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2011年03月24日

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淡水以外の訪問地

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1995年にクルーズ船「飛鳥」で基隆に入港したときから台湾には10回近く行っているが台北、淡水以外には殆ど行っていない。

クルーズで行ったのは2回、「飛鳥」で基隆に寄港したときと2002年から2003年になる「ぱしふぃっくびいなす」の年末年始クルーズで高雄と基隆に入港したときである。
高雄に入港したときはオプショナル・ツァーで台南に行った。

2008年1月に行ったときは夕方、九に行ったことがある。
そのときは新幹線で新竹に行った。
帰りは在来線「光」号に乗ってみた。

その翌年には、花蓮・太魯閣に行った。このとき松山飛行場から花蓮まで国内線の旅客機に乗った。

写真は戦前のままの新竹駅舎である。

2011年03月30日

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台北捷運淡水線

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淡水に行くには台北捷運(MRT)が便利で快適である。

頻繁に走っているので時刻表がない。
その代わりに次の列車が何分で来るかが表示されているからである。

車体が大きく広い上に座席も充分確保されている。

シニア割引がある上、高齢者が立っていると座って喋っていた若者がごく自然に立って席を譲ってくれる。

1997年3月、木柵線全線開通の1周年記念日に淡水線も開通した。

将来計画ではMRT淡水車站から老街、紅毛城、古蹟園区、中崙、漁人碼頭、沙崙などに行く淡海LRTも敷設されるそうである。


2011年03月31日

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淡水和平公園

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ボストンの博士のウェブページに淡水和平公園の開園が掲載されている。

この公園はまもなく淡水世界和平公園として公開される。

一滴水記念館の傍らしい。


2011年04月01日

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93式中間練習機

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先月11日のこの欄で「オレンジ色の複葉練習機」という項を載せた。

Yahooブログに「老兵の繰り言」というページがある(http://blogs.yahoo.co.jp/senri0220)。
冒頭に『「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。(後略)』と記された元特攻隊員のブログである。
本日掲載された「台湾の思い出」に、その93式中間練習機による特別攻撃が行われ、戦果を挙げたことを知って驚いた。

写真はその93式中間練習機である。
特攻に出撃したときは前線用の濃緑色に塗り直されていたのであろうか?

以下は本日掲載された全文の転載である。

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     台湾の思い出          川口 武(福岡県出身)

虎尾空は昭和十九年五月十五日、台南州に開隊した陸上機操縦の教育部隊です。
予備生徒の一期生・飛練三十九期・飛練四十期が在隊していました。 台中派遣隊
は永康と後龍基地に分かれ、飛練三十八期と飛練三十九期それに飛練四十一期
(各期とも甲飛十三期生)が在隊していました。

昭和二十年二月十五日、操縦訓練の中止にともなって、虎尾空は解隊されました。
内地への引き揚げに際して、 練習生は無事帰還できたのですが、 「南京丸」に
乗船した約五十名の士官 (ほとんど十三期予備学生) と教員約二十名、 それに
われわれの衣嚢などの荷物は、基隆を出港した三月十七日夜、アメリカ潜水艦に
より撃沈されました。

護衛の海防艦に便乗していた、同期生の小深田君と前田君の話によれば、生存
者は殆どいなかったそうです。

私たち教員二十名は、新竹基地からダグラスに便乗して内地に帰りました。他の
十五名の教員は台北基地から帰る予定でした。ところが、迎えに来たダグラスが
給油を終了した途端、 グラマンにやられ飛べなくなり、 再び虎尾空に帰ったの
です。この中に、柴田君や福元君がいました。

彼らは残務整理に残っていた者と合流して台南空へ行きました。そこで、「忠誠隊」
に編入されて「特攻作戦」に参加して、大空に散華されたのです。その後、虎尾空
は解隊され、私たちが訓練に使っていた九三中練による、「特攻隊」が編成されま
した。

中でも特筆すべきは、 七月二十九日に出撃した、 「第三龍虎隊」 の活躍です。
この隊は赤トンボと呼ばれた鈍足の練習機にも拘わらず、アメリカ海軍の駆逐艦
キャラガンを撃沈したのです。そのうえ、ブリチェット、キャッシンヤング、ボレース
・バイにも損害を与えました。これはアメリカ側の記録にも残されています。

十二空はサイゴン郊外のツドウモ基地にあり、 上海空の飛練を卒業した多数の
同期生が配属されました。その後、台湾に移り「神風特別攻撃隊振天隊」が編成
され、宜蘭基地や新竹基地から沖縄周辺へ出撃し、 大空に散華されました。

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2011年04月02日

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淡水海軍墓地(共同墓地)

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一昨日、ボストンの博士から 淡水の海軍墓地に祀られていた大叔父(祖母 原田ユクの弟)のことについて何か判ることがあれば知らせて欲しいと連絡があった。

淡水世界和平公園(DWPP)の開園に向けて調べてくれている。

祖母の生前に教えて貰っていなかったので、明治28年9月5日に亡くなって海軍墓地に祀られた9名の海軍軍人の一人ではないかと訊かれても判らなかったのである。
9名の内、一人名前が判らないという。

当時、淡水で一緒の家族として生活していた祖母の姪である下松のMさんに訊こうと思って、先ほど電話を掛けた。

聞いてみると傳人大叔父は淡水海水浴場の経営を委ねられていた伯母、浅野タツの養子になっていたという。
おそらく現地で亡くなって淡水の共同墓地に埋葬されたのであろう。

写真は戦後、父が渡台したときに撮った海軍墓地のあった場所である。
ガラスに何か映っているので移動中の車内から撮影したものであろう。


2011年04月06日

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父の随想「茜雲」

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父が何冊かのノートに随想を綴っていた。

その中から幾片かを小冊子にしたことがある。
知人に差し上げたりして、手許に一冊だけ残った。

1992(平成4)年、父が満80歳のときであった。

25項目が掲載されており、5行と短いものもあるが『台湾の話』だけは教え子が訪ねて来てくれたときのことを綴った「その1」、淡水で行われた淡水会のことを書いた「その2」、書道の仲間と最初に訪台したときの思い出である「その3」と3部になっている。
父は明治の生まれで、パーソナル・コンピュータやインターネットとは無縁であり、そのころやっとワードプロセッサが普及し始めた頃であった。

悪筆の私はワードプロセッサの恩恵に浴しているが、父はどこかで習ったわけでもないのに、書と水彩画を趣味のようにしていたので、必要のないものであった。
しかし、知人が人材派遣業とパーソナル・コンピュータやワードプロセッサの個人企業を始めたので小冊子にすることを勧めた。

手書きのノートから原稿用紙に書き写し、出来上がったものである。

表紙の色は、印刷製本の担当が標題を見て提案してくれたものである。

2011年04月12日

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スターフルーツ

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古蹟「紅毛城」の構内に、煉瓦造りの旧英国領事館がある。

冬に行くと、入り口から紅毛城に上る途中にスターフルーツが沢山なっているのを見掛ける。

中山路からキリスト教長老派の教会に降りる道の脇にも民家の庭になっていた。

輪切りにしたとき、断面が五芒星型をしているのでスターフルーツと呼ばれるが、現地では楊桃(ヤンタオ)とか五斂子(ゴレンシ)という。

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果物と言うほど甘くなく、サラダに入れたりピクルスにもするそうである。


2011年04月13日

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父の応召(1)

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父は三芝国民学校に転勤して一年余りで応召した。

兵隊に行っていたときのことは訊いたこともないし、父も話さなかった。

亡くなったあとで原稿用紙7枚に「兵隊」と題したメモが残っていた。

引き揚げ後のことも書いてある。

前後二回に分けて挙げてみる。

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私は既に敗戦の色濃い昭和十九年に台湾で召集を受けました。
内地で七、八年 台湾で仝じ位教員でしたのでその時、台湾台北州淡水郡三芝国民学校に居て、三十二才でした。
応召部隊は台南第四部隊(蓬一九七〇二部隊)でした。台湾でも北部と南部では、気温湿度に大きな差があり半襟のぶ厚い単衣でも、色が変わる程ひどい湿度と気温に面食らいました。
淡水街で内地人、本島人の見送りを受けて例の赤襷をかけて、貨物列車で台南に行きました。妻の叔父がついてきて、入隊して軍衣を渡されて、あとの着て居たものを叔父がかたみがわりにもって帰りました。
営庭に「レンム」という特有の樹木に実がすずなりでした。
夕食後、夜間演習に営門を出て街を行進するのにうっそうとした火炎樹が濃緑の中に焔のような真紅の、丁度ねむの花の様な花が印象的でした。
私の所属は部隊本部、暗号班で本部宛の暗号の発信・受信と参謀本部地図の管理で、そのために部隊暗号班長(中尉)と下士官に随分教育を受けました。今でも乱数表などの言葉をきくと懐かしい想いがします。
米軍の反抗が本格的になった時のことで私が入隊すると間もなく、台南部隊は僅かな留守部隊を残して営舎を出て、敵の侵攻にそなえて更に台湾南部の潮州という処の山の麓に仮兵舎を拵えました。いざと言う時は台湾南端で防戦するためでした。草むらから錦蛇が出て、たまげました。
ところが敵は、台湾を素通りして沖縄をつくということで部隊の大半は沖縄救援に輸送船で送られましたが、殆ど生きて帰れなかったでしょう。私は本部に残りました。山の中の仮兵舎でマラリヤに罹り、腎臓結石などもやって仮病舎で幾度か寝ました。
御陰で一等兵から上等兵に進級の時、私だけ残されました。
夜、不寝番の時、遠く台湾北部に残している家族のことを想いました。
訓練中、機関銃の暴発で死んだ友の火葬にも立ち会いました。
時折 山から生蕃が頭と背にタロイモなどをもって部隊に来て物々交換するのです。彼等が一番欲しがって居たものはマラリヤの錠剤キニーネと煙草でした。
時々、敵の編隊爆撃機がごうごうと、しかも低空で頭上をとんで行って高雄、嘉義、屏東を爆撃します。遠く黒煙が濛々と上がるのをよく見ました。山の麓にひそんで居る兵舎など見向きもしません。
一度誤ってその内の1機がガソリンタンクの増槽(これは補助タンク)が兵舎の近くに落ちて大きな音がして私が仕えていた暗号主任の中尉のおじさんが「H、大丈夫か」とかな切り声を出したことがありました。


2011年04月14日

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父の応召(2)

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父のメモの続きである。

敗戦から、引き揚げて広島に住み着くことになった処までが記されている。

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日本の敗戦により昭和二十年九月、部隊は現地で解散になりました。
その前夜、部隊本部の下士官たちがひそかに会って話し合いました。
兵は私一人、将校達はたのむに足らない、吾々だけ どうするかと深夜話し合いました。蕃地に入り込んであく 敵の軍門に降らないと言うもの ジャンク船を使って大陸で活路をひらき生き抜こうなどいろいろありましたが結論が出ぬ内に朝が来て、缶詰など食料品をリュックに一杯と、上等兵の襟章をもらって皆と別れました。
一年半近く兵隊であったのに人を殺さず、身の危険を感ずることも病気以外にありませんでした。
内地から来た人達は復員船で帰りますが私などは台湾に家族が居て それをつれて帰らなければならなかったのでいろいろな手続き、様々なデマの中で、それでも毎日、家族が食べるだけのことはしなければなりません。当時、留守宅に家内と家内の母、長男(五才)長女(三才)が居りました。
家族の処に帰って、頼まれて船会社の倉庫番、内地人・本島人を問わず荷物運びの車ひき等やりました。
21年3月やっと台北に集結ということになりました。ありがたいことに永く居住していた淡水の街を出るときは、駅に本島人の官民が見送って呉れました。台湾総督府の一階の広間の土間に馬小屋みたいに藁を敷いて寝るのです。二、三日は手続、船便、検査等で過ごしました。その間に家内が病気になり、出発の日は家内を荷車にのせて台北駅に向かいました。所持金は一人宛五千円、中には枕の中などに現金や貴金属を入れて、それが乗船前の検査で見つかって、その集団が出航の足留めをくわされたとか流言がとびました。
やっと基隆移動したが、ここで又検査、船便待ちです。
やっと乗船の運びになったが、その船が小さな海防艦で、どこもここもすし詰めで、大浪にがぶられて、それでこの船がどこにつくかも知らされていません。船の中で二晩は吐く、泣く。哀れなもので私は船に強いので、幾回となく皆の汚物をバケツで上甲板に運びました。
皆呆けた様な姿で、ついたのは鹿児島・天保山桟橋でした。三月二十三日、寒い朝ホームで夏蜜かんを売っていたが、ひどく高いとかで内地の風当たりのきびしさを感じたことでした。とりあえず私の生家に兄達が居る処に身を寄せたのですが、いくら身内でも四人もつれて、食糧のない住宅のない内地では落ち着けません。
内地も衣食住すべて乏しい時で、外地に出て居た者が続々引揚げて来るので、すべてに難儀で片身のせまい思ひをしました。
居候で食うために森林伐採の監督、玩具商の店員、そして近郊のお祭りの時、道端に座って出店もやりました。
郷里で教員に戻れと言う兄達の言葉を振り切って、当時広島に居た家内の叔父からのさそいで半年余りで原爆直後の広島に来ました。
私と家内は、仕方がないけれどけれども家内の母と子供二人にはみじめな思いをさせたくありませんでした。始めに叔父の家の岩国にこしかけ、広島市水道課の雇で焼け跡に方々吹き出している水道管をとめて処置し、鉛管を埋設する仕事で、夜昼ツル、スコ(註:ツルハシ、スコップ)をもちました。栄養不良と過労がたたって肺結核で中保健所、本川の記念病院に厄介になりました。
後に市の水道局の上下水道の工事をやる建設業に三十年勤めました。
引揚以来住居は、先ず兄の処、岩国の叔父のところ、皆実町、西蟹屋、中島、基町、牛田、川内と転々としました。
中島は居候で、基町で市で最初の木造白壁の市営住宅に入りました。
引揚の三十四才から今日来た昔を時折偲びます。
今にして、台湾に行ったことも、兵隊も、建設業も懐かしい良い思い出になったことを心から喜んでいる昨今です。


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祖母が生前、「私の一生を書いたら面白いものになる」と笑っていた。

戦後、両親や祖母は苦労して育ててくれたものと感謝している。

2011年04月17日

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三芝国小創設百周年記念誌

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昨2010(民国99)年に三芝国民小学は創設百周年を迎えた。

その記念誌の巻末に創設以来の教職員名簿(赴任・離任月日付)が載っている。
20ページにわたってカラーで掲載されている教職員数は638名(含在籍89名)である。校長はこの中に含まれていない。

終戦後、淡水国民小学の初代校長になった洪炳南(1914/3/31〜1916/5/51)、廣川研一(1943/3/31〜1945/12/31)の名も見える。

父、研一の履歴明細(抄本)によれば

「昭和18(1943)年3月25日、三芝国民学校訓導ヲ命ズ
          同年同月31日、給月俸六拾七円
(中略)
 昭和19(1944)年5月 5日、補 三芝国民学校教頭
(中略)
 昭和19(1944)年6月12日、応召
(後略)」

とあるので、事務手続き上そうなっていたのかもしれない。

それにしても三芝国小の校史文物館に保存されている資料には敬服した。

2011年04月18日

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ワックスアップル(蓮霧)

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台湾のほぼ中央を北回帰線が通っている。

縦長なので北部と南部ではびっくりするほど気候が違うようだ。

父は1944年に応召し、台南の部隊に入隊したが湿度と気温が高くて驚いたらしい。

「営庭にレンムという特有の樹木に実がすずなりでした。」
と書いている。

レンムというのは蓮霧のことで、別名ワックスアップルという。

写真は航空会社の機内誌に載っていた屏東の蓮霧プランテーションである。


2011年04月19日

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デイゴの咲く頃

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やっと、少し春らしくなってきた。

この時期に台湾に行くと真紅のデイゴが咲いているのを見掛ける。

沖縄にも小笠原にも生えている。
(上の絵葉書は「飛鳥」のものであるが、前景にデイゴとタコノキが見える)

毎年必ず咲くとは限らないようであるが、最近ヒメコバチという昆虫により台湾でも沖縄でもデイゴの樹が枯れる被害が出ているようである。

デイゴは台北の中心部で見掛けたことがあるが、淡水では見た記憶がない。

広島市内でも、百メーター道路の緑地帯でアメリカデイゴが花をつけているのを見たことがある。


2011年04月28日

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蔡坤煌醫師の写真

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昨日、このブログで施合発の「大観丸」に触れたら、さっそくLCさんからメールが寄せられた。

戦後の混乱期に花蓮港から淡水まで、同船に乗船したというのである。
そして、そのときのことを書いたエッセイが添付されていた。
(このエッセイはブログ「漁人碼頭的戰爭」(2010年5月14日)に掲載された)

そしてその中に、蔡坤煌医師に診療されたときのことが載っていた。
同医師は、淡水区長(淡水鎮長)蔡葉偉氏の父上で、1960年代末から淡水の風物を撮影し、その芸術性はアマチュアの域を脱していた。
私達が淡水鎮公所を訪問したとき、鎮長は出張で会えなかったが、いつかご挨拶出来ると思っている。

見出しに載せた写真は観音山を背景に淡水の千枚田を撮影したもので1970年の作品である。

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これは淡水河口を望んだもので翌年5月10日の撮影による。

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いずれも「過鏡千帆看淡水:淡水藝文中心三週年特展」に掲載されている。

同誌は蔡坤煌醫師のモノクローム写真48葉と白雙爵氏のカラー写真48葉が掲載されている。


2011年05月03日

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淡水水上機基地

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大戦末期になると淡水にも実戦部隊が移動してきた。

フィリピン方面を転戦していた第634海軍航空隊は水上偵察機の航空隊に改編され(第一航空艦隊)、キャビテ湾カナカオ基地から高雄南部の東港に引き上げてきた。
東港は戦前から飛行艇や水上機の基地であった。

そして1945(昭和20)年3月中旬に淡水基地に移動してきた。
水上偵察機24機(常用18機、補用6機)を擁し、1月末の時点で司令、飛行隊長、搭乗員、地上員など250名の部隊であったので淡水基地だけでは狭く、士林にも基地が設けられたという。

3月27日には本隊を淡水基地に残し、補充および錬成は福岡県玄海基地に置いていたようである。

3月29日には、2次にわたって沖縄周辺の敵艦船に攻撃をかけている。

この日 戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦7を発見し攻撃をかけた。
一番機(操縦:宮本平次郎大尉、偵察:中島 宏 上飛曹)は戦艦1隻に60キロ爆弾を2発命中させている。

宮本大尉機は3月31日、4月4日、5日、7日、20日、28日、30日、5月20日、23日にも一番機として出撃している。

同隊は奄美大島の古仁屋基地を経て、6月11日に鹿児島の桜島基地に移動しているが、6月26日の沖縄周辺敵艦船攻撃に出撃した宮本大尉は撃墜され戦死した。
海兵71期であった(偵察第301飛行隊)。

大きな双浮舟をつけた水上偵察機が爆弾を搭載して敵艦船に爆撃を仕掛けるなど一般的に考えられることではないので概要を述べる。

この水上偵察機「瑞雲」(E16A)は14試特殊水上偵察機として、愛知航空機に1社特命で試作指示が出され、開発された。

1940(昭和15)年2月7日、海軍航空本部から愛知に対し「艦載に適し、急降下爆撃の実施容易なる、高性能(速力259kt<463km/h>)の水上爆撃機」の要望があり、愛知でA10の名の下に調査研究が開始された。

開発・試験・審査の上、1943(昭和18)年8月に「瑞雲11型」として制式採用となった。
愛知航空機で197機、日本飛行機で59機が生産された。

航空戦艦(戦艦の後甲板に飛行甲板を設けたもの)伊勢・日向や、横須賀・大津などの航空隊にも配備されていた。

乗務員は操縦と偵察の2名で、武装は20mm固定機関砲、13mm旋回銃、爆弾は250kg×1、または60kg×2であった。

淡水小学校の学童が北投の善光寺に疎開したのは1945(昭和20)年5月のことであるが、私はこの水上爆撃機とも言われた高速水上偵察機が配備されていたことは今日まで知らなかった。

戦史は「旧軍戦史雑想ノート(http://pico32.web.fc2.com/)に拠った。

2011年05月11日

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80年以上の歳月!

