貴方の搭乗券と書かれたカバーがついており民間航空のチケットより立派である。表紙裏にはドイツ語で契約内容が記されており、搭乗券とともに危険物持込についての注意書きもある。搭乗券には乗客氏名、乗船日、乗下船地、乗下船予定時刻、フライトナンバー、乗客コード、乗船費用、発券番号が印字されている。

2007年08月17日

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(南独飛行船紀行:2) DZRを訪ねて(2)

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 搭乗券を受け取って、ツェッペリン・ラウンジの周りを歩いてみたが、まだまだ営業開始までには時間があるようであった。ラウンジや待合室をうろうろしていると我々2人だけ別室に呼ばれた。何事かと思いながらついて行くと、乗降の手順や安全についての説明を英語でしてくれた。乗客全員にあとで説明するけれども、そのときはドイツ語で行うから聞き流しておけば良いと説明してくれた。

 説明内容は、飛行船特有の話と航空機共通の注意事項であった。共通事項としては、出入り口や非常出口の配置、ライフジャケットの収納場所と着用要領、それに非常口のロック解除要領などである。この飛行船には非常用の酸素マスクはついていない。

 飛行船特有の注意事項は興味があった。まず、飛行船は繋留マストに繋がれており風によってスイングするから現場で掛員から指示があったら写真を撮ったりしないで速やかに乗船するようにピンで留められた飛行船の平板模型を示しながら説明していた。また、現場では2列縦隊に並んで待機し、指示があったら2人ずつ手早く乗船するようにとのことであった。

 この旅行に出発する前にその辺りのことを調べていると、1人ずつ体重を申告してそれに見合うバラスト水を放出するとか、体重計に乗せてその体重により座席を指定されるとか面白そうであったが特にそんな説明はなかった。

 それからしばらくして搭乗口のゲートが開き、1人ずつ名前を呼ばれて鍵束やガスライターを提出させられ、ホールドアップさせられて手持ちの金属探知機で入念にチェックを受けて待合室に入った。今回の乗客は11名であった。

 搭乗者全員が揃うと、先ほど英語で説明してくれた内容をドイツ語で説明し、和やかに質疑も交わされた。全員納得したところで専用ドアから場内に出て、待機していたマイクロバスで飛行船の傍まで案内されたが、そのバスに乗り込むときに「ここは空けておいて下さい」と両手杖の老婦人の席を確保していた。

 バスを降りると飛行船には2名の乗組員が乗っており、既にライカミング200馬力のエンジンは起動していたが騒音は気にならず、イヤプロテクタも不要で、通常に会話が出来る。グランドクルーは搭乗待機線のところに1人、ゴンドラの搭乗口の外に1人居り、船長とトランシーバーで連絡をとりつつ誘導していた。ウェイオフにはもっと手順を踏む必要があると思っていたが実にあっけない乗船であった。座席は自由席で皆流れるように順調に着席していた。我々は最後に乗船したが、私は船長席の後で1人だけ後ろ向きで向かいは同行のJである。向かい合わせに着席する何かと都合がよい。結局、コパイのうしろの席が空席になった。
 コパイ席に乗っていたのはフライトアテンダントのSさんであった。11人の安全ベルトを確認すると、もう飛行船は空中に浮いていた。

2007年08月18日

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オペレーション・フィロソフィー?

 私は船舶でも航空機でも、おそらく自動車や建造物でもそうであろうが、デザイン・ポリシー、あるいはデザイン・フィロソフィーという概念は重要であると思う。設計方針、設計哲学と直訳してしまうと非常に抽象的になって、ちょっとニュアンスが変わると思う。これはあまり強調されることもなく、従って殆ど知られていないが基本的に重要な事項である。

 その設計対象の目的は明白でも副次的に要求される機能は多く、場合によってはそれらの機能が競合することもある。それをその設計対象の耐用年数を見越してどう調整するかという場合もある(誰しも、空中戦が出来て、急降下爆撃が出来て、渡洋爆撃や洋上哨戒が出来、必要に応じて偵察や長距離人員輸送が出来る飛行機が簡単に出来るとは考えていないが運用側に立つと無理な要求をする場合がある)。

