メイン

淡水の思い出 アーカイブ

2010年11月07日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水の思い出(1)

TansuiMap.jpg

淡水河は台北から台湾海峡に流れ出る大河である。

概史にも述べたように19世紀にはジャンクが台北の萬華()地区まで溯り、淡水河沿岸の貿易量は台湾随一であったという。
カリフォルニア(USA)に在住するCさんは淡水から萬華まで蒸気船が運航されていたという。

1897年には日本郵船が淡水・福州航路、淡水・香港航路を開設し、1899年には大阪商船も淡水・香港航路の運航を始めた。

淡水には税関もあったし水先人(パイロット)も住んでいた。

しかし、徐々に河床の堆積がすすみ、大きな中洲が出来て大型船の入港が困難になり、1909年頃航路は運休されることになった。

1940年代に、近所の何家族かで(サンパン)で中洲に蟹を採りに行ったことがある。

淡水河の低質は泥で、河岸にはマングローブの茂みがあった。

潮が引くとシオマネキ(潮招き)という片側だけ鋏の大きい蟹や、有明海のムツゴロウに似たハゼが這っていた。

その蟹を採って砕いて塩辛にするのである。

洋式のボートは進行方向に背を向けて座り、両手でオールを引いて進み、和船は横向きになって左舷船尾の艪を漕ぐが、(サンパン)は前向きに立って両手で櫂を押して進むのである。

大人が蟹を採っているあいだ、子供達は水溜まりに残された小魚やヤドカリを捕って遊んでいた。

2010年11月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父のメモから(3:和製台湾語)

TansuiTsuiso_1.jpg

このブログも開設して1週間になる。

「はじめに」で書いたように、少しずつでも情報の蓄積や橋渡しとなり、淡水に縁のある人たちの連絡や情報交換に役立つことができればと思って立ち上げたものである。
さっそく、クレゴーさんやCHMさんからメッセージを戴いた。

回顧録や思い出メモ、あるいは旅行記といった過去の事柄ばかりでなくこれを見てくれた人の交流の場になることが出来れば喜びである。

よく知らないが「淡水会」には会員資格や入会手続きなどないと思う。
淡水に縁があったり興味があって入会したい人がいればお知らせ下さい。

今回は父のメモから『和製台湾語』というページを見つけたので掲載してみた。

	ゴア		吾
	リー(ニー)	あなた
	ギナ		子供
	ラホヤ		大人
	チャー		食べる
	リム		飲む
	カットワ(ク?)大きい(アップイ)
	アパ		父
	アボァ		母
	タンコエ	冬瓜
	キムコエ	南瓜
	シーコエ	西瓜
	オンライ	パイン
	キンチョウ	バナナ
	レンム		黄色(果物?)
	ナップ		棕櫚?
	タオケイ	大将
	トウタウ	南京豆
	アイコン	眠る
	ホーラ		そうだ
	ピヤチュウ	酒
	ラオチュウ	老酒
	ビーチュウ	米酒
	ボヤキン	かまわない
	カッキン	急げ
	テーライ	持ってこい
	ホウチャー	おいしい
	トワチャー	人力車
	クリータウ	苦力頭

ほかにもビンタンなど聞き覚えのある言葉もあるがノートには載っていない。

読めない文字を無理に読んだものもあり、本来の意味と違うものも含まれていると思う。
ご指摘を戴くと有り難いのですが・・・

(挿絵は、父がもう台湾に行くことはあるまいと思っていた当時、思い出から描き出した淡水の街)

2010年11月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水の思い出(2)

Kwannonzan_1.jpg

幼い頃の思い出は本当に自分で見聞したことなのか、当時のことを懐かしんで両親や祖母が聞かせてくれたことなのか判然としないこともある。

バナナを皮ごと食べてしまったことは母が笑いながら話して聞かせてくれたことであるが、公会堂の前に立っていた木瓜(モッカ・ボッコエ:パパイヤ)が食べ頃に熟れて種をとってもらってスプーンで食べたのは覚えている。

当時、露天の店先には短く切った砂糖黍や、実の付いた龍眼の枝先を束ねたものを売っていた。

南京豆売りが「トータウよ、ナンキンマメよ」と大声で売り歩き、新聞紙をコーン状に丸めてはかり売りしていた。

夕方には按摩さんが笛を吹きながら街を歩き、「按摩さん!」と声が掛かると呼ばれた家に上がり、肩や腰を揉んでいた。

祖母や母の話では、もう床についていた夜中に按摩さんが寝室に「おばあさん、按摩揉みましょうか?」といって入ってきたと言うのである。

夜も雨戸を閉てることなどなかった「古き良き時代」の話である。

2010年11月13日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

おぼろげな記憶

ryojikanmae_1.jpg

公会堂から龍目井に引っ越したあと、三芝に転勤になった。
私の幼い頃の記憶では、家族が引き揚げ前に住んでいたのは英国領事館の近くであった。
英国領事館のあとは現在、隣接している紅毛城の古蹟に含まれている。

ryojikanmae_2.jpg

引揚後に現地から送って貰った写真のなかに「1987/5/1、旧淡水小学校校長宿舎付近」とメモされたものがある。

人物は送ってくれた呂添得氏であろう。

小学校長の宿舎であろうと思われる塀から幹線道路まで下り坂になっている。

このすぐ上に真理大學の礼拝堂があり、1995年に訪れたときにはドレスを着た人をフォトスタジオのスタッフが撮影していた。

そして下り坂を降りたところは区画整理され現在何も建っていない。

幼児の頃の記憶だけでは心許ないので、以前から何か手掛かりがないかと捜していた。

ところが最近、ボストンの博士から戦前の写真を載せたウェブページのURL(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/)を教えてもらった。

そこには公会堂やその周辺の写真とともにこの坂の様子の判る写真が載っていた。

ryojikanmae_3.jpg

これは工事中の坂道の途中から見下ろした写真である。

そして下の写真は河岸側から同じ場所を見上げたものである。

ryojikanmae_4.jpg

微かな記憶ではこの正面に建っている家の位置あたりではないかと思う。

すぐそばの生け垣をくぐって領事館の庭に入ったような気もする。

我々の住んでいた宿舎は淡水に土地や建物を持っていた富豪、中野金太郎氏の所有であったという。

終戦になり、父もここに復員してきた。

その頃の記憶では、家の前で遊んでいて道路に転がり出たボールを国府軍の兵士が拾ったのでどうしようかと思ったが、父が出て行くとその制服がニコニコして返してくれたことがあった。

すっかり忘れたと思ったことを想い出すこともあるものである。

2010年11月16日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

海水浴場

kaisuiyokujo_1.jpg

2009年淡水古蹟博物館4周年館慶特別展示に関連して発行された「滬道日安」によると「1923年、天然の海浜に開かれた海水浴場は、淡水街の沙崙にあり、駅から3.3キロの距離だった。当時の海水浴場は街役場が経営しており、販売部、ホテル、旅館、汽車とバスの往復割引切符などの方法で人々を集めていた。」とある。

さらに「当時は毎年の開放的期間が6月から9月までで、台湾総督府鉄道部はこの期間内に、2割引の優待往復切符を売り出し、また列車を増発した。駅から海水浴場まではバスがあり、観光客の便を図っていた。そのため毎年この時期には都会から多くの観光客を集め、青年学生たちは各種の活動を行い、自から「水泳隊」を組織して水泳訓練をしていた。台湾鳥瞰図などの古地図上では、明らかに1930年代の時期、台湾島内に多くの海水浴場があったことが見て取れる。たとえば基隆大沙湾、八里、澳底、蘇澳、竹圍、竹南、通宵、苑裡、大安港、大甲、安平、西子湾、旗後などである。」と解説が続く。

税関吏を中心として地方官吏、台湾銀行、商社員、地方の有力者によって組織された「五十会倶楽部」は、台湾で初めてのゴルフ場や公會堂を開設したことは知っていたが海水浴場の開設にも関わっていたのである。

海水浴場「和樂園」の経営者、浅野タツは淡水公會堂の嘱託であった原田ユクの伯母であった。

私が広島市営アパートに住んでいたとき娘は未就学の幼女であった。
同じアパートに住んでいた女の子が娘をとても可愛がってくれ、ときどきそこにお邪魔して遊んでいた。

そこにしっかりしたお祖母さんが居たが、聞くところによると台湾で温泉宿を経営していたという。
温泉は冬場が忙しく、夏は比較的暇なので海水浴場「和樂園」に逗留していたというのである。
冬には海水浴場の浅野タツさんが温泉宿に行っていたという。

当時は台湾に行ける日が来るなど考えられなかったが、今となってはもっと話を聞いておけばよかったと思っている。

当時の話を聞いて不思議だったことがある。
淡水街で何かの式典があると、海水浴場の浅野タツさんや公會堂の原田ユクさんが招待されていたという話である。

海水浴場も公會堂も街役場が経営主体で、その経営を二人に委託していたのであれば納得できる。

戦時中は爆撃や銃撃の演習場になっていたそうで、戦後は荒れ果てていたという。

最近、淡水の観光スポットになっている漁人碼頭の一角になっているのであろう。

2010年11月20日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台湾航路の貨客船

Takasagomaru_1.jpg

1991年7月に発行された「日本の客船[1]1868−1945:海人社刊、野間 恒・山田廸生共著」には台湾航路に就航した約30隻の貨客船の要目、航路、運航実績などが写真と共に掲載されている。

全部を紹介するスペースはないので船名、船主、総トン数、航路などを紹介する。

「須磨丸」大阪商船、1563トン、1896年5月に開設の大阪・台湾線に配船
「安平丸」大阪商船、1698トン、1897年4月に開設された神戸・沖縄・其隆航路に就航。
「基隆丸」大阪商船、1673トン、「安平丸」の2番船
「淡水丸」大阪商船、1674トン、「安平丸」の3番船
「臺北丸」大阪商船、3300トン、神戸・基隆線就航予定(回航途中遭難)
「臺中丸」大阪商船、3213トン、「臺北丸」の2番船
「臺南丸」大阪商船、3176トン、「臺北丸」の3番船
「宮島丸」大阪商船、1592トン、「須磨丸「明石丸」と組み、神戸・高雄間に月3回。
「明石丸」大阪商船、1571トン、1898年から神戸・高雄線に就航
「臺北丸」大阪商船、2794トン、1910年、横浜・神戸・基隆・高雄間に就航。
「臺東丸」大阪商船、1944トン、1901年、神戸・高雄線に就航
「吉野丸」近海郵船、8998トン、1921年、台湾航路に就航
「さくら丸」帝国海事協会、3205トン、1901年、門司・基隆間に就航(2昼夜)
「うめか香丸」帝国海事協会、3273トン、「さくら丸」の2番船
「桃園丸」大阪商船、3460トン、1915年、台湾航路(横浜・神戸・基隆・安平・高雄)
「宮古丸」大阪商船、1013トン、那覇・基隆、阪神・名瀬・那覇などに就航
「八重山丸」大阪商船、「宮古丸」の同型船
「中華丸」山下汽船、2191トン、内地・台湾、基隆・ハイフォン間に就航
「華南丸」山下汽船、2192トン、「中華丸」の2番船、内地・台湾線に就航
「大華丸」山下汽船、2197トン、「中華丸」の3番船、内地・台湾線に就航
「蓬莱丸」大阪商船、9192トン、1924年6月より神戸・基隆線に就航
「扶桑丸」大阪商船、8188トン、1924年から神戸・基隆線に就航
「高雄丸」大阪商船、4282トン、横浜・高雄線に就航、博多、鹿児島に寄港
「恒春丸」大阪商船、4271トン、「高雄丸」の2番船
「瑞穂丸」大阪商船、8511トン、1927年神戸・基隆線に就航
「大和丸」近海郵船、9655トン、1928年神戸・基隆線に就航
「吉野丸」近海郵船、「大和丸」の姉妹船
「朝日丸」近海郵船、8998トン、1928年台湾航路用に伊船を購入
「高千穂丸」大阪商船、8154トン、神戸・基隆線向けの新造船
「富士丸」近海郵船、9138トン、神戸・基隆線用新造船
「高砂丸」大阪商船、9315トン、「高千穂丸」の拡大改良型

1897年には日本郵船が淡水・福州航路、香港・淡水航路を開設し、1899年には大阪商船も淡水・香港航路を開設しているが、その頃から淡水河の堆積が著しくなり、大型船の入港は基隆にシフトしたものと思われる。


2010年11月21日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

詩吟と短歌

TansuiYuuhi_1.jpg

淡水河の夕陽を思いつつ作ってみた。


「金色(こんじき)に染まりし河面(かわも)揺らしつつ
渡船は岸に 横付けむとす 」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

2010年9月29日に帰ったとき、淡水国小に楽しく賑やかな昼食をご馳走になった。
とても楽しい昼食会であった。

そしてその宴の終わるとき隣に座っていた 孫 秀(日本名:田中秀子)さんがカラオケや詩吟を教えていることを知りった。

私がそのことを聞くと、姿勢良く起立して漢詩を吟じてくれた。
「国破れて山河あり」である。

朗々とした吟詠であった。


「国破れて山河あり
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙をそそぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
 烽火 三月に連なり
 家書 万金に低る
 白頭 掻けば更に短く
 渾て簪に勝えざらんと欲す」

席を立ちかけていた一同も、ウェイトレスも直立して聞き入っていた。

KGさんは人目も憚らず涙を拭っていた。

またこのような吟詠を聞きたいものである。

2010年11月22日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

スコール

gajumaru1.jpg

今日は朝から雨。
日本の雨はシトシトと小雨が続く。

台湾では梅雨のような雨はなく、晴天であっても急に驟雨となることがある。
そしてひとしきり降ったあとは青空が戻る。
だから台北のような都市では停仔脚は非常に便利である。
通り雨ならこれでやり過ごせる。