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4月22日のこの欄で、母の写った淡水小学校の記念写真を載せた。

そうしたら、すぐカリフォルニアのLCさんからメールが届いた。

母と同じ年生まれのLCさんのお姉さんが写っている可能性があるというのである。
94歳の誕生日を迎えたお姉さんは、いまも淡水に住んでおられるという。

それから十数日過ぎた今朝、メールが来た。
その娘さんたちがLCさんのお姉さんを確認したという話である。

上の写真は元の写真を部分拡大したものであるが右下(セーラー襟)がLCさんのお姉さんで、左上(白い衣服)が母である。

この写真が撮影されて80年以上の年月が経過している。
まだ、祖母が淡水街の嘱託として「公会堂の小母さん」になる前のことである。

引き揚げのとき、アルバムから剥がしてよく持って帰ってくれたものと感謝している。

こんなとき、このブログを作ってよかったと思う。

2011年05月17日

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鮎の解禁も近くなった

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皐月晴れと言うが、5月になって雨が殆ど降っていない。
四国ではダムの貯水率が減ってきたそうである。

ここ太田川放水路も6月になると鮎漁が解禁になる。
太田川漁業協同組合があって、一日/1シーズン/恒常などの漁業権が設定してあるらしい。

この絵は父が描いたものである。
鮎舟は、同じ鮎を漁る川舟であるが鵜飼い舟とは違う。小さくて細い。
鵜飼い舟のように篝火で鮎をおびき寄せ、鵜を操って飲み込ませるのではなく、鮎の居そうなポイントに泊めて囮の鮎を泳がせて、縄張りを守ろうと攻撃を仕掛けてくる鮎を空針で引っかけるのである。
従って動かすことも、まして回頭などの操船はしない。そのため細くスマートなのである。

父は淡水で教員をしている頃、投網をやっていた。
週末には板の間で網を繕っていた。

2011年05月22日

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臺北縣忠烈祠

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戦前、淡水神社のあったところに臺北縣忠烈祠がある。

今年、この近くに淡水世界平和公園(DWPP)がオープンした。
ボストンの博士たちが尽力して建設されたものである。

この平和な街も史上何度か戰争に巻き込まれ、軍人だけでなく何の関連もない民間人が此処で亡くなり、あるいは前線に送られて戦没した。

人間は実に愚かなものである。
かつて、戦は職業軍人や彼らに雇われた兵士が行っていた。
機関銃や爆弾が開発され、戦場に持ち込まれてから何の罪もない民間人も戦争に巻き込まれるようになった。
合衆国の南北戦争や、第一次世界大戦、スペインの内乱など何度も戦争の悲惨さを繰り返してもそれに懲りず、第二次世界大戦を引き起こしてしまった。
未だに核実験を止めない国も、毎年二桁で軍事予算を増大させている国もある。
もういい加減、その悲惨さ、虚しさ、亡くなった人の無念さ、残されたものの悲しみを学ばねばならない。
それが戦争を体験したものの義務である。

淡水河を見下ろし観音山を対岸に望む淡水の平和公園には味方も敵も、軍人も民間人も祀られているという。

機会があれば是非参拝したいと思う。

2011年05月23日

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公会堂本館

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公会堂の洋館は煉瓦建てであるが、本館は木造建築だと思っていた。

ところが、戦後撮影された焼失後の写真を見ていて気がついた。
本館の二階部分は木造であるが、一階は煉瓦造りの様である。

上の写真の左部分を拡大してみる。

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本館の煉瓦造りの一階部分の上に形鋼の梁が載っているのが判る。

おそらく一階は土間になっていて、新聞や雑誌を見たりしていたのであろう。
撞球台も置いてあったと言うからそうに違いない。

形鋼の梁の上に木造の二階部分を造ったのであろう。

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そう思って眺めるとそうかも知れないと思える。


2011年05月24日

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片倉佳史氏の著書とウェブページ

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片倉佳史氏は台湾在住の執筆家である。

「台湾風景印−台湾・駅スタンプと風景印の旅」、「台湾に生きている『日本』」などはいつも座っていて手の届くところにある。

淡水に関するもので言えば「台湾風景印」には駅スタンプとして「圓山」、「士林」、「北投」、「新北投(2)」、「淡水」のほかに淡水の郵政印も載っている。

新書「台湾に生きている日本」では食肉解体処理場のあったところに今も残っている「畜魂碑」が写真入りで紹介されている。
場所は淡水鎮水源街一段三一号であるという。MRT淡水駅舎からほど近く、淡水国小の東側である。
LCさんが言っていたとおりのところである。
畜魂碑は自然石で、台座まで含めると2メートルを超える大きな碑である。

片倉氏は地理、歴史、原住民文化などのほか鉄道にも造詣が深い。
ウェブでは「台湾特捜百貨店(http://katakura.net/)」で、台湾の現状や懐かしい写真を紹介してくれているのでいつも見ている。


2011年06月01日

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淡水和平公園、一滴水記念館

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淡水、油車口に和平公園がある。

ここに日本家屋があることは知っていたが、昨日 淡水鎮(現:新北市淡水区)の発行した小冊子を読んで、多くの人の熱意と協力があって移設されたことを改めて知った。

1995年に神戸でマグニチュード7.2の大地震があり、1999年に台湾南投中部地区でマグニチュード7.3の大地震が発生した。
神戸地区のボランティアが自分たちの経験を生かして支援しようと行動を起こした。
この事業に協力したいと福井県から申し出があり、古い民家が2004年に解体された。

その日本家屋を台湾に移設したいと希望があり、解体した部材を台湾に送ったが再建する土地が決まらず木材も傷み始めた頃、やっと淡水の和平公園に移築することが決まり棟梁など多くの日本人と更に多数の台湾のボランティアの努力で再構築されたものである。

この淡水世界和平公園に、関係者の努力で戦没者の慰霊碑が建設されることになっている。

2011年06月02日

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冊子「淡水和平公園の歴史的背景」

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淡水郊外のかつて淡水神社が鎮座していた油車口に淡水和平公園が整備され、移築された「一滴水記念館」のそばに記念碑の建造も計画されている。

このほど、その和平公園の背景となる淡水の歴史を綴った冊子の原稿を見せて貰うことが出来た。
第一部:戦時下の淡水(5章)
第二部:淡水の生活(8章)
それに5編の付録などからなるA4、174ページの大作である。

第一部ではスペイン時代、オランダ時代、清仏(法)戰争、日清戦争、大東亜戦争などの戦況やその終焉のほか戰争の犠牲となった民間人、戦時中の淡水人の味わった苦しみなどが数十ページにわたって詳述されている。

第二部では平埔族など原住民の時代から、戦前・戦後の今日までの淡水住民の生活や教育などが具体的に記述されている。

淡水和平公園に建設する記念碑のデザイン案に対する意見を聞くためにスペイン、オランダ、フランスとともに送られた交流協会への招待状が何かの手違いで届かなかった。
このため、台湾で精力的に執筆活動を展開しているK氏にお願いしたところ、ご多忙中にもかかわらず連絡をとって戴いた。

淡水世界和平公園の完成したしたときは是非、寄せて貰おうとその日を楽しみにしている。


2011年06月04日

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広大な名門幼稚園の園庭

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昨日、淡水幼稚園の写真を載せてこんな立派な幼稚園がどこにあったのだろうと書いたら、早速LCさんがメールで教えてくれた。

当時 小公園とか三角公園とか言っていたロータリーには、いまマッカイ博士の頭像が立っている。
そこから建設街を少し行ったところにあったそうである。

とても広くて、矢野サーカスが公演に来たときに、その幼稚園の庭を借りて興行したと言うから驚きである。

LCさんは、その幼稚園を撤去して淡水老街のバイパスとなる中山路が貫通したのだと教えてくれた。

その広い幼稚園の敷地を利用出来たから都市計画が実行に移せたのであろう。

少し小高くなっているので観音山、長老派キリスト教会を望む素晴らしい眺めである。

芸術家たちが競って描いたポイントであったことがよく判る。
公会堂は向かって右側になるのであろう。

知らなかったことを教えてくれる同郷人は有難い。
また知らなかったことを教えて貰った。


2011年06月05日

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世界文化遺産候補

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淡水の街が世界文化遺産の候補になっていることを知った。

自然遺産候補である台北市の「大屯山の陽明山地熱」や花蓮縣の「太魯閣渓谷」、嘉義市の「阿里山森林鉄路」などとともに世界遺産候補(自然遺産候補:5件、文化遺産候補:5件、複合遺産候補:2件)になっているそうである。

淡水は戦前、台湾八景のひとつに挙げられていた。

いま油車口の淡水和平公園は「淡水世界和平公園」にするために関係者が鋭意努力中である。
太魯閣(自然遺産)や阿里山鉄路(複合遺産)などと登録されることを願うものである。

2011年06月13日

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手書きのメモ

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書斎の手箱を整理していたら丁寧に手書きされたメモ用紙が出てきた。

基隆、台北、北投、淡水と大屯山まわりが丁寧に手書きされている。
観音山も富貴角灯台も書き込まれている。

桃園の空港や宜蘭、羅東、蘇澳や烏來蛮社の文字も見えるが、基隆・台北・淡水との位置関係を示したものに違いない。
基隆川、淡水川が青鉛筆で描かれ、故宮博物館、円山大飯店も書き込まれている。

わざわざ書いて貰ったものに相違ないが何時、誰に貰ったものか覚えていない。
きっと私が淡水に行くと知って書いてくれたものであろう。

そうであれば、Y女子大学のM教授が描いてくれたものであろう。
台湾の資料を貰ったが、そこに添付されていたものであろう。

ありがとうございました。

2011年06月14日

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滬尾旧砲台で丁寧に案内して貰った

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2009年3月に淡水を訪問したときに、博物館の学芸員と思われる人に丁寧に案内して貰った。

そのあと、公会堂は何処に建っていたのですかと質問した私達を連れて博物館員の事務所に案内し、どこかに電話で問い合わせて呉れた。

案内地図など資料も貰い、鎮立図書館となっていた公会堂の跡地を訪ね、幼い日微かに覚えていた馬偕旧居に下る坂道を確認することが出来た。

それまで何度も行ったが、この辺りであろうと類推の域を出なかったものが確認できて嬉しかった。

帰国後、臺北縣立淡水古蹟博物館に電子メールを送り、お礼を述べるとともに案内してくれた人の名を訪ねたがそのままになっている。

いまも感謝の気持ちでいっぱいである。

2011年06月21日

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臺北第二高等女学校であった建物

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臺北には第一から第四高等女学校まであった。

臺北第二高等女学校は戦後、廃校となったが当時の建物は立法院の庁舎として使用されているという。

場所は中山南路一段の監察院と濟南教会の間であるという。

臺北第一高等女学校は台北市立第一女子高級中学(台北市中正区重慶南路一段165号)となっている。

ちなみに臺北第三高等女学校は台湾省立台北第二女子中学から台北市立中山女子高級中学になり、臺北第四高等女学校は看護学校に転換され、国立台北護理学院となった。

写真は臺北第二高等女学校の校舎を活用した立法院である。


2011年06月22日

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臺北第二高等女学校は空襲で炎上して廃校になった

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ウェブで調べてみても臺北第一高等女学校や三高女についての記事はあるが、臺北第二高等女学校については殆ど記載がない。

調べて見ると度重なる台北空襲で専売公社などとともに焼失して廃校になったということが判った。

焼け残った校舎は台湾の国会にあたる立法院の建物として使われているらしい。
議事堂ではないがその庁舎の一部に使われているそうである。

我々も1944年10月12日に淡水で空襲を受けたが、その日を含めて3日間連続の空襲であった。
おそらく台北の街が主目標の一つであったのであろう。

台北の空襲による被害は甚大であった。
沢山の非戦闘員が犠牲になった。

臺北第二高等女学校も、その犠牲になったのである。

2011年06月23日

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数字譜

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数字譜という楽譜がある。

父の世代の人はハモニカが上手だった。
自分で主旋律も伴奏も含めて演奏していたものである。
以前、萩に観光に行ったときにバスに乗って案内してくれたガイドさんもハモニカを上手に吹いていた。

どうも、そのハモニカや大正琴の譜は数字譜だったらしい。
いまでも、台湾や中国、モンゴルなどでは数字譜が用いられている。
馬頭琴も二胡の譜も数字譜である。

2〜3年前、淡水に行ったときに馬偕博士の頭像のある小公園に陶笛屋さんがあった。
戦前は龍目井と呼ばれていたところである。

そこにはいろいろな形の陶笛があったが水牛の形のものを買って帰った。
そのとき小さなガイドブックが付いていたが、それには基本的な音階の練習から洋の東西を問わず40曲ほどの数字譜が付いていた。
「キラキラ星」、「レッドリバーバレー」、「ロンドン橋」、「荒城の月」などから映画タイタニックのテーマ曲まで、様々な曲である。

上に載せたのは「カプリ島」である。


2011年07月01日

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富貴角燈塔

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蓬莱の北の果てなる富貴角
	訪いし往時の懐かしきかな

       (詠み人知らず)


2011年07月02日

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三芝国小の歴任教職員一覧

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三芝国小の百年誌の巻末には、1911年創設以来の教職員名が赴任/離任年月日とともに掲載されている。
その総数は355ページから374ページまで20ページにわたって606名に及ぶ。

戦後の一時期については一部、赴任・離任の年月日の欠けているものもあるがとても貴重な資料である。

創立百年を記念して設けられた同校の文物館には原簿も収められていた。

同表には、1934年から1945年11月末まで務めた松田常已先生の後任として淡水国小の校長になった洪炳南氏も若いときに当時の小基隆公学校に勤務していたことも記されている。

2011年07月03日

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三芝国民学校移管冊

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これも三芝国小の文物館に収納されていたファイルである。

民国34年といえば西暦1945年にあたる。

日本統治から中華民国に移管するにあたってまとめられた職員名簿である。

それから65年間も保存されていたから、創設百週年を記念して設けられた文物館で閲覧することができた。


2011年07月06日

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淡水の国小

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新北市淡水区には、縣立(市立?)国小が14校ある。

淡水国小のほか、文化、鄧公、新興、竹囲、天生、水源、興仁、屯山、坪頂、忠山、中泰、育英の各小学である。

しかも、ほとんどの小学は学童定員が多い。

多いところでは1学年に10組以上ある。
従って後者は4階建て、5階建てとなる。

学校名も竹囲、水源、屯山など地名に由来したものもあるし、そうでないものもある。

ただ、淡水第一国小のようないわゆるナンバー・スクールというのはなさそうである。

私立国小というのはないのだろうか?


2011年07月16日

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施合發専用木材運搬船「大観丸」

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淡水線が敷設されたとき、駅は町外れに設けられた。

そしてその近くに植松材木店の淡水製材所があったが、施坤山に譲渡された。

施氏は淡水と三芝の間を流れる大屯渓の大屯村の出身で、1899年に21歳で淡水支庁の頃巡査補として奉職した。
しかし、彼には商才があり、1905年頃職を辞して小規模の米穀、石炭業を始め1907年には個人経営の屋号を施合發とした。

1914年には日本石油などの代理店にもなっていたが、その頃植松から譲渡された製材所を活かして台湾一の材木業社となった。

淡水河は堆積が進み、外航船の接岸が難しくなり斜陽の港となりつつあった。

その安い土地を製材工場と材木置き場とし、自社の木材専用船「大観丸」(2000トン級)やジャンクを所有し、淡水駅から鉄道の引き込み線を敷き、非常に安いコストで経営を拡張させていった。

台湾各地や内地から自社船に満載してきた木材を沖で卸して筏に組み、木材船の喫水を浅くして専用桟橋に横付けしていた。

現在のMRT淡水駅近くの河岸公園の辺りに施合發の専用埠頭が3つもあったという。

自社船のほか3000屯級の「杭州丸」なども用船していたようである。

淡水では昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)の記念行事として寄付金27800圓を募って淡水街公会堂を建てたが(同年8月16日竣工)、この寄付金のうち20000圓は施氏の個人に拠るものであったという。

挿絵は「大観丸」である。

2011年07月20日

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台風一過で牛乳大王を想い出した

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颱風6号が西日本を通過した。

当地では風が強いくらいで殆ど被害らしい被害はなかった。

今朝から風が強かったが、昼になって太陽が照り始めると、とたんに蒸し暑くなった。

よくシェークされたパパイヤミルクが無性に懐かしくなった。

暑さでへばっているときにあれを飲むと元気が戻ってくる。

2011年07月22日

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漁船の眼

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前にも書いたが、淡水の漁船は船体を鮮やかなブルーで塗り、船首両舷には必ず眼が描かれている。

これは沖に出て潮に流されたりして船位が判らなくなっても、必ず母港に戻って来られるようにと願う信仰によるものらしい。

これを確認しようとウェブを捜したが見つからなかった。

迷信と笑う人も居ようが、私はこの素朴な信仰が台湾の心の優しさであると思っている。
媽祖様など、廟や寺堂に真剣にお参りする人をよく見かける。

淡水にも福佑宮、龍山寺、蘇府王爺廟などがあるが、実は私には廟、堂、院、宮などの違いがよく判らないのである。

日本人も訪れた地で神社や寺院にお参りするが、台湾の人達ほど真剣にお参りするのではなく、訪れたご挨拶のような参拝をする人が多いと思う。

2011年07月23日

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淡水の気候

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淡水の今日の最高気温は25℃、最低は10℃、11時過ぎの気温は23℃で、湿度は20〜30%程度であるという。

ちなみに当地の最高気温は31℃、最低気温は25℃で、湿度も50〜70%である。

一般に気温は台湾の方が高いが、日本の夏は湿度が高いので肌から汗が噴き出してくる。いつも汗は出ていて、その蒸散作用で体温を調整しているのであるが、湿度の高いところでは蒸散が間に合わず、体温調節機能も発揮できない。

台湾でも南部は温度も湿度も高い熱帯だそうであるが、淡水辺りでは夏でも木陰に入ると涼しい風が吹いているので内地より快適である。


2011年07月24日

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台湾航路の客船

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台湾航路の客船の多くは神戸から門司に寄港して基隆に来ていた。

当初、大阪商船が配船していたが、後には日本郵船(近海郵船)と競合状態であった。

基隆で折り返す船が多かったが、基隆から高雄まで脚を伸ばす船もあった。

比較的小型の船は琉球(沖縄諸島)にも寄港していた。

船名には「さくら丸(3205総トン、帝国海事協会)」や、「吉野丸(8998総トン、近海郵船)」などもあったが次のように大阪商船の客船の多くに台湾の地名が採用されていた。
「安平丸(1698総トン)」、「基隆丸(1673総トン)」、「淡水丸(1674総トン)」、「臺北丸(3300総トン)」、「臺中丸(3213総トン)」、「臺南丸(3176総トン)」、「臺北丸(2794総トン)」、「臺東丸(1944総トン)」、「桃園丸(3460総トン)」、「蓬莱丸(9192総トン)」、「高雄丸(4282総トン)」、「恒春丸(4271総トン)」、「高砂丸(9315総トン)」

三等客室は雑魚寝であったが、ボーイにチップを渡しておくと毛布を持ってきて寝るところを作ってくれたり、茶菓のサービスがあったようだ。

母は臺北一高女から、卒業年次だけ徳山高女に転校したのでそのときに祖母がそうさせたのであろう。

父も船旅と言えばそんな状況と考えていたようだ。

ずっと後になって短期のクルーズに誘ったがどうしても乗ると言わなかった。
何時だったか、九州に里帰りするときに徳山から別府までカーフェリーに乗ったが、個室寝台はそのときが初めてだったらしい。
船のなかにテーブル・ソファー付の個室があり、部屋を出れば売店も自販機もレストランもあるし、展望デッキで内海を眺めるのも心地良さそうにしていた。

見出しの「高砂丸」は大戦中は病院船として戦後は引き揚げ船として活躍した。
1956年に売却されスクラップされた。


2011年07月26日

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有朋自遠方來不亦樂乎(その2)

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このブログを始めて、初対話(?)をした人からメールを貰った。

初対話というのは新造語だけれども、まだ対面したこともないので初対面と書くわけにも行かないからである。

「紺碧の海」のブログにはボストンの博士、カリフォルニアのLCさん、横浜のKGさんからメールを貰って今は大切な友人となっているが、昨年の秋に開設した淡水ブログでは初めてである。

ここではYさんと呼ばせて貰うことにする。
Yさんも上記3人と同じく淡水人である。
いま、日本の大学院に留学して仕事も持っているそうである。

ときどき淡水に帰ることもあるそうなので新しい情報を届けてくれるかもしれない。

今年の淡水会の案内が来たらここで紹介させてもらう所存である。

2011年07月27日

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茶さん

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台湾観光イメージキャラクターに「茶さん」が居る。

茶さんの本名は茶壱福、通称チャーリー(茶阿里)。
1976(民国65)年7月21日に台湾九で生まれた。
実家は茶藝館で、本人は観光局に勤めている。
2002年夏にデビューしたときは独身で、恋人募集中という設定であったが、いつの間にか妻と長男と3人暮らしになっていた。
熱しやすく冷めにくい性格で、モットーは「考える前に注げ」という。

奥さんはママ茶(茉莉花)、1976(民国65)年九生まれの幼なじみ。
茶さんの学生時代に台北で再会し、5年の交際を経て結婚した。

長男はベビー茶(茶若葉)、2002(民国91)年台北生まれ。

おじい茶(茶陳年)、1937(民国26)年高雄生まれ、九で妻と茶藝館を営み、月に2、3度遊びに来るという。

おばあ茶、名前・生年月日など不詳

2002年、2003年、2004年にはCMも放送され、「茶さんのホームページ」も内容、デザインとも秀逸であった。

是非、再登場して欲しいキャラクターである。

2011年07月29日

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母の吟詠

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母は詩吟をやっていた。

段位をとって吟詠会から淑葉という雅号を贈られていた。

若い頃、琵琶を習っていたという。
薩摩琵琶、筑前琵琶のほかに近頃では中国の琵琶を吟じている人が居るが当時、母が習っていたのはどの琵琶だか判らない。

琵琶は楽器のみ演奏するのではなく、物語を吟じるのである。
漢詩なら短くて済むが平家物語の壇ノ浦などでは時間ががかる。

祖母が吟詠が好きで幼い母に教えていたのであろう。

私も学生の頃、詩吟を勧められたことがあり、少しは練習した記憶がある。

何時のことであったか、両親と高天原の墓地に先祖の墓参りに行ったとき、お参りが済んで母が墓碑に向かって吟じていたことがある。

昨年、淡水に帰ったときに歓迎の昼食会のあと、SHさんにお願いして「国破れて山河あり」を吟じて貰った。朗々たる吟詠であった。
SHさんは演歌や詩吟を教えていると聞いた。

2011年07月30日

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父は若い頃、尺八を吹いていた

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父は独身の頃、尺八を習っていた。

練習していたのはごく短い間だったと思う。

尺八はリードもなく、穴が5つ開いているだけの単純な構造なので「首振り三年、ころ八年」と言われる程演奏は難しいらしい。

尺八という名は、長さが一尺八寸であるところから来ているという。

最近はプラスチックやガラスで出来ているものもあるという。


2011年08月01日

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八里に住んでいた人からのコメント

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八里で生まれた人からコメントを貰った。

戦前の八里は当時の淡水よりずっと辺地で、関渡大橋も架かっておらず渡し船でわたるしかなかったので、台北からバスで廬州を通って行くほかはなかったらしい。

対岸の淡水から見える標高612メートルの観音山の麓の郷であった。

1900年前後には全台湾の貿易額の6、7割を占めていた淡水港は川口のため浅く、外航船の大型化に対応するために基隆港が整備されると港湾としての役割を終えてしまった。

その基隆港は客船埠頭、貨物埠頭、コンテナヤード、それに軍港としての機能も持っているものの戦後は取扱量の増大に対応しきれず満杯状態である。

そのため淡水の対岸の八里が大規模コンテナヤードとして整備されてきた。
淡水からはコンテナクレーンがはっきり見える。

淡水と八里は交通の便も良くなった。
車輌なら関渡大橋で渡れるし、漁人碼頭に架橋する計画もある。
頻繁に渡し船も往復している。

今日、コメントを貰った人は八里を故郷と思っている人を知らないという。

今度の淡水会で、知っている人はいないか聞いてみようと思う。


2011年08月02日

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関東基隆会

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公会堂の裏にあった淡水の稲荷神社の写真を通じて知り合った「台湾に渡った日本の神々」を調べている方のブログに「関東基隆会」の様子が報告されていた。

先月開催された第15回の例会には80人を越えるメンバーのほか、基隆生まれの台湾女性の集まり「基隆会」からも9名の参加があったという。

来年の第16回例会は7月20日に開催されることも決まったそうだ。

先日は、士林会の開催状況を報告したが、開校104週年にあたる平成11年に佐賀で開催された士林会には70名も集まったと聞いた。

淡水会も今後ますます発展するために出来ることなら何でもお手伝いしたいと思う。

今年の例会の案内を心待ちしている。


2011年08月04日

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二胡のこと

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6年前に姜暁艶の教室で二胡を習い始めた。

学生の頃、ちょっとフルートを習っていたが、弦楽器の音は良い。

淡水のMRT駅前広場で二胡で日本のはやり歌を演奏していたのを聴いたことがある。

二胡は初めてであったので演奏法を学ぼうと思ったのだが、その教室では毎年実施する大規模な演奏会のための練習を主体にしていた。

それに、後にNHK教育TVでやっていたチェンミンのように細かいツボは教えない。
見て盗めというのであろうか・・

そんなことで、一度演奏会に参加したあとは足が遠のいてしまった。

ときどき弾いてみようと思う。


2011年08月08日

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仏桑華

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台湾の花というと胡蝶蘭を思い出す人が多いようであるが、私はハイビスカス(仏桑華)がまず頭に浮かぶ。

台湾のハイビスカスはハワイの花のように大きくはない。

生け垣などに植えられていて、日が射すとと開くが陰ると花を閉じる。

台湾の仏桑華には、品種改良されて、下向きに咲き、花弁が反り上がって真ん中に長い雌蘂が下がってちょうど支那提灯を思わせるものがある。

友人たちとインド旅行の帰りに仲間の一人が病気になり、それに付き添って台湾で下船し、淡水の地が気に入って家族を呼び寄せて終戦まで滞在し引き揚げ船で帰国した木下静涯画伯もよくこの華を描いていた。


2011年08月15日

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善光寺で聴いた玉音放送

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66回目の終戦記念日である。

当時まだ5歳であったので記憶は非常に心許ない。
しかし、玉音放送は祖母や母など皆で聴いたと思う。
ノイズが多く、独特の抑揚のある陛下の声は殆ど聞き取れなかった。

しかし、頭を垂れて正座して寺の講堂で聴いていたなかで、あちこちから嗚咽が漏れていた。
前日から15日の正午には重大発表があるので皆ラジオの前で聴くようにという通達がながされていたので敗戦を確認したからではなかろうか?