 発注者の意向を聞きながら実現可能な仕様を固めて行くことも設計者の使命である。航空機でも船舶でも数十年前までは主任設計者という人がいた。現在は、社内のあるいはグループ各社から出向した数十人の設計者が基本計画段階から協議して設計を進めるので、航空機や船舶の主任設計者という概念がなくなった。

 基本計画の段階から各部の詳細設計に至るまで、その根底に流れている「どんな飛行機、あるいは船舶を創るのか」という思想がデザイン・フィロソフィーである。例えば、世界記録を作るために材料費や工数の嵩むのを厭わず名人芸的なものを創るのか、あるいは現実に運用する場合の生産性を上げるために部品や材料の共通化を図り整備や補修をしやすいものにするのか、あるいは運航時の経済性を重視するのか、貴重な金属材料はバイタルな部分に局限し可能な部分は非金属を採用するのか、あるいはその場しのぎのコストミニマムなものを作るのかなどの方針に基づいて計画・設計・製造が展開されるのである。

 この主任設計者というのは設計部長でも基本設計課長でもない。部長や課長は職制の責任者として出図日程や設計変更も含めた工程管理のほか、原価管理、労務管理に追われているのである。我が国の場合、原動機や素材まで社内で製造している場合も多いが、外注品の発注、検収も多い。

 ツェッペリン飛行船製造社(Luftschiffbau Zeppelin GmbH)の場合、第一号の「LZ-1」はテオドール・コーベル(Theodor Kober:1865-1930)の設計で建造されたが、その完成した1900年にルードウィッヒ・デューア(Dr.Ludwig Duerr:1878-1956)が参入し、その後設計されたすべての飛行船の設計主任となった。

 しかし、ここで述べようとするのは設計だけでなく、運用する立場でもその人物なりの哲学が必要になる場合があるということである。エッケナー博士は、後日ツェッペリン飛行船製造、あるいはDELAGの経営者となるが、飛行船の指令(職責上の船長)としても絶対的な信頼を得ていた。その理由は幾つか考えられるが、一つには飛行船というものが静的浮力・動的浮力によって浮揚し、気温・湿度・風力によってデリケートに左右されるという本質を直感で理解し、経験した現象を自分なりに理解し納得し、それを運用に応用したと言う点が博士の偉大な点であると考えている。

 人は、彼はヨットマンだったから風を読むのが得意であったとか、海軍飛行船隊指揮官であったシュトラッサー少佐の指導者であったから海軍飛行船隊に所属する全飛行船の運航実績を分析して運航ノウハウを確立したとかいうことを記述した本もあり、それを否定するものではないが、彼はトラブルを含む運航状況を自分なりに分析し、その後の運航に生かして来たからだと思う。

 ヨットに乗っていたと言っても学生時代に高々数シーズンであろうし、当時の気象状況は観測点も少なく、気圧配置図など勘で描かれたようなものであろう。シベリア、中近東、北米、南米など地図も信頼できるものばかりではなかった筈である。建造翌年に挙行された世界一周飛行など完遂出来たのが不思議である。気象データがなければ飛べないと言えば行けないところばかりである。

 エッケナー博士の著作には、何処で誰に会って何を話したとか、歓迎のレセプションやパレードの話は殆ど出てこない。ただ航海日の気象・海象については温度、湿度の変化まで詳細に記述されている。博士の天気予報はよく当たると有名であった。いつも風、雲だけでなく気温や湿度まで把握して予測していたのであろう。博士には飛行船の運航にあたっての哲学があったと思っている。オペレーション・フィロソフィー(新語?)とでも呼ぶべきものであろう。

2007年08月19日

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(南独飛行船紀行:3) ツェッペリンNT乗船(1)