「降り続く驟雨に 榕樹へ雨宿り
	下がる気根は未だ濡れおらず」

2010年12月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水海水浴場

TansuiKaisuiyokujo_1.jpg

昨日教えて貰った写真のなかに淡水海水浴場があった。

先に述べたように開設された当時は淡水街が経営しており、浅野タツさんは街から管理を委ねられていたらしい。

カリフォルニアに住むLCさんも公学校のころよく海水浴場「和樂園」に行き、おそらくLCさんが足の砂を払って座敷に上がった縁側かもしれない。

私が初めて見た当時の淡水海水浴場の写真である。

左の木立の蔭に人が立っており、縁側には巡査のような制服が足を組んでいる。

2010年12月13日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

漕艇体操

TansuiAlbum_17a.jpg

国小に 幾十余年 引き継がれ
	伝統となりぬ ボート漕ぐわざ


       (詠み人知らず)


2010年12月14日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

北投・善光寺

Beitou1.jpg



北投に 善光寺あり 再訪す
ここに過ごせし 日々を想いつ


       (詠み人知らず)

2010年12月16日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父の週末

TansuiRiver_7.jpg



板の間で 投網繕う 週末の
父は黙して 穏やかなりき


       (詠み人知らず)

2010年12月17日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

龍目井の宿舎

ryumokusei_1.jpg

学童が 借りし書を持ち 訪ねたる
	宿舎のありし 龍目井哉


       (詠み人知らず)

2010年12月18日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

南十字星

southerncross_1.jpg



流星群 降る寒き夜は 南天の
神秘なる星 「十字」を想う


       (詠み人知らず)

2010年12月22日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父の残したメモ

jungle_1.jpg



応召の 父は語らず記し居り
密林に伏す 闘病の日々


       (詠み人知らず)

2010年12月27日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

人力車

jinrikisha_1.jpg

そのむかし 人力車あり 停車場に
	いまタクシーの待つが如くに


       (詠み人知らず)


2010年12月28日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

子供の長ズボン

TansuiAlbum_6a.jpg

引き揚げて 母は笑いぬ 学童の
	長ズボンをば 可愛げなしと


       (詠み人知らず)

2010年12月29日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

北投善光寺

zenkohji_1.jpg



冬瓜を 天秤棒でクーリーが
学童疎開の 寺へ持ち上ぐ


       (詠み人知らず)


2010年12月30日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

アヒルのヒヨコ

pond_1.jpg



幼き日 家鴨の雛を飼い居りぬ
餌を競いて食むさま愛し


       (詠み人知らず)

2011年01月05日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

榕樹盆栽

youju110104_2.jpg

卓上の榕樹盆栽姿良し
	寸丈なれど気根伸ばしつ

       (詠み人知らず)


2011年01月07日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

三芝国民学校教頭

jirei_1.jpg

淡水の街に慣れにしわが父は
	転任辞令に戸惑いにけり

       (詠み人知らず)


2011年01月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

川西大艇

kawanishi_1.jpg

外地より大飛行艇帰航せり
	懐かしき日の淡水河に

       (詠み人知らず)


2011年01月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

陶笛

shohkohen_6.jpg

戦前、小公園と呼んでいた一角に陶笛屋がある。

昨年9月に行ったときにはシャッターを降ろし休業していたが、その前年3月に行ったときは営業していた。
色々な陶笛があり、とてもきれいだったので店員さんにことわって写真を撮らせて貰った。

OcarinaShop_1.jpg

水牛の形をした陶笛を買うと解説付きの楽譜をくれた。

台湾の曲だけでなく日本の曲も、欧米の曲もたくさん載っていた。

OcarinaText.jpg

そのときは、そのすぐ近くに幼い頃自分たちが住んでいたとは知らなかった。


2011年01月12日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

三芝の蛍

sanshi_1.jpg

三芝にて過ごせし日あり 水田に
	蛍飛び交うのどかなる郷

       (詠み人知らず)


2011年01月13日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

汽船の出入り

TansuiRiver_10.jpg

淡水河 汽船の出入り途絶えたり
	春秋重ね 砂の堆りて

       (詠み人知らず)


2011年01月20日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

新公園

228Park.jpg



幼き日 新公園に遊びたり
病院に行く母に連れられ

       (詠み人知らず)


2011年01月21日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

湯の川

hokutoh_1.jpg

北投の川の上なる木の枝に
	衣類乾しつつ湯浴みせしあり

       (詠み人知らず)


2011年01月22日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

北投

hokutoh_2.jpg

たらちねの母の与えし蒸しパンは
	甘くほのかな懐かしき味

       (詠み人知らず)


2011年01月23日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

善光寺にて銃撃を受ける

Grumman.jpg

突然に麓村から飛び来る
	米艦載機 乱射して去り

       (詠み人知らず)


2011年01月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

領事館

consulate.jpg

生け垣に植え込まれたる仏桑華
	陽の傾けば花を閉じおり

       (詠み人知らず)


2011年01月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

洋館の生け垣

kohkaidoh_1.jpg



知らざりき 公会堂の洋館に
かつて生け垣めぐらせしとは

       (詠み人知らず)


2011年01月28日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂(1)

TansuiPhoto_1.jpg

淡水河右岸の道路は河口の海水浴場の方から小公園を経て街の南東端の停車場の方へ延びていたが、領事館入り口のあたりで少し山側に上る道が分かれていた。

その登り坂の道は小高い丘に遮られるように右に迂回して引かれていた。
その小さな丘には稲荷神社(淡水稲荷社)が設けられており、その横に公会堂が建っていた。
本館は二階建ての日本建築で、向かって右側(稲荷社側)に煉瓦積みの洋館があった。

公会堂は商社や台湾銀行の支店や税関など社会文化活動を行っていた淡水倶楽部によって建設されたが、海水浴場と同じように淡水街の施設になっていた。

街の嘱託となって公会堂を管理していた原田ユクは、日本人の板前や台湾のコックを雇って宴会や仕出しを行っていた。

結婚披露宴も行われていた。日本料理の場合は本館の座敷で、台湾料理のときの宴席は洋館で行われていた。
両親は台湾神社で挙式したが、披露宴は公会堂で行われた。
Kさんの両親も公会堂の洋館で行われた披露宴のあと内地に赴いたという。

本館の階下にはビリヤードの台があり、二階の正面は広く眺めの良い広縁になっていた。

2011年01月29日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂(2)

Kokaido_1.jpg

公会堂の近くに街長の官舎があった。
当時の街長は中原 薫氏であった。

裏手には淡水女子公学校と淡水小学校があった。一般に本島人の子女が公学校に通い、内知人の子女が小学校に通ったように言われているがこれは正確ではない。
家庭内で日本語を常用している家族の子女は少数ではあるが小学校に通学していた。
しかし、家庭で台湾語を話している家では、日本語で行われる授業について行けない者もいるため、公学校で日本語だけでなく日本的な風俗・習慣などを含めた教育が行われていた。

淡水公学校(男子校)はちょっと離れていたが、公会堂では独身教員がここに寄って食事をしていた。

本館の左奥が管理人の住居で、表は広間で撞球場があった。
右端に小部屋が2つあり、そこで食事をしていたという。
奥は賄いであった。

二階広縁の眺めが格別であった。


2011年01月30日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂(3)

sakujirou_1.jpg

公会堂には内地から淡水への来訪者の宴会が開かれたり、宿泊したりしていた。

写真は2階の広縁で撮影した洋画家(帝展審査員)大久保作次郎(右端)である。

1938年10月に淡水を訪れたときのもので、このとき「南嶋薄暮」の対象である高砂族の取材を行っている。
作次郎47歳のことである。


2011年01月31日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂(4)

dosokai_yokan_1.jpg

公会堂の階下には撞球台があり、新聞・雑誌などもあり文字通り淡水街の文化センターのような存在であった。

淡水を訪れた高官も宿泊していた。

書や絵画の展示のほか、木下静涯画伯らは盆栽展もやっていたと言うから菊花や蘭なども展示されたのかもしれない。

少年野球の祝勝会や同窓会も洋館を背景にした写真が残されている。

この写真は洋館内部で撮影されたものであるが若い頃の母を囲んで、台北一高女の同窓会のあとの記念写真であろうか?

2011年02月01日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂(5) 淡水稲荷社

Kohkaidoh_2.jpg

臺灣總督府社會課の編集した「臺灣に於ける神社及宗教」によると、1906(明治39)年11月15日、臺北州淡水郡淡水街淡水字砲臺埔二八番地ノ一に淡水稲荷社が鎮座したという。
写真の背景に稲荷神社らしい鳥居が幾つか見える。

1930(昭和5)年4月に祖母が淡水街嘱託となって、1941(昭和16)年5月に退職するまで公会堂の管理を行いながらそこで料理や仕出しの営業を行っていたが、父のメモによると砲臺埔三八番地となっている。
私はここで生まれたのであるが、戸籍抄本によると臺北州淡水郡淡水街淡水字新店三七番地で生まれたことになっている。
(ちなみに、引き揚げ直前の住所は淡水街烽火十四となっている)

この稲荷神社に関しては洋館の裏にあったからか記憶にない。

なお、写真の左に立っているのが娘時代の母であり、祖母は右前に腰掛けている。
その間の家族は山口県岩国から台湾に来ていた山本忠治氏の一家である。

2011年02月02日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂(6) 稲荷社と淡水社

tansuiinari_2.jpg

昨日、公會堂の横にあった淡水稲荷社のことを載せたら、早速 CHMさんが地図を送ってくれた。

公會堂の敷地の右に、ほぼ同じ規模の「神社地塊」があり、そこに稲荷社と淡水社が描かれている。

いずれも社殿だけでなく社殿の正面に鳥居、向かって右手に手水場があり、淡水社には一対の灯籠も描かれている。

「公會堂地塊」の方は何も描かれていないので稲荷社鎮座(1906年)のあと、公會堂落成(1928年)以前の配置図であろう。

この配置図で見る限り淡水社に較べて、稲荷社の方がずっと立派に見える。
日本統治が始まって100年を記念して編集された特別展覧会資料によれば、淡水社は1923年に造られたという。

推測であるが、1939年に油車口に淡水神社が造営されるまでの仮の祠ではなかったのではなかろうか?

両親は同年5月20日に台湾神社で結婚式を行ったが、もし淡水神社が出来上がるのが早かったら淡水神社で挙式していたことであろう。

2011年02月03日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水神社(1) 御用材奉仕

Tansuijinja_goyouzai_1.jpg

油車口の砲臺の傍に淡水神社が造営されることになった。
街中の行事として社殿に用いられる材木を御用材として現地に運ぶときの様子が写真に残っている。

Tansuijinja_goyouzai_1a.jpg

これは上の写真の中央部を切り出したものである。
台の上でメガホンでかけ声を掛けているのが私の父 廣川研一で、その隣で日の丸の扇をかざしているのが淡水公学校教師の丹羽武雄氏である。
木下静涯画伯は左端で太鼓の横で白い帽子を被り脚にゲートルを巻いて手を打っている。太鼓を打っているのは父の佐賀同郷の親友であったが引揚後しばらくして交通事故で亡くなったそうだ。
台車の前で日の丸の鉢巻きをしてカメラの方に視線を送っているのが資生堂の主人である広瀬氏でその二人前、帽子を被って首に汗ふきを巻き付けているのが淡水小学校の水田校長である。


2011年02月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水神社(2) 1939年鎮座

Tansuijinja_0.jpg

淡水神社は1936(昭和10)年に造営が開始され、1939(昭和14)年3月11日に竣工、鎮座式が挙行された。
所在地は台湾台北州淡水郡淡水街油車口字油車口(現:新北市淡水区中正路1段6巷31號)、主祭神は北白川宮能久親王、明治天皇、大物主命、崇徳天皇である。

神殿、拝殿、回廊、手水場、灯籠、狛犬、鳥居を備えた純日本式神社であった。

Tansuijinja_10.jpg

この写真は鎮座式か何かの記念写真であろう。
小笠原清禧宮司を中心に郡守、街長、署長、郡視学、各校長や教師が烏帽子姿で写っている(後列左寄りに父や教師仲間であった小栗兄弟、中島走氏など)。


2011年02月05日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水神社(3) 祭礼

TansuijinjaTorii_1.jpg

油車口の河岸道路から参道が作られ、大鳥居と一対の石灯籠が設置された。

参道に沿って小型の石灯籠が並んでいるのが見える。

tansuijinja_4.jpg

これは父に連れられて初めて詣でたときの写真であろう。
御輿や俵揉みなど街中で祝ったものである。

tansuijinja_5.jpg

娘さんたちもそのお母さんたちもお祭りに参加した。
芸者さんの前には男衆も着物を着て菅笠を被り扇子を手にして写っている。

tansuijinja_7.jpg

勿論、街の名士の一人であった公会堂の小母さん、原田ユク(右)も参加している。
背後には黒紋付きを着た人たちが見えるので行事の終わったあとであろう。

tansuijinja_6.jpg

これは大鳥居脇の石灯籠の横で撮ったものである。
原田ユクさんの人生で最も華やかな時期であったにちがいない。

Tansuijinja_2.jpg


Tansuijinja_3.jpg

私は毎年、父に連れられて淡水神社に参詣していた。
毎年、法被を着ていたのは覚えている。
祖母が縫い直してくれたのであろう。


2011年02月16日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

零式水上観測機

F1M1.jpg

その昔 波を蹴立てて離水する
	水上機あり 懐かしき哉

       (詠み人知らず)


2011年02月17日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

河畔の建屋

TansuiPost_2a.jpg

たらちねの母と仮寓せし二階館は
	貿易商の残せしと聞く

       (詠み人知らず)


2011年02月20日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

龍目井の家

myfamily_1.jpg

両親が結婚してからのことを両親が書き残してくれたメモから転記する(父の原稿を母がペンで謄写版刷りの原稿用紙に書いたものである)。

『最初、黒川さん(註:淡水新店街で塩屋を営んでいた)の2階に住んでいたが、三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住み心地のよい家であったが、お産が近くなってからは、ばあちゃんの公会堂に来ていた。暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこにうつった。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。窓側にかけひをかけ、縁先に四角な水槽を構えて、金魚を飼っていた。』

幼い記憶では表通りではなく路地に入ったところで玄関の前は狭かったが、玄関脇には虎の尾や竜舌蘭が植えてあった。

そんなところなので家の写真は残っておらず、引き揚げてから教え子の人(呂添得氏?)から2、3回「先生の宿舎」という写真を送って貰っている。
その写真も表通りから家の裏を見たもので、直感的に隣か先隣の家であろうと思っている。いずれにしてもこの一角は戦後立て替えられているので昔の家は残っていないが、このすぐ近くであったことは間違いない。

上の写真は、その家で生まれた妹の宮参りのときの写真である。
大東亜戦争開戦一周年記念日に生まれたので戦時色が窺える。

玄関には正月のしめ縄が見え、手前には虎の尾が見える。

下の写真は龍目井の家の玄関先で撮った淡水神社祭礼の法被を着た写真である。

上の写真には玄関のスライドドアのガラスが割れたとき飛散しないように内側から紙テープが貼られているが、下の写真にはそれがないのでその前年の秋祭りのときのものであろう。

happi_1.jpg


happi_2.jpg

背景に虎の尾と竜舌蘭が見える。

[2月21日追記]
写真の左下隅にスタンプがあることに気がついた。

「李玉(Giyokurin Studio TANSUI)」と読める。
当時の淡水の写真館であろうか?