5月に学童疎開で北投の街を見下ろす善光寺に来て、短い間にいろいろなことがあった。
下の街を銃撃していた米艦載機が襲ってきて、機銃掃射を受けたこともある。
出撃した特攻機が2機、母親の疎開している善光寺の山を3回旋回して名残惜しそうにバンクしながら南溟に飛び去るのを見たこともある。

応召していた父はマラリアや腎臓結石を患って戦後も長く後遺症に苦しんだが、とにかく生還してくれた。
自分の手で持てるだけのものと一人千円のみを持たされて千トンにも満たない船で目的港も知らされないまま引き揚げた。
両親はよく我々を育ててくれたと思う。

戦後、米軍主体の進駐軍はよほど日本が恐ろしかったと見えて、日本人の精神的拠り所を悉く禁止、あるいは否定した。
それでも日本人から日本精神をぬぐい去ることは出来なかった。
東日本の大震災で暴動も略奪も起きなかったことに世界は驚いたようであるが、千年以上にわたって日本人の心は受け継がれている。

しかし、歴史が教えるように社会に貧困や不安が拡がると一握りの人間がコントロールしようとする動きが出てくる。

彼らはその主義・主張を巧妙に綿密に宣伝しようとするが、彼らの言う「愚民」に判りやすいように主張する教義は右か左に偏っている。
まっとうな中庸な主義は宣伝活動に向かないからである。

今日一日、昨今の平和ぼけや、民主主義について考えてみることにする。


2011年08月16日

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新北市淡水区

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我らの故郷、淡水は昨年の暮れに新北市淡水区となった。

それまでは淡水鎮の含まれる台北県は2007年10月以降、準直轄市の扱いを受けていたが、2010年12月25日をもって直轄市、新北市になった。
英語表記では "New Taipei City" である。

台湾の北端部分で、東は宜蘭県、南は桃園県に接し、市域のなかに台北市、基隆市が存在する。

人口400万足らずの台湾最大の市である。
淡水区に隣接する三芝区には三芝国民小学があるがここは李登輝元総統の出身地である。

2008年1月に紅樹林生態展示館を案内したあと、木道の入り口まで案内してくれた学芸員の人に淡水で生まれたと言ったら、これほど大きな街になって吃驚したでしょうと言っていた。

2011年08月18日

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クラスメート

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引き揚げて帰ったあと、1947年に焦土の広島にたどり着いたが、市営住宅に入居出来たのは1949年のことであった。
小学校の4年生の年度末に幟町小学校に転校した。
その後、私立の中高一貫校に入学し、H大学の船舶工学科に入学した。
入学した約30名の新入生のうち、船が好きで造船を志していたのは自分のほかに1人しか居なかったことにちょっと驚いたものである。
それがH君であった。
出席番号が並んでいるため、体育実技でも物理・科学の実験でも彼とペアになった。
一緒に土方のアルバイトもしたし、期末試験のときは徹夜で一夜漬けもやった。
就職してからも出張すると彼を訪ね、彼も来てくれた。
9月のクラス会には久しぶりに逢えるかと期待したが体調を損ねて欠席と聞いて残念であった。
昨日、その彼が亡くなったとメールを受信したときは吃驚した。

日に焼けた人なつっこい笑顔を思い出している。

2011年08月19日

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国立台湾博物館

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国立台湾博物館は新公園(現:二二八和平公園)にある。

新公園に隣接していた大学病院に通院していた母に連れて行って貰ったことがある。

1908年に総督府が建てた博物館で、正面の道は台北駅正面の駅前大通で、表町と呼ばれた駅前大通であったという。
駅前には台湾で最も高級な鉄道ホテルがあった。
母は臺北一高女のときに、このホテルでテーブルマナーとして洋食のフルコースを経験したと言っていた。
その後台北駅は東に隣接する操車場の跡に移設されたのでこの正面の道路は現在、重慶南路と中山南路の間で、MRTの走る公園路の少し西にあたる。

1915年に完成したときは児玉総督後藤民政長官記念館と命名されたという。

戦後、台湾省立博物館に、1999年に現在の名称になった。

常設展示は台湾の歴史と自然を主体にして台湾の諸民族、地質や鉱物、多様な生物、先住民などである。

ここを訪れると時の経つのを忘れる。


2011年08月20日

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父の淡水訪問

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父は1946(昭和21)年3月に引き揚げたのち、2度淡水に行っている。

一度目は1986(昭和62)年に書道教室の仲間と故宮博物館の古美術を見に行ったときである。
このときは圓山飯店に3泊しているが、桃園空港に父の名を染め抜いた赤幕を張って歓迎して貰い、仲間と別行動で台北から基隆、野柳、石門とまわって淡水に行ったそうである。

そのとき淡水国小にも行き、陳淑女校長と乾杯している写真もある。
昔住んでいた龍目井の旧居も訪ねたという。

2度目は現地で行われた淡水会で、1990(平成2)年前後のことである。
このときは80歳近かったので団長にされたと言っていた。
そのときは25名で訪台し、現地の人達が80名くらい参加してくれたそうだ。
懇親会もあるので淡水2泊、台北2泊であった。

「茜雲」という随筆集に3部にわけて二十数編を書いているが、「台湾の話」だけは「その一」「その二」「その三」と三項にわけて書いている。
懐かしく、嬉しかったのだと思う。

2011年08月21日

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クラスメート(追補)

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今年の9月にクラス会をすることが決まっていて、名簿が届いていた。

物故者や連絡のつかないメンバーまで記載されているのに、どうも数が合わないのである。

当時、船舶工学科の定員枠30名のほかに工業教員養成課程から1名採用されることになっていた。

その枠内で合格し、最終的に入学したのは27名で、そのほかに沖縄(当時はまだ返還前)、香港、パキスタンからの留学生が居て、クラスメートは合計30名であった。

名簿には物故者、連絡のとれなくなった者のほかに、一緒に入学したが卒業年次が遅れたのもいるがそれを合わせても26名しか載っていない。

欠落しているメンバーはすぐに判った。

Y1君とY2君である。

同姓であるが出身地も就職先も違う。

当時、学科の学生が発行していた「造波」で確認出来た。

ちなみにこのクラスは卒業時に留学生を除いて全員就職先が決まっていた。
(新三菱重工業  :2
 川崎重工業   :2
 三菱造船    :6
 日立造船    :3
 石川島播磨重工業:1
 呉造船所    :3
 バブコック日立 :1
 笠戸船渠    :1
 三井造船    :1
 佐世保重工業  :2
 川崎航空機   :1
 金指造船    :1
 東洋工業    :1
 日本海事協会  :1
勿論、このなかにY1君、Y2君も含まれている(順不同))

2011年08月22日

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台湾航路の客船「富士丸」

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台湾航路の客船は当初、殆ど大阪商船の独占状態であった。
日本郵船は太平洋航路やインド洋を通る欧州航路の船隊整備に力を入れ、大阪商船は大陸や半島との航路と棲み分けていたのである。

日の丸商船隊の船腹は大戦の始まる前には英米に次いで第三位であった。
大阪商船も南米航路向けに「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」を建造するなど遠距離航路にも進出していた。

日本郵船は近距離航路を近海郵船に運航させていたが、白地に赤の二引きのファンネルマークは同じであった。

神戸を出て、門司港に寄港して基隆に航く台湾航路には大阪商船が1937(昭和12)年の春、「高砂丸」(9315総トン)を新造したが、ほぼ同時期に近海郵船が「富士丸」(9138総トン)を建造し、これに対抗した。

「高砂丸」は2本煙突、「富士丸」は1本煙突であったが乗客定員はほぼ同程度であった(「高砂丸」:一等45名、二等156名、三等700名、「富士丸」:一等31名、二等132名、三等669名)。


2011年08月23日

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「富士丸」の船内

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富士丸上甲板の二等エントランスである。

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こちらはプロムナードデッキの一等喫煙室である。

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一等(定員31名)と二等(定員165名)は個室で、三等は数人用の2段寝台室と瀬戸内海の連絡船のような大部屋もあったようだ。

二等にも三等にも喫煙室やラウンジはあったが 三等の場合、洗面所は共用であった。

2011年09月02日

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油車口の和平公園

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滬尾砲台のある油車口の地に和平公園が開園したということは、昨日の本欄に述べた経緯からも意義のあることである。

前線で あるいは赴任地へ赴く途上で倒れ、あるいは艦載機の空襲で命を落とした台湾や日本の人達ばかりでなくスペイン人、オランダ人、フランス人など敵味方を問わず亡くなった方々を慰霊し、世界平和を祈念するために「淡水和平公園」がつくられた。

慰霊碑も建設される予定である。

2011年09月09日

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LCさんからメールが届いた

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カリフォルニアで、いつもこの拙いページを見てくれているという。
有難いことである。

今日は、台北市大橋小児科の林彦郷先生の近作、基隆水産学校交友録を送ってくれた。
広島台湾会の中谷 武 さんの話が載っていたからである。

著者の林先生のところに中谷さんから電話連絡があったことで2010年10月に基隆水産学校の同窓会に出席した。
そのときのことを書いたエッセイである。

私は広島台湾会などというものがあることさえ知らなかった。
ウェブで探したけれども見つからない。
広島は百万都市であり、私が年賀状を交換している知人の中に淡水に在住していたのに淡水会にも入っていないひとが何人かいる。
龍目井で生まれた妹も、終戦前に岩国に帰っていたYさん一家も兄弟で広島市内に住んでいる。
このようなネットワークの修復は難しいがそれだけに、いま誰かがやらなければならない地道な活動だと思う。
淡水会の会員が、子や孫、その配偶者に世代を超えて広げて行くと言う当たり前のようなことが難しくなっているのだろうか?

写真は1995年3月に撮った基隆港である。
白い巡視船の向こうに見える上屋と、その左の港湾当局の建物の左には基隆駅があり、当時は駅前にケープを羽織った蒋介石の像があった。

駅から構内引き込み線が岩壁に沿って長く延びていた。
引き揚げのときは台北から貨物列車でここに送られて、くたびれ果てた人達は貨車の下の線路を枕に横臥していた。

引き揚げ以来、半世紀ぶりに訪れた基隆港である。

いまは港湾機能も満杯状態で、淡水の対岸八里に大規模なコンテナヤードが拡張されている。

LCさん、ありがとうございました。

2011年09月18日

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MRT(捷運)淡水線

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台鐵淡水線とほぼ同じ経路でMRT淡水線が走っている。

MRTとは言っても車輌は随分大きく、それに頻繁に走行している。
従ってMRTには時刻表がない。
そのプラットホームでは代わりに次の列車が何分後に入線するか常に表示されている。

淡水から乗るときは始発駅だから好きな席に着席できる。
逆に台北方面から来るときは、時刻によっては混んでいることもあるが士林、北投あたりで下車する人が多いので暫くすると着席できる。

それに儒教の国だけあって、談笑していた若者がごく自然に立って席を譲ってくれる。
おまけにシニア割引まである。

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台北市内は地下を運行するが、郊外に出ると高架線なので快適である。

羽田・松山便が開設されてから特に便利になった。

台北の中心地、松山国際空港のターミナルの前にMRT文湖線が乗り入れている。


2011年09月19日

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台湾の雨

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このブログでは雨の写真をほとんど掲げていないが勿論台湾でも雨は降る。

シトシトと降る雨もないわけではないが、いきなりザーッと降られることがある。気候は乾期と雨期という分け方より長い夏と短い冬があると言った方が近い。
降水量は5、6月から8、9月が多く11月から1月末までは少ない。

熱帯・亜熱帯特有のシャワーにおそわれることもある。
(スコールと呼ばれることもあるが、スコールとは突発性の強風のことで世界気象機関では1分以上継続する突発的な風の強まりを言う。雨を伴うことも多いので誤用されているのであろう)

桃園の国際空港から台北に向かう車中でこの突発性豪雨に遭ったことがある。
晴天だったにも拘わらず、いきなり大粒の雨が降り始め、視界が遮られて自動車道を走っていると追突のおそれがあった。
しかし15分もすれば通り過ぎ台北に着く頃は路面が乾きはじめていた。

昨年届けて貰った雨の小公園(龍目井)の写真である。

2011年09月25日

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9月29日(昨年は淡水で、今年は舞子で)

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昨年の9月29日には台北まで出迎えてくれたボストンの博士が淡水・三芝を案内してくれた。
別便で淡水に行っていた横浜のKGさんと一緒に、当時の鎮公所を表敬訪問し、淡水国小は校長先生に歓迎され、構内を案内して貰い、約10人で昼食会で歓待され。
そして三芝の国小まで訪問し、開校百周年を記念して設けられた出来たばかりの資料展示室(文物館)で当時の写真や資料を見せて貰った。

そして、今年の9月29日には淡水出身者の令息I氏と初対面することになっている。
KGさんもわざわざ横浜から来てくれるという。

場所は、有栖川宮の別邸があった舞子ビラである。
庭園の芝生に散在する小ぶりな松は当時のままであるという。

何か因縁のようなものを感じている。

2011年09月26日

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清仏戦争

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1885年に清仏(清法)戦争が勃発した。

そして翌年10月8日の10時頃、フランス艦隊から陸戦隊が滬尾へ上陸した。

清軍は中崙・油車口あたりでこれを迎撃し、2時間程度の戦闘で撃退した。

それにしても人間はどうして戦争などと言う野蛮なことを何時までもするのだろう?

文明は進化しても戦争は終焉することなく、それどころか無辜の民間人をも含め大量殺戮の効率は恐ろしいばかりである。

愚かなものに斃れた人達を悼んで滬尾砲臺跡の近くには淡水世界和平公園が開園した。

2011年09月27日

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舞子ビラで淡水ゆかりの人に逢ってきます

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明日、クラス会があり舞子に行くことにしています。

この機会にブログを見て連絡を貰ったIさんと逢ってきます。

2011年09月29日

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初対面

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昨年9月29日に淡水鎮公所や淡水国小を訪問した。

今年、その9月29日にKGさんも同席で、Iさんとその妹さんに会うことが出来た。

ホテルのロビーで名刺を交換したが、初対面ということも忘れる程話が盛り上がり、テラスで100分があっと言う間に過ぎ去った。

明石ステーションプラザに移動し、小上がりで第二部と相成った。

話の続きは来月の淡水会ということで新幹線で帰宅した。

帰宅すると淡水区政報告というpptファイルが届いてた。

2011年10月21日

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淡水空襲の犠牲者

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昨日、下松のMさんに電話で今回の淡水会に出席したことを話したところ、淡水空襲のときに、学友の一人が亡くなったと聞いて吃驚した。

淡水駅の近く、施合発の近くで被害に遭ったらしい。
おそらく、1944(昭和19)年10月12日の空襲であろう。

Mさんの話では、名前は覚えていないが、施(日本名:山下)君という一級下の4年生であったという。

LCさんの話では、このとき淡水劇場が臨時の救護所にあてられ、血清の獣医、劉興明医師も検死に参加したと黄国華(1994年2月22日)に載っていたそうだ。

この空襲でライジングサンの石油タンクが炎上し、幼い私達の手を引いて母や祖母は夜道を興化店の方に逃げたことを憶えている。

民間人の、しかも学童までも無差別に殺戮する戦争は許せない。


2011年10月25日

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台湾出身戦没者慰霊祭

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11月23日に靖国神社で、第7回台湾出身戦没者慰霊祭が挙行される。

靖国神社は、1869(明治2)年に建てられた東京招魂社が1879(明治12)年に改称されたもので、ご祭神として祀られている246万余柱のなかに、27864柱の台湾出身者の御霊が祀られている。

2005(平成5)年12月4日に第1回台湾戦没者慰霊祭が行われて、昨年で第6回になった。
その後、この実績と関係先の協賛により永代神楽祭として慰霊顕彰することとなり、毎年、勤労感謝の日(新嘗祭改め)の11月23日に執り行うことになった。
今年は「永代神楽祭」として最初の慰霊祭となり、神楽「みたま慰めの舞」が奉奏される。

2011(平成23)年11月23日(祝)午後4時45分に靖国神社本殿に昇殿参拝の予定である。

参拝(玉串料:1000円)、記念講演(1000円)、懇親会(3000円)の申し込みは、日本李登輝友の会事務局(〒113-0033東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A、TEL:03-3868-2111、FAX:03-3868-2101)まで、メールもしくはFAXにて


2011年10月29日

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NHKのど自慢in台湾

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今日、午後7時30分からNHKで、10月2日に国父記念館で収録された「NHKのど自慢in台湾」が放映された。

応募総数1480組から選ばれただけあって皆上手かった。

25組の出場者の中には日本人も居たが、多くは台湾の人達であった。

それより何より、楽しそうな雰囲気であったことが良い。

書類選考や予選で落ちた人から「私は上手いのになぜ落とした?」という電話もあり、対応が大変であったという。

先住民の子供達の熱演も良かった。

2011年10月30日

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再び二胡について

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8月初めのこの欄で二胡のことを書いた。

数年前、姜暁艶女史の教室に通っており楽器もそこで買ったのであるが、一年半くらい通ったあと行かなくなった。

レッスンが、年に一度の演奏会にむけての練習に終始していたからである。

衣装を揃えてのコンサートも悪くはないが、好きなときに好きな曲を弾けるようになればと思っていた思惑とは違っていた。

その後、ときおり弾くことはあったが段々とケースに収まっている期間が長くなっていた。

ところが先日郵便受けに入っていたローカルペーパーに、近くの音楽教室で二胡のコースが開講されることを知った。

11月10日と12日にそれぞれ2回、無料体験会があるという。

行って見ようと思っている。

2011年10月31日

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残存艦艇の戦後活動と、その帰趨(1:概要)

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ブログ「漁人碼頭的戰爭」のコメント欄に記載があったので、当時の様子を少し記述してみようと思う。

終戦時点のわが艦艇隻数は829隻(魚雷艇294隻を除くと535隻)であった。

内訳は
戦艦:4隻
巡洋艦:11隻
航空母艦:6隻
水上機母艦:1隻
潜水母艦:1隻
敷設艦:3隻
駆逐艦:41隻
潜水艦:59隻
海防艦:100隻
砲艦:14隻
水雷艇:3隻
掃海艇:11隻
駆潜艇:28隻
敷設艇:6隻
哨戒艇:6隻
輸送艦:16隻
特務艦:19隻
敷設特務艇:14隻
駆潜特務艇:146隻
掃海特務艇:21隻
電纜敷設艇:1隻
哨戒特務艇:25隻
魚雷艇(甲):6隻
魚雷艇(乙):200隻
魚雷艇(隼):88隻
である。

このうち1946(昭和21)年4月1日現在、日本近海にあった行動不能等艦船の状況は、戦艦4隻、航空母艦4隻、巡洋艦6隻、敷設艦1隻、駆逐艦11隻、潜水艦19隻、海防艦25隻、輸送艦2隻、掃海艇3隻、駆潜艇9隻、敷設艇2隻、哨戒艇2隻、練習特務艦4隻、測量特務艦1隻、標的特務艦3隻、敷設特務艇3隻、掃海特務艇1隻、駆潜特務艇23隻、哨戒特務艇9隻の132隻であった。

内訳は、戦艦4隻(長門、伊勢、日向、榛名)、航空母艦4隻(天城、龍鳳、隼鷹、海鷹)、巡洋艦6隻(酒匂、利根、大淀、青葉、出雲、磐手)、敷設艦1隻(常磐)、駆逐艦11隻(澤風、春風、潮、初霜、楢、榎、柳、楡、椿、涼月、朝顔)、潜水艦19隻(伊号121、伊号155、伊号363、伊号369、伊号372、伊号503、伊号504、呂号57、呂号58、呂号59、呂号62、呂号63、呂号68、呂号500、波号101、波号102、波号104、波号204、波号209)、海防艦25隻(八丈、笠戸、崎戸、高根、沖縄、久賀、粟国、天草、伊唐、稲木、29号、45号、63号、65号、69号、95号、2号、4号、50号、74号、124号、190号、200号、202号、204号)、輸送艦2隻(21号、153号)、掃海艇3隻(1号、17号、33号)、駆潜艇9隻(14号、15号、19号、20号、42号、44号、48号、51号、52号)、敷設艇2隻(怒和島、新井崎)、哨戒艇2隻(102号、104号)、練習特務艦4隻(浅間、富士、春日、敷島)、測量特務艦1隻(駒橋)、標的特務艦3隻(大浜、矢風、摂津)、敷設特務艇3隻(戸島、葦崎、黒崎)、掃海特務艇1隻(6号)、駆潜特務艇23隻(15号、16号、20号、25号、49号、60号、153号、160号、164号、167号、170号、172号、178号、188号、195号、198号、208号、211号、213号、225号、226号、228号、229号)、哨戒特務艇9隻(25号、26号、31号、37号、90号、122号、163号、179号、191号)である。
それぞれの在泊位置および状態は膨大になるので割愛するが、その一部として呉地区に在泊した大型艦およびその状況は次の通りである。

