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淡水散策 アーカイブ

2010年11月01日

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淡水街長多田栄吉故居

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淡水縣立淡水古蹟博物館発行の「淡水旅遊地圖」はカラー刷りで中文版と日本語版がある。

旅行者に名所旧跡を案内する地図である。表は捷運淡水站から滬尾砲台までの範囲で観光ガイド地図があり、裏には淡水紅毛城など十数ヵ所の開設が載っている。

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この地図には淡水の寺廟や馬偕博士関連遺跡、淡江大學、登峰魚丸博物館、真理大學、
などが34箇所示されている。

その中の22番目に「淡水街長多田栄吉故居」というのがある。

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観光地図に載せているなら遺跡として多少とも整備されているのかと思えば今にも崩れ落ちそうな廃屋であった。
鳥井勝治、中原 薫、小副川猛など、当時の淡水街長には何人も就任しているが、多田栄吉氏がこの官舎最後の住人であったのだろうか?

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淡水河沿いには台湾銀行淡水支店長の旧宅もそのまま残されていたが、これは遊旅地圖には載っていない。


2010年11月10日

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観音山

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淡水河の対岸に形の良い山がある。
観音山である。

淡水の街のどこからでも見える。

木下静涯画伯もよく描いていた。

2010年9月に淡水国小を訪ねたときに案内してもらった林元紅校長は
「私は教師に『観音山のような先生になりなさい』といつも言っているのです」と
言っていた。

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これは淡水国小を訪れる前に鎮公所の窓越しに撮った写真である。

戦前あった大きな中洲はなくなっていたが、観音山の姿は今も変わらない。


2010年11月11日

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夕陽の美しい淡水

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淡水の夕陽は美しい。

沢山の人たちがこの一刻を楽しんでいる。

観音山の右裾の河面を金色に染めて太陽は台湾海峡に輝く。

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河岸に腰掛けて黙って座っているペアもいる。

対岸やフィッシャーマンズワーフから連絡船が帰ってくる。

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ガジュマルの大木の下にはMRTで訪れた人が歩いている。

もうすぐこの先の燈台に灯がともる。

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淡水駅の向こうには紅樹林が広がっている。

潮が引くと漁船は河床に座り、流されてやせた砂洲が姿をあらわす。

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駅前広場では二胡で日本のはやり歌が演奏されていた。


2010年11月12日

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滬尾砲台

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淡水街の河口よりの油車口から少し登ると、有名な台湾高爾夫倶楽部(台湾ゴルフクラブ)がある。

1919年に台湾に最初に設立されたゴルフクラブである。
地元の人は淡水球埔と呼ばれていた。

古蹟めぐりのバスに乗ると、このゴルフクラブの入り口まで連れて行ってくれる。

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そのゴルフクラブの入り口左手に小さな受付がある。
「滬尾砲台」の受付である。

その前に行くまで何があるのか判らなかった。

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その左手奥に古い砦が見えた。

滬尾砲台である。

「北門鎖」とある。

1883年に清国とフランスの間に戦があり、一時この辺りまでフランスの陸戦隊が上陸してきたことがある。

海防の必要性を認識した清国は、ドイツの工兵大尉マックス E ヘヒトを招聘して淡水河口に砲台を構築した。
それがこの滬尾砲台である。

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今は博物館になっており、精巧な模型が設置されていた。

四周に12インチ/10インチのカノン砲や21センチ榴弾砲などが配置され、内部には弾薬庫や兵舎が設けられていた。

いま、その居住区であった隧道の中は展示室になっている。

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竣工当時の淡水神社や、マッカイ博士ご一家の写真、それに当時の淡水駅の炭水補給風景など多くの写真が解説つきで展示されている。

その中には「淡中全校李姓一同記念」写真に写っている学生時代の李登輝氏の写真もあった。

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当時の弾薬庫もそのまま保全されていた。

中年の穏やかそうな学芸員が我々を案内してくれた。

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営庭には家族連れの見学者も見えた。

この砲台は幸いにして実戦に使用されることはなく、設計・構築の責任者であったドイツ人工兵大尉は淡水の外人墓地に眠っている。

ここを見学して一番の収穫は、淡水公会堂など当時の写真に巡り会えたことである。


2010年11月15日

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水上機場

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臺北縣立淡水古蹟博物館発行の淡水トラベルマップには、地図上に番号を付けて古蹟や観光ポイントが示されている。

その第一番が「淡水水上機場」である。

MRT淡水駅のそばで、竹圍から広がっているマングローブ(紅樹林)が途切れる辺りの河辺である。

ここには1940年前後に台湾で最初の水上機の飛行場で、民間にも開放されていた。

1940年11月には大日本航空の川西式大型飛行艇「綾波(J−BFOZ)」がパラオ・淡水間航空路開拓のため、横浜・サイパン・パラオ・淡水・横浜(距離:9237キロメートル)を飛行時間37時間12分で飛んだこともある。

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民間定期空路が開設されることはなかったが、海軍の九七式輸送艇がシンガポールや香港から要人を乗せて飛来することはあった。

カリフォルニア在住のLCさんは飛来した飛行艇を見学に行ったことがあると教えてくれた。

いつも飛んでいたのは数機の零式水上観測機であった。

河面を切り裂くように長い航跡を残して離水し、しばらくすると同じように着水していた。

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街の人は何処に引き上げられ、何処で整備されて、何処に駐機していたのか知る人は殆ど居なかった。

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父が数十年後に当時を想い出して描いた地図にも駅から市場や街役場近くの水面に「水上機基地」と記している。

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1945年に台湾に駐留した米軍が作成した地図にははっきりスリップウェイと5機程度の駐機スペースが描かれている。

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インターネットでグーグルの航空写真を見ればスリップウェイから駐機スペースまで台車に載せて移動した誘導路はそのまま道路として利用されているようである。

何時だったか郵便局前面の川に零式水上観測機が事故で沈み、裸になった水兵が潜ってロープを掛け引き上げたのを間近で見た覚えがある。


2010年11月17日

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淡水線(鉄道)

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戦前、淡水と台北との間に鉄道が敷設されていた。

1908年4月の基隆と打狗(現・高尾)を結ぶ台湾縦貫鉄道の開通に先立って1901年8月に開通した。

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台北駅から大正街、雙連、圓山、宮の下、士林、ロ其里岸、北投、江頭(現・関渡)、竹圍を経て淡水に至る。

1916年に北投から新北投線が営業を開始しているが、この年淡水線で脱線事故があり、列車が墜落した。このときは怪我人二十余名であった。
1932年には台風のため関渡・竹圍間で列車が転覆し、41名の人が溺れて亡くなっている。犠牲者の中には台北まで汽車通学をしていた学生も含まれている。

日本の鉄道唱歌は334番までありよく知られていたが、台湾にはこれに匹敵する「台湾周遊唱歌」というのがある。
この唱歌は90番まである。
当時まだ台東線や宜蘭線に鉄道が敷設されていなかったから周遊唱歌としたのだろうか?

この中には台北、圓山、士林、北投、江頭などと共に淡水を謳った歌詞があるので紹介する。

(17番)屋上高く ひるがえる 同盟国の旗じるし
 問わぬ先にも 知られたり 大英国の 領事館

(18番)三百年の その昔 万里の波を 凌ぎきて
 武威を振ひし イスパニア サンチャゴ城 此処に建つ

(19番)後にオランダ 来てりしが 鄭氏代わりて これに拠る
 栄枯はうつる 世のならひ 英雄のあと 今いずこ

(20番)楼に登りて 見渡せば 軸艪つらねて うち集う
 唐船の 数知らず 観音山下 画の如し

(21番)此処の港を 船出して 海路僅かに 二百余浬
 その日の中に 対岸の 厦門の港に 著かるべし

(片倉佳史著:「台湾鉄道と日本人」より)

鉄道のほか淡水と萬華を往復する蒸気船も運航されていたという。

2010年11月19日

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三芝国民小學

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三芝は淡水鎮の北に隣接する集落(郷)で、当時は小基隆とも言っていたようである。

台湾で最初の医学博士である杜聡明博士や、台湾人として初めて総統となった李登輝博士の出身地である。

三芝国小の歴史を遡れば1911年に老梅公学校の小基隆分校として開設された。
そして翌年には小基隆公学校として独立し、老梅公学校は小基隆公学校の分校になった。1913年には北新庄分校が設けられたが老梅分校、北新庄分校は1921年にそれぞれ老梅公学校、北新庄公学校として独立した。
小基隆公学校は1941年に三芝国民学校と改称された。そして1945年に中島一夫校長から洪擧桂校長へ引き継がれている。


臺北縣三芝国民小學創校百周年記念特刊の巻末には老梅公学校の小基隆分校として設立されて以来の歴代教員の赴任離任年月日が載っている。
それによると1911年から1945年末までに108名の教員の氏名がここに在籍しそのなかに33名の日本人の名前がある。
その中の一人、山城安次郎氏は広島で開催された淡水会に娘さんと出席していたのでご挨拶した覚えがある。
髙鍬先生の名前はときどき母が話してくれた三芝のはなしの中で聞いたことがある。

当時の三芝は田舎であった。

国民学校のそばに教員の宿舎があった。

あたり一面の水田に蛍が乱舞していたのを覚えている。

勤労奉仕で母が稲刈りに行き怪我をしたこともあった。

近くに製パン工場があり、時間によって旨そうな香りが漂ってきた。

ミッセンを作る作業場もあった。ザボン(ブンタン/ボンタン)の皮を砂糖漬けにしたものである。

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いま、三芝国小は大きな学校になっている。
創設百周年を記念して立派な校史文物館が出来ていた。

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まわりは建物が建て込んでおり郵便局や警察の分駐所、郷公所などがあって賑わっており当時の面影を偲ぶことは出来ない。


2010年11月24日

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淡水の大学

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淡水には大学が2つある。

MRT淡水駅のそばから緩やかに上っている學府路に沿った淡江大學と紅毛城の近くの真理大學である。

何れも50年以上の歴史があり、真理大學はマッカイ博士の設立した牛津學堂の流れを汲むキリスト教系大學であり、淡江大學は総合大学でここには海事博物館もあるという。

是非訪ねてみたいものである。


2010年11月25日

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大屯山

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観音山が淡水河の対岸にあるのに対し、大屯山は淡水街の背後にある。

七星山などと共に陽明山国家公園を構成する高さ千メートル余の火山である。

淡水鎮と台北市北投区の境界線上にある。

この写真は沙崙子から大屯山を見たもので、その間にあるのがゴルフ場であるという。

いまでも台湾で最も有名なゴルフ場である。


2010年11月26日

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油車口

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油車口は淡水市街から河口の海水浴場の方向の地名である。

紅毛城から川下側の遠からぬところに「血清」があった。

更に行くと清仏(清法)戰争のあとに構築された滬尾砲台がある。
1939年頃その傍に淡水神社が建てられた。
河岸道路に面して石造の大鳥居があり、石灯籠があった。
そのそばにはグランドがあったらしい。

道路に沿ってもう少し行くと「無線」があり、河岸には当時から小さな燈台があった。

これも送って貰ったものであるが良い写真である。

自転車で菅笠の男が淡水の方に向かっており、河岸にはガードレールもない。
河原には漁りをする人影が見える。
小魚か蟹を採っているのだろうか、貝掘りをしているのだろうか?
淡水の蛤(ハマグリ)は旨い。
沖には中洲も見える。

幼い頃、父がよく自転車で海水浴場に連れて行ってくれたという。
いつも、油車口のあたりでハンドルにもたれて眠ってしまったらしい。

家に帰ると自転車に跨がったまま「おーい」と母を呼び、母が降ろしてくれたそうだ。

いま淡水神社のあったところは忠烈祠となっており、最近この近くに日本家屋が内地から移築されたという。


2010年11月27日

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小公園

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淡水駅から老街を行くと土産物屋や食料品市場が続くなかに鎮公所(街役場)がある。
それを過ぎてもう少し行くと、河岸に沿って川下に行く道と右手に緩やかな坂を登る道に分かれる。

その分岐のロータリーにあたる小さな植え込みのなかにマッカイ博士の頭像がある。

そこには戦前から小さな空間があった。

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河岸に沿った道に、直交した道が丁字に分岐していると言うよりも川上からの道と川下からの道が突き当たったところにそれと直交した道が集まった感じで、遠景にはどちらから見ても突き当たりのように正面は建物で塞がれたように見える。

そして川上からの道と川下からの道、それと直交した道を配管継手のように結んでいる本当に狭い空間であった。

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この航空写真の左上の一角に小さな三角のスペースがあるのがそれである。