2011年02月21日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

馬公防備隊

mako_2.jpg

馬公は台湾海峡にある澎湖諸島の主街である。

我が家には馬公防備隊の水兵の写真が幾つかある。

三芝の先の富貴角燈台を見学に行ったこともあるが、幼児を抱いているのでおそらく淡水公會堂に来たときに撮ったものであろう。

水兵が私にセーラー帽を被せてくれているが、そのセーラー帽のペナント(所属をあらわすリボン)に馬公防備隊とある。

戦前は艦艇に乗り込んでいる場合にはその艦名が、陸上勤務の場合は所属部隊名が一目で判るようになっていた。
開戦後、防諜のため所属表示を止めて一律に「日本帝国海軍」のような表記となった。

下士官に抱かれているのは淡水で店を営んでいた「資生堂」の広瀬 信さんの孫であるマリ子ちゃんである。

マリ子さんたちは引き揚げて浜松に住んでいたらしいが、いま消息はわからない。

mako_1.jpg

こちらの写真はもう少し前のものであるが、水兵帽には同じく「馬公防備隊」のペナントが巻かれている。

こうしてみると馬公防備隊の海軍さんたちがときおり淡水公會堂に来ていたのであろうか?


2011年02月22日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

両親の残してくれたメモから

kaisuigi_1.jpg

一昨日に引き続き、両親の書き残してくれたメモから

『・・・
夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。
奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。
誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。
・・・』


2011年02月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

赤き花

Hibiscus3a.jpg

赤き花 天堂鳥につくり呉れ
	極楽に舞ふ「淡水」の夢

       今里 玲子


2011年02月28日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

総督府直轄の国語傳習所

denshusho_1.jpg

1896(明治29)年5月21日に公布された総督府の法令により滬尾日語傳習所が設立された。
そのとき臺灣に設立された日語傳習所は淡水の滬尾のほか台北、基隆、新竹、宜蘭、彰化(台中)、鹿港、苗栗、雲林、台南、嘉義、鳳山、恒春、媽宮城(澎湖島)の計14箇所であった。
滬尾日語傳習所は2年後に滬尾公学校と改められ、1912(大正2)年に淡水公学校と改名されている。

写真は淡水国小90周年記念誌に掲載されている1899年当時の滬尾公学校の校門、玄関である。

最後の日本人校長であった松田常己氏の後任として校長となった洪炳南氏は、横浜在住の呉さんの祖父であり、その4代後任の陳淑女女史には私もお目に掛かったが、女史も呉さんの叔母さんにあたると聞いた。


2011年03月01日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

龍目井の我が家

myhouse_1.jpg

捜し物をしていて淡水の龍目井で住んでいた家ではないかと思う木造建築を見つけた。

上の写真はカリフォルニアのLCさんが送ってくれた航空写真の一部である。

左端に公會堂が写っており右上には紅楼が見え、その中間にキリスト教長老派の教会が見える。

道路の交差したところは当時小公園と呼んでいた三角形のエリアがある。
その交差点の左がボストンの博士の生まれた医院である。

私が幼い頃、祖母が公會堂の管理人を辞めて龍目井に移り、そこで妹が生まれた。
同僚の丹羽氏が移転したあとである。

引き揚げてから父の教え子であった人から何度も淡水の写真を送って貰った。裏には「先生の宿舎」、「裏から見た先生の宿舎」と書いてある。
どうやら、その家は上の写真の黒ペンで囲ったものらしい。
おぼろげな記憶では通りに面しておらず、路地を入ったところであった。
玄関前で撮った写真などから推測すると赤ペンで囲った家のような気がしてならない。
両親の残してくれたメモにある『郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。』という記述にも合致する。

いまは道路も整備され、建物も建て変わっているが、そんな気がしてならない。


2011年03月02日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水河口を望む

sunset_tansui_1.jpg

現在は中山路と呼ばれて老街をバイパスする幹線路となっているが、戦前は油車口から来た道はイギリス領事館の辺りから河岸沿いの道と分かれて緩やかな登り坂になっていた。

丘に上る道はそこから公會堂や稲荷社のある木立を迂回して新生街、新民街の方へ曲がっていた。

ここに示した古い写真はそこから河口を望んだものである。

まさに日が八里の向こうの海に沈もうとしている。

この頃になると淡水河は堆積がすすみ、外航船は入港しなくなっていたが淡水には税関もあり、水先人(パイロット)もいた。

それにしても、いかにも穏やかな良い写真である。

2011年03月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水港の外航船

TansuiPort_2.jpg

滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)の土塁のなかは往時の写真が沢山展示されている。
その中に淡水河に停泊する外航船の写真もあった。

説明には「日據時期の淡水港口」としか書いてなかったので撮影時期は判らない。

ただ淡水鎮(区)公所の年表によると、1897(明治30)年に日本郵船が淡水・福州航路、香港・淡水航路を、大阪商船が1899(明治32)年に淡水・香港航路を開設したが1909(明治42)年に淡水・福州航路などが廃止されたと載っているので、その間のことであろう。

しかし、ジャンク(戎克)などがその後も出入りしていたので税関もあり、パイロット(水先人)もいた。

2011年03月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台北第一高女

%E7%AC%AC%EF%BC%91%E9%AB%98%E5%A5%B3.jpg


母は淡水から台北第一高女に列車通学していた。

今も残っているというこの建物は守衛所か何かに使っていたのであろうか?

校訓を刻んだ石もまだそのままあるようだ。

いまは臺北市立第一女子高級中學となっているという。

台北第一高女の同窓会「みどり会」は戦後も毎年行われており、沖縄で開催されたときには130名も集まったという。


2011年03月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水線のガソリンカー

gasolinecars_1.jpg

昨日、この欄で母が淡水から台北第一高女に汽車通学をしていたと書いたら、ボストンの博士から "not by train ?" と問い合わせがあった。

鉄道列車のことを日本では汽車というが台湾では火車と言い、自動車を汽車という。
ちなみにバイクは機車である。

このページは外国の人も見てくれているのだから注意しなくてはいけない。

私が幼い日の淡水線に乗った思い出は戦時中のことである。
列車が台北に入って、明治橋の近くに掛かっている鉄橋に掛かるとき乗客は起立して最敬礼をしていた。
また、車窓から要塞や軍事施設はなかったと思われるが、ある地点にさしかかるとブラインドを降ろして窓の外を見ないようにしていた。

淡水線にはそのころ気動車も運行されていた。
ガソリンカーと呼んでいたので、引き揚げてからも父はディーゼル車のことをガソリンカーと言ったことがある。

写真は士林駅構内に停車しているガソリンカーである。

路線はほぼいまのMRTの経路に敷設されており、駅名も圓山、士林、北投、竹囲などは同じであったが、関渡は音読みの近い江頭となっていた。

2011年03月10日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水線の蒸気機関車

SLtansui_1.jpg

「淡水線のガソリンカー」を載せたら今度はカリフォルニアUSAのLCさんから当時の様子を記した長文のメールが届いた。

当時の淡水線は蒸気機関車の牽引する4輌編成が基本で、ガソリンカーは利用客の少ない時間帯に運行されていたという。

単線なので途中駅での対行列車の待ち合わせとか、トンネルでの煤煙の話とか、列車通学生の話や、戦後国府軍兵士による臨検の話などとてもここでは紹介しきれない。

上掲の写真は臺北縣立淡水古蹟博物館になった滬尾砲台に掲示されていた写真を撮影したものである。


2011年03月11日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

オレンジ色の複葉練習機

93churen_1.jpg

台湾か内地かよく判らない。
場所も漠然と田舎のようであったというほかはない。
しかし、確かにオレンジ色に塗装された複葉練習機が飛んでいるのを見た記憶がある。

敗戦で民間機も含めて航空機はすべて禁止されていたのだから戦時中に違いない。
淡水か三芝に居たころである。
どう考えても淡水とは思えない。
そうすると三芝に居た時期のことであろう。

台湾に練習航空隊があったかどうか判らない。

しかし、新竹航空隊という部隊があり、陸攻の操縦要員や偵察要員の実用機教育が行われていたという文献を見つけた。
松山の飛行場からは陸攻が重慶など大陸に向けて渡洋攻撃に出撃していたことは母が話していた。

でもかすかに覚えているのは複葉の陸上練習機である。

練習機だから思うように飛べないこともあり、これと出会った飛行機の方が避けなければならない。
それで目立つように機体も翼もオレンジ色に塗られていた。

人はその色から「赤とんぼ」と言っていた。

ただ、それだけのことであるがふと思い出したのである。
むろん、型式などは判らない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

2004年頃から現在も引き続き陸海軍(主に海軍航空隊)の戦史や搭乗員などについて調べてウェブで発表している人が居る(http://ameblo.jp/pico3298/)。

決して戰争礼賛などではなく、任務として空に散った方々の鎮魂のページである。

このページを知って「紺碧の海(https://www.shipboard.info/blog/)」の生い立ちの記で淡水に配備されていた零式水上観測機のことを尋ねたことがある。

それにしてもインターネットは凄い。
「紺碧の海」で知り合いになったカリフォルニアのLCさんの知り合いが淡水で零観に乗っていたことを知ったのもその恩恵である。

2011年03月21日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水、空襲を受ける

nightfire_1.jpg

1944(昭和19)年秋のことである。
その年の6月に三芝公学校の教頭をしていた父は応召して台南の部隊に入隊し、家族は小基隆から淡水に戻っていた。

淡水の街が空襲を受け、街が炎上した。
米海軍第3艦隊の空母から来襲した艦載機が台湾全土を空襲したのである。空襲は3日間にわたって行われたというが淡水はその初日に銃爆撃を受けたのである。

淡水駅の近くにあったライジングサン石油のタンクも炎上した。
(ライジングサン石油はロイヤル・ダッチ・シェルの日本法人であった)

夜、祖母と母が手を引いて夜道を山手に向かって逃げた。

坂道で、淡水街を振り返って見ると、石油タンクから炎が燃え上がり、夜空を焦がしていた。
怖かった。子供心に焼き付いている。

これを期に、せめて子供達だけでも生き延びて欲しいので避難させようという話が出て、淡水小学校の学童を北投の善光寺に疎開させることになった。

周明徳氏の私家本によれば、この空襲は1944年10月12〜14日のことであった。
淡水街ではこの日、二十数名の民間人が犠牲になったという。
そして周氏の御尊父が空襲の犠牲になったことを知った。

2011年03月22日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

北投庄の善光寺へ学童疎開

Beitou1.jpg

淡水が空襲に遭って、学童疎開が実施されることになった。

疎開先は七星郡北投庄の善光寺である。

善光寺は北投庄の温泉街を抜けて急な坂を登った丘の上にあった。

交渉の上、収容でき面倒を見ることの出来る人員なども勘案して上級生のみを疎開させることになったのだと思う。

引率する教師だけでは世話を見切れないので、祖母や母は淡水小学校の保母ということで一家で同行することになった。1945(昭和20)年のことであった。

その頃になると空襲警報が頻発するようになった。
子供にも防空頭巾を被せて、よく郵便局などの防空壕に逃げ込んだ。
2歳の妹は暗くてじめじめした防空壕から出たくて「空襲警報解除よ!」と言ったりしていた。こんな小さな子供に「警戒警報」、「空襲警報」、「空襲警報解除」、「警戒警報解除」、「防護警報」などの行動を教えていたのである。
そとで遊んでいて「空襲警報」のサイレンが鳴ると、家や親を捜すのではなく近くの防空壕に走ることになっていた。

祖母はその少し前まで公会堂の管理人を兼ねて食堂や仕出し屋をやっていたので、学童用に仮設の烹炊所も作られ、多くの子供達の面倒を見ることもさることながら烹炊所の管理や食材の買い出しなどにも経験が活かせると思われたのだろうか。
修行用の山寺に上る急坂を大きな冬瓜を苦力2人が天秤棒で担ぎ上げていたのを覚えている。