戦艦「伊勢」:3月19日の空襲で命中弾2(至近弾:不明)、7月24日には命中弾5、至近弾多数、7月28日には命中弾11,至近弾多数で致命傷を受けた。
このため、船体は大破し、艦内は満水で右へ15度傾斜して着底状態で擱坐した。
戦艦「日向」、戦艦「榛名」も同様の状況であった。
空母「龍鳳」:3月19日の空襲で命中弾5を受け、中甲板以上の損傷大であった。
空母「天城」:3月19日、7月24日、7月28日で命中弾4以上を受け、至近弾による外板の多数の破孔から浸水し、横転状態で擱坐していた。
巡洋艦「利根」は上記3回の空襲で命中弾5、至近弾7以上を受け、船体は大破し、満水着底状態であった。
巡洋艦「大淀」は同様に命中弾6以上、多数の至近弾を受け船体大破、横転擱坐した。
巡洋艦「青葉」は7月下旬の2回の空襲で命中弾約5発を受け、船体大破、艦内満水、擱坐、艦尾はほとんど切断状態であった。
巡洋艦「磐手」は老齢艦のため各部に浸水、擱坐。
同「出雲」は7月24日の空襲で致命傷を受け、転覆擱坐した。
標的艦「摂津」は老齢艦のため浸水擱坐していた。

1945(昭和20)年9月5日現在外地に在った艦艇は次の98隻であった。
巡洋艦「妙高」:(シンガポール・中破)
巡洋艦「高雄」:(シンガポール・中破)
水上機母艦「能登呂」:(シンガポール・大破着底)
敷設艦「若鷹」:(スラバヤ・艦首損傷)
駆逐艦「神風」:(シンガポール)
駆逐艦「柿」:(青島)
駆逐艦「栗」:(青島)
駆逐艦「蓮」:(青島)
潜水艦「伊号501」:(シンガポール)
潜水艦「伊号502」:(シンガポール)
潜水艦「伊号505」:(ジャカルタ)
潜水艦「伊号506」:(スラバヤ)
砲艦「安宅」:(上海)
砲艦「鳥羽」:(上海)

これら艦艇の多くは、大陸、半島、南方などからの復員輸送と、我が国海軍最後の任務である引き揚げ輸送に従事した。

これらの艦船は、戦後間もなく米軍が貸与してくれたそれぞれ100隻ずつのリバティ型船とLSTとともに復員/引き揚げ業務にあたったのち、米国、英国、中華民国、ソ連に戦時賠償として引き渡された。

引揚輸送を終わった特別輸送艦と繋留機雷の掃海を終わった鋼製掃海艦の大部分は1946(昭和21)年夏以降、逐次所定の旧軍港内に繋留された。

1947(昭和22)年1月から4月頃にかけて横須賀(長浦港)、佐世保および舞鶴には駆潜艇以下の小艦艇が多数係留された。

これらは、当時特別保管艦と称していたが、それらは特別輸送艦として扱われた(掃海任務を終了した艦艇は掃海艦から特別輸送艦に転籍のうえ特別保管艦となった)。

[横須賀](86隻)
駆逐艦:「花月」、「春月」、「夏月」、「宵月」、「雪風」、「波風」、「汐風」、「初桜」、「響」、「夕風」、「萩」、「蔦」、「柿」、「菫」、「欅」、「桐」、「楠」、「竹」
海防艦:「福江」、「保高」、「生野」、「四阪」、「14号」、「16号」、「34号」、「36号」、「37号」、「71号」、「105号」、「107号」、「神津」、「倉橋」、「屋代」、「48号」、「49号」、「76号」、「77号」
輸送艦:「9号」、「13号」、「16号」、「19号」、「110号」、「147号」
掃海艇:「23号」、「102号」
敷設艇:「神島」、「巨済」、「石崎」
駆潜艇:「47号」、「49号」
掃海特務艇:「11号」、「12号」、「13号」、「14号」、「17号」、「18号」、「21号」、「22号」
駆潜特務艇:「1号」、「4号」、「27号」、「58号」、「68号」、「72号」、「78号」、「88号」、「155号」、「159号」、「161号」、「171号」、「181号」、「183号」、「185号」、「194号」、「196号」、「202号」、「203号」、「212号」、「221号」、「241号」、「公称1182」、「公称1648」
哨戒特務艇:「3号」、「26号」、「31号」、「134号」

[佐世保](86隻)
駆逐艦:「樫」、「雄竹」、「杉」、「楓」、「冬月」
海防艦:「宇久」、「金輪」、「波太」、「対馬」、「択捉」、「三宅」、「羽節」、「伊王」、「隠岐」、「8号」、「27号」、「32号」、「44号」、「52号」、「55号」、「57号」、「58号」、「60号」、「78号」、「79号」、「106号」、「118号」、「126号」、「132号」、「142号」、「150号」、「192号」、「194号」、「196号」、「198号」、「215号」、「221号」、「227号」、「鵜来」、「竹生」、「生名」、「12号」、「22号」、「104号」、「154号」、「217号」
輸送艦:「137号」、「172号」、「174号」
水雷艇:「雉」
敷設艇:「粟島」、「済州」、「加徳」、「黒島」、「鷲崎」
駆潜艇:「9号」、「21号」、「38号」
掃海特務艇:「16号」
駆潜特務艇:「71号」、「80号」、「89号」、「90号」、「93号」、「99号」、「154号」、「158号」、「168号」、「169号」、「173号」、「231号」、「234号」、「247号」、「249号」、「250号」
補給船等:「若鷹」、「光済」、「白崎」、「早崎」、「荒崎」
陸軍SB艇:「109号」、「114号」
陸軍ES艇:「7号」、「12号」、「18号」、「19号」

[舞鶴](60隻)
駆逐艦:「初梅」、「樺」、「榧」、「槇」、「椎」
海防艦:「奄美」、「占守」、「67号」、「81号」、「85号」、「87号」、「158号」、「160号」、「205号」、「207号」、「新南」、「26号」、「40号」、「102号」、「156号」
掃海艇:「21号」
敷設艇:「黒神」、「片島」
掃海特務艇:「19号」、「20号」
駆潜特務艇:「57号」、「79号」、「86号」、「157号」、「162号」、「164号」、「166号」、「175号」、「179号」、「184号」、「186号」、「187号」、「198号」、「214号」、「215号」、「217号」、「219号」、「222号」、「227号」、「232号」、「236号」、「239号」、「245号」、「246号」
哨戒特務艇:「84号」、「135号」、「136号」、「138号」、「139号」、「152号」、「153号」、「154号」、「175号」、「179号」、「191号」

特別保管船92隻を、次の4組に分けて抽選の上、米、英、華、ソ4ヵ国に引き渡された。
第1回(8隻あて、4組)
1組:「萩」、「竹」、「夕風」、「波太」、「福江」、「海8」、「海32」、「55」。
2組:「初梅」、「楓」、「雪風」、「四阪」、「海14」、「海67」、「海194」、「海215」。
3組:「椎」、「榧」、「響」、「占守」、「海34」、「海105」、「海196」、「海227」。
4組:「柿」、「雄竹」、「宇久」、「海44」、「海106」、「海150」、「海192」、「海207」。
第2回(8隻あて、4組)
1組:「菫」、「楠」、「槇」、「金輪」、「海16」、「海27」、「海60」、「海126」。
2組:「樺」、「樫」、「保高」、「択捉」、「海36」、「海58」、「海87」、「海158」。
3組:「初桜」、「桐」、「生野」、「海52」、「海78」、「海79」、「海142」、「海221」。
4組:「杉」、「蔦」、「樺」、「対馬」、「海85」、「海118」、「海198」、「海205」。
第3組(7隻あて、4組)
1組:「花月」、「羽節」、「海12」、「海22」、「海26」、「海37」、「海49」。
2組:「春月」、「神津」、「海48」、「海71」、「海76」、「海77」、「海102」。
3組:「宵月」、「屋代」、「隠岐」、「海40」、「海81」、「海104」、「海107」。
4組:「夏月」、「奄美」、「倉橋」、「海154」、「海156」、「海160」、「海217」。

予定回航先:米−青島、英−シンガポールまたは香港、華−上海、ソ−未定
ソ連に引き渡された艦艇の引き渡し場所はすべてナホトカであった。

次回以降、小さな海防艦を如何に改造して数百人の便乗者を乗船させたかという区画改造要領や、特別保管船を戦勝4ヵ国に回送した要領や、中華民国に配分された艦艇の中国名(32隻分、2〜3隻不明分あり)などを掲載する予定である。

写真は1947(昭和22)年7月25日に撮影された第二次引渡艦である(於佐世保港。左方:海防艦、右方:駆逐艦)。


2011年11月01日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(App1:「海防艦」とは)

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日本海軍において、海防艦という艦種は1898(明治31)年に制定された。

当時の海防艦とは、戦艦や装甲巡洋艦など主力艦の艦齢が経過すると海防艦に編入され、主力艦隊から鎮守府に移籍されるなどしていたので立派な軍艦であった。

練習艦隊に加わり世界一周した海防艦もいる。

連合艦隊の戦列艦であった戦艦「富士」も1912(大正元)年に一等海防艦になった。
日露戦争でバルト海から長駆回航してきた第二東洋艦隊(バルチック艦隊)に圧勝したときの旗艦「三笠」も、日清戦争で鹵獲され、二等戦艦になっていた清朝甲鐵砲塔艦「鎮遠」も一等海防艦になった。
日露戦争で鹵獲された「壱岐(旧インペラトール・ニコライ一世」)も二等戦艦から海防艦になり、同じく「石見(旧アリヨール)」、「周防(旧ポビエダ)」、「相模(ペレスウェート)」、「丹後(旧ポルタワ)」なども同様である。

しかるに1942(昭和17)年7月1日の類別変更により「海防艦」の定義が全く変わってしまった。

昭和12年以降に新造された小型護衛用艦艇を「海防艦」と改めたのである。

当然ながらその「海防艦」は軍艦ではない。
軍艦とは、戦艦、航空母艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、水上機母艦、敷設艦、潜水母艦、飛行艇母艦、それに揚子江などに配備される河用砲艦など、艦首に菊の紋章をつけた艦艇で、これらの指揮官は艦長と呼ばれていた。
駆逐艦や潜水艦も後期には基準排水量2千トンを越えるものもあったが、これらの指揮官は駆逐艦長、潜水艦長と呼ばれて艦長と区別され、艦隊の停泊する泊地で「艦長集合」によって旗艦に集合するのは駆逐艦3〜4隻で編成された駆逐隊司令、潜水艦3〜4隻で編成された潜水隊司令であった。
すなわち、駆逐艦、潜水艦は3、4隻で軍艦扱いであった。
なお、ここでこれらよりずっと小さな河用砲艦が軍艦に類別されているのは外地に在泊する軍艦は国土の延長と見なされ、治外法権を獲得することが出来るからであった。
従ってこれら砲艦の艦長は大佐あるいは中佐が務めていた。

以降、海防艦とは1942年の類別変更後のものを指すことにする。

海防艦は戦時急造に備えた設計であったが幾つかの艦型に分類される。

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[甲型(基本計画番号E15:設計三菱)]占守(同型艦4隻)
「占守(賠償ソ)」、「国後(解体)」、「石垣(戦没)」、「八丈(解体)」
基準排水量:860トン
全長:77.72メートル
速力:19.7ノット
航続距離:8000海里(16ノット)

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[甲型(基本計画番号E19)]択捉(同型艦14隻)
「択捉(賠償米)」、「松和(戦没)」、「佐渡(戦没)」、「隠岐(賠償華)」、「六連(戦没)」、「壱岐(戦没)」、「対馬(賠償華)」、「若宮(戦没)」、「平戸(戦没)」、「福江(賠償英)」、「天草(戦没)」、「満珠(解体)」、「干珠(自沈)」、「笠戸(解体)」
基準排水量:870トン
全長:77.70メートル
速力:19.7ノット
航続距離:8000海里(16ノット)

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[甲型(基本計画番号E20)]御蔵(同型艦8隻)
「御蔵(戦没)」、「三宅(解体)」、「淡路(戦没)」、「能美(戦没)」、「倉橋(賠償英解体)」、「屋代(賠償華)」、「千振(戦没)」、「草垣(戦没)」
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
速力:19.5ノット
航続距離:5000海里(16ノット)

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[乙型→甲型(基本計画番号E20b)]日振(同型艦9隻)
「日振(戦没)」、「大東(触雷沈没)」、「昭南(戦没)」、「久米(戦没)」、「生名(海保「おじか」)」、「崎戸(解体)」、「目斗(触雷沈没)」、「四阪(賠償華)」、「波太(賠償英)」、「大津(解体)」、「友知(解体)」
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
速力:19.5ノット
航続距離:5000海里(16ノット)

[乙型(基本計画番号E20b]鵜来(同型艦20隻)
「鵜来(海保「さつま」)」、「沖縄(解体)、「奄美(賠償英)」、「粟国(解体?)」、「新南(海保「つがる」)」、「屋久(戦没)」、「竹生(海保「あつみ)」、「神津(賠償ソ)」、「保高(賠償米解体)」、「伊唐(解体)」、「生野(賠償ソ)」、「稲木(戦没)」、「羽節(賠償米)」、「男鹿(戦没)」、「金輪(賠償英解体)」、「宇久(賠償米解体)」、「高根(解体)」、「久賀(解体)」、「志賀(海保「こじま」)」、「伊王(解体)」、「蔚美(解体)」、「室津(解体)」
基準排水量:940トン
全長:78.8メートル
速力:19.5ノット
航続距離:5000海里(16ノット)

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[丙型(基本計画番号E21b]第1号海防艦(56隻)
「第1号(戦没:漂流者に機銃掃射、生存者なし)」、「第3号(戦没)」、「第5号(戦没」、「第7号(戦没)」、「第9号(戦没)」、「第11号(戦没)」、「第13号(第47号海防艦の漂流者を救助活動中米潜に撃沈さる)」、「第15号(戦没)」、「第17号(戦没)」、「第19号(戦没)」、「第21号(戦没)」、「第23号(戦没)、「第25号(戦没)」、「第27号(賠償英)」、「第29号(解体)」、「第31号(戦没)」、「第33号(戦没)」、「第35号(戦没)」、「第37号(賠償米解体)」、「第39号(戦没)」、「第41号(戦没)」、「第43号(戦没)」、「第45号(擱座)」、「第47号(戦没)」、「第51号(戦没)」、「第53号(戦没)」、「第55号(賠償英)」、「第57号(解体。船体は宇部防波堤)」、「第59号(復員輸送艦、触雷沈没)」、「第61号(触雷大破)」、「第63号(触雷座礁)」、「第65号(戦没)」、「第67号(賠償華)」、「第69号(戦没)」、「第71号(賠償ソ)」、「第73号(戦没)」、「第75号(除籍)」、「第77号(賠償ソ)」、「第79号(賠償ソ)」、「第81号(賠償華)」、「第83号(未成)」、「第85号(賠償華)」、「第87号(賠償華)」、「第89号(未成)」、「第95号(終戦時横須賀で中破状態)」、「第97号(解体)」、「第105号(賠償ソ)」、「第107号(賠償華)」、「第205号(賠償華)」、「第207号(賠償米)」、「第213号(戦後触雷)」、「第215号(賠償華)」、「第217号(賠償英解体)」、「第219号(戦没)」、「第221号(賠償ソ)」、「第223号(未成)」、「第225号(解体)」、「第227号(賠償ソ)」
基準排水量:745トン
全長:67.5メートル
速力:16.5ノット
航続距離6500海里(14ノット)

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[丁型(基本計画番号E22)]第2号海防艦(67隻)
「第2号(舞鶴で終戦)」、「第4号(戦没)」、「第6号(戦没)」、「第8号(賠償米)」、「第10号(戦没)」、「第12号(賠償米解体)」、「第14号(賠償華)」、「第16号(賠償英)」、「第18号(戦没)」、「第20号(戦没)」、「第22号(賠償米)」、「第24号(戦没)」、「第26号(賠償米解体)」、「第28号(戦没)」、「第30号(戦没)」、「第32号(賠償英)」、「第34号(賠償ソ)」、「第36号(賠償米解体)」、「第38号(戦没)」、「第40号(賠償華)」、「第42号(戦没)」、「第44号(賠償米解体)」、「第46号(戦後触雷沈没)」、「第48号(賠償ソ)」、「第50号(終戦時大阪で船尾切断状態)」、「第52号(賠償ソ)」、「第54号(戦没)」、「第56号(戦没)」、「第58号(賠償米解体)」、「第60号(賠償英)」、「第62号(沈没解体)」、「第64号(戦没)」、「第66号(戦没)」、「第68号(戦没)」、「第72号(戦没)」、「第74号(戦没)」、「第76号(賠償ソ)」、「第78号(賠償ソ)」、「第82号(戦没)」、「第84号(戦没)」、「第102号(賠償ソ)」、「第104号(賠償華)」、「第106号(賠償米)」、「第112号(戦没)」、「第116号(擱座除籍)」、「第118号(賠償華)」、「第124号(終戦時触雷、解体)」、「第126号(賠償英)」、「第130号(戦没)」、「第132号(戦後復員輸送)」、「第134号(戦没)」、「第138号(戦没)」、「第142号(賠償ソ)」、「第144号(戦没)」、「第150号(賠償米)」、「第154号(賠償英解体)」、「第156号(賠償英解体)」、「第158号(賠償米解体)」、「第160号(賠償英解体)」、「第186号(戦没)」、「第190号(終戦時大阪中破)」、「第192号(賠償華)」、「第194号(賠償華)」、「第196号(賠償ソ)」、「第198号(賠償華)」、「第200号(中破解体)」、「第202号(触雷解体)」、「第204号(終戦時中破状態、解体)」
基準排水量:740トン
全長:69.5メートル
速力:17.5ノット
航続距離4500海里(14ノット)
計画乗員141名


写真を較べると、艦首のカーブも省略され、簡素化が進んでいった様子が判る。
木造漁船を作っていた地方の造船所まで動員されたのである。

次回は、これら海防艦に便乗者を乗せるために、困難な状況下で如何に改造したかを示す予定である。
准士官以上16名、兵員84名程度で、4百人を越える便乗者を乗せて航走したのである。


2011年11月02日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(2:丙型海防艦の輸送施設)

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海防艦のような小型艦艇でなぜ引き揚げをと訝る向きがあるかもしれない。

内地も外地も、終戦直後はひどい状態であった。

至るところが焼き尽くされて焼け野が原になり、雨露をしのぐところもなく、無論、食い物もない状態である。

海上では海軍の艦艇よりも商船のほうが被害が大きかった。

大東亜戦争で亡くなった軍人軍属は、海軍47万3800人(死亡率16%)、陸軍164万7200人(死亡率23%)と言われるが、海運・水産業の船員は6万人という。
推定死亡率で43%に達するという。

開戦前、世界第3位の保有船舶を擁していた商船の88%にあたる2500隻以上が沈没し、漁船や機帆船の喪失は4000隻を越える。

どんな小さな艦艇でも雑船でも航洋性のあるものは陸海軍の復員と民間人の引き揚げに動員された。

金属が払底し、木製の戦闘機が作られており、艦艇も商船も鋼製ではなく、木製やコンクリート製の船体が実際に造られていた。

そんな状態で、残存船艇を入渠させ、改造して輸送艦としたのである。

平時でも改造船は、設計も工作も困難が多い。よほどのことがなければ新たに建造する方がずっと易しい。
そんな中で、よく中小造船所や船渠が頑張ってくれたと思う。

艦艇や軍用機の武装解除や撤収、近海に敷設された機雷(我が国も近海の港湾や水道を敵潜から防御するために多くの各種機雷を敷設したが、米軍は大陸や南方からの物資の流通を阻止する、いわゆる飢餓作戦のために20000個以上のパラシュート付き機雷をばらまいていた。

このため基隆から内地に向けての引き揚げ船は1週間も迂回して航行しなくてはならなかった。

本来の掃海艇や掃海艦のほか、海防艦も改造し掃海任務に従事した。

瀬戸内海でも、いまだに沈設機雷の発見されることがあるが、これら掃海艇による水路啓開業務は運輸省水路部、海上保安庁設置後は同省水路部、海上自衛隊掃海隊群に引き継がれている。

最低限の水路が確保されると、これら残存艦艇には輸送艦施設が設けられ、復員、引き揚げ業務に従事した。

海防艦丙型の実施要領を紹介する。

兵装を撤去したので、砲術、水雷、機銃などを担当する乗員数は半減する(主として航海科と機関科のみで運航可)。
このために空いた乗員区画では足りないので、前後部弾薬室や水測室、爆雷庫を便乗者室とする。
兵装を撤去すると重量が余り、重心が過大に下降するので後檣以降の甲板上にデッキハウスを設け、便乗者区画とする。
准士官以上の乗員数も減りベッドが余るのでこれを利用するほか、士官寝室のベッドも出来るだけ増設した。
多数の便乗者のために固有の調理室に隣接して機械室上の上甲板(煙突直前)に別の調理室を追設し、便所は上甲板最後部の両舷に仮設した。

このようにして収容人数は次の通りとなった。

[固有乗員室]
艦長室・予備室(旧司令用)、士官寝室:16人(准士官以上)
第1兵員室(上甲板前部):14人
第2兵員室(中甲板、前檣下方):34人
第3兵員室(中甲板、後檣下方):26人
第3兵員室(船艙、旧後部弾薬庫):10人(兵員84名)

[便乗者用区画]
第1船室(上甲板後部):93人
第2船室(中甲板、前部士官室下方):70人
第3船室(中甲板、旧兵員室後部、第1船室下方):78人
第4船室(中甲板、旧兵員室後部、第1船室下方):48人
第5船室(船艙、旧前部弾薬庫):58人
第6船室(船艙、旧水測関係区画):40人
第7船室(船艙、旧爆雷庫):56人(便乗者合計443人)

かくして、排水量約800トンの小艦で一行動毎に400〜500名の便乗者を収容することが出来た。
海防艦としての定員は、准士官以上9(実際は9〜14)、下士官31(実際は32〜39)、兵117(実際は164〜196)であった。

なお、復員行動は台湾、中北支を主としていたので航続力を減じ、重油タンクの一部を廃止して船室を広くとり、真水、糧食は兵器関係倉庫をあてて増載した。

私達の乗船したのは丁型の海防艦34号であったが、丙型と類似の構造であった。

基隆を出港してから、父がハッチから後部露天甲板を覗かせてくれ、夕闇迫る基隆港を港外から眺めた記憶がある。

船室の中には木材で四周に棚が造られていたが、上下のスペースが狭く、その上で座ることも出来なかった。

おそらく、船尾部の爆雷庫のあとであったのであろう。

父の話では、出港してから乗務員に聞いても、どこに入港するのか知らなかったようである。

二晩揺られたあと、鹿児島湾に入り、鹿児島市街地の桟橋に着いた。
おそらく桜島との連絡船乗り場であったのであろう。

我々は近くの天保山小学校に移動して、その日の中に国鉄で博多駅経由浜崎まで帰ることが出来たが、しばらくここに留め置かれた人も居たようである。

ただ、現在調べて見ると鹿児島市に天保山中学校はあるが、同学区の小学校は八幡小学校である(改名も記されていない)。
天保山中学校であったのかもしれない。


2011年11月03日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(3:中華民国に移籍された艦艇)