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 ツェッペリンNTのゴンドラは外からみたよりずっと広かった。ゴンドラの長さは操縦席を含めて約10m、幅は2.3m程度で、中心線に人がすれ違えるゆったりとした通路があり、両側に6人ずつの客席があり、一番前の席は正副操縦席と背中合わせに後ろ向きになっており、そのほかはすべて前向きである。最後端は一枚の曲面窓のパノラマウィンドウである。乗降口は左舷後方で、非常口は右舷前方にあった。乗降口の前にトイレがあるほかは特に目立つものもない。

 あっけない程簡単な離陸であった。何の前触れもなく、僅かな衝撃も感じることもなく窓のすぐ傍に立っていた地上誘導員が大地と共に下に下がってゆく感じであった。発着場で2〜300mも昇ったと思ったら、コパイ席に座っていたキャビンアテンダントがこちらに来てシートベルトを外して歩き回っても良いですと言う。ランカミングエンジンは快調に作動しているが音がうるさいとは感じない。通常の会話が出来る。それより、離陸の際、地表に騒音や排気や砂塵を巻き上げる吹き下ろしがないのが何よりである。

 地表に落ちた大きな影が見る見る小さくなる。パイロットが左右のスラスタ機能確認のためか、僅かにヒールしたように感じたがすぐに戻っていた。ツェッペリン飛行船技術社の格納庫と通りを挟んで向かい側のフリードリッヒスハーフェン・メッセの大きな展示場が眼の下に並んでいる。発着場に隣接している空港の滑走路や駐機している小型機が玩具のようである。

 上空をゆっくりひとまわりすると市街地の西郊に向けて南西に進んだ。観光案内地図で見たツェッペリンドルフも、エッケナー博士やドルニエ博士の眠る市営墓地もよく見えた。やがてフリードリッヒスハーフェンのランドマークであるシュロスキルヒェを右舷に見ながらボーデン湖岸に近付いて行く。家や立木は鉄道模型マニアの作ったレイアウトのようである。この辺りは殆ど葡萄畑で、十字路の周りに何軒か集落が作られている。

 やがて飛行船はツェッペリン伯爵が硬式飛行船第一号の「LZ-1」を建造して浮揚させたマンツェルの街にやって来た。非常に柔構造であったため、僅かな衝撃で破損するおそれがあったので湖面からの発着を考えたのであろう。市営のツェッペリン博物館で見ると、最盛期にはフリードリッヒスハーフェンにはレーヴェンタール、マンツェルなど3箇所も飛行船発着場があったようである。

 現在、DZRが運航している遊覧飛行にはボーデン湖上空30分飛行から、ボーデン湖西ルート、同東ルート、ラインの滝シャフハウゼンまで往復する2時間飛行まであり、誕生日や記念日などは特別料金も設定されているらしい。

 我々の乗ったこの日一番のフライトは最もポピュラーなボーデン湖西ルートである。コンスタンツ、マイナウ島、メーアスブルクなどを巡る1時間コースである。

 やがて飛行船はインメンシュタットの町はずれに来た。湖岸にはヨットが数隻繋留されており、オートキャンプ場には優に百台を越えるキャンピングカーが駐車し、船溜まりにはヨットやモーターボートが所狭しと繋留されていた。

 ここ、ドイツでは屋外のスポーツが盛んで、サッカークラブには小学生クラスからチームがあるが、個人でスポーツを楽しむ人も多い。家族でサイクリングを楽しんでいる人はよく見かけたし、車道でも歩道でもない自転車専用路も整備されている。そのほか乗馬、カヌー、グライダー、熱気球なども各地で楽しめる。


2007年08月22日

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(南独飛行船紀行:4) ツェッペリンNT乗船(2)

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 ツェッペリンNTはマンツェルから湖岸に沿ってさらに西へ向かった。離陸して10分もしないうちにインメンシュタットに来た。広い窓から見下ろすと大きなオートキャンプ場が目に入った。広い施設ではあるが場内いっぱいにキャンピングカーが駐車して、テントを展開したりしていた。優に百台は越える。しかし場外に不法駐車しているような車はいない。整然としたものである。9時過ぎなので朝食を楽しんでいる時間なのであろうか、人影は殆ど見あたらない。