当時ここを小公園と言っていた。

ここから川下に向かう道路と川に直交して緩やかな坂道との間に細い道があり、長老派教会へと導いている。

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この写真は大陸から国民政府が来てから、この通りを中正路と名付けたころのものである。
手前の「中正路」という標識の立っているところが小公園であり、その奥に教会へ通じる道が見える。

その両側の建物は現在も使われている。

左に見えるコンクリートの構造物は国府軍が設けた機関銃座である。

戦前、このあたりは龍目井と呼ばれていた。
2年半違いの妹はこの龍目井で生まれた。


2010年11月28日

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淡水礼拝堂

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淡水の歴史的建造物のひとつにキリスト教長老派の礼拝堂がある。

マッカイ博士の頭像のある交差点から中正路の裏道のような馬偕街という通りを入ったところである。

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淡水駅前から少し山手を通っている国道2号線(中山道)に沿って淡水文化センターがあり、淡水鎮の図書館がある。
この写真は川下側から見たものであるが文化センターの裏を中正路へ降りる下り坂の向こうに煉瓦色の教会が見える。

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これは数十年前に公会堂の前から撮った写真であるが左端に教会の尖塔が見える。

この写真で懐かしいのは公会堂の前にあったコンクリートの縁石がそのまま残っているところである(左下)。

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その下り坂の壁には壁画(?)が描かれている。

坂は右に曲がっているがその右奥の一角にはマッカイ博士が当初借りていた家が残っている。

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淡水の古蹟に指定されており、それを説明するパネルが表示されている。

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「馬偕博士租屋發跡地(馬偕街)」と写真入りの解説がある。

その前を通り過ぎると駐車場の向こうに礼拝堂が見える。

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外からも尖塔の美しいステンドグラスが見える。

ここから右はすぐ中正路である。教会の前を行くとマッカイ博士頭像の傍に出る。


2010年11月29日

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マングローブ(紅樹林)

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MRTの終着駅「淡水」の手前が「紅樹林」である。

紅樹林とはマングローブのことで、淡水河沿いにあるマングローブ保護地区のひとつである。

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紅樹林駅の傍に「紅樹林生態展示館」がある。

2008年1月に訪台したときにここを訪れると係員が館内をざっと説明したあと木道の入り口まで案内してくれた。

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立派な木道が設置されている。

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ヒルギが生え、蟹やムツゴロウのようなトビハゼが泥の上におり、水鳥がそれらを狙って歩き回っている。

このあたりに居る蟹は片方の手(はさみ)が大きく、これを振り上げる姿が潮を招いているようだにも見え、シオマネキという別名を貰っている。

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遊歩道の途中に置かれているベンチにもそれがデザインされている。

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これがマングローブを構成する植物で、ヒルギと呼ばれている。

葉の下に下がっているのが実で、その形から水筆という。

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先が尖っていて、泥質の川底に刺さって流出を防ぐのである。

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そうしてそれが芽を出しマングローブが維持される。

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このようにして紅樹林の自然保護区は保全されている。

木道は途中から自転車道に合流し「淡水」駅まで続いている。

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淡水駅の近くには杭上集落も残っている。
背後の建物は穀物などを扱っていた貿易商人の建てたものであろう。

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淡水駅の河岸は広い公園になっているが、そこにも根を下ろしていた。

沖に小さな洲が見えるが、戦前は小島のように大きかった。

土砂の堆積が著しく、明治末期には開設されていた淡水・厦門、淡水・福州航路も廃止を余儀なくされた。

2010年11月30日

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淡水海軍墓地

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父の描いた想い出の淡水地図には海軍墓地がある。

駅近くのライジングサン石油の山手の方向である。

実は公會堂の管理人をしていた原田ユクの弟である山本傳人(つたえ)も海軍墓地に隣接する公共墓地に眠っていたのである。

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戦後、この地に駐留した米軍が作成したと思われる地図にも、駅のさき水上機基地のあった山の手にかなり広い墓地が描かれている。

しかし、現在の地図では近くに山寺があり運動公園があり、この一帯は淡江大學の科学園区になっているらしい。

どうなってしまったのだろう?


2010年12月01日

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「漁人碼頭的戰爭」

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漁人碼頭的戰爭(http://danshuihistory.blogspot.com/)はすごいページである。

淡水の街が龍目井、烽火街、砲台埔から始まったことや、龍目井の地名の由来も開設してある。

当時、中野金太郎という人物が土地や借家を持っており、中野氏の借家から中野氏の借家に移ったことは最近知ったのであるが、その中野氏の不動産が香港のスコットランド人ダグラス・ラプレイク氏の太古洋行から引き継いだことも、このページで初めて知った。

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下の写真では屋根の勾配が少し大きくなっており、寄せ棟から入母屋に変わっている。

大東亜戦争になって父は台南に応召し、母や祖母と一緒に河岸の2階建て洋館の2階に居たことがある。
上の写真の河岸にある右側のアーチの並んだ建物がそれで、2階の一番左に住んでいた。
母たちは電信隊の兵隊の食事奉仕をしていた。

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この建物も太古洋行の倉庫だったのだそうだが、1959年か60年頃火災で失われたという。


2010年12月02日

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淡水公学校校庭の池

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2010年9月末に淡水を訪れたときに、淡水国民小學(旧淡水公学校)の校長先生であった陳淑女女史から「淡水国小九十周年記念誌」を戴いた。

そのときは林元紅校長に校内を案内して貰ったのであるが、淡水公学校当時の校歌が歌詞を変えて継承され、当時行われていたと同じオールで船を漕ぐ体操が伝統として残っていることに感慨を覚えた。

私は未就学のころ同校に行って池に落ち、用務員が毛布にくるんで抱きかかえられて帰宅したことがある。

当日一緒に見学したボストンの博士は校庭の水溜まりを見て、「ここに落ちたんですね」と言ったが、校舎もすっかり建て変わっており、果たしてそこだったのか定かではない。
蒋介石・経国のあと総統になった李登輝さんは淡水鎮に隣接する三芝郷の出身であるが父親の転勤で4校の公学校(汐止、南港、三芝、淡水)に通って淡水公学校を卒業している。


2010年12月03日

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縁石

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先日、漁人碼頭的戰爭に「森月城の台灣的風景繪葉書」が掲載されていた。

その繪葉書は、そこに解説してあるように公會堂の前で描かれたものである。

その少し誇張された縁石に見覚えがある。

しかし、傍の人物と較べて少し大きい。
これほど大きくはなかったと旧い写真を捜してみた。

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これはMr.Tamsuiのページ(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/)に載っていた写真である。
背景の人物(子供?)と見比べてもこの程度の縁石であった。

しかし、それを多少誇張することによって場所の特定ができる。

見晴らしの良いところで、むかしから台湾や日本の画家が油絵や日本画を描いたところであった。

今日も戦前の淡水を撮した鮮明な写真や繪葉書を教えて貰った。

2010年12月07日

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淡水河

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漁(イサリ)より戻りて舫(モヤ)う青き船
	そばに榕樹の若き木のあり

       (詠み人知らず)

2010年12月08日

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観音山

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若き日の 母は語りぬ 淡水の
観音山に雪降りしとぞ

       (詠み人知らず)


2010年12月09日

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仏桑華

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生け垣に 赤く咲きたる 仏桑華
	木漏れ日受けて薫るがごとし

       (詠み人知らず)


2010年12月10日

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淡水老街

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老街の 人の行き交う 雑踏に
	一籠の菜 商う老女

       (詠み人知らず)


2010年12月11日

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旧砲台

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砲台の 塁に登れば 満ち潮の
	河面を進む 渡し船見ゆ


       (詠み人知らず)


2010年12月12日

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帰郷

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淡水の 人ら集いて 語りたる
	街の様子を聞くぞ嬉しき


       (詠み人知らず)


2010年12月19日

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淡江干満

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淡江の 干満潮差僅かなり
鳴門明石の 瀬戸に較べて


       (詠み人知らず)

2010年12月20日

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淡江夕景

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金色(コンジキ)の 河面揺らせし 日輪は
	漁船も人も影絵となしぬ


       (詠み人知らず)

2010年12月21日

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一滴水記念館

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油車口の 旧砲台に ほど近く
移築されたる 記念館あり


       (詠み人知らず)

2010年12月23日

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紅樹林

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河岸より果てなく続く紅樹林
	ただ感嘆し 吾は立ち尽くす


       (詠み人知らず)

2010年12月25日

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マングローブ(メヒルギ)

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メヒルギの胎生種子は尖りおり
	落ちて底土に留まらぬとて


       (詠み人知らず)

2010年12月31日

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旧街長宅

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公会堂の そばに建ち居し街長宅
いまも街図に描かれており


       (詠み人知らず)


2011年01月10日

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榕樹

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頼りなく枝より垂れし細気根
	地表に至り幹となりおり

       (詠み人知らず)


2011年01月11日

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街の案内板

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淡水の街を歩けば街路にも
	古蹟案内表示されおり

       (詠み人知らず)


2011年01月26日

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麗し観音山

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麗し観音山



海峡を隔てて西より見ゆという
観音山は麗しきかな

       (詠み人知らず)


2011年02月09日

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赤き雪洞

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大屯山の奥の尼寺 勤行の
	夕べは赤き雪洞が点く

       三村昌弘


2011年02月10日

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淡水燈塔

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淡水の街から河口の方に淡水燈塔が見える。
油車口より先だから竹子林になるのだろうか?

ここにかつて白砲臺があったとは知らなかった。

同治時代(1862−1874)に中崙砲臺を築き直して白砲臺を建造したという。

1884年の清仏(清法)戰争のあと砲臺は取り壊され1888年に燈塔が設置された。

鉄塔の上に設置された燈標なので燈台ではなく燈塔である。


2011年02月11日

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萬善堂

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司馬遼太郎著「台湾紀行」の鬼(クイ)の項に萬善堂が紹介されている。

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正月にきたとき、山村の道をくだるマイクロバスのなかで、蔡焜燦氏が、ふとつぶやいた。「台湾には、どんな小さな田舎にも、萬善堂という祠があります」
そう言ってから、あれもそうです、と窓外を指した。
惜しいことに、バスは行き過ぎた。
ともかくも、萬善堂という名前が気に入ってしまった。
善とは供養をし、功徳をつむ、ということかと思える。
萬とは、不特定の霊たちということだろう。
萬善堂とは、台湾の心そのもののように思えてくる。
「ゆきだおれの人の骨をあつめて供養するお堂です」と、『老台北』なら、朗々乎と言うところだが、なま身の蔡焜燦氏となると、書斎にいる人のように物静かになる。
氏の話では、山中で旅人の屍体が朽ちていたりすると、村人たちは村の萬善堂におさめ、僧や道士をよんで鄭重に供養する、といった。
(中略)
「まことに手厚くお祀りします」
と、しずかに言う。ふと、蔡焜燦氏がいう萬善堂は殷の遺風ではないかと思った。

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この話は読んで知っていた。
しかし、山深い里の話と思っていた。

淡水の「文化古蹟巡禮地図」を見ると滬尾砲台の裏通りにもあると写真入りで紹介されていた。


2011年02月14日

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淡水国小の伝統

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淡水国小は1896(明治29)年に淡水国語傳習所として創設された。
その後、滬尾公学校、淡水公学校、淡水国小と名称の変更を重ねながら今年で115年を迎える。

杜聡明博士や李登輝博士など幾多の著名な卒業生を輩出している。

驚くべきは、校歌も歌詞こそ漢字に読み替えられているが旋律は百年後もそのまま歌い継がれている。

また、同小学伝統の「ボート」の体操も今日まで引き継がれている。
校歌も「ボート」も記念誌などに掲載されている場合は日本語の歌詞まで添えられている。

伝統とはこうして引き継がれて行くものであろう。

嬉しい反面、日本の現状を見ると羨ましいとも思う。

2011年02月15日

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コンテナヤード

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淡江の対岸遠く眼で追えば
	八里の地先にコンテナヤード

       (詠み人知らず)


2011年02月27日

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淡水河の落陽

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茜さす淡水河の落陽は
     河面も舟も人も染めたり

       詠み人知らず


2011年03月03日

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元淡水街長旧居

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上の写真は2年前に訪台したときに撮影した旧街長官舎である。