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艦艇の賠償に関して、当初の連合軍の意向は、保管中の艦艇約150隻を整備して、引き渡し発令後20日以内に必ず行動可能な状態にすることにあった。

一時仮設したデッキハウスなどは大部分を撤去し、つまり完成状態から兵装のみを撤去した状態にして船体・機関・艤装等を良好に保つことになった。

行動の目標は、一応マニラまで自力で航行しうる点においた。
整備は "Good Material Condition" とすることを要求され、次のように具体的に指定された。

1.揚錨装置を良好にすること。
2.揚艇装置を良好にすること。
3.発電機は計画力量の3分の2以上を保持すること。
4.主機械は巡航速度を出し得ること。
5.無線装置は、送信機は長、短各1台、または兼用のもの1台。受信機も同様。

保管船は各指定港(横須賀・佐世保・舞鶴)にあって、それぞれ艦種・艦型によって保管群が編成された。

米国・英国・中華民国・ソ連、4ヵ国の代表者は引渡艦船を視察し、抽選により引渡先が決定された。

中華民国とソ連は配分された全艦艇を最も喜んで受けたのに反し、米英両軍は実際にこのような艦艇で、その海軍力を増強する必要は全くなかった。
両国に引き渡された艦艇は、そのまま日本で解体されたものも数多い。

ここでは中華民国に配分された艦艇の中国名を示す。

[駆逐艦]
「波風」→「瀋陽」
「雪風」→「丹陽」
「宵月」→「汾陽」
「初梅」→「信陽」
「楓」 →「衡陽」
「杉」 →「恵陽」
「蔦」 →「華陽」
[海防艦]
「隠岐」→「長白」
「対馬」→「臨安」
「四阪」→「恵安」
「屋代」→「正安」
「14」→「済南」
「40」→「成安」
「67」→「営口」
「81」→「黄安」
「85」→「新安」
「104」→「泰安」
「107」→「潮安」
「118」→「長沙」
「192」→「同安」
「194」→「威海」
「198」→「吉安」
「205」→「長安」
「215」→「遼海」
[輸送艦]
「16」→「武夷」
「172」→「廬山」
[敷設艇及敷特]
「済州」→「永靖」
「黒島」→「?」
[掃海艇及掃特]
「14」→「掃雷201」
「19」→「掃雷202」
「22」→「掃雷203」
[駆潜艇]
「9」 →「?」
「49」→「?」
[特務艦]
「白崎」→「武陵」


見出しの写真は「宵月」である。


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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(App2:WEYER'S FLOTTENTASCHENBUCH 1960)

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ここに、ヴァイヤー(西ドイツ)のポケット版海軍年鑑(1960年)がある。

同書では、アルバニア、アルゼンチン、エチオピア、ベルギー、ブラジル、ビルマ、カンボジア、チリ、コロンビア、英国連邦、キューバ、デンマーク、ドイツ(東/西)、ドミニカ、エクアドル、フィンランド、フランス、ラオス、ギリシャ、グァテマラ、インドネシア、ハイチ、イラク、イラン、アイルランド、アイスランド、イスラエル、イタリア、日本、ユーゴースラビア、朝鮮(南/北)、メキシコ、オランダ、レバノン、リベリア、ノルウェー、パラグアイ、ペルー、フィリピン、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、スェーデン、スイス、スペイン、タイ、チェコスロバキア、トルコ、チュニジア、ハンガリー、ウルグアイ、アメリカ合衆国、ソ連、ベネズエラ、アラブ連合、ベトナムとともに中国の艦艇が掲載されているが、一国の記載のなかで国民政府側と中共側に書き分けられている。

中国の艦艇には、アメリカから供与された駆逐艦なども僅かに含まれるが、大部分は旧日本海軍の艦艇を戦時賠償により取得したものである。
中には旧日本海軍の同型海防艦が国共両側に分かれているものもある。

中国は戦後に、国民政府軍と中国共産党軍が勢力争いを続けた結果、今日の状況になったことはこれらの史実からも明らかである。

当時、台湾は日本の一部であり、NHKの言うような日台戦争など存在しなかったし、中国共産党軍と日本が宣戦布告を交わした事実もない。


2011年11月04日

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残存艦艇の戦後活動とその帰趨(App3:WEYER'S FLOTTENTASCHENBUCH 1960)

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艦艇の欲しかったのはソ連の極東艦隊も同様であった。

詳細は省くが、このページにも「春月」、「響」、「初桜」、「榧」などが掲載されている。

ソ連は日本の劣勢なるを見ると、1945(昭和20)年8月8日に、不可侵条約を反古にして一方的に日本に宣戦布告を行った。

そして、その翌日の9時前に日本海で食糧などの運送に当たっていた大阪商船の「めるぼるん丸」はイリューシン爆撃機の来襲をうけた。

当直の乗組員は、まさかその前日に対日宣戦したソ連から直ぐ攻撃を受けるとは思わず、友軍機と思って眺めていたという。

2等運転士など3名が戦死したが、そのうちの一人は負傷して羅津満鉄病院に入院していてソ連機の機銃掃射で戦死したものである。

そして戦勝国として、戦時賠償船艇を、米英華と等分に譲渡されたのである。

ソ連への賠償船艇は、日本側の運航ですべてナホトカに回航された。

2011年11月05日

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父のこと

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父はスポーツが大好きであった。

水泳も得意であった。

TVでも、野球、サッカー、柔道/剣道などを好んで見ていた。
当時、中国新聞社福山支社前を出発点に、八丁堀の本社前をゴールとする中国駅伝にはゴールに近い稲荷橋の傍にある同業者の店先に行って見るファンであった。

教師をしていた頃は朝礼台で漕艇体操などの指導をしていたし、学校対抗のスポーツ大会には選手で出ていた。

応召してからも銃剣術(木銃を持ち、剣道の胴や面をつけて戦う格闘技)大会にも選手で出来た話していた。

だから子供心に「父さんはスポーツマンなのだ」と思っており、小学校の運動会で徒競走に勝てないと申し訳ない気がしたものである。

しかし、実は 父は若い頃からあまり健康には恵まれていなかったことを知った。

1932(昭和7)年に徴兵検査を受けたときに心臓弁膜症のために丙種合格となっている。父が20歳で佐賀県東松浦郡横田尋常小学校訓導をしていたときのことである。

1944(昭和19)年6月12日、に32歳で応召し、台南の部隊に入営した。その数ヶ月後(11月)にマラリアに罹病し、腎臓結石を併発して野営病院で入院していた。
マラリアは引き揚げて帰ったあとも何度も発作に襲われて苦しんだらしい。

引き揚げのときは母が熱を出し、荷車を借りて集合していた総督府から貨物列車まで母を載せていったと言う。

引き揚げのときに持ち帰ることを許されたものは、大人も子供も自分で持って移動できるものに限られていたので、当時の苦労が偲ばれる。

引き揚げて来て、住居もなく食糧もない状態で毎日、筋肉労働を続けていた無理がたたり、やっと市営住宅に入居出来た1949(昭和24)年4月に肺結核になった(37歳)。
今でこそ、ストレプトマイシンやパスなど抗生物質で治る病気であるが、このような薬が一般に使われるようになるまで、肺結核は不治の病であった。
その市営住宅の隣には満州から引き揚げて来た若い夫婦が住んでいたが、若い奥さんが小学生から未就学の男女児3人を残して肺結核で亡くなっている。

父は仕事中に自転車に乗っていて路面電車にはねられて鎖骨を折る大怪我をしている。

そんな苦労を重ねながら家族を養い、我々を育ててくれたことに今更ながら感謝している。


2011年11月06日

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台湾で最初に敷設された鉄道と台北駅

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台湾に最初に鉄道が敷設されたとき、台北駅は淡水河の傍で折り返し駅であった。

基隆へ行くのも、新竹に行くのも台北駅から東に向いて出発し、基隆へはそのまま、新竹方面に行くには途中で分岐して淡水河を渡っていたという。

ちょうど、四国の高松駅のようではなかったかと思う。
(高松は鉄道連絡線、宇野・高松線の接続駅として建設され、鉄路は予讃線も高徳線も西に向いて発車する)

後に清国統治時代のこの軌条は廃止され、やや東に台鐵の台北駅が建設された。

その正面の道路が表町通りと呼ばれ、その正面に博物館があり、有名な台北鉄道ホテルもこの通りに面していた。

現在の駅舎は更に東に寄っている。
台北駅の近くで鉄道は地下に敷設され、MRTもそこから接続している。

台鐵時代の淡水線は、現在のMRT淡水線とほぼ同じ経路を走っていた。

挿絵は片倉佳史氏の「台湾鉄路と日本人」から複写した。

2011年11月07日

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二胡練習再開準備

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二胡の練習を再開するために、弓を買ってきた。

二胡の弓は古くなると馬毛が切れて使えなくなる。
消耗品扱いらしい。

街に出たので、二胡音楽院に寄ってみたらちょうど先生が教室でピアノと音合わせをしていた。

2、3本較べて使い勝手の良さそうな弓を買ってきた。

写真は一緒に買ってきた松脂である。
オーストリア産らしいが透明でとてもきめ細やかと薦められたものである。

2011年11月08日

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二胡の数字譜例

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数字譜は、スイス生まれの哲学者であり、政治/教育思想家であり、作家で作曲者でもあったジャン・ジャック・ルソーが考案した記譜法である。

五線譜と較べて五線紙など専用の用紙を必要としないが、他の文字譜と同様、和音や合奏や合唱などの場合の多声部音楽の表記には向かない。

日本では明治時代から昭和初期までは五線譜よりも普及していたという。
ハーモニカや大正琴などではいまでも多用されている。
中国へは西欧から直接、あるいは日本を経由して伝わったとされるが、今日でも多く用いられている。

例に挙げた「蘇州夜曲」は服部良一が戦前、蘇州を訪れたときの印象を描写したものという。

2011年11月09日

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小型チューナー

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二胡のレッスンを始めるために少しずつ準備をしている。

これは小型のチューナーである。

KORGの製品であるが、本体の長さ55ミリ、幅13ミリと弱音器よりも小さいので見失ってしまいそうである。

予備の弦も一組あるのを確認した。

2011年11月10日

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中華民国海軍旗艦「丹陽」となった駆逐艦「雪風」

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「雪風」は、藤本喜久雄海軍技術大佐(当時)が設計し、世界を驚かせた特型駆逐艦「吹雪」型(24隻)、のあと「初春」型、「白露」型、「朝潮」型を経て完成された「陽炎」型駆逐艦の第8番艦として1940(昭和15年1月に佐世保工廠で竣工した。
本艦は第16駆逐隊、のちに第17駆逐隊に所属し、16回以上の主要な作戦に参加しながら、朝潮型、陽炎型、夕雲型等50隻のなかで、ほとんど無傷のままで唯一終戦まで残った幸運艦であり、奇跡の駆逐艦と呼ばれた。
終戦後の1946(昭和21)年12月30日、「雪風」は特別保管艦に指定され、戦時賠償艦として連合国に引き渡されることになった。乗組員は最後まで入念に整備を行い連合国側から「敗戦国の艦艇で、かくも見事に整備された艦を見たことがない。まさに驚異である」と感嘆されたという。
1947(昭和22)年7月3日、「雪風」は上海に到着し、7月6日に中華民国に引き渡されて「丹陽」と改名され、中華民国海軍旗艦となった。引渡時に武装は撤去されていたが、一番砲塔には89式12.7センチ連想高角砲、2番、3番砲塔には98式10センチ高角砲などが装備されたらしい。
国共内戦で上海から基隆に渡台したが、蒋介石総統の乗艦になったと言われている。幾度かの実戦に参加し、中華人民共和国海軍の巡洋艦2隻と交戦し、1隻を撃沈、1隻撃破したという。
1965年12月16日に退役し、1966年11月16日付けで除籍され、1971年末までに解体された。
1971年12月8日、中華民国政府から舵輪と錨が返還され、舵輪は江田島の教育参考館に、錨はその庭に展示されている(スクリューは左営の海軍軍官学校に展示されている)。

2011年11月11日

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二胡と胡弓

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まれに二胡のことを胡弓と呼ぶ人がいる。

しかし、胡弓は二胡とは全く違う。

むしろ三味線に近い。

弦の数も、弓も二胡とはまるで別物である。

胡弓は、「おわら風の盆」で踊り手と一緒に夜の明けるまで町を流すことで知られている。越中おわら節の調べの流れる富山県の八尾町は、9月1日から3日の間に25万人の観光客が押し寄せるという。

小学生の頃、神楽の楽団のなかに胡弓があることは知っていた。

しかし、リズムもメロディもなく、やたらキコキコとやっている物だと思っていた。

あの悲哀溢れるメロディを奏でることの出来る楽器であると知ったのは随分後のことである。


2011年11月12日

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基隆を発った日

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様式第12号「在外事実・引揚事実等に関する証明書」なる紙片が2枚ある。

一枚は「証明の対象たる引揚者」が父の名前であり、もう一枚は母のものである。

これによると、母は1923(大正12)年12月7日に渡台し、父は1937(昭和12)年3月27日に渡台したと記されている。

海防艦で基隆を出港した日はいずれも1946(昭和21)年3月21日、鹿児島港に上陸した日は3月23日となっている。
別の小さなメモ用紙には
「1946(昭和21)年3月17日 引揚命令により、台湾総督府に集結
            3月19日 基隆港に集結
            3月21日 基隆出発
            3月23日 鹿児島上陸  」
とあるので信憑性は高い。

しかし、引揚者在外事実調査票と父の字でメモした控えによれば「海防艦34号で鹿児島港に3月25日」に上陸したと書かれたものが残っている。

「在外事実・引揚事実等に関する証明書」の「証明者の申立事項」という欄に小野操さんと思われる記述がある。
『昭和10年3月、結婚のために台湾に渡る(1935(昭和10)年3月10日)下関発「蓬莱丸」。当時、主人小野範男は淡水郡役所に勤務していた。同家とは、主人は個人的に、またスポーツ関係等で親交があった。また夫人の実家とは特に親しかった。渡台し、淡水街に居住を始めて以来、近所にあって親類同様のつきあいをしていた。その後、主人の転勤、疎開と離れたがずっと往来、文通あり。昭和21年4月8日、リバティ船で引揚。』
とあり
『上記の証明事項を証明することの出来ると思われる者』の項には両親が新婚時間借りしていた黒川さんの娘、高橋清子さん名が挙がっている。

2日ほど日程に違いがあるが、当時の状況が察せられる。

3月19日に有蓋貨車で基隆に行き、標掲写真の建屋の影の引き込み線で疲れ果てた引揚者がレールを枕に横になっていたことは憶えている。

貨物上屋で2泊したのであろうがそれは憶えていないが、子供心に仮設便所の下に波が寄せていて不安を感じた。


2011年11月17日

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台北駅

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現在の台北駅舎は大きい。

地上6階、地下2階まである。

台鐵のプラットホームは地下2階にあり、MRT淡水線のプラットホームは地下4階である。

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終戦前後の駅は地上駅であった。

この写真では手前左手に人力車が見える。


2011年11月24日

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台湾総督府鉄道・淡水線

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昭和4(1929)年7月10日改正の時刻表を見つけた。

「時刻表世界」(曽我誉旨生著、2008年、(株)社会評論社刊)に載っていたものである。

その中に淡水線(下りのみ)が掲載されていた。

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これによると蒸気機関車の曳く列車は5往復のみで、あとはガソリンカーである。
始発の臺北から淡水行きが5本あり、そのほかに新北投行きが17本運航されていた。

ローカル線であり、基本的に各駅停車であったが、列車はすべて大正街と宮の下は通過し、宮の下はガソリンカーも4本通過している。

所要時間は50分から60分であった。

臺北から淡水までの途中駅は、大正街、雙連、圓山、宮ノ下、士林、ロ基里岸、北投、江頭の各駅であった。

ほとんどの駅名が現在のMRTと同じであるが、関渡だけは似た読みの江頭になっていた。

当時の列車は4両編成であったとLCさんが知らせてくれた。

この時刻表には「二・三等」と書いてあるけれど、二等席があったのだろうか?

2011年11月25日

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内台連絡船

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基隆と内地を結ぶ連絡船は、1896(明治29)年に大阪商船が命令航路として補助金を受けて、「須磨丸(1563総トン)」ほか2隻で毎月3便で運航を始めた。
日本郵船も翌年、「横濱丸」で月2便のサービスを開始した。

当時は基隆から門司港に寄港し、神戸まで運航されていた。

この大阪商船の定期表に描かれているのは「高砂丸」である。

日本郵船は「富士丸」を新造して近海郵船に運航させたが、後に合併している。

「高砂丸」は戦争中、病院船として活躍し、戦後は引き揚げ船としても功績を残している。


2011年11月26日

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MRT松山機場駅

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この地図は現在の台北市内である。

見て貰いたいのはMRT「文湖線」の「松山機場」駅である。

この線は、MRTが開通したときに「木柵線」として最初に運営された路線である。

その当時、「中山国中」までであったが2009年に南港展覧館」まで開通して「文湖線」と改称された。

それにしても、飛行場ターミナルに乗り場を設けるため、異常と言っても良いほど路線を曲げている。
完全に自動運転のため運転手は乗車して居らず、無人運転である。
「中山国中」と「松山機場」の間は減速走行させているのであろう。

羽田−松山便が開設されてとても便利になったが、ここまでしてMRTを空港ターミナルまで敷設したことは驚きである。


2011年11月27日

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基隆内港

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基隆は台湾北部の港の一つであったが、航洋船舶が大型化すると、税関も置いていた淡水に代わって主要港として整備された。

内港の西側に沿って鉄道の引き込み線も設けられ、上屋も列び、繋船堀も整備されたが山に囲まれた狭い港湾で、一般商船のほか、漁船、海軍艦艇、コーストガードと常時満船状態で、コンテナヤードも混雑を極めている。

それで淡水の対岸八里に台湾海峡に面した大きな貿易港が構築中で、台北港と呼ばれるようになった。

写真は1945年当時の基隆港で左下、基隆駅前に港湾合同庁舎が建っていた。

それから50年経って「飛鳥」でここに入港したときは対岸の客船ターミナルに接舷した。

1946年に引き揚げたときは左側の貨物岸壁から出港したはずである。


2011年11月28日

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淡水国小90週年記念誌

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この写真は淡水国小90週年記念誌に載っていたものである。

台湾の人は小さい頃から馴染んでいるから上手いのであろう。

私は仕事を終えてから習い始めたが、何かを始めるのに遅すぎることはないと思う。

来月からレッスンを再開するのが楽しみである。


2011年11月29日

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基隆客船ターミナル

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基隆の客船ターミナル周辺の地図である。

1995(平成7)年の3月に「飛鳥」で行ったとき、港湾事務所で貰ったものである。
湾の一番奥に客船ターミナルがあり、そこから鉄道の駅まで湾岸遊歩道になっていたことが判る。

両側の港湾関係の建物は、ほぼ戦前のままであった。

基隆郵便局は、駅舎とともに立派な建物として知られていた。

西側にも客船ターミナルという文字が見えるが、琉球航路を運航していた有村汽船のフェリーが発着していた。

「飛鳥」の接岸した東側の客船ターミナルのすぐ傍に「第二コンテナ・ターミナル」があった。
どこの港湾を見ても、客船埠頭とコンテナ・ヤードはこんなに近接して設置されることはない。

基隆の港湾設備が如何に狭隘であったか判る。

着色されている区域は、デパートや商店街、飲食店街、それに船会社や鉄道、バスなどの施設があり、乗客が行き来する場所を示している。

2011年11月30日

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基隆客船ターミナル

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基隆の客船ターミナルは大規模な設備であった。

内地から到着した千人もの乗客を、一等、二等、三等に区分けして、入国審査、検疫、所持品検査などを行う間、ここから乗船する人や見送りの人も多かった筈である。

当時の船旅は、昨今のクルーズのような手軽なものではなかった。
行くにしても来るにしても、それ相当の決断をして決めたものであろう。これが最後の見送りになるかもしれないと島内各地から見送りに来たのであろうし、渡航してきた人は出迎えだけを頼りにしていた人も多かったことであろう。

ターミナルの二階には大きなホールがあった。

我々は、クルーズの寄港地エクスカーションであるから何も持たず、パスポートも船に預けてあるので乗船証を見せるだけであった。

下船してちょっと、その辺りを歩いてみた。
今はどうか知らないが、当時は基隆駅前に、ケープを羽織った蒋介石の立像があった。


2011年12月06日

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新公園(228公園)に保存されている臺鐵の機関車

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国立台湾台湾博物館の脇に、古い機関車が2台保存されている。

一台は日本から海上運送された蒸気機関車で、もう一台はドイツのホーエンツォルレン機関車製造社から輸入されたものである。

日本から輸送されたものは、新橋〜横濱間に用いられていた10台のうちの1台で、イギリスのエイボンサイド社製のA-3型2台のうちの一台だそうである。
固有名詞はなく、日本で走っていたときには「7号機」と呼ばれていた。
片倉氏の著書によれば、主に打狗(高雄)と台南の間を走っていたという。
そして1906(明治39)年に「9号機」と改名された。

上掲の写真がその「9号機」である。

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こちらがホーエンツォルレン社製の「騰雲」号である。

ドイツのホーエンツォルレン家といえばプロイセン(プロシア)の王家として知られているが、機関車製造社を経営していたとは知らなかった。

2011年12月16日

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観音山の雪

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今日、日本列島には寒波が来襲して当地でも、ときおり雪が降っていた。
四国でも九州でも雪が降ったらしい。

地球の温暖化により、南極大陸も北欧の氷河も溶壊が進んでいると言われている。

数十年前はもっと寒かった。

淡水の大屯山にも対岸の観音山にも雪が積もったことがあったそうである。

しかし、前景に椰子の木が写っている写真を見ると雪など積もりそうに思えない。

私が自分で見た記憶のある南国の雪は、鹿児島の桜島と屋久島の宮浦岳くらいである。

2011年12月18日

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淡水の漁業は沿岸零細漁業であるが・・・

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淡水にも地元の漁民が操業しているが、これらは沿岸で漁を行うもので魚屋の店頭で売られたり、すりつぶして淡水名物の魚丸にされる。