 隣接する船溜まりにはヨットや小型のボートが数十隻繋留されている。陸に引き上げられた艇も見える。ここまで湖面を見ていると湖底の藻が茂っているのか、湖底が起伏しているのか水面に濃淡が模様になって美しい。浮遊ゴミも汚水流入も見あたらないのは住民の湖を守る気持ちの表れであろう。

 インメンシュタットを過ぎたあたりから、飛行船は針路を西南西にとって湖面上に出た。ボーデン湖を斜めにわたってスイス側に向かう。湖面上に航跡を残して白い連絡船が東に向かっていた。傾斜も揺れもなく静かな飛行船遊覧は実に快適である。10分もしないうちにスイス側の湖岸に近付いた。クロイツリンゲンの東郊である。

 クロイツリンゲンはドイツ側のコンスタンツと隣接しており、国境に制服を着た掛員はいるが、パスポートも提示を求められたり、そのままフリーパスで通過させることもあるようである。今回我々がスイスからドイツに入るときも一時停車しただけでそのまま通過した。そのとき聞いた話によるとスイスは物価が高いのでスイスからドイツに買い物に来るということであった。スイスの通貨はスイスフランである。

 ツェッペリンNTは右舷に転舵し、コンスタンツ上空に来た。ライン川はここから西に下り、シャフハウゼンでラインの滝になって北海に流れ込む。パイロットの肩越しにコンスタンツの街に流れ込むライン川が見えてきた。ちょうど連絡船が川を下っていたが意外に小さな流れである。

 その川口の南側にシュタイゲンベルガー・インゼル・ホテルが建っていた。その周囲に掘り割りが巡らされ、本土と離れているのでインゼル(島)ホテルと呼ばれている。ここは13世紀に建てられたドミニカ修道院であったが、ツェッペリン伯爵家に買い取られその屋敷として使われていた。硬式飛行船の発明者であるフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵の生まれた館である。

 その南はコンスタンツ中央駅で、赤や白に塗られた観光列車が出入りしているのが見えた。離陸してほぼ20分経過していた。ボーデン湖畔で一番大きい街の上空でゆっくり北に変針して、花と熱帯植物の島マイナウに向かった。時々写真撮影のために大きく切り開けられた右舷窓のヒンジ部を開けると爽やかな風が入って来るが、そこにはちょっと気難しげな親爺が頑張っていたので、2駒ほど撮ったらすぐに閉めるようにしていた。

2007年08月23日

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「グラーフ・ツェッペリン」世界周航時の燃料ガス

 ブイヤント航空懇談会の機関誌「ブイヤント航空」のバックナンバーを見ていたら、興味を引く記事が載っていた。石油化学新聞社刊「プロパン・ブタン・ニュース」2003年2月17日のコラム「業界50年前史①」の複写再掲である(ブイヤント航空2003年31巻1号)。

 昭和4年8月19日に飛来した同飛行船に霞ヶ浦で充填した燃料ガスの話である。硬式飛行船が長距離飛行でガソリンを使っていたのでは燃料消費に従って船体が軽くなるので浮力の調整が難しくなる。そこで「グラーフ・ツェッペリン」ではヘルマン・ブラウ博士が発明した石油気化ガスであるブラウガスを燃料に使うことにした。ブラウガスは重油または軽油を高温で分解したオレフィン系・パラフィン系炭化水素であった。主船体の中の17区画中、中央部の12区画は上下に2つのガス嚢を収容したが、容量は浮揚ガスである水素を上に燃料ガスであるブラウガスを下にほぼ6:4の比であった。

 世界一周飛行が検討されたとき、日本の霞ヶ浦を中継点の1つに選んだのは、ここに賠償として移設された飛行船格納庫があったからである。秋本実氏の著書「日本飛行船物語」によるとこの格納庫はドイツのユッターボッグにあったものを解体、舶載して移送し再建されたものとされている。これはバルト海に面した港町リューベックの南20kmの Jutebek であろう。ロンドン空襲には格好な地点である。