ある日、学童の一人に危険な悪戯をして母に叱られた。
狭い山寺の境内は子供達も居るので真っ暗な防空壕に連れて行かれてひどく叱られた。
大きくなって母が話してくれたところによると、母に謝ったあと「お父さん!」と大声で叫んだそうである。
本当は母の方が、そう言って泣きたかったに違いない。

台湾沖海戦に敗れ、制空権を失った台湾は連日のように空襲に曝された。
ある日、グラマンの銃撃を受けたのである。

当時は七星郡北投庄と言っていた郊外の田舎であった。
その日も定期便のように艦載機が来襲していたが、学童を防空壕に避難させて寺の本堂の縁で字義通り高みの見物をしていた。
ところがその日は1機がいきなり善光寺をめがけて上昇して来た。
大人たちは慌てて防空壕に走ったけれど間に合わず、本堂脇の烹炊所に駆け込んだ。

母と祖母が私たち兄妹を流しの下に押し込んで、その上に被さってきた。
その肩越しに、竹葺きの屋根にバラバラと機銃弾が撃ち込まれるのが見えた。
母の話によると、私は小学生になっても稲光を怖がっていたそうである。

山の中のでいろいろ経験した。
灯火管制の薄暗闇で毛虫を握ってしまったこともある。


2011年03月27日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水郵便局の建設される前の絵葉書

TansuiRiver_11.jpg

当時、電信も扱っていた淡水郵便局の建物は当時としては大きかった。

しかし、それが建設される前の淡水港の絵葉書をウェブのページで見た(http://taipics.com/taipei_danshui.php)。

そこには同じ頃に撮影されたと思われる「淡水全景(其一):(杉田書店発行)」という絵葉書も掲載されている。

上の写真には淡水に入港中の旧式の4本煙突駆逐艦2隻が戎克(ジャンク)などの近くに係留中である。

淡水郵便局はこの絵葉書の写真の中央付近にあった筈であるが見当たらない。
きっとこのあと建設されたのであろう。

そして、その頃から河底の堆積が著しくなり外航船は基隆に入港するようになった。

その基隆も港湾が手狭になり現在、淡水の対岸八里の沖に大規模なコンテナヤードが建設されている。


2011年03月28日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

元の写真

TansuiRiver_11a.jpg

昨日掲載した絵葉書の元であろうと思われる写真を見つけた(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/gallery)。

カラー写真のようであるが当時のことだからモノクロームの写真に着色して印刷されたものであろう。
建物などはこちらの方がわかりやすい。

昨日の絵葉書は文字を書く余白を作るためにトリミングされていた様である。

この写真を載せていたウェブサイトには淡水河を浚渫するバケット式浚渫船の写真も掲載されていた。


2011年03月29日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水新店街通り

Tansui_Shinten_1.jpg

27日に紹介したページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)に「淡水新店街通り:(杉田書店発行)」という絵葉書もあった。

まだ道幅も狭く、拡幅舗装される前の状態であろう。

手前の電柱の影から判断すると駅の方から河口の方を見た写真であろうか?

2011年04月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

建設工事中のMRT淡水車站

tansuiStn_1.jpg

この写真は1995年3月に、引き揚げてから最初に淡水に行ったときのものである。

駅前の道幅は広く整備されているが、相変わらずバイクが多い。

正面の建造物は台北捷運(MRT)の淡水車站である。
外観は出来上がっているように見えるが、淡水線の中山・淡水間がが開通したのが1997年3月28日、台北車站まで接続したのはその年の12月25日であったので淡水車站は建設工事の最終段階であった。

現在の写真と言っても違和感がない。

淡水線は1998年末に中正記念堂まで延長されて全線開通となった。
板橋線は1999年末に西門・龍山寺間が開通し、翌年新埔まで延び、2006年になって全線開通している。
2009年に松山機場(台北国際空港)と接続したのでとても便利になった。


2011年04月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

あゝ淡水公会堂

album_2.jpg

父のアルバムで、昨日の写真の上に貼ってある写真である。

文字が小さいので転記してみる。

『向って左が本館、二階広縁の眺めが格別であった。
左端の奥が住居、表は広間で撞球台、右端に小部屋が二つあり、独身の時
そこで食事をした。 奥の住居で紀夫が生れた。
向って右は別棟(洋館) ここで私達の結婚披露宴をした。

話がきまってから お膳の下に卵の特配があったり
バアチャンと街にパーキャーに出かけ 深夜 足音をしのばせて帰り
奥の台所でヤークイチーをした。』

母は 面白くないので寝たふりをしていたと笑っていた。

戸籍謄本には
「臺湾臺北州淡水郡淡水街淡水字新店参拾七番地で出生」とある。

これは塩屋を営んでいた黒川さんの住所で、結婚してその二階を借りていたのである。

2011年04月10日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水公学校々庭

album_3.jpg

一昨日、昨日と同じページである。

『左、画面から外れた方向に4列位の本館があった
中央の樹木の下あたりが松田校長宿舎
右端の樹はガジマル 右外れた処に国旗掲揚台 更に右端に角力場
そこから崖下に小径を降りると 山本 保 叔父の宿舎があった』

Tansuikohgakho_2.jpg

この図の右上、グランドの辺りだと思われる。

1896(明治29)年5月21日に滬尾日語傳習所が設立されて以来、滬尾公学校、淡水公学校、淡水東国民学校、淡水国民小学と続いて今年で創設109年目にあたるという。

ちなみに、山本 保 叔父とは原田ユクさんの弟で当時、淡水の役場に勤めていた。


2011年04月11日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台湾台北州淡水街烽火14

Houka_1.jpg

ここはおそらく引き揚げ前に住んでいた辺りではないかと思う。

ウェブで見つけたこの写真自体は随分古いものである(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/photo)。

その後、道路も広く整備され画面中央にあたる位置には大きな榕樹が影をなしている。

右手前に見える古蹟「紅毛城」の門やそのエントランス、それにそのまわりの斜面が工事中である。

昨年11月13日に、ここで取り上げた写真より少し視角が狭いが、紅毛城入り口付近の盛り土などから見ると、ほぼ同時期のものであろう。

漠然とした記憶によれば手前の瓦屋根の小さな家が建っている辺りか、あるいはもう少し左手であったような気がする。

道に面したブロック塀は撤去されたのか記憶にない。その辺りから敷地の内側に数段の煉瓦積みがあって低い植え込みがあったように覚えている。

戰争末期には家のまえの土地を掘って壕のまねごとのようなことをしていたような気もする。

引き揚げて、佐賀県浜崎の本籍地、岩国を経て原子砂漠の広島市内を転々としてやっと落ち着いた頃に書かれたメモがある。

それによると引き揚げ前の住所は、台湾台北州淡水街烽火14と記入してあった。

2011年04月22日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

1920年代後半の淡水小学校

tanshuiES_1.jpg

淡水小学校は街長官舎から少し上ったところにあり、女子公学校と隣接していた。
淡水中学とも近かった。

小学生だった母が写っている(後から2列目中央の白い衣服)ので1927〜8年頃の記念写真と思われる。

母はその頃、祖母と淡水街新店に住んでいた。

1929(昭和4)年4月に台北一高女に入学し列車通学を始め、1930(昭和5)年4月に祖母は淡水街嘱託として公会堂の管理を委託され、料理や仕出しの営業を始めた。

制服の教員が4名、学童(女子)36名が写っているが氏名は判らない。


2011年04月23日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台北第一高等女学校

ikkoujo_1.jpg

昨日の本欄で「1920年代後半の淡水小学校」の写真を載せたらすぐに、LCさんからメールが来た。

お姉さんがその内の一人として写っている可能性があるというのである。
内地人と同様に日本語が使える学童は本島人でも小学校に通っていた。
家庭でも近所つきあいでも台湾語で話していた子供は、導入教育段階で日本語の補充教育をするために公学校に行っていたと聞いた。

LCさんのお姉さんは、母と同じ1916(大正6)年生まれだそうだ。

ブログに載せるために縮小していたので、元の約8倍の写真をメール添付で届けた。

こんなことがあるので「台北第一高等女学校」の写真も載せることにした。

この写真は、何処で何時撮ったのか判らないが、左側には男子生徒が写っている。

服装が様々で面白い。
男子生徒は制服・制帽が多いが、詰め襟あり、折り襟あり、シャツあり、袴あり、中には水着姿もいる。
女子もブラウスにスカートが多いが、着物あり、袴ありと多様である。

顔がよく判らないので右の女学校生徒のみを部分拡大してみた。

ikkoujo_1a.jpg

母は前から2列目、左から3人目である。

小学生の頃の面影を残している。


2011年04月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父のメモから(4) 

note_2a.jpg

さきに『父のメモから(1:2010年11月2日)』として淡水公学校関係者を、『同(2「淡水街の名士たち」:2010年11月4日)』としてとりあげた。

今日は別のメモを見つけたので転載してみた。

ウェブのサーバに載せるために縮小したため読みにくくなったので少し註記してみる。

初めは、淡水駅から無線を経て海水浴場まで街の概略地図を書こうとしたものらしい。

右端下方に「淡水駅」が書いてあり、欄外に隣接駅の「竹囲」が書き込まれている。

駅の山手には「ライジングサン」の石油タンクと「海軍墓地」の字が見える。

駅の左で道が分岐し、河岸沿いに老街へ行く道と、公学校の傍を通って水碓子の方に行く道に分かれる。

公学校に行く道沿いに淡水劇場、いろは亭の文字が見え、傍に「星」、「氏家」とある。
分岐路の角に煙草屋「伊達」の字が読める。

別の地図「追憶・淡水」とは道が省略されているようである。

TansuiTsuiso_1ba.jpg

河岸の道を左に行くと「老義發」、「施合發」の文字があり、道を挟んで祖師廟がある。
そこから更に河岸沿いに行くと「荒」とある。これは僧・荒操天の住居であろう。

その先に「街役場」があり、「多田」と書いてある。
これは多田文具店であろう。

その左に「黒川」とあるのは両親が結婚したときに2階を借りていた塩屋の黒川さんである。

さらに「鬼頭」、「広瀬」、「谷」、「庄」、「木下」、「小倉」と書いて行くとスペースがなくなったので地図には姓のみを書いて、左上に氏名を列挙したものであろう。

小公園から「関口」、「粟井」、「野島」、「中野」、郡役所を経て「狩野」、領事館跡を過ぎて「伊藤」とある。

山側の道は公会堂の「原田」、淡水女子公の「小石」、淡水小の「水田」、「有坂」、「中原」、「小栗」、「柴山」、「三原」、領事館近くに「木村」などの名が見える。

少し離れて淡水神社には「小笠原」、その入り口にグランド、少し下がって灯台、ゴルフ場、無線があり海水浴場の「浅野」まで書いてある。

このページの上右には、富貴角、石門、老梅、小基隆(三芝)、水碓子、興化店など近郊の地名があり、上左には2段に氏名が書いてある。

庄 信雄、星、木下、伊達 七五三、黒川、広瀬 信、鬼頭 亀吉、谷 善次、松田校長、小石校長、伊之坂校長、小笠原神官、浅野タツ、木村パイロット、原田、杉村、関口、筑紫、中原街長、狩野郡守、久保田警察署長、小栗兄弟、有坂 一世、粟井 清、小倉、伊藤 勝太郎、中野金太郎、野島(東洋館)、荒操天、多田栄吉、松本、水野


2011年04月27日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

施合発一帯の地図

TansuiStn_2.jpg

1930年代には淡水に 株式会社施合發商行という大きな材木商があったという。

専用の木材運搬船「大観丸」を有し淡水駅から鉄道の引き込み線もあり、専用の桟橋が3つもあった。
「大観丸」の船名は大屯山と観音山に因んでつけられたものだという。

現在のMRT淡水駅一帯の河岸公園にあたる。

上掲の地図は周明徳氏著「続・夕日無限好」から転載した。

2011年04月29日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水郡役所

GunYakusho_1.jpg

淡水郡役所の写真である。

淡水の街役場は駅に近い新店街にあったが、郡役所はもっと河口寄りで郵便局の先にあった。

河下側に隣接して当時の郡守官舎があった。当時の郡守は狩野氏であった。

そして、近くに税関があった。

父が

この写真は淡水古蹟博物館に掲示されていたものである。
解説によれば1923年に建設されたという。

2011年05月02日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

滬尾號理髪廳

Tansui_No1a.jpg

LCさんが写真を送ってくれた。

4月8日の本欄で淡水郵便局の写真を取り上げ、「傍に小川があり筋向かいに床屋があった」と父のメモがあることを載せたら、1975年にLCさんが渡米後初めて帰台したときに撮った写真を探し出してくれたのである。

赤煉瓦の理髪店の正面壁面の縁取りのなかにに右から「號尾滬」とあり、看板には赤い字で同じく號尾滬、その下に黒い字で廳髪理と書かれている。

郵便局の前から撮影されたもので、理髪店の手前には小さな橋の欄干も写っている。

右に子供が遊んでいるあたりから小路に入ると龍目井の宿舎である。
写真はタイムマシンであると思う。

2011年05月14日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

雅帝

miyabitei.jpg

「雅帝」は新民街にある淡水では有名な高級レストランである。

この店のウェブページによるとクラシックエレガンスロイヤルインペリアルレストランだそうである。

場所は淡水国小の近くから始まり、淡江高等中學の裏を通ってゴルフ場の裏の山側を行く新民街にある。

2010年9月に淡水国小を訪問したときに林元紅校長以下10人以上で円卓を囲み、大変な歓待を受けた。

皆さん一人一人にお礼のご挨拶を出来なかったことを申し訳なく思っている。

2011年05月16日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

数十年前の小公園

shohkohen_7.jpg

以前にも紹介した、淡水の古い写真を載せているページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)に載っていた写真である。