しかし、どうも東海に面した宜蘭縣あたりでは様子が異なるらしい。

下の『』内は網友のHさんの電子メールから抜粋したものである。

『……蘇澳の南澳漁港に行って海鮮料理に満足した話に関連するが、漁港の数百米沖合いに大型漁船みたいなのが何隻も描舶中なのが望見される。
最初は気にも留めなかったが、食事をしながら眺めていると船の大きさに比べ乗ってる人数が異常に多い。それも甲板上を引っ切り無しにうろうろ行きかっている。
変な船だな?…と食堂の親父に聞いてみたところ、「ア〜あれは大陸の奴等だよ」あっさり答えた。

後で調べて判ったのだが、これは台湾の網元に雇われた中国の出稼ぎ 漁民達なのだ。
台湾でも経済の発展に伴い3K労働に従事する若者が少なくなり、特に危険できつい漁業の仕事は成り手が居ないのが現状だ。
それの穴埋めの為、大陸からの出稼ぎをつれてきて働かせる。
彼等も台湾に行ったほうが稼ぎになる…両者の利害が一致して大陸出身漁師が誕生したと言う訳だが、台湾当局はその様な大陸からの働き手を認めていない。
だから入国ビザは出ない。ならば上陸して台湾の土を踏ませなけりゃ違法にならないだろうと言う事から、沖合いの船で生活させ、出漁時各漁船に乗せ帰港する際は、また沖合いの船に戻す。
これを繰り返しているのだが、狭い船内に閉じ込められた彼等の生活環境は劣悪で病人も多く発生していると聞く。
領海内で台湾船籍だから、例え上陸しなくとも入管法に触れるのは明瞭だけど、台湾漁業関係者の生活も有るので当局も見て見ぬ振りをしているのが現状だ。
これがもし日本だったら規則一点張りのお役所は絶対認めないだろう。
お国柄とは言え杓子定規と緩やかな法の運用。どちらが正解か?考えさせられる問題では有る。』

ちなみにHさんは頻繁に現地に行き、しかも現地の人と間違えられるほど会話にも堪能である。

そういえば、中国漁船が大挙韓国水域で操業しており、検挙に向かった官吏に切りつける事件が報じられていた。

総括して、著しい経済発展と言われる中で格差が広がっているのであろう。

2011年12月19日

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太魯閣渓谷

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昨日ここで紹介したHさんは、今年も3回も訪台している。

そして行ったときのことを教えてくれるので楽しみにしている。

私は台北、淡水以外あまり他所へ行っていないが、新竹や花蓮、太魯閣など行ったことのあるところの話はよく判るし、懐かしい。

今日のメールでは花蓮で床の間の付いた和室に格安で泊まったという話があった。

一度だけ、松山空港から復興航空のATR72で花蓮空港に行き、翌日太魯閣に行ったことがある。
本当に凄い景勝地である。

これほどの処をもっと紹介すれば良いのにと思ったが、交通機関が渓谷を縫って走るバスくらいしかなく、次々と団体が押し寄せてもつまらないことになるからであろう。

写真は2009年3月に行ったときに撮ったが、太魯閣の素晴らしさを写真に収めることはとても難しい。

そこから台北までは台鐵の北回線(自強号)に乗った。

2011年12月20日

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台湾の国内便

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台湾では国内航空も頻繁に運航されている。

離島もあるし、東岸は険しい絶壁で道路も鉄道も限界があるのであろう。

2009年に訪台したときは松山から花蓮まで飛んだことがある。

そのときは予約していた便がキャンセルとなり、1時間あとの便に乗った。

台湾では日本であまり見かけないリージョナルなターボプロップ機が運航されている。
フランス、イタリアなど欧州の合弁事業で開発されたATR72という。

それにしても、羽田・松山間の定期便は便利そうだ。
松山国際空港は台北市の市街地にあり、ターミナルの前にはMRTの車站もある。
市内に宿泊しているとひっきりなしに発着する国内便を見ることが出来る。


2011年12月21日

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明日は冬至

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明日は冬至。

台湾ではゆず湯(柚子茶)で暖まると聞いた。

それと、各家で冬至圓といって家族で集まって団欒の風習があるらしい。

湯圓といって白玉団子を食べることも冬至の習わしだという。
この湯圓というものを知ろうと思ってウェブで眺めてみたが、いろいろなものがあるらしい。

台湾は近代社会でありながら、昔からの風習を皆で残していることは良いことだと思う。


2011年12月22日

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日本のゆず湯

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冬至になった。
寒波襲来である。

台湾では冬至に柚子湯を飲むと言うが、冬の寒い日本では浴槽に柚子を浮かべて首まで浸かり暖まる。

窓の外を見ると、予報通り一片白いものが見えた。
クリスマスの終末は寒いらしい。

内地に帰った翌年の冬、岩国で初めて雪を見たことを思い出した。


2011年12月24日

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造船技術者の端くれ

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私は在職40年あまりの間に、職業として4つを経験してきた。

最終学歴が船舶工学科だったこともあって最初は造船技師として7年程度勤めた。

それから、構造強度の研究技術者として約12年を過ごした。

その後、ほぼ13年をシステムエンジニアとして勤務した。
その間、2年近くを電子制御研修所の専任講師として単身赴任した。

それから地方の私学に移籍して助教授、教授をちょうど10年間過ごして退職した。

その中で、造船技師(Naval Architecture)をやっていた期間は最も短いのに自分では造船技師の端くれであると思っており、日本造船学会の後身である日本船舶海洋工業会の終身会員になっている。

随分以前のことであり、はっきり憶えてはいないが、航空機や船舶の分野に進もうと思ったのは、淡水で内地から飛来する飛行艇をみた記憶が影響しているかもしれない。

高校を卒業する頃は終戦後のことであり、航空機の運航や製造などで仕事が出来る環境ではなかった。
それでも、航空機産業か造船あるいは海運に進学したいと思うようになった。
卒業する頃には航空工学科を復活させる大学も現れていたが、高校3年になって、それまで視力検査表の一番下まで見えていた視力が0.5〜0.6程度になった。
当時、操縦要員や航海士は裸眼で視力1.0は必要であったので、船舶工学科に進学することにしたと思う。

造船設計部時代は新造船の構造基本設計も担当したが、造船協会(日本造船学会)の構造委員会に出席したことや、徹夜でスケッチを行って入渠船の改造を船級協会に認めて貰うために飛行機で出張したことが思い起こされる。

設計部から研究所に移籍した直後には11万トンの新造船で波浪外力と応答計測の実船試験で日本からアフリカ大西洋岸まで往復乗船した。

システムエンジニアとして仕事では世界初の全没式浚渫ロボットの遠隔運転システムの開発が一番印象に残っている。

大学教員の頃指導していた情報科学ゼミの卒業生が、システムエンジニアとして活躍していることを企業訪問のときに人事担当者から聞くことが嬉しかった。


2011年12月25日

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クリスマス

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このブログを書き始めて2回目のクリスマス。

今年のクリスマス、日本は寒波に覆われているけどメリー・クリスマス!

2〜3日前、町内で水仙が咲いていた。
ロウバイの咲くのも、この時期である。

これから、日脚も少しずつ延びる。

2011年12月31日

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大晦日

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今日は大晦日。

皆さんに教えて貰いながら、励まされながら、つまらない事ながらほぼ毎日掲載することが出来ました。

今年は東日本大震災という激甚災害が発生した年でありました。

世界中から激励や義捐金を賜りましたが、台湾からの義捐金は驚くほどの額でした。
とても強い絆を再確認致しました。

来年は穏やかな年になることを祈願し、心を新たに前進しようと思っております。

2012年01月01日

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明けましてお芽出とうございます

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明けましてお芽出とうございます。

おかげさまで今年も穏やかな新年を迎えることが出来ました。

今年も宜しくお願い致します。


2012年01月02日

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穏やかな新年

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明け方、うっすらと雪が積もって正月らしい凛とした冷え込みであった。

今日も年賀状が配達されてきたが、KGさんからのレターパックも届いた。

KGさんからの賀状には今日、台湾へ出掛けるとあった。

2006(平成18)年の大晦日に淡水の河岸レストラン「榕園」の河に張り出したテラスで食事を楽しんだことを思い出した。

春夏秋冬と四季の巡ってくる日本も良いが、常春の台湾も良いものである。

写真は昨年の淡水会で訪れた二見浦の夫婦岩である。

2012年04月01日

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会誌「日台共栄」到来

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日本李登輝友の会誌「日台共栄」が郵送されてきた。

2012年4月号(通巻30号)である。

台湾元総統、李登輝博士の「友の会の皆様へ」、それに昨年3月11日と同27日の激励の言葉も掲載されている。

昨年の暮れに奥多摩で実施された台湾出身戦没者慰霊祭のことも写真入りで掲載されている。

「友の会」は創設以来10年経過したが、その一員として更なる発展を願うものである。

2012年04月03日

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マンゴー

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台湾のガイドブックに、マンゴーはかき氷のトッピングとして紹介されていることが多い。

無論、かき氷にのせて食べても構わないのだが、マンゴーはフルーツとして食べたいのもである。

トロピカルフルーツに共通して言えることであるが、現地で熟れたもぎたてを食べるのが一番である。

国内でも、宮崎県や沖縄産のものを見かけることがあるが、輸送されてきたものは熟れる前に収穫したものであり、現地で収穫したものを食べるに越したことはない。

2012年04月10日

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三協成のパンフレットに載っていた

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このたび、ウェブページ「漁人碼頭的戰爭」に載っていた新店街の写真に塩や煙草、酒など専売品を扱っていた黒川商店が写っていた。

この写真は初めて見たものだと思っていたが、菓子の老舗「三協成」のパンフレットに載っていたことに気がついた。

赤丸印は「三協成」の店舗である。


2012年04月11日

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臺北市榮町通り

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1946年まで臺北に住んでいた加藤壽子さんが思い出を辿りながら描いたり直したりした博物館前の通りの商店街の配置図である。

当初の台北駅正面の通りであったが、再建された台北駅が移動したため一筋違っているが当時台北でも菊元デパートもある繁華街であった。

当時のことを良く憶えている方に教えて貰って、殆ど知らなかった戦前の淡水のことが少し判って来た。


2012年04月13日

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「旧台北イラストマップ:古老的台北市地圖」

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昨日、一昨日、それに先月20日に本欄に掲載した臺北鳥瞰図は、1993(平成5)年に加藤壽子さんの描いたものを東京の(株)グラフィックアーツが発行したものである。
加藤壽子さんは1929年に台南に台湾銀行員の子として生を受け、1935年から1946年まで台北に住んでいた女流画家である。

臺北師範学校の附属小学校、臺北第一高等女学校を卒業し、千葉市稲毛区に住む日本美術家連盟の会員である。

1935(昭和10)年の臺北博覧会のガイドマップを参照して描いたものである(下図参照)。

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臺北駅から新公園に向かう榮町通りの商店街図も彼女が描き、初版発行後に一部改訂されている。

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このイラストマップは2004年8月に一緒に淡水帰ったときに福田マキ子さんから貰ったものである。


2012年04月29日

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伊藤 潔著「台湾」

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中公新書「台湾」(1993年8月初版、2012年3月代8刷)が届いた。

第1章ではオランダ支配下、第2章では鄭氏政権下、第3章で清国の台湾領有、第4章は台湾民主国、第5章〜第7章は日本統治下、第8章は二・二八事件、第9章は国民党時代、第10章は奇跡の経済発展、第11章は急テンポの民主化と、序章を含めると12章から構成されている。

オランダがゼーランジャ城、プロビンシャ城を台南に築き、その後イスパニアが基隆にサンサルバドル要塞、滬尾にサンドミンゴ要塞を設営した頃から、現在の台北や淡水の発展の経緯が記されており興味深い。

新書なので概要を把握するには適切な文字数である。

個々の事項については周婉窈著「台湾の歴史」などを繙くことにしよう。


2012年05月05日

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台北新公園

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1915(大正4)年に臺北の中心部、駅前の大通り正面に博物館が落成した。

その南には広い公園が造られていた。総督府正面の通りまで広がる大きな公園であった。台北公園であるが、当時すでに圓山公園があったので一般に新公園と呼ばれていた。

圓山公園は1896(明治29)年に建設が始まったと言われているが、台湾神社はその前に着工されており、1901(明治34)年の竣工である。

台北公園が出来て、圓山公園、龍山寺公園とあわせて公園が3つになった。

挿絵は、先に紹介した加藤壽子さんの「旧台北イラストマップ:古老的台北地圖」の中央部を切り取ったものであるが、新公園のほか台北駅、総督府、博物館、公会堂、第一高女、第二高女、鉄道ホテル、菊元百貨店なども見える。

私は母が台北医院に行ったときに連れて行かれて、新公園を歩いたことを憶えている。

同公園は現在、2・28公園と呼ばれている。


2012年05月14日

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有朋自遠方來不亦樂乎(その3:植松材木店関連)

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昨年7月11日に掲載した『施合發専用木材運搬船「大観丸」』にHさんからコメントを貰った。

周明徳氏の私家本「続・夕日無限好」によれば植松木材店が淡水の木材工場を施1910年代に施坤山に譲渡したとある。
おそらく淡水河の水深が浅く、堆積砂で大きな中洲も出来ており、事業の展開が見込めなかったからではないだろうか?

Hさんは、その植松木材店経営者のお孫さんという。

一昨年、別のブログ「紺碧の海」(https://www.shipboard.info/blog/)でKさんと知り合い、昨年11月には「淡水」ブログでYさんから連絡を貰った。
そして、昨年の淡水会の少し前にIさんからメールを貰い、Kさん共々明石で逢うことが出来た。

そのKさんもIさんも淡水の木材工場に縁のある方なので、これも何かのご縁と喜んでいる。

見出しの写真は当時の淡水駅で、背景に木材工場への引き込み線が見え、その向こうは木材置き場と製材工場である。

2012年05月16日

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二胡の練習曲

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昨年暮れから二胡のレッスンを再開したが、まだまだ初級の基礎である。

殆どは運指のための練習曲であるが、ときどき民謡など簡単な楽曲が入っている。
その中には台湾の布農族民謡「穿胸當」、台湾民謡「豆花車倒擔」「売湯圓」、阿美族民謡「捕魚歌」などがある。

二胡は2弦の擦弦楽器であり、初心者でもとりあえず音は出るものの「殺猪(ブタ殺し)」と呼ばれるひどい音がする。
だが、名演奏家の手に掛かると心を震わせるいい音になる。

いつ頃、人前で弾けるようになるのだろう。


2012年07月03日

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大きな南瓜の写真

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先ほど、淡水の楊さんから立派なカボチャ(南瓜)の写真が届けられた。

本当に大きい。
背景の戸棚や人と較べるとその大きさが判る。

南瓜はビタミンAを豊富に含んでおり、世界各地で食べられている。
カボチャの種はひまわりの種と同じく油を多く含んでいるので種を絞って油をとることもあるが、種をそのままビールのつまみにするのも好きである。

淡水は積極的に観光農園などを営んでいるが、これは素晴らしい南瓜である。

楊さん、見事な写真をありがとう。

2012年07月14日

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動的旋律

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楊芝琳さんが、台湾から写真を送ってくれた。

3月4日に鹿港で撮影した台湾ガラス展の作品には、台北101の摩天楼や、美麗島の形を模した作品群、小鳥が留まって囀る古木、竹林に遊ぶパンダなど、何れも素晴らしい作品である。

台湾玻璃館に展示されているガラス細工だそうである。

見出しに載せた写真のタイトルは「動的旋律」、作者は欧明宗氏である。

どのくらい大きな作品であろうか?。
ト音記号を中心に、四分音符や連音符が躍っている。
実際にこの目で見てみたいものである。

そのほか、3月25日に台北市大安区瑞安街に残る日本式家屋の前の櫻の写真も3葉送って貰った。
日本の櫻より花が小さく色も赤みがかっているが、戦後60年以上経過した今年も日台の縁を繋いで咲いてくれたのが嬉しい。


2012年07月31日

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今日は暑かった

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今日、広島市内の最高気温は35℃を超えた。

月末でもあり、部屋の片付けでもしようと思ったが、何もする気が起きない。

台湾(と言っても知っているのは北部であるが)の夏は暑いが、日本の夏ほど湿度が高くないので、屋外でも日陰に入れば爽やかな風で汗も乾く。

台北の予想気温を見ると最高気温は30℃であった。

台風9号が近づいているので気圧は低く、明日は雨らしい。

台湾では晴天だと安心していると急に曇っていきなり驟雨ということがある。

地球温暖化の影響か、最近は日本でも激しい雨が降るようになった。

今年も九州では大雨で災害が発生している。

予報では明日も今日のような天気らしい。

健康管理に気をつけよう。

2012年08月02日

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台風9号で休講、閉店相次ぐ

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上掲の写真は、MRT淡水車站から広がる河岸公園から眺めた観音山である。
いかにも夏らしい色である。
一週間ほど前、淡水の楊さんが送ってくれたなかの一葉である。

その後、台風9号のため、昨夜教授と行う予定であったミーティングを中止したということである。

8月2日は、基隆市、台北市、新北市、桃園市は休講と決まった。

今回、台風9号と10号が同時に来襲したが、9号は台湾に、10号は種子島、屋久島を抜けて西方に移動中である。

南西諸島、先島諸島、それに台湾は台風銀座である。

2012年08月03日

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台風9号、台湾東部を寸断

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台風9号は台湾全域に甚大な被害をもたらしたと報じられている。

花蓮や太魯閣など台湾東部では道路と鉄道を寸断させたようだ。
速やかな回復を祈るのみである。

上掲の写真は2009年3月に初めて訪れた太魯閣の一齣である。
余りにも壮大なパノラマで、その情景を写真に納めることが出来なかった。

2012年08月04日

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颱風9号の淡水河速報

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Cさんから、8月3日朝の淡水河の写真が送られてきた。

台風9号は2日未明に台湾に上陸し、土砂に巻き込まれるなど5人が亡くなり、6000人以上が避難したと報じられている。
新北市では道路が大幅に陥没したという。

いつも清流の淡水河が増水して濁っており、木の枝か何か流れている。

淡水の街も坂や崖の多い街だから心配している。


2012年08月05日

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颱風9号続報

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ボストンUSAの博士が、颱風9号被害状況の写真を届けてくれた。

馬偕博士が1872年に帆船「海龍号」で淡水に上陸した地点に銅像が設置されているが、颱風の高潮で腰の辺りまで水浸しになっている。

馬偕博士はカナダ・キリスト教長老派の牧師であったが、同姓で有名なクリッパー船長であったマッカイ船長の未亡人から寄付を受けて北部台湾最初の西洋式診療所「滬尾偕医館」を建てた。龍目井の小公園(現:三民街ロータリー)に馬偕博士の頭像が立っている。


2012年08月11日

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白鷺

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首伸べて白鷺歩む 淡水の渚の波に灯りゆらめく

          陳淑媛

          (臺湾歌壇 第十六集から)


2012年08月12日

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淡水街付近図(その2)

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先日の本欄に載せた「淡水國小九十周年記念誌」に縮尺掲載されていた淡水街略図の続報である。

この地図の描かれた頃は、まだ公会堂も淡水神社も造営されて居なかったことが判る。

また台湾海峡に面して海水浴場と海底電信陸場という文字が見える。

淡水海水浴場は、ゴルフ場とともに台湾で初めて設営されたもので街営の施設であったが、当初外海に面して計画されたものが、水面が穏やかなことや遠浅の河口部に移設されたのであろうか。

海底ケーブルは淡水河口と長崎との間(681浬)に敷設され、1910(明治43)年に完成したものである。

台湾から内地向けの電報は全て淡水局から発信された。

このほか、福州や香港との間を航行する定期船や、漁船への通報などのために無線局も設けられた。

これらの施設の設置位置は殆ど知られていないので、その意味では貴重なものである。

2012年08月15日

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善光寺で聴いた玉音放送

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1945(昭和20)年8月15日の正午にラジオで重大放送があると知らされていたので全員、善光寺の本堂に集まって正座して放送を待った。

淡水小学校の児童が北投庄の山上にある善光寺に学童疎開していた。
祖母や母は、その保母として同行していた。

正午に放送が始まったが、雑音がひどくて聞き取れなかった。

しかし、ポツダム宣言を受諾する旨の敗戦の詔勅であることを予め聞かされていたのであろう。
皆、泣き崩れていた。

しかし、それで生きて淡水の街に帰ることになった。

引率教員の一人は「さらばラバウル」の替え歌を作り、皆で下山するとき唱った。

大陸や半島では終戦直後の治安は良くなかったようであるが、淡水では前日までと同様の生活が続いた。

盗難もなかった。たまに取り込み忘れた洗濯物が無くなった程度のことはあったようであるが・・・。

家財道具を処分し、引き揚げるときも、名残を惜しんで多くの人達が淡水駅に見送りに来た。
なかには引揚船に乗船する基隆まで見送りに来てくれた人もいた。

今でも私の故郷は淡水である。

2012年08月24日

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颱風14号

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台湾には今月初めに颱風9号が襲来し、少なからざる被害を被った。

さらに今週、颱風14号が台湾南方のバシー海峡に居座っており居り、台湾はまた雨雲に覆われている。

上掲の写真は、淡水のCさんから送られてきたものである。

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これはそのときに同時に送られてきた淡水河岸緑地の様子である。

最近、淡水が近くなったようで大変喜んでいる。


2013年02月10日

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「廟」

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先月、LCさんから送られた写真である。

遅くなったが転載させて貰う。

『日本の何処に行っても神社佛閣があるように、台湾のどの街にも廟がある。
淡水の廟と言えばすぐ、人々に親しみられた下町の媽祖宮廟を思い出す。
母の信仰する、清水街にある清水祖師廟は昭和一桁時代に再建された。
学校に上がって字が読めるようになり、祖師廟の壁に親父の名前と献金二千円が地方の有志家許丙さん献金五千円の次に並んでいたのを発見した。
土建屋の親父は廟の再建の工事をも請け負ったようで、今は北新庄海岸、高層建築の養老院に引退した周明徳さんからの手紙で、家の兄が祖師廟で工事監督をしていた思い出に触れていた。
因みに周さんの家は廟の数軒隣だったのです。
祖師廟の直ぐ坂の下には観音様を祀る龍山寺があったが、寺の前の広場は今では市場に取って代わられ、寺は何処か?と探さないと見つからない程に混雑を極めている現状だ。
淡水四大寺院の4つ目、汽車駅の向こう側にあった山寺、俗に公佛と呼ばれる寺廟も忘れられない。
本像はミイラと聞いて、一年坊主のある日一人で恐る恐る奥へ忍び込んだ。
そこで目にしたのは等身大の本像、でも、けばけばしく飾りたてていてミイラの正体は判別出来なかった。
記憶の山寺は田んぼの真ん中、でも最近Google Mapで調べたそのお寺は多数の高層アパート群に囲まれて窮屈そうだ。
廣川さんが第一回淡水訪問の際、奥さんの背影を撮った写真の廟、家の親父の家の横のちっぽけな廟など、指を折って数えてみると、淡水の街のあちこちに小さな廟がまだ十軒近くも残っていた。