日本式家屋がそのまま残されており、長らく放置されていたので榕樹(ガジュマル)が延び放題になっていた。

手前の道を右に行くと淡水小学校、女子公学校へ通じていた。

そのときは閉ざされた門に工事中と書いてあったように記憶しているが工事をしているようには見えなかった。

しかし、淡水古蹟博物館の観光マップではチェックポイントの番号がふられ「淡水街長多田榮吉故居」と記されていたので復旧工事をしようとしていたのであろうか?
街路にも、それら観光ポイントへの案内が表示されていた(1月11日の項参照)。


2011年03月05日

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淡水文化国小

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当時、公會堂の裏手に女子公学校と隣接して淡水小学校があった。

日本人だけでなく、少数ながら日本語の授業が理解できる本島人(台湾人のことを当時はそう呼んでいた)の子弟も通っていた。

淡水女子公学校は淡水文化国民小学となり、淡水小学校のあとは淡水高級中學の一部になっているらしい。写真は数年前に訪台したときに撮影した正門である。


2011年03月06日

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淡水区(旧鎮)立図書館下のクロトン

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ガジュマル(榕樹)、龍眼、ヒルギなど台湾の植物は懐かしいが、クロトンもその一つである。

変葉木という別名でも呼ばれているが、その名の通り葉の形や色が同じ植物かと見まがうばかりに様々な姿を見せてくれる。

この写真は淡水区立図書館下の馬偕博士の旧宅へ通じる道の傍に自生していたものである。

近くの真理大學構内の通路脇にも並べて植えてある。


2011年03月23日

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淡水街長、多田榮吉氏旧宅

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淡水の観光地図に古蹟として掲載されている『淡水街長・多田榮吉故居』は馬偕街19号にある。

多田榮吉氏は1930年から1933年の間、淡水街長を勤めた。日本年特別展のために淡水で発行された資料には「その施政での功績を列挙すれば暇がなく、淡水地区の発展に尽力した。」と述べられている。

さらに「これは全台で最初の水道を引いた民家で、淡水地区が台湾の近代化の発展途上で果たした重要さの里程標の地位を占めている。」とも紹介されている。

2011年04月05日

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淡水・中山路

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昨日に引き続き、十数年前の淡水街の風景である。

MRT淡水車站からほど近い中山路と思われ、右に「清水街」への矢印が表示されている歩行者用通路で、小さな祠がある。
歩行者用通路とは言っても、バイクが走り回っている。

右に行くと百メートル程度で車站に行き、左にしばらく行って右に曲がると淡水国小に行く。

自分が撮った写真なのに、初めて行ったところで十数年まえのことでもあり勘違いしていた。
LCさんがすぐに気付いて教えてくれた。


2011年04月07日

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水碓子の水源地

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父の手作りのアルバムを取り出してみたら何の変哲もない田舎道の写真が出てきた。

「水碓子の水源地」と注記してある。

いまグーグルの地図で見ると、淡江大学の近くに水源街二段という地名が見える。

この辺りに水源地があったのだろうか?

何か思い出があったに違いない。

そういえば淡水街長宅には、台湾で初めて民家に引かれた水道があったと見た覚えがある。

アルバム表紙の手書きの地図によると、公学校(男子校)から北に行き、興化店へ行く道路から右に分岐して矢印があり、その先に「水碓子(水源地)」と書いてある。

2011年04月15日

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紅毛城近くの榕樹(ガジュマル)

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先日(4月11日)この欄に載せた写真と同じ地点を撮影していたので並べて較べてみる。

写真の正面河岸に小さな堀込み、その左に歩道があり、低い塀が築かれている。

河岸側には植えられたばかりの植え込みが見える。

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この写真は引き揚げて以来49年ぶりに(1995年)現地に行ったときのものである。

少し画角が異なるが、榕樹が煉瓦塀を越えて、良い木陰を作っている。

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これは数年前に行ったときのに河岸側から撮ったもので10年のあいだに榕樹が大きくなっていることが判る。

この樹を沖縄ではガジュマルと呼んで、大きな樹にはキジムナーという精霊が宿っていると言い伝えられている。

2011年04月16日

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旧水上機基地の引き上げ斜面

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この写真は淡水車站そばの河岸公園から河上側を撮ったものである。

手前に、淡水古蹟博物館発行の淡水トラベルマップに載っている英国貿易商の建てた煉瓦造りの倉庫が見える。

その向こうの木立の手前に砂浜のようなものが見える。

よく判らないので少し拡大してみた。

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コンクリートで出来た斜面のようである。

上記トラベルマップにも最初に紹介されている「淡水水上機場」らしい。

戦前、ここに天候観測などを行う零式水上観測機が数機配備されていた。

長い間放置されていたようであるが、ボストンの博士によると最近再開発のため埋め立て工事が進んでいるという。

2011年04月20日

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淡水河の中洲

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淡水は19世紀末に台湾随一の貿易港で、全台湾貿易総額のの4分の3を占めていたと言われる。
しかし淡水河の堆積のため河底が浅くなり、浚渫船で浚えたりしていたが大きな中洲が出来ていた。

小さい頃、で中洲に渡ったことがある。
長さ7〜800メートル、幅2〜300メートル程度はあったのではなかろうか?

大型船の入港に差し支えるようになり、開設された日本郵船や大阪商船の福州や香港への航路も廃止されてしまった。

ときおり川西の大型飛行艇が飛来していたが、着水や離水の前には遊漁船などが滑走水面に入らないように警戒艇が走り回っていたのだろう。

戦後、川の流れが変わったせいか中洲はなくなっていたが、干潮時には水面上に現れることがある。

2011年04月21日

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淡水・小公園

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この写真の下には父の字で「ふところに蜜柑、安武さん宅前小公園」と説明が振ってある。

写真の裏には「断髪の前」とある。

父が断髪したのは結婚の後で、私が生まれる前であった。

何処で撮ったものかよく判らなかったが背景が僅かに上り坂になっており、右の建物をよく見ると下の写真に「三山飲食店」の看板の掛かっているものらしい。
左に国府軍の機関銃座が残っている。

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正面の小路を進んで行くとキリスト教長老派教会に行く。

この写真は戦後、父の教え子が送ってくれたものである。

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そしてこの写真は2010年9月末に訪れたときに撮影したものである。

外装は変わっているが、建物自体は当時のままではなかろうか?
もしそうだとすれば、70年以上経過したことになる。


2011年04月24日

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血清製造所から見た英国領事館

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この写真は戦後、父の教え子が送ってくれたものの中の一枚である。
裏には標記のようにペンでメモが記してある。

血清製造所は淡水の町外れにあった。

1931(昭和6)年に作られた淡水獸疫血清製造所である。
母も勤めていたことがある。

戦後、家畜衛生試験所とか家畜実験所となったが今もそこに残っている。

ちょうど英国領事館であった紅毛城の裏手にあたる。

2011年04月30日

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淡水中學

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淡水中學の前身は淡水に渡来し、キリスト教を宣教し台湾おけるに医療と教育を広めた馬偕博士が設立したミッションスクールであった。

当時の淡水中學は認定されておらず、上級校への進学が認められていなかった。
1938(昭和13)年に台湾総督府の認定を獲得し、私立淡水中学校と改名した。

この淡水中学校に赴任したのが有坂一世校長であった。
淡水高等女学校の校長を兼務していたが、台湾人の生徒が多い両校のレヴェル向上に尽力した。
まだ正規の中学校として認定される前に、台北第一中学校から次男を淡中に転校させるなど、既に台北高等学校に進学していた長男以外を出来たばかりの淡水中学校に通学させている。

1940(昭和15)年度の卒業生が第1回卒業生となるが、1941(昭和16)年に淡水中学校4年生が、台北高等学校の高等科に合格した。
後に中華民国総統となる李登輝氏である。

上掲の写真は淡水古蹟博物館で撮影したものであるが、有坂校長の作詞による同校の校歌が4番まで掲げられている。

なお同校は現在も名門、淡江高級中學として存続している。


2011年05月01日

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淡水河の漁船

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淡水河の漁船は全部、船体を青く塗り必ず目玉が描いてある。

渡し船やレジャー用のモーターボートの船体塗色は様々である。

淡水河の河口には『漁人碼頭』というマリーナーがあるが、そこに発着する観光客目当てのボートや、ウェットスーツを干してあるダイビング用の船舶の色や形は様々である。

しかし漁船はすべて同じ塗色なのである。

台湾のほかの漁港でもそうなのであろうか。


2011年05月04日

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淡水の山の手

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紅毛城の前の坂を上って行くと、真理大學の理學堂大書院、淡江高等中學、淡水国小などの並ぶ真理街の通りに出る。

その少し手前で右に曲がった通りである。
歩道のように見えるがカーブの向こうからバイクが来ることがあり、自動車も通る。

清末期の淡水関税務司の官邸であった小白宮もこの先にある。

登下校時には生徒が多いが、それ以外は静かで眺めの良い通りである。

グーグルマップのストリート・ビューでも見ることが出来るので撮影車も通ったのであろう。


2011年05月05日

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淡水街壁面美術展

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淡水車站から区公所(旧鎮公所)を経て老街を歩いて行くと、商店街の建物が途切れて紅楼がちょっと見える(上の写真の左上)。

その下まで丘が迫ってきて建物を建てる余地がないのである。

そこに数十メートルの壁が建てられており、100枚を超す絵画が描かれている。
淡水の風景もあれば、静物も人物も、書もある。

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やはり淡水河や観音山を描いた絵が多いが、それだけでは単調になる。

いろいろあるから壁面美術展である。

2011年05月06日

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観潮藝術廣場

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戦前、公会堂のあったところは淡水区の藝文中心となり図書館がある。

そこから河岸へと下りる道は当時そのままに残っている。

その図書館から河岸を撮ったものである。

芝生の公園になっていて榕樹も木陰をなしている。

淡水の観光案内図などには「観潮藝術廣場」として紹介されている。

河岸に喫茶店もある。

明治時代に建てられた大きな木造の郵便局の跡地であろうか。

河岸沿いには太古洋行の倉庫も建っていた。

2011年05月07日

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油車口

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淡水の街からちょっと河口に寄った、油車口である。
写っているバスは淡水の古蹟めぐりの観光バスである。

戦前はこの辺りの石造の鳥居と大きな一対の石灯籠が建っていた。

淡水神社の参道入り口であった。

有名な台湾ゴルフクラブや滬尾旧砲台への道と並行して石灯籠を並べた参道が作られていた。

戦後、淡水神社は台北県の忠烈祠となり、鳥居も姿を変えていたがいまはそれも撤去された。

路面が黄色の縞模様で塗り分けられているが、手前が滬尾旧砲台やゴルフクラブに行く道で奥を右手に行くと忠烈祠に行く。
その手前に臺北縣立淡水古蹟博物館の事務所がある。

2009年に、その近くに福井県から移築された日本家屋「一滴水記念館」が再構築された。

そして、今年淡水和平記念公園が出来上がったそうだ。
是非訪れてみたいものである。


2011年05月08日

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淡水鎮立図書館

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淡水街の公会堂のあったところに淡水鎮立図書館が建っている。

当時は河下から上ってきた道が公会堂の前を迂回していたが、現在は都市計画で道路が直線化され中山路と呼ばれている。

建物は建て替わっているが、右手前から下る道は当時のままである。
この道を下ると馬偕博士の旧居に出る。

右手遠くに長老派の礼拝堂が見える。


2011年05月09日

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中山路と中正路の分岐

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河下側から見た中正路と中山路の分岐である。

右側の道を行くと、かつて小公園と呼ばれたロータリーから老街を通って淡水車站に至る。
老街といっても、今は道路も拡幅されて随分近代化されている。
それに観光用に環河道路が整備され、観光に来た歩行者はそちらを通るので、以前ほど人とバイクが触れ合うような混雑は解消された。

正面の上り坂を登ったところが淡水鎮立図書館である。
戦前の公会堂と同じように淡水の文化中心である。

歩行者用の陸橋が見えるが、あの陸橋を渡った山手には旧街長の官舎だった日本家屋がまだ残っている。
その先に淡水小学校、淡水女子公学校があった。
いまは淡江中學に隣接し、淡水文化国小となっている。

手前の分岐点の建物は、地図でみると農田水利会と書いてあった。

この写真は十数年前に撮ったもので、いまは交通量も大幅に増加している。

このような道路の合流点では自動車の警笛がうるさいだろうと思うが、台湾では接触するような状態でも滅多に警笛を鳴らさない。
不思議に思って運転している人に聞いたことがある。
そうすると当たり前のように「お互い様だから」と答えてくれた。


2011年05月10日

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漁人碼頭

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1923年、沙崙に淡水街営の海水浴場「和樂園」が作られた。