小公園で人力車が2〜3台、客待ちしている。

煉瓦建ての礼拝堂の方から中学生が歩いてくる。

右の商店の前に女の子が2人立っている。

その商店の屋号の一部が見える。
「明石商店」か「明石商会」であろう。

この写真も何度か見ているのに気付かなかった。

2011年05月18日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

福佑宮

maso_1.jpg

戦後、父の教え子であった人から淡水の写真を送って貰っている。
その中の一枚である。

裏には「市場の前に有る媽祖廟」とある。

グーグルで淡水市街を捜してみると「福佑宮」というのが見つかった。

「淡水福佑宮:1782年に建設が始まった天上聖母を祀る廟。
福佑宮の前は埠頭があり海の守護神である天上聖母(媽祖)が祀られることになった。
天上聖母は福建省の実在の女性、媽祖が神格化されたものと言われている。
家族を海難事故から守ったため、航海の安全を守る神様。」
と解説が載っていた。

2011年05月20日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

「元公会堂位置」

formerKohkaidoh_1.jpg

カリフォルニアのLCさんが戦前建っていた公会堂の位置を特定してくれた。

1945年に米軍が撮影した航空写真と、現在グーグルが提供している地図と同スケールの航空写真を比較して正確な位置を割り出したのである。
しかし、2つの写真を重ね合わせるには角度を回転させ、縮尺を調整しなければならない。

LCさんがそのとき縮尺の基準にしたのは、長老派淡水教会の屋根の長さが21.5メートルであることであった。

そして、拡大/縮尺の基点に選んだのが、公会堂から馬偕博士旧宅に曲がる坂道に降りる階段の踊り場であった(このブログで5月15日に載せた「淡水名勝要覧圖」の描かれている階段)。

そうして両航空写真を重ね合わせて、洋館の幅を13.5メートル、長さを16.13メートル、面積を220平方メートルであることを割り出した。
さすがシビルエンジニアである。

この洋館はLCさんも書いているように学校の学芸会や、野球などスポーツの祝勝記念会や、街営の講習会などに多用されたようでいくつかの写真が残っている。
それだけでなく、結婚披露宴にも多く用いられた。
私の両親も台湾神社で挙式したあと、洋館で披露宴を行っているし、ボストンの鄭先生の親族の結婚記念写真も、横浜のKGさんのご両親の結婚写真も見せて貰った。
日本式の宴会は本館1階の畳敷きの広間で、中華料理の宴会は洋館で行われており板前さんや司厨が何人も居たという。
本館の広縁からの眺めは素晴らしかった。本館階下には撞球台もあったと言うが私は覚えていない。

公会堂は我々、淡水生まれにとっては懐かしい場所なのである。

いまは淡水の幹線道路、中山路になっているが公会堂本館の裏には木立があり、洋館の横には稲荷神社があった(下図参照)。

Kokaido_1.jpg

LCさんのおかげで当時を偲ぶことが出来るようになった。
有り難いことである。

2011年05月21日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

1930(昭和5)年の公会堂

kohkaidoh_3.jpg

この写真には「第九期台北州産業組合講習会修了記念(昭和五年三月一七日・於淡水公会堂)」とある。
この写真も台湾の古い写真を載せているページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)で見かけたものである。

淡水公会堂は雑誌や新聞の閲覧、食事や喫茶、囲碁・将棋、盆栽や絵画の展示会などの場所を提供していたと言われる。

1928(昭和3)年秋に竣工して公私の催しに活用され、和式/中華などの宴会や会食も必要とされ、常任の管理人を置くことになったのであろう。

公会堂と同じく街営の海水浴場「和樂園」で管理人、浅野タツの手伝いをしていた祖母、原田ユクが淡水街嘱託となって公会堂の管理人になったのは同年4月であったという。

上の写真では、公会堂はまだ出来たばかりのように低い柵で囲まれただけであるが、下の写真では生け垣が繁り、立木も何本か見える。

kohkaidoh_1.jpg

しかし私の幼い頃の記憶で、この生け垣はおぼろげである。


2011年05月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公学校長官舎

TansuiAlbum_13a.jpg

写真は昭和14(1939)年3月の淡水公学校卒業記念写真帖に載っていたものである。

朝礼のときで、教員は制服制帽で両側から挙手で国旗を見上げている。

校庭の一角に生け垣をめぐらせた家が見える。
おそらく校長官舎であろう。

当時は郡守も銀行の支店長も皆その担当施設の官舎などに家族で住んでいた。


2011年05月26日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

公会堂の生け垣

papaya_.jpg

私が公会堂に居たのは幼いときのことで記憶と言うほど確かなものではない。

kohkaidoh_1.jpg

この写真を見たときに、まわりにめぐらされている生け垣のことは思い浮かばなかった。

frontKohkaido.jpg

念頭にあったのはこの縁石のことで、これはよく覚えていた。

Danshui_postcard.jpg

他にもこれを覚えている人が居て、絵葉書にもやや誇張されて描かれている。

しかし、公会堂の小母さんと言われていた祖母に抱かれている写真にはパパイヤの根元に柘植のような低い生け垣が写っている。

縁石はこの外にあったに違いない。

写真の一齣から何かが判ってくることもある。

2011年06月03日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

LCさんのお姉さんとKGさんのお母さん

37KIN2.jpg

1937年に撮影された淡水の幼稚園の写真である。

カリフォルニアのLCさんのお姉さんと横浜のKGさんのお母さんが保母として写っている。

このブログで一昨年知り合ったLCさんが送ってくれたものである。

昨年同じご縁で知り合ったKGさんは、お母さんがLCさんのお姉さんと同じ幼稚園に勤めていたとは知らなかったそうだ。
LCさんも当時、園児であったそうである。

それにしても背景の大きな煉瓦建ては何処だろう?
キリスト教長老派の教会であろうか?

2011年06月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

sanpan_1.jpg

洋式のボートは中央に乗って後ろ向きに座って櫂を漕ぐ。

日本の和船は船尾に立って横向きで艪を漕ぐ。

は船尾に立って艪を漕ぐ。

櫂は船端に支点のあるものをオール、支点がなく腕で漕ぐものをパドルというが、英語圏には艪の概念はない(ベニスのゴンドラは艪で漕いでいるが・・・)。

櫂は、その先端で水面を後に押し反動でボートを前進させるので後まで押し切ったあとは水面から上げてボートの前方に戻して水面をとらえる。

艪はその先端を水中に浸けたまま移動させ、飛行機の翼や汽船の舵のように水との相対速度によって得られた揚力で船体を推進させる。
調査しても文献によっては「原理はよく判らない」などというものもある。

淡水でに乗って中洲に渡ったときのことを思い出した。

文字で説明するより図で示す方が判りやすいが、最近では淡水にも香港にも手漕ぎのはない。

どこかに手漕ぎのに乗せて貰えるところがあれば良いのだが・・・。

(10日追記:
写真を見ていると、手前のは左を水面から持ち上げている。
艪ではなく、櫂なのだろうか?)


2011年06月18日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

1940年の端午の節句

Tango_1.jpg

私が生まれた年の端午の節句には資生堂の広瀬さんや公学校の松田校長などから武者人形や鯉幟を貰った。
祖母からも、佐賀の本家からも祝って貰ったそうである。

それで、若い者がご飯を食べていた表側の部屋に鎧甲や武者人形を飾ったときの写真である。

父は小栗兄弟に手伝って貰って、高台にあった公会堂に鯉のぼりや吹き流しを掲げる柱を立てたという。

その穴に埋めたのか、父は眼鏡を無くしたと言っていた。

そのとき父は28歳、母は23歳であった。


2011年06月19日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

東港の管制塔跡

tohko_1.jpg

片倉佳史氏の『台湾に生きている「日本」』を見ていたら口絵のカラー写真にこの写真が載っていた。

写真を見ても気にとめなかったが「(大鵬湾)屏東県の東港水上飛行場の管制塔はカフェとなって残っている」という2行足らずの説明文に驚いた。

東港と言えば飛行艇や水上機の基地として内地の横浜や詫間のような飛行艇の基地であった。

本文を何度読み返しても関連する記事は見つからなかった。

片倉氏には、つい先日淡水世界和平公園の件で助力を依頼したところご多忙中にもかかわらず対応して貰ったばかりである。
いつか、機会を見つけて東港の様子など教えて貰いたいと思っている。

嘱託で淡水公会堂の管理人をやっていた祖母は幼い私の編上靴を飛行艇の艇長に頼んで買ってくれたが、サイズが合わず香港だかシンガポールだかに取り替えに行って貰ったと笑っていたことがある。

淡水にはときどき、南洋からの帰途や内地から要人を乗せて川西の飛行艇が来ていたが、艇長や来賓は公会堂に宿泊していた。

2011年06月20日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

大日本航空の川西大型飛行艇

Kawanishi_1a.jpg

1940(昭和15)年11月22〜27日、横浜を離水した川西式大型飛行艇「綾波:艇体付字J-BFOZ)」はサイパン・パラオ・淡水・横浜間9237キロメートルを飛行時間37時間12分で飛翔した。

これはその前年、横浜からサイパン・パラオに定期運航されていた大日本航空の南洋線を延長し淡水まで定期運航を延長し、将来的にはサイゴン、バンコックまで運航することを意図したものであった。

間もなく開戦となったため、残念ながら定期便が就航することはなかった。

従って淡水に飛来していたのは海軍の輸送飛行艇であった。

南洋線は1941(昭和16)年11月25日にパラオから赤道を越えてポルトガル領チモールまで延長されたが、その2週間後に大東亜戦争が勃発したため、1往復で終わってしまった。

大日本航空の川西式大型飛行艇には「黒潮」、「綾波」、「磯波」、「白雲」などの艇名が付けられていた。

大日本航空で使用されていた川西式4発飛行艇は18艇とされているが、民間航空の付字で登録されていたものは23艇あったとする説もある。

客室定員は10名で、座席は角度調整が出来るほか寝室には両舷に2段の折り畳み寝台があり、貨物室、化粧室のほか調理室もあったという。


2011年06月27日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

校名の変遷

TansuiES_1.jpg

このブログを見たとコメントを貰った。

その人のお祖父さんが淡水国民学校卒業生で、よく当時の先生のことを聞いたという。

滬尾日語傳習所ができたのは始政式翌年の1896年で、このときに設立されたのは滬尾のほか台北、基隆、新竹、宜蘭、彰化(台中)、鹿港、苗栗、雲林、台南、嘉義、鳳山、恒春、媽宮城(澎湖島)の計14箇所であった。

2年後に滬尾公学校となり、1912(大正元)年に淡水公学校と改名された。

1924(大正13)年には現在、文化国小のある地に淡水女子公学校が分離された。

1941(昭和16)年4月には淡水東国民学校と改名された。

1946(昭和21)年に淡水国民学校と改称され、1952年に男女共学となった。

1958年には淡水国民小學と改められ、
1990年に創設90週年記念誌が発行された。

上掲の写真はその記念誌に掲載されていた1944年当時の写真である。
前列中央は松田常己校長、後列左から2人目は廣川研一である。
当時の職名は訓導であった。


2011年06月29日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

三芝国民学校

SanshiES_1.jpg

父、廣川研一は1937(昭和12)年9月30日で判任文官に任官され、淡水公学校の訓導となった。
1941(昭和16)年4月1日付けで「淡水東国民学校」と校名が変更になり、1943(昭和18)年3月25日で三芝国民学校訓導に補せられた。

三芝国民学校は1911年に老梅公学校の小基隆分校として設立され、翌年小基隆公学校として独立し、老梅公学校はその分校となった。
その翌年には北新庄分校もできた。
1921年には老梅分校も北新庄分校も公学校として独立した。
1941年には三芝国民学校と校名を改めている。

1944(昭和19)年5月5日に三芝国民学校の教頭に補せられ、同年6月12日に応召し、台湾歩兵第四部隊(蓬19702部隊)に配属になった。
1945年に終戦となり、召集解除となり部隊は9月1日に現地解散となった。
この間、1944年9月30日には給六級俸、1945年9月30日には給五級俸とある。

いつまで給与を貰っていたのかと思っていたら、昨年発行された三芝国民小學百年誌の巻末に歴任教職員名簿が添付されていた。
それによると、父は1943年3月31日に赴任し、1945年12月31日に離職したことになっている。
赴任日付けが数日異なるが百年誌に掲載されているだけでなく謄本が創立百年を記念して新設された文物館に収められていたのには驚いた。

前線に行っている間も家族に給与が支給され、応召解除になったあとも年末まで支給されていたことになる。

その後は淡水の海運会社の倉庫番や引っ越しの手伝いなど賃仕事をしていたらしい。

写真は現在の三芝国小である。


2011年07月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

河遊び

nakasu_1a.jpg



淡水の広き中洲に蟹を追い
日がな一日過ごしけるかも

       (詠み人知らず)


2011年07月11日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

領事館の庭

ryojikan_1.jpg

三芝から淡水に戻って烽火街に住んでいた。

龍目井より油車口よりで、砲臺埔から下ってきた辺りである。

英国領事館が近かった。

いまは紅毛城と一緒に観光スポットになっていて英国領事館とはあまり言わないようである。
「昔、イギリスの領事館になっていた」という感覚であろうか?