添付の写真は1963年の初め頃、淡水駅の汽車の供水塔付近、元本願寺の向かいでのスナップ。
写真機は同じく例のAires、45mm/1.9の標準レンズにフイルムはKodakのplus x panでした。
寒い冬、オーバコートを着て仏像を持ち運ぶ人物の真面目腐った表情が面白い。
よく見ると佛像は男性の顔、媽祖様ではないのは確かだ、なら祖師様かなと疑う。
でも媽祖様や祖師様がお出かけの時には、殿様行列のように前後に七爺八爺の家来を従え、等身大の本像は駕籠に乗って街中を練り回るから、この小型の仏像は多分何方でもなさそうだ。
その佛像を見送りながら、その人は汽車に持ち込んだ佛像を床下に置くか座席に座らせるかと考え、神様は切符を買う必があるかなと頭を傾げた。』

私は小さい頃、頻繁に行われる祭礼の獅子舞が怖かったように憶えている。

今年も神戸や横浜、それに長崎の中華街は賑わっているのであろう。

2013年02月11日

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北投の善光寺

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昨日、KGさんからEメールを貰った。

年が明けてから一週間も台湾に行って帰ってきたばかりであった。

このブログに北投の善光寺のことを載せたら何処にあるか訊かれたので、国内で発行されているガイドブックから導入路をコピーして届けたことがある。

それを見て今回登ってきたということであった。

私が2004年8月に撮った写真を2012年1月11日の本欄に載せたが、それから10年近く経過しており、少し増築されたのかもしれない。

KGさん、ありがとうございます。


2013年02月12日

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春節のカードを貰った

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2月10日には淡水のクリチーナから春節を寿ぐカードが7枚も届いた。

上のカードはそのうちの一枚である。

(このほかに誕生祝いのカードも、14枚貰った。
 ありがとう。)

2013年02月13日

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戦前の台湾のフィルム

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2008年に国立台湾歴史博物館が戦前の記録映画を修復しDVDビデオにまとめたものを持っている。

牧野周一氏がナレーションを担当した「南進台湾」などがほぼ120分に編集されている。

台北の市内などが収められているが、淡水に関する限りゴルフ場がちょっと出てくるだけであり、そのほかには草山温泉、国立公園の候補地であった大屯山、北投温泉くらいで淡水の影像を期待していたものには少し物足りない。

それでも、台北街並みの亭仔脚、台北車站、博物館、新公園などが載っているので見返すことがある。

それにしても古いフィルムから編集するのは大変な作業であったと思う。

2013年02月18日

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素晴らしいレストランの紹介

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先日、クリスティーナからMRT淡水車站前のデパートの9階に鳥窩窩レストランのことを知らせてくれた。

美味しそうな料理の写真を沢山添付してくれた上、日本語のメニューまでつけてくれた。

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数多くの写真を載せるわけに行かないので一齣を代表として載せてみた。

今度、淡水に行ったら訪ねて見たいものである。

2013年02月20日

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淡水和平公園

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淡水和平公園は、新北市淡水区になるずっと以前から蔡葉偉鎮長や、鄭宏銘、郭芳瑩、林國峰など各位による淡水和平公園後援会によって、砲臺や忠烈祠(淡水神社)に近い油車口に設置が企画され、実現されてきた。

1999年9月21日に台湾で大地震が発生したときに、その数年前に起きた阪神大震災を経験した人たちが復興を手伝うために渡台した。
そして、築後90年以上経った福井県の古民家が解体されるときに、この日本家屋を台湾に再建する話が持ち上がった。

解体されるときに、作家水上勉氏の父親が大工の棟梁として建設された建屋だと判ったが、再建場所も決まらないまま基隆の倉庫に置いていたためにシロアリなどの損傷が出始めたが、やっと油車口の忠烈祠前に整備される和平公園の一角に再建されることになった。

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最近、グーグル・マップを見ると砲臺や忠烈祠の傍に「和平公園」と載っていた。

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淡水一帯の攻防戦で亡くなったスペイン人、オランダ人、清法(仏)戰爭で亡くなったフランス人、暴風で遭難した日本人水兵、大東亜戦争で亡くなった淡水人などを弔うために、数珠を掛けて合掌した慰霊碑も建っている。


2013年02月21日

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許文龍氏

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許文龍氏は台南で生まれ、台南高級工業学校機械科を卒業し、1959年に奇美実業を設立して、同社をABS樹脂生産世界一まで成長させた人物である。

台湾で他に先駆けて週休二日制を実施した人でもある。

その許氏が後藤新平、新渡戸稲造、浜野弥四郎、鳥居信平、八田與一など台湾の近代化や産業育成を支援した日本人についてまとめた本が「日本人、台湾を拓く」である。

私は、氏の名前は知っていたが、台湾の発展に貢献した人物の胸像を、その人物とゆかりのある場所や施設などに寄贈したことは知らなかった。

しかも、そのなかには新渡戸稲造をはじめ、ご本人が製作した胸像のあることを知って驚いた。
許氏のプロデュースによって彫刻家が製作したものもあるが、八田與一、浜野弥四郎、新井耕吉郎、鳥居信平、磯永吉、末永仁などは許氏の製作になるものである。

粘土の形を修正しつつ像をつくり進めていくうちに、うまく出来なかったりしたときにはバイオリンで曲を奏でたりしたという。

許氏はバイオリンの演奏家としても知られている。

後藤新平の項と松木幹一郎の項は山岡淳一郎、新渡戸稲造の項は楠木榮、浜野弥四郎の項は稲葉紀久雄、鳥居信平の項は平野久美子、八田與一の項は片倉佳史、磯永吉と末永仁の項は早川友久、新井耕吉郎と羽鳥又男の項は手島仁の各氏が執筆している。

それぞれの胸像所在地、関連台湾史年表、執筆者の紹介なども載っている。

じっくり読ませて貰おうと思う。


2013年02月22日

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浜野弥四郎

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昨日入手した許文龍氏と胸像の物語を読んでいる。

山岡淳一郎氏の後藤新平、楠木榮氏の新渡戸稲造の項でも台湾の近代化に貢献した両人や当時の台湾のことについて知らなかった多くのことを知った。

今日は稲葉紀久雄氏の筆になる浜野弥四郎の項を読んだ。

浜野弥四郎は、その師バルトンとともに台北、基隆、台南など主要都市の水道事業を行い台湾をペストやコレラ、マラリアの流行る土地から衛生的な市街地にした「都市の医師」である。
(淡水は浜野の着任より前に、牧野實主任技師が手掛けて台湾で最初に上水道が整備され、淡水街長官舎には台湾で最初に水道が引かれている)

内地に引き揚げたあと、広島に辿り着いて父が苦労して水道事業に関わったこともあり、感銘深く読んだ。

許文龍氏が最初にデッサンから粘土の原型をつくった初めての胸像だそうである。
(台南市山上郷浄水場と後藤新平記念館にある)

2013年02月23日

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鳥居信平

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許文龍氏と胸像の物語を引き続き読んでいる。

後藤新平、新渡戸稲造、浜野弥四郎のあとに環境型ダム二峰を構築した鳥居信平の話が載っている。

彼は「台湾精糖」が潮州郡の未開の地に地下堰堤「二峰」を完成させ萬隆農場を開設し、力力渓の伏流水を利用して大響農場の灌漑工事などを行った。

パイワン族、ルカイ族、ブヌン族など高砂族の生活している荒廃した地に水源を求め、原住民の頭目と義兄弟の契りを結ぶなど現地の人たちと一緒になってこれらの大工事を完遂した。

高砂族の頭目から「おまえは立派な顔をしている。その首を家に飾りたい。」と真面目に申し込まれて、「まあ、待て。この仕事が終わったらくれてやっても良い。」と言う剛胆な人物だったらしい。

彼がその仕事に取り組んだのは、農科大学を出て数年の三十を過ぎたばかりだったという。

一気に読み上げて、ふと見ると友愛第12号に平野久美子、丁澈士、鳥居徹、原田英之などによって書かれた記事が載っていた。

鳥居信平も凄い人物だったには違いないが、これだけの成果を上げるためには台湾精糖も行政もその大事業を託し、それなりに支援したからであろう。

2013年02月25日

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台北の三線道路

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台北の街は、大陸の街のように城壁に囲まれていた。

交易するジャンクは淡水河を遡ってに荷揚げしていたが、後には大稲珵に移り、倉庫を持つ商人の館が建ち並んでいた。

、大稲珵、それに城内の三地区が台北の市街地であった。

城壁には四方に門が築かれていたが、近代都市にするために上下水道と道路の整備が計画された。
それに市街地の拡大も必要であった。

そのため、城壁を撤去して広い舗装道路が設けられた。
城壁の内側と外側にあった路も整備され、街路樹で仕切られた三本の道路となった。
これを人々は三線道路と呼んだ。

城壁が撤去されるときに城門は残された。
景福門(東門)、麗正門(南門)、承恩門(北門)、それに西門である。

加藤壽子さんが、大窪四郎さんが描いた「台北博覧会ガイドマップ(1935年)」を参考に1993年に描いた「旧台北イラストマップ」にはこれらの門が描かれている。

上図の下辺ほぼ中央に東門、左辺下部に麗正門(南門)、その上部に小南門、上辺右側に北門という文字が見える。
そして、これらの門のならびに街路樹で仕切られた三線道路が描かれている。

中央に見える博物館から放送局まで広がる公園は、先に圓山公園が出来ていたので新公園と呼ばれた。

母が台北帝大付属医院の外来に行ったときに、連れて行かれ新公園を歩いたことをおぼろげながら憶えている。

2013年02月26日

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台湾神社

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台湾神社は京都にある圓山公園にちなんで、北海道神宮(札幌神社)が建てられていると同様に圓山公園という名の公園を造り、そこに造営しようとした。

しかし結局、広い平坦地よりも神域にふさわしい北隣の剣潭山に造営され、1900(明治33)年4月に地鎮祭を行い、翌年10月に神殿が竣工し、10月27日に鎮座式が行われ、28日に大祭が挙行された。

ちなみに、淡水神社は1936(昭和11)年に造営が開始され、1939(昭和14)年3月11日に鎮座式が行われている。

加藤嘉子女史の描く台北鳥瞰図から転載した。

基隆川に掛かる明治橋の淡水寄りには淡水線の鉄橋が掛かっていた。

当時、淡水線の駅は台北、大正街、双連、圓山、宮ノ下、士林、北投、江頭(関渡)、竹囲、淡水であり、台湾神社の表参道は圓山駅から延びていた。
宮ノ下駅は台湾神社の裏参道にあたる。

当時、陽明山は草山と呼ばれていた。
右上に青い文字で「草山」と書かれているが、このほか「天母」、「士林」、「宮ノ下」、「大宮町」「圓山町」、「大龍町」、「河合町」なども青文字で記入されている。

図に載っている剣潭寺は戦後、忠烈祠となった。
明治橋の手前には交番の文字が見えるが、現在も警察署のような立派な交番が建っている。
圓山公園には動物園や小さな遊園地もあった。

圓山公園が整備されていたので博物館から放送局までにわたって造営された公園は新公園と呼ばれていた。

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戦後は台湾神社のあとにホテルが建ったが、宋美麗が買い取って圓山大飯店に再建した。

2013年02月28日

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是誠陶笛

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馬偕博士の頭像が立っているロータリーは淡水のメインロード中正路と三民街の交差点である。

戦前、この辺りは龍目井と呼ばれ賑やかな通りで、このロータリーのことを小公園とか三角公園とか言われていた。

2009年3月に淡水を訪れたときは、ここに父や安武先生が住んでいたとは知らなかった。
それどころか、自分の生まれた淡水公会堂が何処に建っていたのかさえ知らずに、滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)のガイドさんに尋ねたものである。

その龍目井の小公園の一角にオカリナ専門店があった。
グーグルストリート(2012年3月撮影)で見るとシャッターは降りているものの「是誠陶笛」の看板は当時のままである。

OcarinaShop_1.jpg

店員さんにことわって撮らせて貰った写真である。
大きな陳列棚2面のほか、カウンターにまでいろいろな陶笛が並んでいた。

OcarinaText.jpg

水牛型の陶笛を買ったら小冊子をつけてくれた。

OcarinaBook_1.jpg

成形、調整、着色、窯焼まで工程を詳しく載せている。

冊子には吹き方の基本、第1課から第8課までにわたる練習方法、それに4十数曲にも及ぶ数字譜もある。

もちろん中国の歌も多いが「キラキラ星」、「カッコウ」、「ロンドン橋」、「レッド・リバー・バレー」、「アメージンググレース」、「ジングルベル」、「荒城の月」、「タイタニックのテーマ」、「カプリ島」、「ドレミの歌」など聞き知っている曲も多い。

ocarinaBook_2.jpg

そのなかに「送別」があった。
これはジョン・P・オードウェイの"Dreaming of Home and Mother"、日本では「旅愁」として知られている曲である。

漢字で表記された曲名から憶えている曲を探すのも面白い。


2013年03月01日

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注音符号

bpmf_2.jpg

昨日、是誠陶笛を調べていると水牛型陶笛の箱に紙片がはいっているのを見つけた。

孔を押さえる指法の説明らしい。

bpmf_2a.jpg

拡大してみるとドレミファソラの読みと数字譜の対応らしい。
それにしても、中央にある記号は何だ?
見たこともなかった。

調べて見ると中国語の発音を記述するための注音符号であることが判った。

最初からbpmfdtnlである。

これで、あることに気がついた。
喜早天海著「見た!聞いた!知った!台湾見聞録」にある台中音頭の歌詞である。

一番の歌詞は
「東シナ海 飛び越えて やってきました 亜熱帯
 椰子の木揺れる 台湾で 作る思い出 宝物
 林さんバスで 朝が来て 交通地獄も 没関係
 ボポモフォ ダタナラ 何のその 僕らは 小さな地球人
 ニイハオ 再見 明天見
 台中音頭でヨヨイのよい」

二番は
「グリーンスネーク ニシキヘビ 木登りトカゲもこんにちは
 シャンチャオ 揺れる 丘の上 上がる喚声 水しぶき
 焼けつく鉄棒 にぎりしめ 地球ぐるっと さかあがり
 雪の降らない台中に 熱い僕らの 汗が降る
 ニイハオ 再見 明天見
 台中音頭でヨヨイのよい」

(三番は省略)

この一番のボポモフォ ダタナラが判らなかった。

子音と母音が別表になっているので子音群の始めらしい。

淡水國小学校新聞の、林元紅校長の挨拶にもこの符号が振ってあった。

bpmf_1.jpg

子供は、こうして台湾語(南語)の発音を憶えるのであろう。

私も憶えて読めるようになりたいが、ちょっと識るのが遅かったかも知れない。

2013年03月03日

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WBC2013開幕

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昨日、ワールド・ベースボール・クラシックの予選大会が始まった。

福岡で始まったA組では日本がブラジルに5:3で逆転勝ちし、台中で行われたB組では台湾が濠に圧勝した。
順調な滑り出しである。

参加国は16ヵ国で、A組(福岡)で日本、中国、キューバ、ブラジルが、B組(台中)では台湾、韓国、豪、蘭が3月2日から始まったが、C組(プエルトリコ)のプエルトリコ、ベネズエラ、ドミニカ、スペイン及び、D組(フェニックス)の墨、米、加、伊はそれぞれ3月8日からリーグ戦が行われる。

今日(3月3日)、福岡では12時半からキューバとブラジルが対戦中で、台中では15時半から台湾がオランダと試合を行う予定である。

A組にキューバ、B組にオランダ、C組にスペイン、D組にイタリアが入っているのはベースボールの盛んな地域とそうでない地域のレベル差を考慮してのことであろう。

写真はウェブのニュースから借用した。

2013年03月06日

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日本語について

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台湾で「友愛」という雑誌が発行されている。

2010年9月に発行された第11号も、2011年末に発行された第12号もA5版でほぼ350ページという厚みである。

友愛グループは、「美しい日本語」を守ろうと台湾で創設された(創設者の陳絢暉さんは残念なことに昨年12月21日に亡くなった)。

それぞれ二十数編のエッセイ、短歌などの詩歌、10編以上のスピーチに加えて熟語やことわざ、読みなど三十問以上にわたる月例会の日本語実力教材が載っている。

戦後日本の学校教育でも句読点の使い方さえ教育されて居らず、作文や綴り方など殆どなく、夏休みの絵日記でさえ碌にチェックもしない。
稀に朱が入って返ってきても文章としてチェックされることなどない。
戦後の日本の教育は、日本古来のものは全てダメで、漢字なども相当痛めつけられてきた。
日本語も、本気でローマ字にせよとか、志賀直哉のように日本語は駄目だからやめてフランス語にせよと言う日本人も居たほどである。

それなのに台湾ではこれほど日本語を愛してくれている。

日本語には主語がないとか欧州スタイルと較べて曖昧な言葉だと言う者もいるが、寒いだの暖かいだの言うのに、it(イギリス) だとか es(ドイツ)のように意味のない仮の主語を持ってこざるを得ない言語が素晴らしいとも論理的とも思わない。

我々はもっと日本語を勉強しなくてなるまい。


2013年03月08日

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人類の歴史を変えた十大植物

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友愛会誌「友愛」の第12号を見ていたら、張文芳さんの見出しのエッセイが載っていた。
2000年2月に宜蘭で開催された「緑色博覧会」に『人類の歴史を変えた十大植物』のテーマ館があり、そのパンフレットを邦訳したものだそうである。

掲載されていた順に提示してみる。

「ゴム」: 自動車が実用化されるためにはゴムタイヤが必須の条件であった。
1839年にアメリカ人グッドイヤーがゴムの樹液に硫黄を加えて
加圧処理する加硫法を発明し、交通運輸機関に大変革をもたらした。

「ケシ」: ケシから鎮痛剤モルヒネの主要な原料である阿片が作られる。
インド、ミャンマー、タイなど東南アジアで栽培されている。
イギリスが中国へ大量の阿片を輸出し「阿片戦争」の発端になった。

「桑」: 蚕から絹糸が作られたのは、人類史を2千年も遡るという。
これが欧州に運ばれたシルクロードは文化の交流路でもあった。
欧州では絹や木綿がもたらされるまで織物の主体はウールであった。

「林檎」: 林檎は果物としても貴重な存在である。
これを発酵させてシードルなどアルコール飲料としても用いられる。
ニュートンはリンゴの落ちるのを見て万有引力の法則を思いついた。

「エンドウ」: メンデルは、8年もエンドウを研究して遺伝の法則を証明した。
彼はエンドウが自家受粉できることを知って人工授粉で研究した。
メンデルの学位論文は、わずか1ページであったと言われる。

「小麦」: 小麦はイネ科の1年生植物である。
世界の人口の35%が小麦を主食にしている。
ナンを含むパンの原料であるほか、麺として用いられる。

「水稲」: 水稲は生産量世界一の穀物である。
アジアを中心に世界人口の約半分の主食である。
インディカ米やジャポニカ米がある。

「キナ」: マラリアの特効薬キニーネの原料である。
南米大陸で原住民が熱病の治療に用いていた。
欧州人がジャワなどに移植して活用された。

「茶」: 茶は中国、アラブなどで昔から飲まれていた。
欧州に持ち込まれて、茶に砂糖を入れて嗜むようになった。
ボストン茶会事件が独立戦争の導火線になったことは知られている。

「綿花」: 綿花が、大量に使用されたのは産業革命以降である。
南北戦争は綿花の収穫に奴隷を用いるか否かで争われたという。
アメリカ南部の綿花輸出量は世界最大であった。


2013年03月09日

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増補版「図説:台湾の歴史」

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周婉窈著:「図説・台湾の歴史」の増補版が2月18日に発売された。

同書の紹介文には
『(前略)台湾初版未収録の「戦後編」に加え、日本統治時代の台湾の政治・文化運動も増補し、日本統治と東アジア現代史の関連について、さらに深く一貫した視座を可能にした。(後略)』
とある。

カバーには廖繼春の描いた油絵「芭蕉の庭」が用いられている。

2013年03月10日

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MRTの車内放送

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MRTは便利な乗り物である。

路線にもよるだろうが、車内は広く収容人員は多い。
その上、発車時刻表がない。その代わりに、次のMRTがあと何分で到着するか表示されている。

しかも、車内で駅に近づく度に放送される案内は「國語(北京語)」、「台湾語」、「客家語」、「イギリス語」で放送される。

台湾で話される言語は「台湾語」(南語、台語、河洛語)を話す人がが台湾人口の約75%、「客家語」を話す人が約13%、その他の漢語方言が約10%、原住民諸語が約2%だと言われている。

こうなると少なくとも2語くらい知っていないと生活に困ることも出てくるかも知れない。
今も台北、台中、高雄に日本人学校があり、毎月10万人以上の日本人が台湾を訪れていると言うが、戦前はもっと多くの日本人が住んで現地の人とその街や社会を創りあげてきた。
当時、公学校で教える国語は日本語であったが、家庭では台湾語で話す一鉢も多くいた。KGさんは子供の頃、家庭では台湾語を使いなさいと言われていたが、そうしなかったことを悔やむと言っていたが、私も当時は現地の子供達とも遊んでいたし、大人たちも市場の買い物は台湾語であったはずである。

それでもインターネットが普及したので、日本語で発信し、イギリス語や台湾語で受信出来ることは有難い。

言葉には、コトバとコトバとの関係を示すとき、フランス語やイギリス語のように単語が形を変える屈折語、台湾語やベトナム語のように単語を並べる順序によるものを孤立語、日本語や朝鮮語のように助詞・助動詞を使う膠着語がある。
同じ系列の言語同士であれば機械的に翻訳することもある程度可能であるかも知れないが、系列の異なる言語にこれを適用することは無理であろう。

異言語間コミュニケーション方法の改善は、さらに進められることが望まれる。


2013年03月23日

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台湾の農家

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台湾の農家は日本のように木造ではなく、煉瓦建てである。

基本的に中庭を囲んでコの字に建てられる。

正面には正廳があり、神々や祖先を祀っている。

正廳を背に左側に家族が住む。

そして弟は右側に住むことになる。

この挿絵は加藤嘉子さんの「古老的台北地図」の左下余白に描かれたもので、右には未だ建屋が建っていない。

名古屋の近郊、犬山に明治村として、古い日本の建造物を移築したテーマパークがある。これを国外に拡張したのがリトルワールド(http://www.littleworld/)があり、ヨーロッパではドイツ、フランス、イタリアなど、アジアではインド、ネパール、トルコ、タイなど世界各国の建物が移築され、関連する店も出している。