駅から3.3キロメートルの海水浴場は6月から9月まで営業しており、淡水線の鉄道も列車を増発したり往復割引切符、駅から海水浴場までのバスが運行されていたという。

広島市営アパートに住んでいた頃、台湾で温泉旅館を経営していたという老婦人がいた。その人の孫娘が、当時未就学であった娘をよく可愛がってくれていた。
その婦人の話では、温泉場が暇な夏には海水浴場に逗留し、逆に海水浴場を営業していない冬には「和樂園」の経営を委ねられていた浅野タツさんがその温泉旅館に泊まっていたと言うのである。
もっと話しを聞かせて貰えばよかったと思っている。

その沙崙の海水浴場も1934年に台湾軍の防空演習などの軍事演習が行われ、以降毎月のように砲兵や機関銃隊、爆撃などの演習が行われるようになり、油車口から交通管制が敷かれたという。

遠浅の良い海水浴場であったが、戦後すっかり荒廃していたようである。

1998年から多機能デモ漁港に選定され、歩行木桟道、跨港橋、レストラン、土産物屋、デイクルーズなどが行われるようになった。

淡水の環河道路の乗り場との渡船も頻繁に運航されている。

跨港橋上から河上を眺めた写真である。
右が観音山、左が大屯山で正面遠景が台北である。


2011年05月12日

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レストラン「淡水小鎮」

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紅毛城前の信号を河岸側に渡って環河道路を歩くと程なくテラスのあるレストランがある。
「淡水小鎮」である。

暑いときはテラスのテーブルも良いものである。
メニューも気に入って何度か此処で食事をした。

河岸側は眺めも良い。

入り口は中正路に面している。

建物の横に外階段が付いており、それを上がると見晴らしの良いことで有名な「海湾珈琲館」である。

2011年05月13日

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レストラン「榕園」

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紅毛城の信号からちょっと河下にレストラン「榕園」がある。

河岸には喫茶店や小物を売っている店があるが、そこから外れたところで水面上にテラスが張り出している。

2003年の大晦日に、そこで食事をしたことがある。

大晦日なのに屋外で食事をして寒くないのである。

台湾はいいと思った。


2011年05月15日

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淡水名勝要覧圖

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淡水鎮立図書館からマッカイ博士が最初に居を構えた馬偕街20番に降りて行く坂道の壁には様々な壁画が描かれている。

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左端は淡水河に掛かった関渡大橋、次の絵はシオマネキらしい。その次は理学堂大書院であろう。
どれも明るく良く描けた絵であるが子供の作品に見える。
小学生の入賞作品を看板屋さんがここに描き移したものであろうか?

見ながら下って行くと階段の脇に大きな画を見つけた。

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「淡水名勝要覧圖」と書いてある。

MRTの淡水車站も、紅毛城も漁人碼頭も描かれている。

以前、淡水を訪れたときに撮った写真であるが今日、見直していて気がついた。

2011年05月19日

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郵便局の裏

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この写真の右手向こうに戦前、郵便局があった。
その裏手は河岸に面していた。

何時だったか、河面を発着していた零式水上観測機が着水に失敗して沈んだことがある。
裸になった水兵がロープを掛けてスロープに引き上げていたのを見に行った覚えがある。
朧気な記憶ながらこの辺りではなかったろうか。

いまは広く環河道路として整備され、近くには木陰でお茶を楽しむことも出来る。


2011年05月27日

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現在の中山路

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現在の中山路である。

左の高層ビルの向こう側が淡水鎮立図書館で、その図書館から中山路を跨いでいる歩道橋を渡ったところに旧淡水街長宅がある。

グーグルで見ると長年放置されて伸び放題になっていた榕樹は切り倒され、構内は見違えるように明るくなっている。

中山路のこの辺りは戦後整備拡幅された新しい路であるが、右に分岐する緩やかな道は当時のままで懐かしい。
写真で見える範囲にはビルが建っているが、緩やかな上り道を行くと当時の面影を残している。

小さな飲食店や売店のあたりから街長宅の方に下る道がある。
その先に文化国小である。

この写真では読めないが分岐に立っている標識は、上から「真理大學」、「淡水国中」、「淡江高中」、「文化国小」を示す矢印がある。

2011年05月28日

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淡水街長旧宅

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淡水街公会堂の近くに淡水街長の官舎があった。

私達が淡水に居たころの街長は中原 薫氏であった。

しかし、淡水鎮(現:新北市淡水区)の観光ガイドマップには「淡水街長多田栄吉故居」として掲載されている。

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上掲の写真は以前訪ねたときに撮影したものであるが、まわりには草が生え、放置されていた榕樹(ガジュマル)が枝を張り気根を下げてお化け屋敷のようであった。

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いまは榕樹もすっかり撤去され、当時のままの日本家屋が残っている。

戦後、淡水老街のバイパスとして中山路が整備されたので淡水区の文化センター(公会堂跡)やキリスト教会へは陸橋を渡ることになる。

2011年05月29日

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台湾銀行淡水支店長旧宅

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こちらは中正路の台湾銀行淡水支店長の旧宅である。

訪れるたびにまわりが整地されてすっかり戦前の面影はなくなった。

当時の支店長は伊藤勝太郎氏であった。

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これは数年前、河岸側から撮影したものである。
日本家屋も植木もそのまま残っているが、空いた地面はどんどん舗装されていた。

街長旧宅はガイドブックに載っており、何かに活用されている様であるが支店長旧宅の方はそのうちに取り壊されるような気がする。


2011年05月31日

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陳月里女史の夜景(続き)

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陳月里女史の淡水夜景をもう一枚。

これは女史の住んでいる三民街(龍目井)の小公園一角の夜景である。

路地の向こうにキリスト教長老派の教会が描かれている。

彼女の描く夜景は生き生きとしてそこに住んでいる人が感じられる。

客で賑わっている店のあるところには戦前、鄭子昌医師の「興亜医院」のあったところである。

2011年06月08日

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淡水旧公設食肉加工場の畜魂碑

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淡水区水源街一段三十一号にいまも畜魂碑が立っている。

場所はMRT「淡水」の駅から英専路を進んだ先である。
淡江大學のグランドの下で、淡水国小との間にある。
グーグルの地図には淡水鎮農會超市(農協のスーパーマーケット)と記入されている。

以前、ここには食肉解体処理場があったそうである。
台湾総督府民政長官 後藤新平は衛生管理の観点から私設の食肉解体処理を禁じ、そこに公設の食肉加工場を設けた。ここもその一つであった。
そして家畜の霊を慰める石碑が建てられた。

淡水の食肉加工場は戦後も継続されていたが、処理場は郊外に移転し跡地は農會(農協)に譲渡されスーパーマーケットが建てられた。

しかし敷地の隅のこの石碑は残された。

周囲には段ボールやビールケースが雑然と積まれて忘れられたような碑だったそうである。
しかし、日本時代の遺跡を調査している片倉佳史氏が台湾の読者から教えられてここを訪ねたとき、通りがかった店員から忘れ去られたわけでないことを知ったという。

いまでも月に二度、関係者が集まって慰霊の祈祷が行われているという。
淡水にも萬善堂がある。
台湾を愛した司馬遼太郎は「萬善堂を拝したかったのは台湾の心に接したかったからです」と台湾紀行取材を案内した老台北(蔡焜燦氏)に記したという。
この畜魂碑の例も、萬善堂と同じように台湾の人の優しさの表れであろう。

別のブログでプロ級の写真家 蔡坤煌醫師が淡水国小付近から大屯山を撮った写真を載せたときLCさんからここのことは教えて貰ったが未だに祈祷が行われているとは驚きであった。
畜魂碑は淡水のほかに、台北、北投、嘉義、台南などに残されているという。

2011年06月10日

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1995年3月の紅毛城前

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上の写真は1995年3月に49年ぶりに淡水を訪れたときに撮影した紅毛城入り口の写真である。

いまは、このあたりもすっきり整備され歩道も街路灯も設置されて写真正面に真理大學大礼拝堂の前で新婚さんが写真撮影をすることもあるが、当時は樹が生い茂り、進入禁止や工事用標識が見える。

バイクやスクーターに4人乗りは珍しくない。

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戦争末期から引き揚げまで紅毛城の向かいに住んでいた。
未就学の頃でもあり、生け垣を潜って英国領事館の庭に入った記憶がある。
その場所には住居が建っていた。

現在はこの一帯も塀で囲われている。

2011年06月11日

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2006年、大晦日の紅毛城前

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それから10年後の2006年の大晦日に再訪したときの同じ場所である。

道路は舗装され、真理大學に上る坂道には大礼拝堂も建設されている。

右手の家には中山路から入れる車庫があり、裏口もあったが塀が築き直され、繁った樹に覆われてしまっている。

この頃には河岸側には喫茶店やレストラン、土産物屋やコンビニエンスストアなどが営業していた。


2011年06月12日

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2006年、大晦日の淡水駅前

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この写真も2006年12月31日の淡水駅前である。

英専路であろうか?

淡水は大晦日から正月にはとても賑やかになる。

環河道路などは家族連れでいっぱいになり、子供はソフトクリームや垂れのついた串を食べながら歩くので、多少汚れても構わない服装で出かけるのが良い。

この日も台北からMRTで到着したときに、自動券売機の行列に並んで帰りの切符を買ってから街歩きに出掛けた。

いまは悠遊(イージーカード)を持っていれば切符を買わなくて済むので便利である。


2011年06月17日

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2年前の淡水街長旧居

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淡水鎮立図書館から、戦前の淡水街長旧宅を見た写真である。
図書館の併設されている淡水の文化センターのあった場所に公会堂が建っていた。

淡水街長であった中原氏の住居は、そこから近かった。

戦後、淡水老街のバイパスとして新しく中山路が建設されたので、現在は文化センターから陸橋が架けられている。

写真中央の陸橋の下に見える石垣が旧街長の住居であった。

この写真は2009年3月に撮影したものであるが、鬱蒼と繁っていた榕樹は剪定されて景色が変わったようである(5月28日のブログに比較掲載)。

眼下には淡水河、その向こうには観音山を望む眺めの良いところであったに違いない。

時折飛来する川西式大型飛行艇は、この辺りから見下ろせる水面に繋留されていた。

2011年06月25日

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環河道路へ抜ける道

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淡水車站から区公所の前を通って中正路を行くと右(山手の方)へ三民街が通じているロータリーがある。
いまはマッカイ博士の頭像があることで良く知られている。

以前は、この辺りの地名は龍目井と言い、このロータリーを小公園とか三角公園と言っていた。

写真はそこから環河道路へ抜ける道である。
右のシャッターの降りている店は陶笛屋さんである。

二歳下の妹が生まれたときにこの近く(写真の右外)に住んでいた。
最近、ボストンの博士の生まれた興亜医院の斜め向かいであったことが判った。

面白いのはこの狭い道にバイクが通れるようにスロープが設けてあることである。
歩行者だけなら2〜3段のステップで済むが、ここではどんな狭い道でも人を2、3人乗せたりプロパンガスのボンベを3、4個積んだバイクが幅を利かせている。
老街だろうと市場だろうと遊歩道だろうとお構いなしに走り回っている。

さすがに自動車は進入禁止の標識が見える。
台湾では自動車を登録するときに車庫証明は不要なので街には許容限度(?)を越えた車が溢れている。
この標識は必要なのであろう。

この路地を通ると環河道路である。


2011年06月26日

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三協成餅舗のパンフレット

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淡水、中正路の区公所に隣接して月餅など台湾伝統のお菓子の店がある(中正路81號)。

ここは1935年創業という老舗である。
近くに三協成博物館もある。登峰魚丸博物館もここもまだ見学したことはない。

そこにはA3サイズのパンフレットが用意されており、三協成の創業以来の歴史や製品の紹介のほか、滬尾偕醫館、淡水礼拝堂、環河道路に設置されている彫刻など藝術作品についても写真入りで紹介している。

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その中に「小白宮」の説明があったが、カラー写真を含む7駒の写真を載せたA3版2枚にドイツ語で解説されている。

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小白宮は清朝時代の税関司令の官邸であったこと、そしてこの税関はイギリス人が税務官としていたこと、高雄や基隆が開港されるとここが総税関とし機能していたこと、1867年に税務官ホブソンが白い洋風の建物を建てたこと、日本の施政により税務官ロバート・ハートの私有資産であったことがわかり強引に接収したことなどが記されている。