正面の門も砦に登る坂道もきれいに剪定されている。

ryojikan_2.jpg

しかし、当時はもっと鬱蒼とした感じであった。

これほど明るいと少しイメージが違う気がする。

ryojikan_3.jpg

ここは煉瓦建ての領事館から生け垣沿いに降りてくる坂道であるが木陰でひんやりしか感じを覚えている。

足元には日本のものよりずっと大きなスイバが沢山咲いていた。


2011年07月31日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水公学校の授業

TansuiAlbum_15.jpg
淡水公学校の授業
淡水公学校の授業の様子である。

学童が驚くほど真面目に授業を受けている。

黒板の高さや教卓と較べても、特に教壇はなかったようである。

板書も丁寧である。
右端に当日の月日が書いてあり、その左に「郊外の秋」と書いてあるところからして、授業は国語(読み方?)らしい。

黒板の上には時計、その上にあるのは歴史年表であろう。
その右には明治天皇の御製が掲げてある。
左右に世界地図と日本地図が張ってあり、右前に小黒板がある。

学童の机は2人掛けの木机で、全員が背筋を伸ばして机上の教科書を目で追っている。
皆、短く散髪してキチンとシャツを着用している。

夏は暑いので、教室と廊下の間には床上に換気用の小窓が開いていた。

何時だったか、その小窓から教室に入り込み、欠席の学童の席に座っていたことがあるそうである。

今の子供にこんな真面目な授業風景は想像も出来ないであろう。


2011年08月05日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

周明徳氏の私家本に載っている淡水

Tansui_2.jpg

米国に在住している淡水の名士、周明徳氏の私家本「続・夕日無限好」に載っている淡水市街である。

昭和7年に撮影された珍しいカラー写真である。
KGさんが複写して送ってくれたものである。

右手に淡水公学校、左端に淡水中学校が見えるが、長老派教会も公会堂もよく判らない。
当時の街並みはすっかり建て替わり、当時を偲ぶことは難しくなっている。


2011年08月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水社付属淡水稲荷社

TansuiInari_1.jpg

現在、図書館のある文化センターの建っているところに淡水公会堂が建っていた。

公会堂の本館は1階部分が煉瓦建てで、2階には広く見晴らしの良い廊下があった。

本館の右隣には洋館が建っており、その右奥に淡水稲荷社があった。

洋館の傍を行くと10段程度の石段があり、その上に建っていた。
ほかの稲荷神社と同様に、お参りした人が寄進した朱塗りの鳥居が幾つか奉納されていた。

見出しの配置図はボストンの博士が送ってくれたものである。

神社の地塊は淡水郡淡水街淡水字砲台埔二八ノ一・丙となっており、隣は公會堂地塊となっているので未だ建設される前の更地であったのであろう。

この配置図の凡例には淡水社と付属稲荷社となっているが、付属の割に稲荷社は立派である。
社屋は間口2間・奥行き三間と、淡水社の横六尺・縦六尺五寸と較べると格段の大きさである。

何れにも社屋のほか、鳥居、水屋(手洗場)が設置され、淡水社には一対の灯籠もある。
付属の稲荷社の方が立派なのは、淡水神社は油車口に建設されることが決まっており、それまでの仮社屋であるのに対し、稲荷社の方はその後も恒久的に置くことを予定していたからであろう。

2月1日の本欄に稲荷社の写っている写真を載せたら台湾に渡った神社を調べている人がそれを見て「感激した」とコメントをくれた。


2011年08月10日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

ブリキのツェッペリン

Fukuya_1.jpg

龍目井に住んでいた頃か、烽火街に住んでいた頃のことかよく判らない。

銀色のツェッペリン飛行船の玩具を買って貰ったことをおぼえている。

長さ2、30センチくらいではなかったかと思う。

銀色のブリキのおもちゃで、天上から糸で吊し、船尾にある透明なセルロイドの3枚プロペラをゼンマイで廻して旋回するものであった。

内地に帰ったときに祖母が買ってくれたものである。

戦後、「あれは福屋で買った。」という祖母に母が「福屋は広島のデパートよ。」と言うと「そうだよ。広島の福屋で買った。」と言っていた。

母は台北一高女に通っていたが、最終学年は徳山高女に転校し、そこで卒業している。

祖母も20年以上淡水に暮らしていたが、何度か山口県に行くことがあったのであろう。
広島は山口県境から30キロメートルくらいである。

福屋は電車通りの北側にあったが、1938年南側に地上8階、地下2階の新館(上掲)が建設されていた。

2011年08月11日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水郵便局・分館

TansuiPost_1a.jpg

大きな切妻造りの淡水郵便局は電報局も兼ねていた。
その河岸寄りに2階建ての建物があった。

19世紀に香港の貿易商、ダグラス商会の建てた上屋であったが、日本の統治が始まると龍目井界隈の土地・建物は不動産業の中野金太郎氏に譲渡してダグラス商会は撤収した。そして、その2階建ては改築などを経て郵便局に移管された。
写真で中央、やや左の切妻が郵便局本館で、右端の2階にアーチがならんで見えるのがその建物である。

母は戦時中、郵便局の為替主任をしていた。
そしてこの建屋の2階に陸軍通信隊の兵士が数人滞在していた。
朝、通信兵たちは電線や工具を持って出掛け夕方帰ってきた。
母たちはその賄いの奉仕をしていた。

幼い妹は眼鏡を掛けた通信隊員を「おとうさん」と言っていたという。
その頃、父は応召して台湾南部の部隊に赴いていたのである。
母も困っていたと思う。

いまはすっかり様子が変わってその河岸の建物のあった辺りは公園の一角になっている。


2011年08月12日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

夾竹桃

kyochikutoh_1.jpg

台湾の夏で思い出すのは夾竹桃である。

広島の平和公園にも河岸に夾竹桃が沢山植えられているが、赤花のほか白花もあり矮性株も多いが、台湾で見たものはとても高く繁っており、花は赤花であった。

おそらく三芝に居たころの記憶であろうが、道沿いに密に植えられた夾竹桃が濃いピンクの花を沢山つけていた。

見上げるような高さで、生け垣などと呼べるものではなかった。

この時期になると思い出す夏の花である。


2011年08月13日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水郵便局・分館−追補−

TansuiPost_2a.jpg

一昨日の淡水郵便局・分館の追補である。

あれを見たMさんから電話を貰った。
父が応召したのは私が4歳のときで、復員したときは5歳であった。
従って当時のことを憶えていると言っても確かな記憶ではない。

応召したのは三芝公学校の教頭をしていたときで、淡水駅から見送られて伯父とともに部隊に向かったと聞いていたので、三芝から淡水に戻ってきたと思っていた。

家族として一緒に住んでいたMさんによると、父が応召したあとも三芝に居たのだという。
終戦になって留守家族で淡水に戻ってきたが住むところはなく、郵便局の分館に仮住まいしていたと言うのである。
そのとき、ここは市川ヲコさんが管理人をしていたそうである。

あやふやな記憶でも、こうして書いてみることによって記憶違いしていたことや関連事項が判ることもある。

淡水郵便局の分館になっていたこの建屋は香港の貿易商ダグラス商会が貨物倉庫として建てたものであったが、当時の写真と見比べてみると屋根が寄せ棟(上図)から切妻に変わっている。

2011年08月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

人力車

Rikisha_1.jpg

淡水の街も道が狭かった。

いまは老街の市場のなかにプロパンボンベを3〜4台載せたバイクが走るが、当時は歩行者のみで自転車など持ち込んだら大変なことになったであろう。

自動車は乗合自動車(バス)くらいで、そのバス道路から先は歩くしかなかった。

河岸に出来た集落で道は細く、上り下りがあった。

しかも駅は町外れにあり、家並みは油車口の近くまで続いていた。

それで駅前や、龍目井の小公園には客待ちの人力車が居た。

大きな双車輪と車体の間には大きな重ねバネがあり、道路が多少デコボコしていてもその大きな緩いバネで衝撃を吸収するので街の乗り物としてちょうど良かった。

資料を見ると鉄道網が敷設される前はレールの上の台車を人が押す、いわゆる台車軌道が多かったようであるが、私はそれを覚えていない。


2011年08月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台湾鉄道・淡水線の終着駅

TansuiEki_1.jpg

台湾鉄道の淡水線は1901(明治34)年8月20日であった。
これは基隆から打狗(現:高雄)間400キロ余りを結ぶ縦貫鉄道の開通より数年早かった。
当時、淡水は貿易額の6〜7割を占める貿易港であったので主都台北からの鉄道整備が急がれたのであろう。

当初、台北駅から大正街、雙連、圓山、宮の下、士林、ロ其里岸、北投、江頭(関渡)、竹圍の各駅を経て淡水まで約20キロメートルの鉄路であった。
現在のMRTとほぼ同じ経路である。

淡水から台北に通勤・通学するために蒸気機関車の曳く列車は4両編成であった。
のちに閑散期にはガソリンカーが運行されていた。
自動車のように床下に装備されたガソリンエンジンで駆動するもので、いまで言うレールバスである。

母は台北一高女に、マキ子さんは、二高女に通っていた。

父は応召してこの駅から台南の部隊に向かった。

この写真も、戦後父の教え子から送って貰ったものである。


2011年08月26日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

当時のバス

Bus_1.jpg

淡水郊外を走るバスである。
しかし、これは当時の写真ではない。
アマチュアカメラマンの蔡坤煌醫師が1970年に撮影したものである。

戦前のバスは当然ボンネットバスで、勿論停留所はあったが停留所でなくても手を挙げれば乗せてくれ、降りるときも「ここで降ります」と言えば路側に寄せて停めてくれた。
左側交通であったのであろうか?

おそらく興化店や沙崙、小基隆などに行くにはバスに乗っていたのであろう。

街中は人力車があり、道路の整備されていなかった頃はレールの上に人の押す台車があったらしい。私はその頃のことを知らない。


2011年09月24日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水劇場

TansuiTheater_1a.jpg

父は何度も淡水街の地図を描いている。
若い教員であった頃の淡水の街が懐かしかったのであろう。

そのなかで知らなかった地名や事物が描いてあった。

淡水劇場もそのうちの一つである。

私より少し年上のLCさんは、そんなときよく教えてくれる。
引き揚げの時、私は6歳であったので数年の年の差は大きい。

淡水劇場についても6月頃、場所を示す航空地図と、淡水劇場の建設について詳しい資料を送ってくれた。
戦後内装を改造して戯台(台湾式劇場)として使われていたが、1995年に炎上してしまったという。

淡水の街も建設ブームの1937(昭和12)年に最初の劇場が建設された。

賊仔栄貴とあだ名で呼ばれていた洪栄貴と日本人の合同投資で街役場から清水街と新路(現:中山路)のあいだの新街の土地を借りて建設されたもので、歌仔劇、新劇、特技団や無声映画などが上演された。

1944(昭和19)年10月12日、米軍第38航空隊による淡水空襲でライジングサン石油や施合発の製材所で市民20人が犠牲となったが、このとき淡水劇場は臨時の救護所になり血清の獣医、劉興明医師も検視に立ち会ったそうである。

1947年の2・28事件の時は市民が淡水劇場に集まり議論や演説が行われたと言うが夜間は平常のように営業していた。
国府軍が大陸から来て淡水を占領していたときは様子を見ていたが状況が収まると興行を再開した。

戦後にできた淡江劇場や光復劇場などと区別して「旧戯台」と呼ばれていたという。

1995年に淡水劇場の内装が一新されたが、火災が発生して全焼となった。
このため鎮公所は土地貸与契約を取り消し、2005年1月に淡水劇場の焼け跡を片付けると発表したので、古蹟保存団体が鎮長に会見し、暫く取り壊しを見合わせるよう懇願し、大急ぎで古蹟審査が開始された。

しかし鎮長の判断で古蹟としての価値はないとして1月20日に取り壊しが始まった。
1月24日に文化局古蹟審査委員が現場を視察したときには瓦礫の山になっていたという。

LCさんの話では、子供の頃淡水劇場に住んでいたLさんは戦後、土木技師として水力発電所建設現場に務めていたが、米国でLCさんと連絡がとれたときには麻酔医として活躍していたというから驚きである。

そして、東日本大震災の一週間前に青森の個人病院に単身赴任したそうである。

おそらくLCさんがこのブログも紹介して呉れているのではあるまいか?