 エッケナー博士達は世界一周飛行の必要経費を25万ドルと見積もったときにその大部分は霞ヶ浦での浮揚ガスと燃料の補充に関する経費であったと述懐している。ドイツからブラウガスを輸送出来なかったので、アメリカ海軍経由カーバイト・アンド・カーボン・ケミカルズ(のちのユニオン・カーバイト社)からパイロファックス(Pyrofax)という商品名のガスを霞ヶ浦に送らせている。三菱商事が200ポンド容器で765本のパイロファックスを米国から輸入した。

 ツェッペリン社は浮揚ガス・燃料ガス補充のために機関長カール・ボイエルレを先遣しており、霞ヶ浦でウィルヘルム・ジーゲルと交替して乗船したことは良く知られているが、霞ヶ浦航空隊では副長山田大佐総指揮のもとに準備を進め、燃料ガスは潤滑油の補給と兼ねて機関長櫻井機関中佐が担当した。

 日本石油の重役奥田雲蔵と田口清行技師、カーボン・ケミカルズから来日したスコット技師が技術援助に当たり、所轄の内務省の担当は小野寺季六技師であった。当時高圧ガスは内務省が管轄していたのである。サンプルを商工省燃料研究所で分析し、所長の大島義清博士によってプロパンガスであると発表されたと紹介されたことが紹介されている。

 ツェッペリン飛行船に補充するために保土ヶ谷化学工業と日本曹達が用意した2000本の水素と、本国から送られた設計図でスコット技師が製作した混合充填装置によって作られた空気と同じ比重の燃料ガスが飛行船に補給された。

 なお、この記事によるとフリードリッヒスハーフェン・霞ヶ浦間はブラウガス、霞ヶ浦・ロサンゼルス間はプロパンガスと水素、ロサンゼルス・レークハースト間はプロパンガスと天然ガス、レークハースト・フリードリッヒスハーフェン間はエタンガスと全て燃料ガスの組成が違っていたと言うのは初めて知ったことであった。

[註]担当者氏名
文中、日本海軍関係の担当者氏名は秋本氏の著書に、官庁・企業側の担当者氏名はプロパン・ブタン・ニュースを参照した。


2007年08月24日

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(南独飛行船紀行:5) ツェッペリンNT乗船(3)

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 飛行船は針路を北に取り、ユーバーリンガーゼーに沿ってマイナウ島に向かった。ユーバーリンガーゼーというのはボーデン湖の北西部分で、北岸の中央にユーバーリンゲンという町があるのでつけられた名前である。今年はマイナウの観光年らしい。途中の葡萄畑に影を落としながらボーダンリュック半島に沿って進むと2,3分でマイナウ島が見えてきた。

 島といっても橋が架かっているので歩いてわたれる島である。この島は中世からドイツ騎士団が所有していたものを19世紀にバーデン公フリードリッヒ1世が購入し、オレンジやバナナなどを植えて亜熱帯植物の島にしたものである。現在はその曾孫に当たる人が花を植えて整備し、入場料をとって一般に開放している。上空から見ると3階建ての館より高い大温室が聳えていた。

 飛行船はゆっくりとこの島を一周した。館は島の東に湖に面して建てられており、近くには専用の繋船ピアも2本設けられていた。館の背景になる島の中央は樹の茂った高台で、その向こうは農園になっている。朝の9時過ぎに散策する人影が見えた。

 ユーバーリンガーゼーを渡ると葡萄畑の中にビルナウ巡礼教会が建っていた。白でふちどりされ淡いピンクの小さな教会である。ガイドブックによれば屋内には有名な智天使のフレスコ画が描かれているということで、この日も朝の9時半から外に十人程度の人影が見えた。

 そのすぐ近くにプファールバオ(杭上家屋)博物館がある。ボーデン湖には先史時代の杭上家屋の集落が幾つも発見されているという。ここはその一つで連絡船の時刻表にも広告が載っていた。この施設に隣接して立派な繋船堀があり、100隻を越えるモーターボートが繋いであった。