その後、淡水港の貿易額減少により基隆税関の支所に格下げとなり、迎賓館や淡江中学の学生寮になっていたが建物は荒廃しお化け屋敷と呼ばれるようになった。

廃棄が決定されたが、有志や学者の奔走で1997年2月に3級古蹟として保存され、今日に至っているという。

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現状は整備され、淡水区の観光ポイントの一つとなっている。

ちなみに「小白宮」とは「小さなホワイトハウス」という意味である。

2011年06月30日

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滬尾砲台のスタンプ

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台湾の観光地にはいまでもスタンプの置いてあるところが多い。

滬尾砲台にも何ヶ所かにスタンプとスタンプ台が用意してあった。

上のスタンプは有名な砲台の正門である。

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これは、その砲台に設置されていた加農砲や臼砲である。

ところが、下のスタンプは何を表しているのか判らない。

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この辺りで繁る樹といえば榕樹(ガジュマル)を思い浮かべるが、描かれている樹は枝の付き方も違うような気がするし、第一 榕樹の特徴とも言える気根がない。

誰か判る人が居れば教えて欲しいところである。

このスタンプは2006年の年末から翌年年始に同地を訪ねたときの記念である。


2011年07月04日

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古い地名

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淡水の街の、龍目井、烽火街、砲台埔など私達が住んでいた頃の古い地名はなくなって、中山路とか中正路に改められてしまったのかと思っていた。

2009年に当時の淡水鎮の発行した観光地図に、淡江中學や紅毛城のあたりに砲臺埔という地名が載っていて何となく嬉しくなった。


2011年07月05日

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淡水海事博物館

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淡江大學には海事博物館があり、コロンブスが新大陸発見時に座乗したサンタマリア号や、スペインの無敵艦隊などの模型や航海計器が展示されているという。

父が戦後初めて淡水に帰ったとき、記念に貰った絵葉書にも淡江大學の写真があった。

一度、見学したいものである。


2011年07月07日

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滬尾號

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龍目井に滬尾號なる理髪店
	ありしと聞くも懐かしき哉

       (詠み人知らず)


2011年07月09日

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淡水税関

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淡水古跡博物館の発行した資料に「馬偕の道から見る淡水の史跡探訪」がある。

6穴リフィル版に折り込める一葉である。

その中に清末期淡水関税務司令邸という項目がある。

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1858年に締結された天津条約で台湾開港が指定されていたが、この批准をめぐって再び戦端が開かれ、その結果1860年の北京条約で淡水の開港が決定されたと記載されている。

別の資料によれば、1895年から1905年までは台湾全島の6割を越す主要貿易港であった。1895年の比率で言えば、淡水に継ぐのは安平(20%)、高雄(4%)、基隆(1%)と独占状態であった。

まだ淡水河の堆積がすすんでいなかったせいもあるが、当時の外航船はせいぜい2千トン級であったので台北に近い淡水は代表港となっていた。
当時、ジャンクは淡水河を遡り、(萬華)や大稲などに行き、いま台北の町中に貿易商の蔵屋敷が並んでいた。

その後、外航船が大型化し、河底の堆積もすすんで満載状態では入港できなくなり、沖止まりしてに荷を下ろし、喫水を浅くして接岸するようになり、日本郵船や大阪商船の定期航路も廃止になった。

一方、日本との交易量が増えるため、基隆港が大規模港湾として開発され、1930年以降は北の基隆と南の高雄の寡占状態になったのである。

台湾の代表港であった淡水の税関も基隆に移され、淡水は支署となった。

その後、建物も公務員の宿舎に利用されたりしていたがお化け屋敷の様になって朽ちてしまった。

いま残っている建物も廃棄が決まったが、地元の有志らの運動によって保存が決まり、現在第三級古蹟に指定されている。


2011年07月10日

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淡水文化国小前の小路

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大きな榕樹の陰の小さな店の間に細い道がある。
淡水文化国小前から図書館の併設されている淡水文化センターへ、中山路を跨ぐ陸橋に通じる小道である。

いま文化国小のある辺りに、淡水女子公学校があった。
そして、この小道を降りて行くと街長の官舎があり、その先に公会堂があった。

淡水老街のバイパスとして中山路が出来たのでそのあたりはすっかり様子が変わったが、この小道や、そのさきの公会堂の焼け落ちたあとに建てられた図書館からマッカイ博士の旧居に行く細く曲がった坂道は昔のままである。

2011年07月12日

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淡水は坂の街

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淡水は河に面した坂の街である。

以前からあった集落は龍目井、烽火街、それに山手の砲臺埔あたりで、淡水線の駅は始点の台北寄りで竹圍の集落に近く、町外れであった。

駅が出来ると、そのから龍目井までの間に公設市場などが出来、新店と呼ばれる一角となった。

そのあたりに少し平地がある程度で紅楼も高台、紅毛城も高台に築かれた。

公会堂も、街長官舎も高台で道はみな狭い坂道であった。

戦後、老街のバイパスとして中山路が整備され、街の様子が一変したが、部分的には昔の道が残っている。

上の写真は淡水小学校、淡水女子公学校から街長官舎の横を通って公会堂に降りる坂道であった。

中山路が街長官舎と公会堂の間に設けられたため、その小道は遮られ、陸橋で中山路を越すことになった。

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この写真は旧街長官舎を下から見上げたものである。

緩やかであった坂は削られて崖になった。

いまはもう少し整備されているのではあるまいか?

2011年07月13日

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新北市立淡水古蹟博物館

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油車口の滬尾砲臺の脇に、博物館を案内する学芸員の事務所がある。

淡水忠烈祠と滬尾砲臺の間の静かな木立の中である。

ゴルフ場横の滬尾砲臺へ行く観光バスの停留所のすぐ傍である。

しかし、表からは公衆トイレが見えるだけで観光案内所としての表立った表示はない。

入ってみると滬尾砲臺の学芸員の事務室で、博物館の資料やポスターがある。

2009年3月に砲臺を見学したときに説明してくれた学芸員の人がここに我々を案内しいろいろ調べてくれた。

その後、このすぐ傍に日本の古民家が移築され、和平公園も着々と整備されているらしい。

2011年07月14日

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鼻頭街

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戦前の淡水線には木材業社、施合発の引き込み線があった。

そこから竹圍寄りに、マングローブに接してやや河に張り出した地形となっていた。

そこは鼻頭村と呼ばれ、黄東茂氏の豪邸があった。

岡の上にあった華麗な邸宅は、中世紀風の2階建て洋館で、テニスコート、プール、自家用車などカリフォルニアにあったアメリカの新聞王ハーストの邸宅「ザナドゥ」の淡水版を思わせるもののようであったらしい。

しかし、日本統治時代に黄氏の邸宅は移転させられ、その跡地に測候所や水上機の基地が設けられ、鼻頭村はなくなった。

いま、MRT淡水車站の地下に設けられた道路に鼻頭街の名が復活している。

地図で見ると中正東路と學府路の交差点からMRT線の方向に鼻頭街と表記してあり、駅のプラットホームに平行な地下道となっている。


2011年07月19日

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淡水の農場・牧場・ハイキングコース

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淡水は河岸や古蹟の観光だけでなく、農場や牧場にも力を入れている。

大根祭りや南瓜のコンテストなどは知られているが、ハイキングや郊外の自転車コースなども盛んに広報している。

大屯山や陽明山など健脚向きのコースもある。

淡水の市街地は淡水河に沿った広くない一帯であるが、その郊外は自然がいっぱいである。

2011年07月21日

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マングローブの木道

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MRTの紅樹林駅から淡水駅までの間にはマングローブの中に立派な木道が整備されている。

途中から河岸沿いの自転車道と合流するが、距離にして2キロメートル程度で歩くにはちょうど良い距離である。

淡水駅に近づくと、戦前に水上機場として使用されていたところがそのまま残っていたがこの辺りも大規模な再開発工事が行われているようである。

淡水鎮(新北市淡水区)の発行したパンフレットによれば歩数3千余り、この距離を歩いたときの消費カロリーまで載っている。


2011年07月25日

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淡水古蹟博物館

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淡水には古蹟博物館がある。

新北市淡水区の管理運営する博物館であるが、紅毛城・旧英国領事館・滬尾砲臺・小白宮を含む博物館である。

紅毛城と旧英国領事館は同一区画にあるが、小白宮はその近くの砲臺埔にあり、滬尾旧砲臺は油車口と離れているのに合わせて一つの博物館として運営されている。

紅毛城は1628年にスペインによって建設され、その後オランダ、イギリスが補修しながら維持していたが戦後台湾によって管理されている。

小白宮は、清朝時代に天津条約により開港された淡水港の税関業務をイギリスに委ね、その税務官の官邸として1876年に建設されたものである。
このほか幾つか建屋があったが荒廃し解体されている。

滬尾砲臺は清仏戦争(清法戦争)でフランス軍に上陸されたため、ドイツから工兵大尉を招聘して1889年に構築されたものである。
幸いにして実戦に使用されずに現存している。

英国領事館は紅毛城一帯をオランダから引き継いだイギリスが1891年に建設されたもので、大東亜戦争によりイギリス領事は引き揚げたが戦後もイギリス領事館として用いられていた。

私は小白宮を傍から眺めたことはあるが、ここには入ったことがない。
小さなホワイトハウスという名の通り高台に建つ美しい建物である。


2011年07月28日

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淡水海事博物館−続報−

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すこし前に本欄で淡江大學の淡水海事博物館を紹介したが、その続報である。

本学は1950年に淡江英語専門学校として設立され、1958年に淡江文理学院となり、1980年に大学に昇格し淡江大学となった。

淡江大学では文理学院時代から海事教育に着目し航海学科と舶用機関学科を創設したが、そのとき世界的海運会社である長栄海運(略称:エバーグリーン)から商船学館が寄贈された。
5階建ての商船学館には実験設備、図書、教育用機器も寄贈されている。
しかしながら残念なことに両学科は1986年に閉鎖されてしまった。

そして商船学館は1990年に台湾で初めての海事博物館として発足した。
大学創設者が永年にわたって蒐集した数十隻の船舶模型が展示されていると言うが、それらがすべて同一スケールで作られているからそれだけでも凄い。

2階には鄭成功の軍船からコロンブスの乗船サンタマリア、米戦艦ミズーリ、原子力空母ニミッツ、独戦艦ビスマルク、商船ではクィーン・メリー、ブリタニック、タイタニックなどが展示され、3階は図書室その他、4階には操舵室があり、船舶の運航に不可欠な羅針盤レーダーや航海システムなどの設備もあるという。

地下室には実際に作動させることの出来るディーゼルエンジンも設置されているという。

ちなみに、台湾の高雄港は世界最大のスクラップヤードであったことがあり、かつての名船が曳航され解体されていたため、その装備品を目当てに世界中から業社が参集していたことがあった。

2011年08月03日

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紅毛城前の横断歩道

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これは現在の紅毛城前横断歩道である。

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こちらは十数年前の同じ横断歩道である。

ここ十数年の間にすっかり変わって、以前の面影を偲ぶことの出来ないほど変貌を遂げたところもあるが、すこし榕樹が繁ったくらいであまり変わらないところも残されている。
この界隈は正面左手の煉瓦壁もその中に繁っている木立も当時とあまり変わらない。
当時はまだ環河道路が工事中であった。

現在の写真を比べてみると横断歩道に柵が設けられたことと、紅毛城の近くなので、以前屋台のあったところに領事館餐廳というレストランが出来たくらいである。

2011年08月06日

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淡水の長老派教会

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19世紀末にマッカイ博士によって建造され、1932年に再建された淡水長老派教会は馬偕街8号にある旧蹟の一つである。

しかし、馬偕頭像のあるロータリーから路地を入ったところにあり、まわりに高い建築物が建ち並んでいるので、戦前ほど目立たなくなってしまった。

中山路に面した淡水文化センター裏の坂道から見た教会の尖塔である。
赤い煉瓦造りが美しい。

手前の坂道を下って曲がったところにマッカイ博士の旧宅が残されている。

2011年08月07日

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漁人碼頭の変遷

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淡水の市街から淡水河の河口まで2、2キロメートル程度である。

淡水河は台湾では大きな河であるが比較的きれいな河で、小魚のほかハマグリも淡水自慢の一つである。

船で上海へ行こうものなら揚子江の水が遙か沖合まで流れ出して黄土色であるが、それに較べると淡水河は清流である。

しかも河口は遠浅で海水浴にちょうど良かったので、台湾で初めて海水浴場が作られた。
淡水街営の海水浴場で、シーズンには淡水線の列車を増発したり、駅から海水浴場までのバスの割引サービスがあったりして大層賑わっていたという。