2011年11月21日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

川西大艇「綾波」パラオから飛来

KawanishiSketch_1ab.jpg

1940(昭和15)年10月25日の午後4時過ぎ、淡水に大日本航空の川西4発飛行艇「綾波」(艇体符字:J−BFOZ)が着水した。

この日の午前5時15分に委任統治であった南洋群島のパラオ島(標準時は内地と同じ)を離水して午後4時8分に淡水に着水した。
所要時間は余裕を見て12時間と予測されていたが、10時間53分で到達した。
7時半、朝食の出る頃から天候が悪くなり、低気圧のため風速24メートルの強風を受けて海面すれすれで航行したが2時間ほどで脱出している。
9時5分頃には南洋庁の警戒船「南栄丸」から「機影を南方に認む。御安航を祈る。」と着電あり、返信を返している。
2時半頃、艇上で誰かが「台湾が見える」と喜んだが、またも天候急変し、窓から吹き込む雨で乗務員はびしょ濡れになった。
このため3時半には着けるだろうと予測し無線で連絡していたが、高度100メートルの低空で目的地を探したために着水は4時を過ぎていたという。
花蓮の辺りから海岸沿いに基隆、富貴角と迂回して到達したものであろう。

淡水の郡役所は、紅毛城にほど近く、街路に面して建っていたが、岡野俊郎艇長ら8名の乗組員は短艇で郡役所広場に上陸した。
郡役所広場には天幕が設けられ、日本航空台北支所長の大西氏らに迎えられた。
その後、淡水街主催の祝賀宴のあと、車で台北まで行き、花屋ホテルで宿泊した。
翌26日の正午から台北鉄道ホテルで佐々波逓信部長主催の歓迎祝賀宴に出席し、27日午前6時に横浜への帰途に就いたという。

この飛行は、定期空路啓開のための試験飛行であり、11月22日に横浜を出て、サイパン、パラオを経て淡水に飛来したもので母港横浜に戻るまで、9237キロメートルを飛行時間37時間12分で航行した。

ちなみに同艇は、1939(昭和14)年4月には横浜、サイパン、パラオ4180キロメートルを25時間35分で飛び、1940年10月22日にはパラオからポルトガル領チモール島までの調査飛行も行っている。


2011年12月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水郵便局

TansuiPhoto_28.jpg

淡水郵便局は、清朝の1888年に設立され台湾北部の郵政の拠点であった。
当時、台北地区の郵便物の多くは大稲から淡水に運ばれ、ここから貨物船に搭載されていた。

日本統治後の1896年1月には、現在郵便局、電信局のある場所に第17野戦郵便局が設置されたが同年4月1日に普通郵便を取り扱う滬尾二等郵便電信局となった。

1915年3月に、局舎はヴィクトリア様式に改築され、河岸側も2階建ての洋館に改築され、淡水の景観スポットになっていた。
1921年には淡水二等郵便局と改称された。

1966年にはハリウッド映画「砲艦サンパブロ」のロケーション撮影がここで行われている。

しかし、1986年に改築のため取り壊され、後棟の洋館も火災で失われてしまった。

母はこの郵便局で為替主任をしていたこともあると聞いた。

父が三芝国民学校から応召したあと短期間、郵便局の洋館に住んでいたこともある。

この写真は蔡坤煌醫師の撮影したものであるが、左に洋館2階のアーチの一部が見える。

2011年12月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水街の公会堂

KohkaidohYohkan_1a.jpg

日本特別展覧会資料「拝啓 日本様−淡水より−」によると、淡水公会堂は1909年4月に完工し、一般市民に図書閲覧、食事と囲碁将棋、交流と健康など藝術文化活動の場を提供していたという。
同資料によれば税関吏など地方官吏、台湾銀行や日本商社の社員、淡水の有力者などを構成員としていた「五十會倶楽部」が当時の淡水の社会文化活動を推進しており、公会堂や淡水海水浴場、台湾で初めてのゴルフ場建設などの設立に寄与したと掲載されている。

一方、淡水の歴史を丹念に追跡している「漁人碼頭的戰爭(http://danshuihistory.blogspot.com)」には、税関の職員などによる「淡水倶楽部」が街営の海水浴場や公會堂を建設したと掲載されているが、1909年の公會堂竣工には疑問を呈しており、「1918年:興建淡水公会堂(即今淡水文化大楼所在地)、1928年8月1日:淡水公会堂落成」としている。
当時としては大きな建造物ではあったが、それにしても工期10年というのは長すぎる感がある。

淡水の名士であった周明徳氏の私家本(2000年著)「続・夕日無限好」によれば淡水街で昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)記念行事として寄付金を公募し公會堂を建て、同年8月16日に竣工したという。
この寄付金の大半は施合発製材工場の施坤山氏が提供したという。

1909年に公會堂が開設されたのは事実であろう。
砲台埔二八に淡水稲荷社(1906年11月15日鎮座)の区画を表した地図があるが、隣接地は「公會堂地塊」とのみ記されている。ここに公會堂(旧館?)が建てられたのではあるまいか?
そこを1920年代に改築したのではないかと思うようになった。

別項で紹介したが、戦後(1950年前後)、水上飛行場傍の測候所に勤務する空軍気象観測班が空き屋になっていた公會堂に住んでいた。沢山の家族がここを住居とするため、幾つもの小区画に仕切られ、電線もしばしば過負荷で短絡することもあったらしい。
そして懐かしい公會堂は漏電で消失してしまった。


2011年12月10日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水海水浴場

TansuiKaisuiyokujo_1.jpg

当時、台湾には海水浴場という概念は無かった。

日本統治の頃 滬尾國語傳習所が出来、後に公学校となるが現地の人にとって体育が教科に入っていたことが理解できなかったと言う。

運動など、学校で教えるのもではなく子供達は自然に経験するのもであるという認識であったらしい。

従って、馬偕博士が毎日浜辺で「海水浴」をしていたと伝えられているが当時は奇異の目で見られていたのであろう。

1923年に淡水街はずれの沙崙に海水浴場が設けられたが、当時の海水浴場は街役場が経営していた。

当時は毎年、6月から9月まで運営されており、この期間 台湾総督府鉄道部は2割引の優待往復切符を売り出し、列車を増発し。駅から海水浴場までバスを運航するなど観光客の便を図っていた。

この海水浴場の経営者に浅野タツが当たっていたが、そのいきさつはよく判らない。

しかし、ゴルフ場と同じく台湾で初めての海水浴場については、LCさんのようによく憶えているという人もいる。

公学校でもよく海水浴に行っていた様である。

片倉佳史氏はその著書「台湾風景印」のなかで『三方が小高い丘に囲まれ、一方が海に面していることから本土の鎌倉に似ていた。そのため淡水鎌倉海水浴場と名付けられた』と紹介している。


2011年12月26日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

水牛のオカリナ

ocarina_suigyu_1.jpg

これは淡水中正路の馬偕ロータリーに面した陶笛屋にあった水牛のオカリナである。

戦前は農耕用に水牛がたくさんいたが、近頃は耕耘機に取って代わられたのか見かけることがなくなった。

台湾では食肉は黒豚で、水牛は食肉には向かないのであろう。
(内地に帰って、白い豚がいることを知った)

河馬のように川があるとすぐ水に入るので水牛というらしい。

母の話では農道などで出会うと怖かったという。

水牛の角は立派で、印鑑などに用いられていた。


2011年12月27日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水河の中洲

TansuiPort_1a.jpg

いま、淡水河には木道などを作ってマングローブが保全されているが、中洲は残っていない。
水流で流されたのであろう。

戦前は大きな中洲があった。
ときにはで中洲に蟹を採りに行ったりした。
このあたりには片手が大きく、それを潮が引くとそれを振りあげる様を擬えてシオマネキと呼んでいた。

この写真は清の時代のものであろうか?
戎克は、大陸から日用品や雑貨を運んできて、帰りには米を積んで行っていたという。

戎克は台北の(萬華)や、その後は大稲逞のあたりまで行っていたらしい。

2011年12月28日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

人力車

jinrikisha_2.jpg

淡水の集落は、河の右岸に沿って長く延びていた。

駅から龍目井のあたりまで、およそ1キロくらいあった。

健康な人は歩いて行く距離であったが足腰の弱い人や急ぐ人は人力車を使っていた。
駅前や小公園には客待ちの人力車が客待ちをしていた。

当時、舗装道路は限られており、踏み固められた道であったので、自転車や人力車はゴトゴトして楽ではなかった。

そのため、人力車には車軸と客席の間に緩衝のために大きな重ねバネがあった。
車輪は多少、ゴトゴトしても客の座席に伝わる衝撃をやわらげることが出来る。
後に、自転車の横や後に乗せる自転車タクシー(略称:輪タク)も出来たが舗装していない道では人力車の方が乗り心地が良かったに違いない。

2011年12月29日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

建て替え前の滬尾二等郵便電信局界隈

tansui_postoffice_1.jpg

12月8日のこのページで、滬尾の郵便局は建て替えられたと書いた。

今日、偶然にウェブページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)で、建て替え前の郵便局の写っている写真に気がついた(上掲)。

臺湾淡水市街全景という絵葉書である。

この写真で全景と言うのだから、当時はこの辺りが街の中心であったのであろう。

1896(明治29)年1月に、ここに第17野戦郵便局が設置され、同年4月に普通郵便を取り扱う滬尾二等郵便電信局となったという。

そして1915(大正4)年3月に、本棟も河岸の別棟も改築され、1921(大正10)年には淡水二等郵便局となった。

TansuiRiver_10.jpg

似たアングルから撮影された写真と較べてみると、中に同じ建屋が写っている。

2012年01月03日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

台湾餅

mochi_1.jpg

お正月はお餅を食べる。

日本では餅と言うと、搗き餅のことを指す。
蒸した餅米を臼で搗いたものである。

西日本では、熱いうちに手でちぎって丸めた、いわゆる丸餅(小餅)にするが中部から東日本に掛けては、搗いた餅をのし餅やなまこ餅にして切った、切り餅を焼くなどして食べる。

台湾にも「餅」の字の付く食べ物は多いが、材料は餅米とは限らない。
むしろ、どちらかと言うと粉ものが多い。

「台湾餅」というと、とても幅が広くなってしまうが母が作ってくれた台湾餅を思い起こす。

小麦粉と黒砂糖を型に流し込んだものであった。

大きなビスケットの缶のような容器に流し込み固めたものである。

切ってそのまま食べても良いが、黒砂糖が入っているので焼くと柔らかくて旨い。

今日はそんなことを思い出した。

当然、そんな写真はないのでウェブで探し出した写真を挙げた。
青森名物、鯨餅と言うそうだがこれに似ていなくもない。

2012年04月02日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水街淡水字新店参拾七番地

Tansui.jpg

昨日の「漁人碼頭的戰爭」に思いも掛けない写真が載っていた。

当時の淡水街新店の街並みを駅の方向から撮ったものである。

緩やかに曲がるその街の右手前の商店は塩を商う黒川さんの店である。
「塩」、「煙草」、「酒」など当時専売制であった扱い品のパネルが見える。

父と母が結婚して住んだのは、この黒川さんの二階であった。
父のメモには
「最初、黒川さんの二階に住んでいたが三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住みやすい家であった」とある。

お産が近くなって公会堂に身を寄せて、そこで生まれたが出生届は標記住所で届けられた。
産婆さんは市川ヲコさんであった。

メモは
「暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこに移った。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。窓側に掛樋をかけ、縁先に四角な水槽を据えて金魚を飼っていた。
当時ばあちゃんは、公会堂管理人として街役場の嘱託で、かたわら宴会、会合などの仕出しをやり、板場や本島人の仲居さんも居たし、なかなか羽振りが良く、交際も広く、気前もよし、元気の良い『公会堂の小母さん』で通っていた。
赤ちゃんが生まれて、抱きかかえられるようになるのを待ちかねて、方々へ抱え歩いては自慢して廻った。戦争の初期で街は生き生きしていた。軍人にも顔が広く、有名な『兵隊小母さん』でもあった。
遊んで廻るようになった。大きな機関車や、尻尾にセルロイドの二枚羽根を付けた金属製の飛行船があった。夏になると浅野のおばあちゃんの居る海水浴場に、自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。自転車で行くのであるが、帰りはきまって油車口か、淡水神社の辺りまで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。在る日、部屋の中ではしゃいでいて、応接台の角にこめかみを打ちつけて、肉が切れたので、慌てて李樹林のところに連れて行ったら、小さなかすがい見たようなものでカチンと縫い合わせた。泣くだろうと思っていたが泣かなかった。
母親が知らぬ間に、バナナを皮ごと食べて、ひまし油を飲ませ大騒ぎしたのもこの頃である。
虫類が好きであった。あるとき『とんぼに口があるの』と母親に尋ねた。面倒臭いので『無いよ』と答えたらしいが、やがて大きな声で泣き出した。『とんぼに口があった』と言う。トンボをいじって居るうちに指先を噛まれたのである。
私が勤めて居た公学校へ、母親と弁当をもって来るようになった。その日は一人で来たのだろう。職員室と教室との間に池があるが、これにはまって、女教員の陳氏速英、看護婦の李氏抱に引き上げられ、毛布に包んで、連れ帰って貰ったことがある。」と続く。

このメモは謄写版刷りの原稿用紙に、母の字でペン書きされ、広島県点字図書館の封筒に入れてある。
1971(昭和46)年頃、母は点字講習に通っていたので、戦後の混乱期を乗り切り、父が瑞穂工業を設立したころのものと思われる。
両親が残してくれたものである。

ウェブページ「漁人碼頭的戰爭」に掲載されたこの写真を見ると、新店街の道路は拡幅され、舗装されて歩道も整備されている。
当時の日本内地より随分進んでいたことが偲ばれる。
それにしても、本当に良い写真を提供して貰ったと喜んでいる。

2012年04月06日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父のメモ

note_2c.jpg

父のノートの一部である。

街役場の右(駅の方向)にある「荒」とは本願寺があったところであろう。
住職の名前は荒操天と言った。

街役場の左にある「多田」さんは文房具店で、曽城という番頭さんがいた。
少し離れて黒川さんの営んでいた塩屋さんが描いてある。
「鬼頭」とあるのは鬼頭亀吉さんの営んでいた雑貨店、鬼頭商会である。

その横の「広瀬」は雑貨商、資生堂の広瀬 信さんである。

「谷」とあるのは陸軍少尉、谷 善次さんで、「庄」と書いているのは酒屋の庄 信雄さんである。

その左に「公園」とあるは三角公園あるいは小公園と呼ばれていたロータリーである。

「谷」「庄」「広瀬」の上に「木下」とあるのは木下静涯画伯であり、その上に「公会堂(原田)」とあるのは、このメモを書いて行くうちに相対位置がずれたものである。

「淡水女子公」は無論、女子公学校のことで、「小石」は校長であった小石光彦先生である。

その横の「淡水小」は小学校で「松田」は松田常己校長である。
その傍に「有坂」という文字が二箇所見えるが、淡水中学の有坂一世校長で、おそらく外人墓地の左に見える「淡中」の構内に官舎があったのかもしれない。