2007年08月26日

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(南独飛行船紀行:6) ツェッペリン乗船(4)

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メーアスブルク

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 プファールバオ博物館のあるウンターウールディンゲンから湖岸沿いに戻ると、初めて来たのに何だか懐かしい雰囲気の景色が眼の下に広がってきた。メーアルブルクの町である。二日前コンスタンツからフェリーに乗って町の西端に設けられたフェリー乗り場で上陸し、木陰の駐車場に車を駐めて坂道を登ってマルクト広場に向かったのである。

 内部を見学した旧城も、テラスで食事をした新城も箱庭のように見える。ちょうど2日前訪れたときと同じくらいの時間帯である。観光客もちらほらと見える。「グラーフ・ツェッペリン」の絵はがきにも旧城を前景にいれたものがあるが、その頃と殆ど変わっていないような静かな街である。ガイドブックに寄れば人口5千5百と紹介してあった。

 この街には7世紀に建てられた旧城(Altes Schloss)と18世紀に建てられた新城(Neues Schloss)があり、旧城は当時のままの場内が見学できる。新城の内部は博物館になっていて2階には何機種か有名な飛行艇を開発したクラウディウス・ドルニエの博物館になっている。また、ウーバン氏の個人コレクションを展示したツェッペリン博物館や州立ワイナリーも有名である。

 コンスタンツやフリードリッヒスハーフェン、それにユーバーリンゲンと連絡船が結んでいるので昔からある東側の港のほかに西にフェリーターミナルが設けられ、街を歩いて散策する人のために木立の中に駐車場も整備されている。南向きの斜面には葡萄畑がどこまでも広がっている。

 我々の乗っているこの飛行船はツェッペリンNT07型の3号機で登録符字は「D-LZZF」である。
 初号機は「フリードリッヒスハーフェン(D-LZFN)」であったが、2005年から南アフリカでダイアモンド探査に当たっている。超精密な探査機器は飛行機やヘリコプターでは振動のため運用不能で飛行船の特性を活かした用途である。カナダでもダイヤモンドを含む鉱物資源の探査が検討されているが、アフリカで稼働中の飛行船はスケジュールに余裕がなく、飛行船新造には1年以上の納期を要するそうである。
 2号機は「ボーデンゼー(D-LZZR)」としてDZRが遊覧飛行に用いていたが、日本飛行船購入し「JA101Z」となったことはよく知られているが、5月31日に国土交通省航空局から航空運送事業許可を取得したと報じられている。同社の筆頭株主であった日本郵船は保有全株式を杤木汽船に売却し、飛行船事業から撤退している。

 ツェッペリン飛行船技術社はツェッペリンNT型飛行船を、小型のNT07(14人乗り)、中型のNT11(18人乗り)、大型のNT30(40人乗り)の計画を発表したが実際に建造したのは3隻のNT07のみである。

 飛行船はボーデン湖の北岸に沿って東に戻り始めた。この湖岸にはドライブに快適な道が走っているが、フリードリッヒスハーフェン近郊のマンツェル辺りから鉄道が併走している。マンツェルはツェッペリン伯爵が硬式飛行船第一号を浮揚させた縁の地である。

2007年08月29日

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(南独飛行船紀行:7) ツェッペリン乗船(5)

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 飛行船に乗った記念にフライト・アテンダントのSさんにシャッターを押して貰ったり記念写真を撮ったりしていると、フリードリッヒスハーフェンに近付いていた。操縦席との間に仕切りもないのでフロントも計器パネルもすぐ目の前である。発着場の上空に来ると、第2便の乗客がDさんに誘導されて、2列縦隊に並んでいるのが見えた。

 乗客を乗せ替えるときは最初に乗せるより簡単であることは理解できる。2人降りて2人乗り込むことを繰り返せば船体重量に2人分の体重程度の変動があるだけで大きな状態変化は生じない。