三方が丘に囲まれ、神奈川県の鎌倉に似ているから淡水鎌倉海水浴場などと呼ぶ人も居たらしい。

しかし、大東亜戦争が始まると射爆演習場になり荒れ果ててしまった。

1988年頃から多機能モデル漁港として再開発され、漁業協同組合の漁協としての機能のほか、レストランや土産物屋のならぶ河岸遊歩道やそこに渡る橋などが整備された。

遊漁船や連絡船、河口クルーズなどのほかウェットスーツによるダイビング船なども営業している。

淡水の夕陽を目当てに訪れる人も多い。

背景に無線アンテナが数本見えるが、東シナ海で操業する遠洋漁船との連絡用であろう。
戦前もこの近くに無線の送受信局があり、九州などとの交信を担当していた。
当時、淡水郵便局は無線通信局の業務も担当していた。


2011年08月27日

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淡水長老派教会

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1872年にカナダ長老派教会の宣教師、ジョージ・マッカイ牧師が広州、汕頭、厦門へ赴き、そこからジャンク「海龍号(金陵号?)」で淡水の河岸に到着し、ここを布教の場と定めた。
翌年、北部台湾で初めての教会が設立された。

のちにマッカイ牧師の遺児、偕叡廉氏が設計・監督し1932年に再建されたものが現在のネオ・ゴシック風煉瓦建て礼拝堂である。

建設当時は淡水のシンボルであったが、その後大きな建物が建ち並び目立たなくなっていた。
近年周囲の整備が進み、街の旧蹟になっている。

当時公会堂のあった文化センターから細い坂道を下ったところにあるマッカイ牧師の故居にも説明パネルが設けられている。


2011年08月29日

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旧淡水街長官舎

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淡水の初代淡水街長は洪以南氏(1921〜1924年)であった。

淡水街長官舎であった建物は現在、「滬尾文史工作室」が郷土史研究などに使われている。
外壁には史蹟の新聞記事や、水源街にいまも立っている畜魂碑の紹介が張られていたこともある。

多田栄吉氏は1930年から1933年まで街長を務めたが、この馬偕街19号に建てた官舎には台湾で初めて個人の住居に水道が引かれたという。
淡水街長には鳥井勝治氏、小副川猛氏なども就任したと言われているが、私の両親や祖母が居たころは中原薫氏が街長としてここに住んでいた。

いまも淡水の観光ガイドブックには「淡水街長多田栄吉故居」と記されている。


2011年08月31日

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文化古蹟巡禮地圖2009

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臺北縣淡水藝術舞動街坊・文化古蹟巡禮地圖(2009年版)がある。
2009年3月に訪台したときに貰ったものである。
当時は新北市なる前で、淡水鎮であった。

ガイドマップの凡例に公家機関(4)・古蹟景點(19)・渡船頭(1)・公車站牌(4)・公共厠所(4)が示されている。

このほかガイドマップには環河道路沿いには金色水岸として黄色の線が引かれており、古蹟景點(未開放・修理中)というのが13箇所あり、凡例以外にも真理大教堂・女子學校・滬尾砲台・忠烈祠などが図示されている。

4箇所の公家機関は、淡水鎮公所・郵局・淡水分局・臺北縣淡水古蹟博物館である。

19箇所の古蹟景點は、①山寺・②穀牌倉庫・③龍山寺・④清水巌祖師廟・⑤布袋戯主題館・⑥福佑宮・⑦紅樓・⑧馬偕三角公園・⑨滬尾偕醫館・⑩藝術穿堂・⑪淡水長老教会・⑫観潮藝術廣場・⑬小白宮・⑭馬偕墓園・外僑墓園・⑮理學堂大書院・⑯淡水海関碼頭・⑰紅毛城・英国領事館・⑱淡江中學八角堂・⑲日本古民家である。

13箇所の未開放/修理中の古蹟景點には番号は付いていないが、「滬尾湖南勇古墓」、「淡水水上機場」、「淡水気候観測站」、「淡水崎仔頂施家古」、「滬尾小學校講堂」、「清代古宅」、「木下静涯晝家宅邸」、「日本警官宿舎」、「藝術工坊」、「日商中野宅」、「國語禮拝堂倉庫」、「日商五連棟商行」、「淡水街長多田栄吉故居」である。
明鄭時代も清の時代も日本であった時代も含めて古蹟を保存しようとする精神は台湾ならではのものであろう。

この地圖の裏面は清法(仏)戰爭125週年を記念して「淡水古戰場」となっており、表面に匹敵する記載があるがこれはまたの機会に紹介しようと思う。


2011年09月08日

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穀牌倉庫

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臺北縣淡水藝術舞動街坊・文化古蹟巡禮地圖(2009年版)に公開されている19箇所の古蹟景點の2番目に挙がっているのが、戦前に施合発の製材工場やその専用桟橋のさきにあった煉瓦建ての穀物倉庫である。

旧縣定古蹟に淡水外僑墓園、淡水禮拜堂、滬尾偕醫館、淡水海關碼頭、淡水氣候觀測所、淡水水上機場とともに「原英商嘉士洋行倉庫」として掲げられている。

手前に見えるのは水上生活者の住居と漁船である。

2011年09月21日

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龍目井界隈の移り変わり(1:小公園)

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いま、中正路と建設街とのロータリーは馬偕博士の頭像が建っており、馬偕頭像のあるところと言えばすぐ判る。

このあたり一帯は龍目井と呼ばれていた。

左手前の建物の向こう側の路地を左に入ると馬偕医院やキリスト教長老派の礼拝堂がある。

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この写真はウェブで見つけたものであるが、いつ頃のものであろうか?

右の店舗には「明石商会(?)」の屋号が見える。

中央には淡水中学の生徒らしい鞄をたすき掛けにした3人が写っている。

その手前には人力車が2、3台、客待ちしている。

その左が興亜医院であった。

この頃は煉瓦造りのキリスト教会はよく見えていた。

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戦後、国府軍が来てこの道路は中正路と改められた。

手前にはコンクリート製の機関銃座が設置されている。

後の建物には「三山飲食店」と看板が掛けられている。


2011年09月22日

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龍目井界隈の移り変わり(2:郵便局傍の小橋)

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一昨日、昨日と載せた写真から僅かに紅毛城の方に寄ったところである。

右の大きな木造建造物は戦前から淡水郵便局であった。

手前の低い石塀の写真手前に路地があり 1、2軒入ったところに住んでいた。

この写真は戦後、父の教え子の一人が送ってくれたものである。

郵便局の手前、ちょうど自転車に乗っている人の辺りに小さな橋が見える。

この橋もLCさんのお父さんが請け負って構築したものである。

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LCさんが1975年に渡米後はじめて淡水に帰ったときに撮ったものを送って貰ったカラー写真である。

通りの斜め向かいには戦前から理髪屋さんがあった。
それがそのまま「滬尾號」理髪廳として残っていた。

道路の反対側であるが、手前には小さな橋の向こう側の欄干がよく判る。

このブログを開設して来月で一年になるが、皆さんに教えて貰って随分 以前のことが判って来た。


2011年09月23日

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淡水神社の名残り

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油車口の淡水神社は新北市忠烈祠となり、社殿も鳥居も姿を変えてしまったが玉垣や石段だけでなく注意深く見ると幾つか名残を見つけることができる。

この手水舎もそのひとつである。

日本の神社では参拝の前に手を清め、口を漱いで神前に立ち、2礼2拍手1礼で参拝するというしきたりがある。

従って神社には必ず手水場がある。

いまは四阿風になっているけれど、明らかに手水舎の名残である。

2011年10月07日

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樹齢百年の榕樹

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当時の淡水公学校(男子校)は、1941(昭和16)年4月1日に淡水東国民学校となり、戦後は淡水国民小學となった。

校地を設定したときに校庭に植えられた榕樹(ガジュマル)は昨年訪問したとき、樹齢百年と言われていた。

校舎は建て替わり、校門も移動したが十株以上の榕樹は人間の世の変遷に動じることなく立っている。


2011年11月13日

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坂の町、淡水

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淡水は河岸に沿った街である。

場所によっては丘が河岸まで迫っているところもある。

公会堂もそんな高台にあり、前には細くて急な坂道が馬偕博士の旧居の前を通って河岸の道路に連絡していた。

紅毛城の前も坂道になっているが、現在は途中ですこし湾曲し、拡幅舗装されているので自動車も通れるが、その近くには民家の軒下から石段や急な細い坂道のままのところも多い。

引き揚げて何十年かして、久しぶりに淡水に行ったときは既に公会堂の跡地は整備されていたので何処か判らなかった。

しかし、河岸道路から急にせり上がった高台に上る細い坂道や石段を見たときに、直感的に懐かしさを感じた。

戦後の都市計画ですっかり戦前の面影を失ったところもあるが、ちょっと路地に入れば昔のままの淡水がそこにある。

名もない細道が当時を偲ばせることがある。


2011年11月14日

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油車口の高台

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淡水の街外れ、油車口には1939年に淡水神社が鎮座したが、そのあとは忠烈祠となっている。

榕樹や楠が繁っていて良い日陰を作ってる。

その横には和平公園が造成され、川向こうには優美な観音山が望める。

私が訪れたときも、木陰で写生をする人がいた。

もう少し先に行くと旧砲台もあり、有名な台湾ゴルフ場もある。

散策には良いところである。

2011年11月16日

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淡水郵便局と飛行艇

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淡水の河岸道路の先端近くにスターバックスの店がある。

ここは淡水の郵便局(裏口)であった。

「台北ナビ」に「マカイ先生を訪ねて、淡水へ」(http://www.taipeinavi.com/special/5001946)というページがある。

その一角に上掲の写真とともに
『隣には、スタバと郵便局。日本時代、実はこの目の前の淡水河は、飛行艇が着水する場所で、日本と台湾を行き来する郵便物が飛行艇で届けられ、このスターバックスの後ろの郵便局を介して、台湾各地に届けられて行ったんだとか。』
と紹介されていた。

ほかのページで淡水に内地から郵便物を運んでいた川西の飛行艇について記載してあるのを見たことがなかっただけに嬉しかった。

ここには以前、2階に淡水郵便局カフェがあり、郵便番号ラテ、普通郵便モカ、速達カプチーノ、小包マキアートなどのメニューが並んでいたと言うし、1階では記念切手、記念コイン、ポスト型貯金箱、切手の図案を印刷したカップ、郵便配達人フィギュアが展示されていて、その場で撮影した写真で個人記念切手も作成してくれたという。

河岸側はその後スターバックスになったが、中正路に面した郵便局に立ち寄ってみたいと思う。

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これは郵便局カフェの頃の写真である。

2011年11月22日

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飛行艇の飛来した淡水

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淡水に飛来した飛行艇は、郵便局や郡役所の裏の河面に繋留されていた。

遙か南の東港ではなく、台北の傍の淡水に着水出来たのは淡水駅の外れの鼻頭地区に水上機用基地があり、燃料や潤滑油の補給やエンジンの整備が出来たからである。

ここには浮舟付き複葉の水上機が配備され、毎日気象観測飛行を行っていた。

数年前までは、水上機を引き上げる滑りなどがそのままに放置されていた。

すぐ傍までマングローブ(紅樹林)が保全されていたからである。

しかし、戦前海水浴場のあった沙崙を「漁人碼頭」として再開発したように公共用地として開発され始めたようである。

新北市淡水区は、開発に観光とともに環境保全を謳っている。

ここの再開発には疑問を抱きつつ注視している。

上掲の写真は、昨年送って貰った写真である。

2011年11月23日

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長老派教会の壁画

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この写真は2009年3月に訪台したときのものである。

長老派教会の壁に何枚かの壁画が作ってあった。

託児所のようであった。

この教会の前は現在、藝術廣場のようになっているらしい。


2011年12月04日

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玩藝淡水嚮樂趣

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今年8月に紹介したページである。

少し更新されている様である。

表示されているポイントの番号がなくなり、順序や表記が微妙に異なるところがある。

◎紅毛城
◎龍山寺
◎マカイの墓園
◎福佑宮
◎山寺
◎牛津学堂
◎淡水礼拝堂
◎滬尾偕医館
◎シェル倉庫
◎海関埠頭
◎気象観測所
◎淡水水上飛行場
◎多田栄吉の旧居
◎日本の警察宿舎
◎人形芝居のテーマ館
◎忠烈祠
◎イギリス領事官邸
◎婦学堂
◎淡水女学校
◎八角塔
◎マカイの故居
◎紅楼
◎清水巌祖師廟
◎マカイの頭像
◎淡水漁業生活文化影像館
◎淡水の灯台
◎牧師楼と姑娘楼
◎外国人墓園
◎淡水漁人埠頭