「粟井」、「関口」に隣接して描いてある「野島」氏は、雑貨商「東洋館」を営んでいた。
その傍に淡水の土地や建物を所有していた「中野」金太郎氏の名も見える。

「郡役所」の脇に「狩野」とあるのは、当時郡守であった。
「伊藤」と書いてあるのは台銀淡水支店長の伊藤勝太郎氏である。

「神学校」のそばの「三原」は、淡水公学校(淡水東国民学校)教頭であった三原宝映先生である。
「木村」とあるのはパイロットの木村氏であろう。

淡水神社の「小笠原」は小笠原清禧宮司である。

2012年04月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

父の訪れた公会堂跡

Kohkaidoh_I_2.jpg

この写真は1985年頃、戦後初めて淡水に戻った父がポラロイドカメラで撮った公会堂跡(現、淡水文化センター)である。

淡水公会堂は戦後、細かく仕切られて空軍の気象観測班などが住んでいたが、漏電のため出火し炎上してしまった。

その跡地はしばらく、幽霊屋敷の様な状態で放置され、子供の遊び場になっていたという。

この写真は文化センターの建物が建っているが、石垣などは雑草が伸び放題である。

Kohkaidoh_1_4.jpg

こちらは私が2009年に撮影したもので、石垣の上の障壁はコンクリート製になり安全のために白く塗られており、石垣には児童の描いた絵が描画されている。

この石垣と、それに沿った坂道は長老派のキリスト教会とともに昔のままである。

2012年04月12日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水河・淡水線

TansuiRiver_1.jpg

加藤壽子さんが1993年に描いた「旧台北イラストマップ:古老的台北地圖」の淡水河口周辺を切り出してみた。

鉄道の淡水線は、北投の外れから江頭(関渡)、竹圍、淡水駅が青文字で書かれており、淡水の街には英国領事館のほか、海水浴場を示す三角旗や中洲、それに戎克が描かれている。

LCさんによると、淡水線は蒸気機関車の曳く4両編成で運行され、利用客の少ない時間帯にはガソリンカーが走行していたと言う。

淡水河は川幅が広いことと、台北の大稲逞や(萬華)までジャンクが遡るので橋は架けられていなかった。

2012年05月03日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

写真を貰った

Hahako_1.jpg

昨日、下松のマキ子さんのところへお邪魔した。

新幹線の駅まで迎えて貰ってから帰途、皆で改札口まで見送って呉れるまで歓待され至福の時を過ごした。

帰り際に手札サイズの古い写真を貰った。
一枚は台湾神社で挙式したときの両親の結婚記念写真であり、もう一枚が上掲の祖母と母の写真である。

祖母が淡水街の嘱託として公会堂の管理人をしていた当時の写真で、洋館の側面で撮ったものである。

本館の1階は鉄骨あるいはコンクリート製で、ロビーやビリヤード卓のあるラウンジなどがあり、奥は厨房で脇に和室が2室くらいあった。
2階は和室の宴会場があり、正面は見晴らしの良い広縁側になっていた。

祖母は宴会料理や仕出しもやっていたが、日本人の宴会は本館2階の広間で、中華料理の宴会は板張りの洋館で行われていた。

ところで、この写真は初めて見るものであったが、母の着ている着物は見覚えがあった。
1939(昭和14)年の淡水神社鎮座式のときの祭礼で、祖母がこの着物を着て参加していた。

この着物は引き揚げの際、持ち帰られて結局は布団に用いられたそうである。


2012年07月23日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水河畔公園と観音山

TansuiRiver_16.jpg

楊さんが、今日も淡水の写真を送ってくれた。

昨日は光華商場にハードディスクを買いに行ったが、とても暑く
36℃を越えていたのではないかと言っていた。

私は、この淡水車站の河畔に広がる公園から、対岸の観音山を姿を眺めた写真が好きである。

台湾の夏は、気温が高くなっても湿度が低いので、榕樹の木陰に入るとさらさらした風が吹き快適である。

楊さんとはお話ししたいことが沢山あるが、言葉の違いがあって隔靴掻痒を感じることもある。
でも、何度も連絡を貰うのは嬉しい。
これからも淡水のことを、いろいろ教えて下さい。

2012年08月08日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水神社の社殿

Tansui_a.jpg

捜していたら、「淡水神社」の写真が出てきた。
出所は判らないが、当時の絵葉書のようである。

私も帰国後何度か淡水に行ったが、淡水神社は少し河口に寄った油車口にあるので淡水神社を訪ねたのは戦後何度目かの渡台のことであった。

今は淡水和平公園が整備され、日本家屋や慰霊碑などが建てられており、近くの旧砲台は博物館になっている。


2012年08月09日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水街付近図

Tansuigaifukin_a27.jpg

「淡水國小九十周年記念誌」に載っていた街の概略図を見つけた。

何時作成されたものか判らないが、停車場を起点とした各地点への距離も載っている。
海軍墓地    0.2キロ
水 源 地    3.2キロ
役  場    0.2キロ
郵 便 局    0.5キロ
郡 役 所    0.6キロ
中 學 校    1.8キロ
紅 毛 城    1.9キロ
税  関    1.9キロ
砲 臺    2.6キロ
ゴルフ場    2.8キロ
燈  臺    2.6キロ
海水浴場    3.2キロ

市街地は斜線で示されているが、当時の中洲はずっと大きかったことが判る。

地図中に書き込まれているのは停車場、海軍墓地、水源地、役場、男子公學校、小學校、郵便局、郡役所、女子公學校、中學校、紅毛城、台湾銀行、税関、砲台、ゴルフ場、燈台、海底電信陸場、海水浴、無線電信、海水浴場で、まだ淡水神社はなく、小學校の下に稲荷神社の鳥居が描かれているからおおよその作成時期が推定される。

道路も当時のものが描かれていると思って良いのだろう。

この記念誌を陳淑女先生に貰ったのは2010年9月であるが、余りに縮小されているので見落としていた。

2012年08月13日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水幼稚園が淡水小学校に

TansuiYouchien_1.jpg

今回、淡水國小九十周年記念誌に載っていた淡水街付近図を掲げたら、LCさんから淡水幼稚園であったと知らせて貰った。

LCさんには以前、街中にあった杉塊庭から公会堂の裏に新しい中山路を造るために煉瓦建ての立派な幼稚園が取り壊されたと、詳細な朱書きを添えた航空写真を送って貰ったことがある。

今回の略地図でそこが小学校になっていたことを知ったという。
その縦貫道路建設のために小学校は、女子公学校と女学校の間に移転したが、戦後は淡水初級中學になったそうである。

それにしても手書きの略地図で、よくそれが判ったものと感心する。

LCさんのコメントを再録する。

「淡水の旧地図にあった小学校は私の幼稚園だと初めて知りました。大きな樹の下、画家たちが好んでそこから教会を前景、観音山を背景にした「典型的な淡水」を描いた地点です。
新しい小学校は女子公学校の横、女学校との中間で、戦後は「淡水初級中学」と生まれ変わりました。尚、初代の校長は杜聡明博士の甥に当たる、当時の鎮長、杜麗水氏でした。杜氏は子息の杜武豪医師を頼って当地に移民、そして此処で他界しました。228事件の時、何も知らずに帰ってきた楊三郎画伯に国民党が目下貴君を捜査中と知らせ、小舟で逃したのも杜氏でした。
幼稚園は大きな講堂のような建物で(添付、小生の幼稚園卒業写真参照)、生徒の数から推測して、貴方のお母様や私の姉の小学校は多分、新しい小学校だったと想います。
因みに五人の先生の右から二人目が、去年のクリスマスの日に95歳で他界した姉で、横浜のクレゴーさんの母上もその内の一人、又の一人は、淡水の烈士、雷燦南の姉上、友梅さんです。」

コメントにある「画家たちが好んで描いた、全景に教会、背景に観音山を配した『典型的な淡水』を描いた地点」の位置も、その風景画も送って貰ったことがある。

LCさんのお姉さんと横浜のクレゴーさんのお母さんが、そこで共に先生であったことも驚きであった。

LCさんのお姉さんと言えば、移転後の小学校で母と一緒に記念写真におさまっていたお姉さんは別のお姉さんであったのだろうか?

皆さんに、いろいろ教えて貰って故郷淡水のことが少しずつ判るようになって喜んでいる。


2012年08月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

1960年ころの中正路

KID2.jpg

カリフォルニアUSAのLCさんから写真を送って貰った。

当時 下町の繁華街、中正路はまだ両方通行であったという。

油車口の方に向かってノッソリ、ノッソリ歩む牛車に放課後のイタズラ小僧がぶら下がっている古き良き時代の画像である。

ドンゴロスの袋の中身は何だろう?

LCさん、ありがとうございます。

2012年09月18日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

淡水線、列車の想い出

TrainPush_1.jpg

LCさんから、また懐かしい当時の写真を送って貰った。

「『淡水線の汽車の思い出』を送ります。

戦前、戦後にかけて淡水から台北への交通は専ら汽車に頼った。死語になった乗合自動車、バスの便もあるにはあったが利用した覚えはない。竹囲から淡水までは四キロ、そのアスファルト舗装は未完成のままだから、当時の状況が推し量られる。
淡水から台北まで石炭炊きの蒸気機関車がノコノコと四両編成の列車を曳いて走る。単線だから途中の駅で反対方向から来る列車を待って『離合』する。淡水発一番列車は6時で深夜の12時まで、ほぼ1時間ごとに発車する。乗客の少ない時間帯では単輌のガソリン・カーが利用された。距離にして22キロを一時間もかけて、汽車は関渡トンネルを抜け、円山鉄橋を渡り、台北の裏駅に面した第三プラットホームに悠長に辿り着く。微笑ましき、古き良き時代の回顧の一齣である。
淡水駅に到着したら、いそいそと下車する乗客を尻目に連結を外して、蒸気機関車は百メートルも先にある給水塔を目指して行く。給水を終えた機関車は列車の先頭に回って出発を待つ。客車と一緒に来た貨車があれば、後に残して荷降ろしをする。
荷降ろしを終えた貨車を押して移動する労働者を淡水駅で撮ったのは、写真入門して間もなく、1960年代の初期で、カメラは当時一番シャープなレンズを誇る、いまは無きAIRES「アイレス」ブランドだった。フィルムはコダックのXXX PANで、露出はたぶん1/250秒で、絞りはf=8.0程度、D67標準現像で、引き延ばしは硬調に仕上げて人夫の筋肉感を狙った。トリミングにあたって、押す方向を少々上にあげて登り坂として工人の苦労を強調した。

その結果がご覧の写真です。」とある。

私も暗室で現像・定着して、それを印画紙に引き伸ばししていた頃のことを思い出した。
LCさんには何時も感謝している。


2013年04月04日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

記憶している飛行艇と水上機

reikan_1.jpg

1936年に台北に松山飛行場が建設され、淡水には1941年に水上機用の航空設備が設けられたと「滬道日安」には記してある。
淡水古蹟博物館開設4周年を記念して編集された日本特別展示会用に編集された資料である。
同誌によれば水上機場は民間の航空会社が使用しており、単葉双発の水上機が横浜から飛来して、淡水で給油したあとサイゴン、バンコクに向かったこともあるという。

しかし、大日本航空の川西飛行艇「綾波」がパラオから淡水に飛来したのは1940年11月であったから、その当時には燃料補給や整備が出来るようになっていた筈である。
私は当時、生後9ヶ月であったので知るよしもない。

憶えているのは零式水上観測機が毎日のように発着していたことと、海軍が横浜からマニラや南洋諸島に定期運航していた97式大型飛行艇である。
この定期便は2週間に一往復していたようである。

零式水上観測機は、艦隊同士の遠距離砲撃戦で上空から弾着を観測し、無線で報告するために開発された複葉単浮舟機で、乗務員は操縦要員と偵察要員の二名が風防のみの暴露座席に乗っている。
前線での任務に備えて、偵察要員用の旋回式7.7ミリ機銃のほかに、機首に固定式7.7ミリ機銃二丁が装備されていた。
複葉で旋回性能がよいので、零観だけで敵機を数機撃墜したものも居た。
しかし、開戦後しばらくは気象観測と定期的な哨戒が任務であったのだろう。

飛行艇は、郵便局の近くのブイに繋留し、郵嚢や便乗者をランチで上陸させていたので河岸から見ていたこともある。

零観のほうは淡水駅から紅樹林に寄った鼻頭村にあった黄東茂氏の豪邸を移転されたあとに作られた水上機基地に戻るのであまり近くで見たことはなかった。

しかし、一度だけ郵便局の裏で間近にみたことがある。
着水に失敗して転覆した零観を裸になった水兵が潜ってロープを掛けて引き上げている処であった。

戦況が切迫してくると、急降下爆撃の出来る水上偵察機「瑞雲」の部隊が淡水に来たと戦後になって知った。

常用18機、捕用6機を擁し、司令以下、飛行長、搭乗員、地上員など250名もの部隊で淡水基地だけでなく士林にも基地が設けられたという。

「瑞雲」は機種の区別は水上偵察機であったが、水上爆撃機とも呼ばれて、南西諸島などに来る敵艦に60キロ爆弾を命中させるなど奮戦している。


2013年04月07日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

1981年当時の淡水駅

TansuiEki_2.jpg

ウェブで偶然、1981年当時の淡水駅前のカラー写真を見つけた。
この写真では未だ道路は舗装されていないようだ。

私が、引き揚げたあと初めて淡水を訪れたときにMRT駅舎の建設がほぼ終わった頃であった。

tansuiStn_1.jpg

この写真の中央奥が建設中の駅舎である。

TansuiEki_1.jpg

これは、父の教え子が送って呉れた写真であるが撮影時期は判らない。

2013年04月12日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「淡水」ブログはこちらです ***

嘗て淡水にも水牛がいた

suigyuh_1.jpg

台湾には水牛がいた。
もちろん淡水近くの農耕地にもいた。

役畜として飼われていたが、農耕の機械化に伴って戦後ほどなく見なくなった。

母が小学校に通学している道で水牛に出遭って怖かったと言っていた。

いまは何処に行けば見ることが出来るのだろう?

About 淡水の思い出

ブログ「淡水」のカテゴリ「淡水の思い出」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のカテゴリは淡水から広島までの一千浬です。

次のカテゴリは淡水会です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。