 最初に乗り込むときはどうだったのだろう?我々が乗り込むとき、乗っていたのは乗務員だけであったので乗客が乗ると船体重量が増える。地上支援員はパイロットと連絡を取りながら2人ずつ載せていた。12人も乗るとそれだけ自重が増えるはずであるが、バラスト放出もなかった。浮力はプロペラをチルトさせてそのスラストで調整していたのであろうか?テイクオフもプロペラのチルトで行うため実になめらかであった。

 発着時刻もタイムテーブル通りで、午前9時0分に離陸して、下船したのは午前10時0分であった。これはおそらく偶然であろうが、初めて乗る身にしては驚きであった。

 ホバリングしたまま、素早く乗客を乗せ替えるとそのまま浮揚していった。パイロットも乗客も窓から手を振っている。黄色のジャケットを着たDさんも手を振って見送っていた。

 そこから歩いて乗船前に案内された待合室に戻り、ちょっとしたセレモニーがあった。用意されていたスパークリングワインが配られて、お疲れ様でしたと乾杯したあと、1人ずつ名前を呼ばれて、日付と名前の書き込まれた乗船証明書を手渡され、50ページほどの名前入りのフライトブックが配られた。ツェッペリン飛行船の歴史からツェッペリンNTの仕様まで入った立派なフライトブックである。飛行記念にふさわしい良いセレモニーであった。

2007年08月30日

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(南独飛行船紀行:8) フリードリッヒスハーフェン(1)

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 ツェッペリン飛行船の故郷、フリードリッヒスハーフェンは南部ドイツ、バーデン・ヴュルテンブルク州の小都市である。ヴュルテンブルクというよりシュヴァーベンと言った方が馴染みがよい。フリードリッヒスハーフェンの前に広がる湖は、ドイツではボーデン湖と呼ばれるが、英語圏ではコンスタンス湖という名で知られている。

 ツェッペリン伯爵はスイスとの国境の街コンスタンツで生まれ、そこで青年期を過ごしている。1887年にヴュルテンベルクでカール帝に、操縦可能な飛行船の計画書を提出し、1894年に招集された委員会にその構造基本設計図が提示されたが理解が得られなかった。やっと1896年にドイツ技術者協会(Verein Deutscher Ingenieure)に呼びかけて、ドイツ産業の代表数名による80万マルクの資金を得て「飛行船旅行助成会社」(Gesellschaft zur Frderung der Luftschiffahrt)を設立することが出来た。

 この資金でフリードリッヒスハーフェンの近郊マンツェルに工場をつくり、その沖のボーデン湖に水上格納庫を造って最初の硬式飛行船「LZ1」を建造した。長さ128m、直径11.7mでガス容量は11300立方mであった。この飛行船は1900年7月2日の夕刻8時に伯爵を含む5人の人間と350kgのバラストを載せて浮揚し、18分滞空したのち折れて湖面に落ちた。

 「LZ1」は改修されて10月17日に2度目の試験飛行で1時間20分飛翔している。のちに伯爵の後継者となるフーゴー・エッケナー博士はフランクフルター・ツァイトゥンク紙から頼まれてレポートを書いて送っている。「LZ1」は10月21日に最後の飛行を実施した後解体され、清算したのち会社も解散された。

 その後「望まなければならぬ。信じなければならぬ。そうすれば実現できる。」をモットーとする伯爵の硬式飛行船開発がフリードリッヒスハーフェンを舞台に展開された。

 私がこの地を訪れたのは「LZ1」が浮揚して107年後の春のことである。クローテンにあるチューリッヒ空港に降り立ち、陸路クロイツリンゲンからコンスタンツに入り、ボーデン湖を渡ってメーアスブルクで上陸した。メーアスブルクにはアルテシュロスのほか、ウーバン氏のコレクションを展示するツェッペリン博物館、ノイエスシュロスのドルニエ博物館などのある葡萄畑に囲まれた人口5千の坂の街である。

 ここからボーデン湖畔を10kmも走るとフリードリッヒスハーフェンのランドマークであるシュロスキルヒェの双塔が正面に見えてくる。

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