それにしても真理街沿線の日本時代の古蹟のなんと多いことか・・。


2011年12月05日

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木下静涯画伯旧居への石段

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馬偕博士の頭像のあるロータリーのある場所は三民街と呼ばれているが、中正路から緩やかな昇り坂になって建設街へつながっている。

その東側は紅楼の建つ丘になっている。

店舗の間に、その丘に登る石段がある。

この石段を上ったところに木下静涯画伯は居を構えていた。

いま、そこも古蹟として整備されていると聞く。

近いうちに公開されるのであろう。

2011年12月11日

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淡水街

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日本特別展覧会資料「拝啓 日本様−淡水より−」によると、『清朝時代にまず栄えた米市、元吉および公館口から次第に坂の下の後街仔、東興、公館口、新店などの地区に移り、その中でも東興付近が最も繁栄していた。(中略)1920年に福佑宮の前に公有市場が設立され、商業地域は新店一帯に移り始めた。この地区の商業は種類が多く、台湾人と日本人の店が同じようにあった。行政機関は主に烽火段では小売り業を主とした商店は置かずに、多くは会社の形態を採り、労働力の仲介は南国公司と不動産業の川口屋が行っていた。』とある。

そして『1929年に狭隘になった淡水市街の再開発が始まり、1930年に完工、淡水駅から税関までの道路が拡幅された。1934年には「現在の道路は道幅が狭く、拡張工事の実施で交通の円滑化を図る」として旧市街地の道路を幅9.1メートル(両側に各1.3メートルの歩道が設けられた)に拡張して、下水道も敷かれて公共衛生の維持が図られた。住民は両側に大量に建設された2階または3階の「昭和様式」の建築物に住むようになり、現在の淡水中正路の主要な伝統市街地が形成された。1938年までの間に、公共市場も建て替えられた。』と解説は続いている。

写真は整備された新店の街並みである。


2011年12月13日

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台湾銀行淡水支店長宿舎跡

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今日、グーグル・ストリートで見ていると、淡水河の河沿いにあった台銀支店長宿舎跡(↑写真)が見当たらなかった。

当時あった建物の幾つかは古蹟として整備されているようであるが、支店長宅はその中に含まれていなかったので撤去されたのかも知れない。

以前から、周りは徐々に舗装され、駐車場のようになっていた。

少し残念な気もするが、全部当時のままにしておくわけには行かないのでやむを得ない。

2011年12月15日

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街長 多田栄吉旧宅

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淡水の初代街長は洪以南であった。
彼は1913年に淡水の豪商、李怡和の旧居「達観樓」を買い取り、文化人のサロンとしていたという。
この「達観樓」は現在「紅樓」として知られている。
洪氏は1921年から1924年の間、初代街長を務めた。

多田栄吉は1930年から1933年の間、淡水街長(鎮長)を務めた。
現在、馬偕街19号に旧宅が残されている。
ここは台湾で初めて水道を引いた住居であった。

両親の結婚式には当時、街長を務めていた中原 薫氏が親代わりとして参列してくれた。
そのほか、街長を務めた人には鳥井勝治氏、小副川猛氏などがいるが、古蹟として「淡水街長多田榮吉故居」と表記されているのは、淡水地区の近代化過程で氏の施政上の功績が偉大であったからであろう。

2011年12月17日

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駅の傍には施合發の碼頭があった

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淡水は、かつて大陸との交易港であっただけでなく、沿岸の漁業も行われていたし、対岸の八里との連絡船もあった。

従って、紅毛城近くの河岸には海関碼頭があり、小漁港もあったし、台湾中から淡水郵便局に集められた郵嚢を汽船に積み込むための郵便碼頭があった。
それに渡し船の発着する渡船頭など多くの船着き場もあった。

しかし、それらにも増して戦前には現在MRT車站のそばにあった台湾一の木材工場、施合發の存在が大きかった。

施合發は、1930年代には2千トン級の2軸船「大観丸」などを所有していただけでなく、3千トン級の「杭州丸」も傭船していたので、現在駅前公園になっている場所に専用埠頭を3つも持っていた。
淡水河は砂の堆積で水深が浅いので、日本から満載してきた木材は河口で降ろし、筏に組んで貯木場へ曳航し、船の喫水を浅くして本船を接岸させていたという。

2011年12月23日

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小公園

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馬偕博士の頭像のある三民街のロータリーである。

左手前、歩道の向こうを左に行くとキリスト教長老派の教会へ行く。

その路地の向こう側は戦前、木造の明石商店(?)であったが、戦後コンクリート造に建て替えられて、三山飲食店になっていた。
今は外装も派手なイタリア風になっている。

その向う側に戦前、豆腐屋があったという。

2004年の夏に下松のMさんと、龍目井で生まれた妹とともに淡水を訪れたときにMさんが戦前、豆腐屋のあったところで今も豆腐屋さんのあるのを見つけた。
Mさんは、その頃よく豆腐を買いに行って居たという。

台湾の豆腐にもいろいろあるようであるが日本の豆腐より堅めのようである。

台湾にはいまでも日本式の畳や桶を商っている店があると聞く。


2012年01月04日

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淡水古蹟の一つ、街長旧居

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年が明けたので、KGさんとボストンの博士と淡水を訪れたのは一昨年になる。

昨年、民国100年を記念して淡水国際環境芸術節(フェスティバル)が行われたが、淡水では古蹟の整備が積極的に行われている。

国民政府時代に台湾の歴史がなおざりにされていた反動か、台湾史を残そうという運動が盛んなのである。
紅毛城や滬尾砲台だけでなく、戦前の街長や木下画伯の旧居なども含まれる。

イラストは淡水古蹟博物館の発行した観光マップの一部であるが、(22)は淡水街長多田榮吉の旧居である。

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ただ建物を保存するだけでなく、市民の文化活動に使われていると言うことは嬉しい。

ちなみに(6)は滬尾偕医館、(7)は淡水禮拝堂、(8)は淡水税務官邸(小白宮)、(23)は淡水第一漁港、(24)は馬偕博士の旧居、(25)は淡中八角塔、(26)は淡水女学校である。

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今年のお年玉にKGさんから本を貰った。

元日の消印のレターパックで送られてきた。

2日に羽田から松山空港に行くと聞いていたが、出発前に発送してくれたものであろう。
酒井 亨著「台湾人にはご用心!」(三五館刊)である。
面白いのでじっくり読ませてもらう所存である。


2012年03月21日

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英国領事館

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淡水の領事館のスタンプである。

幼い頃、生け垣をくぐり抜けて入った庭のあたりも赤煉瓦の本館も当時のままである。

現在、新北市立淡水古蹟博物館の一部になっている。

当時のユニオンジャックに代わって、青天白日満地紅旗が掲げられているが、館内は英国領事館当時が再現されている。


2012年03月22日

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小白宮

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淡水公会堂のあった砲臺埔に今も小白宮が古蹟として維持されている。

清朝のころ、英国に税関を任せていた頃の税関吏の官邸務所であったが、戦後は迎賓館や淡江中學の学生寮になったりしていたが、その後荒廃して幽霊屋敷のようになっていたことがあるそうだ。

廃棄が決定されたときに、学識者など有志が奔走して、1997年に3級古蹟として保存されたものである。

いかにもコロニアル風の建造物で、ここから淡水河の向こうに観音山を望むことが出来る。


2012年03月23日

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淡水駅前広場

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淡水河の夕陽は美しい。

MRT淡水線の終着駅の辺りは河岸公園として整備されている。
夕刻、陽の落ちる前の雰囲気は大好きである。

以前、行ったときに初老の人が「蘇州夜曲」を弾いていた。
このとき二胡の音色に惹かれた。

戦前、淡水駅には引込線が敷設されており、施合發、老義發という台湾一の材木工場があった。

施合發には台湾各地だけでなく内地との間で木材を運搬する社有船を持っており、一帯に専用埠頭が3本も在ったことを知った。

船名「大観丸」は、大屯山と観音山に因んで命名されたという。


2012年03月24日

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北投の善光寺

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2004年の8月に撮った写真である。

背景は観音山であるが、この写真にはあまり記憶がない。

8月にマキ子さんと妹と一緒に北投の善光寺に行ったことはよく憶えている。

舗装道路から登る石段の両側には日本式の立派な石灯籠が立っていたが、幼い頃の記憶に残る境内はもっと広かったように思う。

そして、本堂の在ったところに大きなコンクリートの建造物があり、その上は芝生になっており、周囲には腰の高さに落下防止柵が廻らされていた。
あるいは2段構造になっていたのかもしれない。

後日聞いたところでは、この下に当時のまま畳敷きの善光寺が残っていたと言うことであった。
そういえば、ここから降りるときに階段の脇にドアがあったような気がする。
灯籠の脇にタクシーを待たせていたので帰りを急いでしまった。

また訪ねることがあると思う。


2012年03月25日

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地熱谷(北投)

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善光寺を訪ねたときに、MRT新北投からタクシーで行ったので街に降りて地熱谷に行って貰った。

ここの原泉は熱い。
特殊な放射性元素が含まれていると言われる酸性泉である。

以前は網や籠に卵を入れて温泉タマゴを作る人も居たが、今は禁止されている。

幼い頃、母に連れられて傍に行ったことを想い出した。

2012年03月27日

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淡江中學の騎馬

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2012年のロンドンオリンピック馬術競技にに法華津寛選手(2012年3月28日で満71歳!)が出場するが、台湾も馬術は盛んで2008年に香港で行われた北京五輪の馬術には陳少曼、陳少喬の双子の選手が出場している。

戦前、淡江中學にも馬術部があった。
この写真は、淡水古跡博物館の開設4周年を記念して編集された日本特別展示会「滬道日安」(2009年12月23日)に載っていたものである。

戦前の台湾には水牛は沢山居たが、今は牛も馬も水牛も見る機会は非常に少なくなった。

2012年03月29日

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英国大使館から理學堂大書院へ

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現在、新北市立淡水古蹟博物館の一部となっている紅毛城入り口を坂の上から撮った写真である。
背景に淡水河と、その向こうに観音山の麓の八里が見える。

この辺りは烽火という地名であった。

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こちらは上の写真と、ほぼ同時期の写真であるが、植木や街路の育ち具合からして僅かに後のものと思える。
当時の道路工事はのんびりと行われていたのであろう。

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この写真は1995年3月に、引き揚げて以来初めて訪れたときに撮ったものである。
上の2コマと逆に下から見上げたものであるが、坂道はまだ舗装されておらず真理大學の大礼拝堂も建設されていない。

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これは現在とほぼ同じ状況である。
坂道も舗装され、礼拝堂も聳えている。


2012年03月31日

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淡水國民小學

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淡水國小は創設116年目にあたる。
1896(明治29)年に淡水國語傳習所として創立され、滬尾公学校、淡水公学校、淡水東国民学校、淡水國民小學と名称の変更を重ねながら今日まで続いている。

校歌も、伝統の漕艇体操も淡水公学校時代のものが引き継がれている。

こんな例がほかにあるのだろうか?

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この写真は公学校当時のものである。

写っている榕樹(ガジュマル)は樹齢百年を過ぎて今も繁っている。

2012年04月05日

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木下静涯記念公園

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ボストンの博士から淡水の写真を送って貰った。

その中に、最近整備された木下静涯画伯の記念公園の写真がある。

小公園の近くであるが、当時は狭い坂や石段を登って行くところであった。
入り口には手摺りのついた傾斜の緩い階段も新たに設けられている。


2012年04月30日

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三協成餅舗

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新北市淡水區中正路81號の「三協成」本舗である。

1935(昭和10)年に創業した菓子メーカーであるが、中文、日本文、英文、それに独文までPR紙を作っている。

三協成は、戦前、塩や酒、煙草など専売品を扱っていた塩屋の黒川さんの筋向かいにある。
黒川さんの居たところは中正路69・71號で、当時の建物は今も残っている。

淡水公学校で学んだ方の娘さんの仕事場もすぐ近くである。

2012年08月01日

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龍目井界隈

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両親が結婚した当初(1939年)は公会堂の裏にあたる淡水小学校や女子公学校近くの宿舎に新居を構えたらしい。

その後、間もなく新店街で塩屋を営んでいた黒川さんの2階を借りて住んでいた。
3間あり、広廊下あり、ベランダありでとても住みやすい家であったという。

お産が近くなって、祖母が管理人をして食堂や仕出しを営業していた公会堂に移った。
そこで私が生まれた。昭和15年は皇紀紀元2千6百年であり、その紀元節の前夜であった。
産婆さんは市川ヲコさんであった。
資生堂の広瀬さんや公学校長夫人の松田サトさんなどもお祝いに来てくれた。
大事に育てられ過ぎたのか、よく医師の李樹林にお世話になった。

翌年、祖母は公会堂の管理人(街の嘱託)をやめ、丹羽先生が転勤で空いた龍目井の家に移った。
玄関は郵便局に近い路地を入ったところで竜舌蘭や虎の尾が植えてある家であった。裏口は同僚の安武先生の家の裏口に通じていた。窓側に掛樋を掛け、縁先に四角い水槽を据えて金魚を飼っていたという。
妹の恭子は龍目井で生まれた。大東亜戦争開戦1周年記念日であった。

1943(昭和18)年の春、父が三芝公学校に転勤になったので龍目井に住んでいたのは長い期間ではなかった。

龍目井は淡水街でも古くから家の建ち並んでいたところである。
海水浴場や、旧砲台淡水神社のある油車口から来た河岸道路と淡水駅から来た舗装道路が交わるところで、ここで道路が微妙に方向を変えており、そこに小さな三角のスペースが出来ていた。

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この写真は大正から昭和初期の写真であると思われるが、左手前で河口から来た路が左斜めに曲がってその両側に出来た空所に木が立っているのが判る。

その後、この両側の小さい三角形の地に低い木柵を作って、ここを小公園と呼んでいた。現在、マッカイ博士の頭像のあるロータリーである。

我が家の入り口は、その小公園を郵便局(河口側)の方によった路地にあったが、その路地を出たところに散髪屋があった。ここは戦後も営業していた。
裏口で通じている安武先生の家はこの小公園に面していた。
そしてその斜め向かいの興亜医院で、ボストンの博士は生まれている。

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これはご母親に抱かれて鄭医師と撮影された幼子の頃の博士の写真である。

新店街で黒川さんが塩屋を営んでいた建屋は、改装/補修されならが現在も残っており、信用組合の楊さんが写真で様子を知られてくれるが、龍目井の辺りの建物は興亜医院を含め、すっかり変わっている。

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この写真は、2010年9月29日に、ボストンの博士と、横浜のKGさんと現地で合流し、当時の鎮公所を表敬訪問したあと、孫さんに案内して貰ったときのものである。

孫さんは青いテントの張ってあるペットショップのあるところが我が家のあとであると教えてくれたが、幼い記憶によればその向こうに見える十三行の看板の辺りを入った路地のような気がする。
安武先生の住んでいた家は小公園に面していたから、書士事務所かその隣の食物屋か陶笛屋の建っている辺りであった筈である。
いずれにしてもこの辺りはすっかり建て替わり、小路も付け替わっているので特定することは出来ない。

龍目井のロータリーからはすぐ河岸に出ることが出来る。

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陶笛屋さんの横の道から淡水河の河岸道路が見える。
こんな小さな道でも舗装されており、LPGボンベを3つくらい載せたバイクが飛び出してくるから油断は出来ない。

この近くには日本産の米も売っていた米穀商、伊良波もあった。

2012年08月06日

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雨の龍目井

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この写真はボストンUSAの博士に送ってもらったものである。

現在、馬偕博士の頭像の立っているロータリーから河岸側を見たものである。

大きなビクトリア調の木造建築であった郵便局も建て替わっている。

龍目井に住んでいた頃の我が家は郵便局から少し手前に来て路地を入ったところであった。
そしてこの写真の正面あたりが同僚の安武先生の住まいであった。
この辺りの建物は建て替わっている。

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この写真は1920年代に紅楼から見下ろしたものである。

大きな屋根の郵便局がランドマークになっていた。
現在、AMANDA喫茶店のあるところに木造の興亜医院が建っていた。

長老派教会も再建前のものである。

2012年08月07日

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木下静涯記念公園

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淡水では戦前の建造物や施設を復元/保存する事業が着々と進められているが「木下静涯記念公園」もその一つである。

木下画伯は、台湾四画伯の一人として台展審査員などを務めておられた。
しかし、教壇に立つこともなく見晴らしのいい高台に居を構え、雨後の観音山の色紙や仏桑華の短冊などを描いておられた。

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戦後、我々と一緒に引き揚げられ、北九州で百歳の天寿を全うされた。

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当時、小公園の裏の紅楼の近くに住んで居られた。

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そこに上がるためには狭い階段や坂を登らなければならなかったが、最近建屋を撤去して立派なエントランスが出来た。

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園内には、画伯がよく言っていられた「好日好日、又好日」の文字が刻まれている。

こうして現在の淡水の様子をすぐ知らせて貰えるのも有難い。


2012年08月17日

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淡水海水浴場

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祖母は幼い母を連れて、淡水街営の海水浴場「和樂園」を管理していた伯母の浅野タツのところに寄寓した。

ゴルフ場と同じように台湾で初めての海水浴場の施設であった。
シーズンには鉄道の淡水線の割引切符が発行されたり、停車場から海水浴場へのバスも増発されたりしていたという。

小学校も公学校もよく利用していたそうである。

公学校の1939(昭和14)年3月卒業のアルバムにも写真が載っている。

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父もメモに海水浴場に連れて行ったことを書き残している。
「(前略)夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが3匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。(後略)」

運動帽もひよこの海水着も海水浴場の忘れ物であった。

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カリフォルニアからLCさんも写真を届けてくれた。

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「淡水海水浴の和樂園へは幼稚園、公学校の頃、度々行っていましたから、記憶は鮮明です。
日本座敷は無論畳敷きで障子を開ければ板の縁側、縁側から飛び降りると、砂原で太陽に焼けた熱い浜辺を海に向かって駈けて行きます。
頭を上げて真向かいを見ると観音山です。添付の写真参照。
ですから和樂園のあった所は間違いなく淡水川の出口で、燈台の横、今は漁人碼頭になった海水浴場です。
スケッチの旧海水浴はシナ海に面した方面で観音山は見えません。
行き慣れた海水浴場が新海水浴場で、その前に旧海水浴場があったとは初めて知りました。」
と教えて貰った。

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漁人碼頭は、漁港とマリンレジャー兼用施設として戦後整備されたものである。
(大戦末期には演習場や射爆場に使われていたため荒れ果てていた)

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この写真は戦後、父が初めて訪台したときの写真である。

当時未だ漁人碼頭は整備されていないので、一時的に外海(台湾海峡側)に設けられていたのであろうか?

ゲートが設けられているが、海浜遊園地みたいなものであろう。

2013年02月16日

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淡水街附近の地図(上)

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2010年9月に淡水に帰ったときに、陳淑女先生に「淡水國小九十周年記念誌」を戴いた。

上掲の図はその記念誌に載っていた「淡水街附近」という略地図である。

何年頃のものか定かでないが、当時中洲が大きかったことはこれで判る。

しかしちょっと縮尺が過ぎるので、先ず停車場寄りの部分を取り上げてみる。

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この地図に公会堂は載って居らず、鳥居のみが描かれている。
これは淡水稲荷社であろう。
1928年の昭和天皇即位大典記念行事として寄付金を募って公会堂をが、の西隣に建てられたらしいので、それ以前の略地図であろうと思われる。

その近くの河岸沿いに郵便局と郡役所があり、鳥居の山側には小學校が描かれているが、LCさんによれば煉瓦建ての立派な幼稚園のあった場所だという。

そこから西寄り(河下側)の紅毛城の下手に台湾銀行(淡水支店)と税関が見える。

淡水は日本郵船や大阪商船のような外航船も出入りしており、出入港の水先を務めるパイロットも住んでいた。
しかし淡水河の堆積で喫水の深い船は航路開設後間もなく入港出来なくなった。
施合発の木材船は沖で木材を水面に降ろして筏に組み、喫水を浅くして接岸していた。

この地図の描かれた後、区画整理によって新路(後の中山路)が敷設された。

停車場から公会堂や郵便局、郡役所までは数百メートル離れていたが乗合自動車もなかったので人力車が街角で客待ちをしていた。

その後、香港やシンガポールと内地を連絡した飛行艇は郡役所裏の水面に繋がれていたと思う。

2013年03月04日

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滬尾砲臺から観音山を望む

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油車口の和平公園の傍に、ゴルフ場に隣接して滬尾砲臺がある。

この砲臺は1884年10月にフランス軍が上陸(清法戰爭:撃退)のあと、海岸防備のためにドイツ人工兵大尉マックス E.ヘヒトを招聘して1889年に構築された。

コンクリートで長辺およそ100メートル、短辺80メートルほどの堡塁を築き、4隅に12インチ/10インチのカノン砲や21サンチ榴弾砲を備えており、堡塁の下は砲臺に続く隧道が設けられ、地下に火薬庫や兵員居住区などが設けられていた。

中庭は操練を行うほか、炊烹所や倉庫も建てられていたが、さいわい実戦に使われることはなかった。

この写真は「植鉄の旅」(http://liondog.jugem.jp/)というページから転載したものである。

砲臺の台湾海峡に向いた北西隅の12インチカノン砲台座から南に対岸の観音山を望んだもので、ちょうどその方向に劉銘伝の字で「北門鎖」と銘板のある正門がある。

の胸壁に砲弾型の凹みが見える。実際に砲弾を置いていたとは考えにくい。装飾なのだろうか?


2013年03月05日

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「小白宮」

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淡水の真理街15號(地名:砲歩埔)にある小白宮(清朝税関総税務司令邸)は1997年に三級古蹟に指定されている。

天津条約で淡水が開港された翌年、滬尾の水師守備署を税関公署にしたが、清朝では税務官を外国人に委ねていたので、イギリスの公爵が初代の税関吏に任命された。

その後、数年経って回廊式建築が建てられた。ここには白壁の平屋や赤煉瓦の2階建てなど三棟があり、聖ドミンゴ城駐車場の前方にあたる場所には3層建ての豪奢な官邸も建てられていたというが今は跡形もない。

当時、淡水は台湾の総税関であったが後年、基隆港が整備されると淡水税関は基隆の支署となり、その後官庁の招待所や迎賓館となった。

戦中から戦後にかけて淡江中學の学生寮になったりしていたが、その後は荒廃し、一部は公会堂洋館の焼け跡と同じく、お化け屋敷「鬼屋」になっていた。

1990年代に廃棄されることが決まったが、残された建屋は地元有志や学者の奔走で古蹟として残されることになった。

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淡水で有名な銘菓本舗の三協成はいくつかの淡水の名所について挿絵入りの資料を作っているが、小白宮については台湾語、日本語、英語のほかドイツ語でも2ページの解説を発行している。

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いつか、翻訳したいと思っている。

2013年03月20日

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公会堂の前の坂道

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戦前、公会堂の建っていた高台から馬偕博士旧居に降りる坂道の写真を見つけた。

制服を着た中學生が登っている坂道はまだ細く、路面は石畳のように見えるが、後に見える階段のように成形されたものではない。

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この写真は、上のものより少し離れて撮ったものである。

アングルの関係か、上の写真では見えなかった長老派教会の尖塔が見える。

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これは高台の上から撮ったもので、左にゆく舗装されていない道路の縁石は幼い日に見た覚えがある。

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この写真は、もう少し後に撮影されたものらしく、背景の家屋が増築されている。

そして写真の左に公会堂の生垣と洋館の一部が見える。

カメラの後方を行くと淡水小学校と女子公学校があった。

写真は(http://www.tamsui.org.tw/old-photos/)から転載したものである。


2013年03月26日

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長老派教会

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淡水の長老派キリスト教会は、カナダから初代の海外宣教師として馬偕博士が来台したことに起源する。

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最初、馬偕博士は清軍の馬小屋を借りて礼拝の場にしていた
(上の写真で左上に矢印がある)。

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彼の没後、1915年に100人を収容できる白亜の教会が建てられた。

3代目にあたる現在の教会が設立されたのは1933年のことである。

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煉瓦建ての教会にある美しいステンドグラスは1986年の改修時に取り替えられたものであるという。

2013年04月14日

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淡水公学校講堂の天然色写真

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「淡水國小九十周年記念誌」に講堂のでカラー写真が載っているのを見つけた。
煉瓦色が鮮やかである。

資料を見返していると、ときおり新たな発見をすることがある。

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