そのなかにある台湾の農家も典型的なものである。
見学に行ったときは、中で手仕事をしていたり、実に懐かしい思いをしたものである。

挿絵では、中庭に鶏が飼われ、手前にはパパイヤ、背景には椰子が描かれている。
弟が所帯を持ったら右側に建て増しされ、コの字型になるのであろう。

2013年03月25日

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母のこと

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母は、6歳のときに祖母に連れられて渡台した。

そしてすぐ、淡水小学校に入った。
当時、小学校は日本人の子女だけでなく本島人の子供も通学していた。
ただ、日本語は既習として授業が行われるので日本語の会話が出来ることが前提であった。
屡々、当時のことを教えてくれるカリフォルニアのLCさんのお姉さんも淡水小学校に通っていた。
年次は同じではないと思うが、女子児童の記念写真(本欄:2011年4月22日、同5月11日)に母と一緒に写っている。

1929(昭和4)年の春、母は台北第一高等女学校に入学した。

見出しは台北一高女の運動会の写真で、裏に「簡氏、高田先生、八木先生、昭和六年」と鉛筆書きのメモがある。
帽子を着用しているのは生徒であろう。

しかし翌年、徳山高女に転校した。
山口県には母の親戚が多かったから、一年間預けられたのであろう。

後に山口県笠野の親戚からマキ子さんが淡水に来て、台北第二高等女学校に入り、母と同様、淡水から列車通学していた。

TokuyamaKojo_1.jpg

この写真は、徳山高女の修学旅行で二見浦で撮ったものである。
裏には右から「下村清子、岩本安佐枝、(母)、山崎郁子」とメモがある。

卒業後は淡水に戻って、祖母が街の嘱託となって住み込んでいた公会堂に帰った。

2013年03月27日

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台湾の注音符号

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台湾では端末のキーボード入力のときも、携帯でメールを送るときも「注音符号入力法」によっているという。

喜早天海氏の著書「台湾見聞録」のなかの「台中音頭」の一番の歌詞の中に「ボフォモフォ ダタナラ」という呪文のようなものが載っていて何のことか判らなかった。

あとでこれが注音符号のことだと判った。

台湾の声調には8声あるが、6声は(殆ど)存在しないので実際には7声であるという。
注音符号で入力するキーボードを捜していて見つけたのが上図である。

文字を見ても発音が判らなければ入力できない。
そういうものであると思っておこう。


2013年03月28日

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台湾で地震

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「台湾中部でマグニチュード6.5の地震、台北でも強い揺れ。『921地震』以来最大規模」というニュースが飛び込んできた。

発生時刻は2013年3月27日午前10時3分頃、震源地は南投縣仁愛郷で震源の深さは15キロとか8キロとか様々な数値が報道されていた。
地図で見ると仁愛郷というのは霧社と呼ばれていた地域らしい。

集集鎮で一人亡くなったほか、同縣や隣接する台中縣などで数十人の負傷者も出たという。

被害の少ないことを願うばかりである。


2013年03月29日

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櫻が開花した

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やっと櫻が開花した。

とは言っても近年、開花時期が早くなった。

十数年前は4月3日になっても未だ咲いていなかった。
4月3日というのは、月遅れの桃の節句で、花が咲いていてもいなくても花見にゆく風習があった。

上掲の櫻は祇園新道の街路樹で、ソメイヨシノである。
お伽噺の花咲か爺さんは「枯れ木に花を咲かせましょう。」と言うが、ソメイヨシノは未だ葉芽も出ない、枯れ木のような枝に満開に咲く。

西洋人はサクラというと桜色、すなわちピンクと思っている様であるが、実際には限りなく白に近い。

私は薄赤い葉芽とともに咲くヤマザクラが好きであるが、花見の会場になるような街の公園は殆どソメイヨシノが多く、ヤマザクラを見る機会は少ない。

一度、ヤマザクラの名所、吉野山の千本桜を見たいものである。

台湾でも櫻の植樹が行われていると聞くが(淡水の天元宮など)櫻の品種は河津櫻(カワズザクラ)である。
気候が違うのでソメイヨシノは土地に合わないのかもしれない。

2013年03月30日

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淡水の桜並木

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淡水にも桜並木があるそうだ。

MRT淡水駅から山寺をまわって鄧公路に沿って行き、小さな橋を渡ると「滬尾櫻花大道」に出る。

そこから櫻並木が続いているようである。

案内の絵地図によると農園などもあるらしい。

良い季節に訪台するときには行って見たいものである。

2013年04月02日

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三芝に移転

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父は1943(昭和18)年の春、小基隆の三芝国民学校に転勤になった。
その年の秋に三芝の教頭になったが、父としては淡水国民学校で慣れてきたのに田舎に移されるのが嫌であったようである。

三芝国民小學創校百周年記念誌によると、転勤になったときの校長は中島一夫先生で、ほかに山城安次郎、高鍬秀雄、石川清一などの先生方がいた。

まわりは田圃で、国民学校とその傍の宿舎のある辺りの地表が僅かに小高くなっていたような気がする。

龍目井で一緒に住んでいたマキ子さんは、淡水郡役所に勤めていた原田ユクさんの弟である山本 保さんの家から台北二高女に列車通学していた。

山本 保さんは淡水国民学校の裏手(水源街のあたり?)に住んでいた。
街外れという感じのところであった。

週末になると三芝に来ていたそうである。

宿舎のまわりは広い野菜畑で、茄子や胡瓜などを作っていたが、落花生も作っていたらしい。
マキ子さんは畑に植えてある落花生を初めて見たと言っていた。

少し離れたところに菓子を作る工場があって、ときおりパンを焼く匂いや、ミッセンを煮る甘い香りがしていた。

まわりは田圃で、田植えが終わった頃の夕方は、沢山のホタルが飛び交い、畔道が判るように明るかった。

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いまは街も賑やかになり、国民小學も大きくなって、当時の様子を窺うことは出来ない。

三芝は台湾で初めての医学博士杜聡明や総統となった李登輝の出身地として有名になったが当時は田舎であった。

2013年04月05日

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水上機の写真

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昨日のこのブログで淡水古蹟博物館が発行した「滬道日安」の写真に言及したところ、曽さんから「あの写真と記事が間違っている」と連絡を貰った。

同誌には「1941年の淡水水上機場」と載っているのであるが、1941年と言えば零式艦上戦闘機が既に前線に配備されていた時期であり、複葉双浮舟の三座偵察機はいかにも古い。
あの写真は1929年の基隆の海水浴場に繋留された佐世保海軍航空隊の十四式水上偵察機(サ53、サ55)であると知らせてくれた。
この写真で胴体後部と垂直尾翼に「サ53、サ55」の文字が読める。

十四式水偵と言えば、横須賀海軍工廠で開発され、1926(大正15)年に制式採用された水上偵察機で機体略番はE1Yであった。

第一線を退いてからは練習機として使用されたほか、払い下げられて民間機にも使われていたらしい。

ブログを書いていて、たまに連絡を貰うと嬉しいものである。

2013年04月06日

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台湾史小事典

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台湾大学歴史学部の呉密察教授の監修になる「台湾小事典」を見ていた。

「監修者の言葉」には
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『台湾史小事典』は社会の、とりわけ教育現場の求めに応えるために計画し作られた「台湾史」の一つの土台である。(中略)年表と事項は、すべて台湾の歴史を全面的に考慮した後選んだもので、千数百年の台湾史の重要な内容を含んでいる(中略)事項の内容は出来る限り先入観を排除し、近年の研究成果を充分に吸収した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
とある。

863項目にわたる「台湾史年表」と、610事項の[台湾史辞典」が挙げられている。

熊本学園大学外国語学部アジア学科の横澤泰夫教授の編訳による2007年初版、2010年9月増補改訂版である。

1995年以降の記述は原著にはなく訳者が加筆、補充したものであると註記されている。


2013年04月08日

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「前島先生の門下生宅にて」

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古い写真が出てきた。

裏を見ると

「前島先生の門下生宅にて」とボールペンで書いてある。

もちろん、前列中央が「前島先生」で、右は「高田一サン」、そして左に「私」とある。
後列右は「前島先生門下生」、左は「前鎮長(街長)」と記されている。

「私」が誰なのか。なぜこの写真がここにあるのか判らない。

父の教え子の一人が送ってくれたものに違いない。
この写真を送ってくれた「私」とは誰であろう?
私の推察では淡水公学校高等科の時、生徒であった呂添得氏であろうと思う。

父は戦後二度淡水に帰った。
1985(昭和60)年に書道教室の竹沢先生の一行と故宮博物院見学に行ったときと、1991(平成3)年に淡水会が現地で行われたときである。

最初の帰台のとき、入れ違いに呂氏が大阪に住んでいた息子の処に来て、父が帰広して程なく大阪の帰途広島に会いに来てくれた。
ステーションホテルで、父の予約したシングルの部屋に奥さんを入れて、ツインで夜半1時過ぎまで話したという。
「先生、眠たくないですか」と言いながらあれこれ、とめどなく話したそうだ。

呂氏はよく写真を送って呉れていた。

この写真には「86.10.18」と日付けが写っているから逢いに来てくれて間もなくのことである。

この写真に写っている人を知っていたら教えて欲しいものである。

2013年04月09日

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深い縁で結ばれている

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昨日の本欄に旧い写真を載せたら、クリスチーナから直ぐ「私の父の洪年栄です。」とメールがあった。
呂添得氏が、前島先生と洪年栄氏と父を繋いでくれていたのである。

1991年9月に第24回の淡水会で淡水に行ったときには25名くらいの中で最年長ということで団長にされてしまったと言っていた。
一泊目は現地の人たちの歓迎会があり、80人もの人が参加してくれ、大宴会のあと全員で起立して淡水公学校の校歌を大合唱になったという。
当時、淡水国民小學の校長であった陳淑女先生が盛装で参加され、テーブルを回るときにも付いて回ってくれたという。
台湾では乾杯と言うと本当に飲み干すのであるが、飲まされ過ぎないようにという配慮である。
このときの写真は妹の家にある。

そして2010年の秋、私たちが淡水を訪問したときに、陳先生は多忙な中から昼の部にも夜の部にも出てくれて乾杯することが出来た。
博士にも現地で合流したKGさんにも大変お世話になった。

ボストンの博士とも、カリフォルニアのLCさんとも、横浜のKGさんとも、淡水のクリスチーナとも何か絆で結ばれているのを感じる。


2013年04月15日

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那覇港で撮ったデイゴ

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すこし暖かくなった。
暖かくなると亜熱帯植物のデイゴを思い出す。

デイゴと言っても、広島の平和公園にあるのはアメリカデイゴ(海紅豆)で緑の葉を付けた枝先に花が咲く。花の形も異なる。

沖縄や小笠原のデイゴは台湾に咲くものと同じで、冬で葉を落とした枝の先に真紅の花が付く。
日本では沖縄が北限とされている。

この写真も1995年3月に寄港した那覇で撮ったものである。


2013年04月17日

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淡水区公所(紙袋の襠)

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昨日の本欄で予告しておいた襠に印刷されているイメージキャラクターである。

何の虫であろうか?

そういえば淡水國小の校庭にも大きなイモムシが居たのを思い出した。

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先ほど、クリスチーナから蔡葉偉区長が昨日復職したと連絡を貰った。

経緯が判らなかったので気になっていたが、良かった。

2013年04月18日

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淡水仲間が訪ねて来て呉れた!

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大和の吉野から、江田島、呉線沿線を巡っていたKGさんが広島に立ち寄ってくれた。

広島駅ビルの銀座ライオンでビールを飲みながら色々な話を聞き、よく喋った。

吉野へは高校のクラスメートと行ったそうである。
KGさんとは3、4年前に知り合ったのであるが、高校時代からの旧友のように淡水のこと、長崎のことなどを話しているうちに時間が経ってしまった。

写真は広島駅で甘栗屋さんに撮って貰ったものである。

2013年04月19日

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茶さん(茶 壱福)

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2002年から台湾観光キャンペーンに起用されていた茶さんの本名は 茶 壱福。
九生まれの観光局員で、通称はチャーリーという。

ママ茶(茉莉花)との間にベビー茶(若葉)が居り、おじい茶(茶 陳年)、おばあ茶も居る。

2004年頃まではコマーシャルにも出ており、2009年に開催された「東京マラソン2009」ではキャンペーンキャラクターとして有明会場に来ていたが、その後何処でどうしているのやら・・・

最近、各地に出没しているゆるキャラなどとは格が違う。

何処かで再会したいものである。

2013年04月20日

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粟原和子さん

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ウェブを眺めていたら、粟原和子さんという名を見つけて驚いた。

「私の故郷」として淡水街の写真を幾つか掲載していた。

上掲の写真は台湾銀行淡水支店長の住んでいた日本家屋である。

粟原和子さんがクリスチーナの別名であることを最近まで知らなかった。

今度、淡水に帰ったときに是非とも会いたいものである。


2013年04月21日

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長田建致氏

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洪年栄氏宅で撮った写真を送ってくれたのは神戸に在住していた長田建致氏(旧姓 張氏)であった。

上の写真の裏には「旧淡水女子公学校、現文化国民小学」1987年5月2日」と記して送ってくれた。

その傍に父の字で「私の教え子の叔父。淡水行の時も同行してくれた。"日本名 長田建致 神戸在住"」と添え書きがある。

彼には淡水や台北の街角でセルフタイマーで撮ったらしい沢山の写真を送って貰った。

長田さんを通じて、杜さんや鄭さんの写真も送って貰った。
本欄で順次紹介しようと思う。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(別件)

今朝方、嬉しいメールを貰った。
日本時代のことを語るときは日本名なのだそうである。

私のブログの写真を使ったことについて彼女は詫びていたが、詫びる必要など微塵もない。
淡水生まれの仲間にとって共有のものが在ることは嬉しいことだ。

いまでも台湾で「父、母、ベランダ、エプロン、トマト、幼稚園、・・・」など日本語が使われていると言うことも教えてくれた。
私も「アップイタンコエ」や「カッキンテーライ」なども解る。
ビンタン(洗面器)、キンチョウ(バナナ)、トータウ(南京豆)、それにギナ、ツァボギナなども解るが父や母が居なくなって使うことも少なくなった。
福田マキ子さんと話すときに使ってみようかな。

淡水仲間の輪が広がって行くことは嬉しい。

今年の淡水行きの日程が決まったら、このブログを見てくれている皆さんに「ご一緒しましょう」と声を掛けるつもりである。


2013年04月22日

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鄭景徳氏一家

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これも父の教え子の家族写真である。

裏に
「1985年2月(撮影)
右より
次女夫婦とその長子
次男夫婦
(その右、後列)
長女夫婦とその長女
長男夫妻
(前列)
ご本人と夫人
(その前)
長男の長子
次男の長子」とある。

そして
「広川先生留念
 鄭景徳 1986.Oct.」
とボールペンで記してある。

長男夫妻、長女夫妻、次男夫妻、次女夫妻とそれぞれの孫に囲まれて幸せそうな写真である。

もう年月が経っており、いきさつは分からないが、おそらく長田氏が写真を送ると聞いて託けたものであろう。

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こちらの写真は長田氏の字で
「○薬剤師 杜宗槐氏
 ○ 私
三狭祖師廟にて
元海山郡」
と記してある。

2013年04月24日

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小白宮の古い写真

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三協成ではその菓子屋を紹介する資料に、幾つかの淡水の古蹟についての記事が載っている。

そのなかに旧清朝の税関総税務司官邸であった小白宮の解説もある。

上の古い写真には、塀の手前にブルドーザーのような土木機械とオートバイが写っている。

この施設は台湾全体の関税業務を仕切っていたが、外航貿易の大部分が基隆に移り、淡水税関は基隆税関の支所となり、この建物は迎賓館のようになっていた。

戦後は淡江中學の学生寮などにも使われていたが、間もなく放置され荒れ果てていたという。

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この石柱には「総税務司公署界石」という文字が見える。

2013年04月25日

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ライチ

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台湾ではバナナなど通年販売している果物もあるが、やはり果物の季節はこれからである。
東京の輸入業者からライチやマンゴーの予約案内が郵送されてきた。
黒葉ライチは6月15日までに申し込むと6月末までに届けられるという。

私は、どちらかと言うとリュウガンの方が懐かしい。
ライチは6月になると店頭に並ぶが、リュウガンはもう少し後である。
2004年の8月に淡水に帰ったが、そのときMRT園山駅の側で鈴生りに実を付けていたリュウガンの樹があった。


2013年04月26日

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台湾航路の貨客船

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内地と台湾を連絡する台湾航路は神戸から瀬戸内海を通って門司に入港し、そこで乗客や貨物を積み込んで基隆へ向かった。

就航した船舶は三菱長崎が建造した商船で、初めて千総トンを越えた「須磨丸」(1563総トン)、英国に発注した「安平丸」「淡水丸」「基隆丸」(1698総トン)、「臺北丸」「臺中丸」「臺南丸」(3300総トン)、「宮島丸」(1952総トン)、「須磨丸」(不詳)、「明石丸」(1571総トン)、「臺北丸(Ⅱ)」(2794総トン)、「臺東丸」(1944総トン)、「宮古丸」(1013総トン)、「桃園丸」(3460総トン)、「蓬莱丸」(9192総トン)、「扶桑丸」(8188総トン)、「高雄丸」(4282総トン)、「恒春丸」(4271総トン)、「瑞穂丸」(8511総トン)、「高千穂丸」(8154総トン)、「高砂丸」(9315総トン)など大阪商船の船が多かったが、「吉野丸」(8998総トン)「大和丸」(9655総トン)、「朝日丸」(8998総トン)、「富士丸」(9138総トン)など近海郵船の船や、「さくら丸」(3205総トン)「うめが香丸」(3273総トン)など帝国海事協会の船や、「中華丸」(2191総トン)、「華南丸」(2192総トン)、「大華丸」(2197総トン)など山下汽船の船もいた。

なかでも「高千穂丸」とその拡大改良型である「高砂丸」は和辻春樹博士が設計し、三菱長崎で建造された名船であり、近海郵船の「富士丸」とともに台湾航路の花形であった。


2013年04月27日

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水上生活小屋と穀物倉庫

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MRT淡水駅前公園から自転車道が紅樹林の方へ行く辺りに水上生活者の杭上家屋と煉瓦建ての倉庫がある。

マングローブの保護区画の側であるが、その向こうの鼻頭地区に水上飛行機の傾斜が残っていた。

この地区も再開発の対象になっているようで、埋め立てて河岸緑地にするのであろうか、あるいは高層建築が建つのであろうか?

2013年04月28日

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1941年の航空定期便

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時刻表世界史(曽我誉旨生著:社会評論社2008年刊)に1941年(昭和16)年の大日本航空発着時間表が載っている。

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この図は上図の台湾の部分を少し拡大したものである。

台北と表記されているのは松山空港のことであろう。

内地との連絡は福岡空港との間に隔週1往復(土曜日発、火曜日着)のほか那覇空港から毎週1往復であったが、台中・台南経由馬公に毎週3往復、花蓮港経由台東に毎週3往復運航されていたようである。

当時の渡洋航行は船便が主流であり、航空機を利用するのは特命による役人の出張などに限られていたのであろう。

1940(昭和15)年には横浜と、同図で右に見えるサイパン・パラオと淡水に定期空路開拓のための試験飛行が行われたが、定期便が運航されることはなかった。
但し、海軍の97式飛行艇が横浜とマニラとの間に週1往復運航されていた。


2013年04月29日

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戦前は天長節と言った

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4月29日は昭和天皇の誕生日で、国民の祝日「昭和の日」である。

戦前も祝日であったが「天長節」と呼んでいた。

皇后の誕生日は「地久節」と言って高女など女子を対象とした学校は休みであった。

1924年に淡水公学校から分離独立して、現在文化国民小學のあるところに女子公学校が設立されたが、女子公学校も「地久節」は休みであったのだろうか?

2013年04月30日

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世界は狭い!

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先日、このブログに鄭景徳氏一家の写真を載せたら、ボストンの博士から「私の従兄弟である」と電子メールを貰って驚いた。

アルバムに貼ってあったものではない、この写真は父の文箱から偶然に見つけたものであった。

写真の裏に、父宛に書かれた被写人物の紹介と共にボールペンで署名があったからそのまま掲載したのであるが、2010年9月末に訪台したとき、台北の宿舎まで車で迎えに来てくれ、当時の淡水街公所、淡水國小、それに三芝の國小まで連れて行って呉れて、暗くなって宿舎まで叔父ご夫妻と一緒に連れ帰ってくれた博士の従兄弟であったことは電子メールを貰って初めて知ったのである。

父も母も祖母も、引き揚げて来てから当時の淡水のことを、いろいろ聞かせてくれたが、長田氏など教え子の方が後日送ってくれた写真には何も聞いていなかったものもある。

それにしても博士の言う通り「世界は狭い」と思うし、インターネットの有り難さも感じている。


2013年05月02日

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淡水の資料の宝庫

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クリスチーナが戦前の淡水の資料が大変多く載っているウェブサイトを教えてくれた。

作成したのは、2010年11月27日に挙げた「小公園」にコメントをくれた吉川太一郎氏である。
淡水郵便局の河岸に建っていた洋館は何であったのかという問い合わせであったが太古洋行の上屋であったものを中野金太郎氏を経由して淡水郵便局の別館になったと返信したところ、台湾師範大学の曽氏の論文を教えて貰った。

1944年10月12日に爆撃されたとき、空母イントレピッドからの第18攻撃隊により撮影された淡水の写真も複数載っている。

上掲の地図はそのなかの一齣で1936年に中国商工地図が集成し、1998年に柏書房が復刻したものである(赤文字は氏の追記による)。

両親が一時二階を借りていた塩屋の黒川さんは黒川義夫さんであったことも判った。

時間を掛けてじっくり読もうと思う。

2013年05月08日

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淡水には水上飛行機のための飛行場があった

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1937年頃、台湾総督府航空局は淡水の鼻仔頭村に飛行場を建設する計画を立てた。

1941年頃に水上機用の飛行場が出来た。

大日本航空はドルニエの飛行艇ヴァルを本土とバンコクの間に、月に二回運航していたが、淡水へは給油のために寄港していた。

しかし、大東亜戦争が始まったため、バンコク便は1941年12月12日に運航停止された。

その後は高雄の東港基地から零式水上観測機が派遣され、哨戒や気象観測に用いられた。淡水の前に広がる中洲をかすめるように離着水していたこの零観は、巷ではゲタバキ(下駄履き)と呼ばれていた。

海軍では広大な太平洋の、まだ飛行場の整備されていない島嶼部で運用するため、飛行艇で編成される横浜航空隊や東港航空隊のほか、索敵哨戒のため水上偵察機や、水上艦艇の砲撃の弾着を上空から観察し報告する水上観測機などを擁していた。
零式艦上戦闘機は陸上航空基地にも多く配備されたが、滑走路の整備されていない前線で運用できるように浮舟を付けて二式水上戦闘機として用いられた。

当初は台南航空隊(陸上:零式艦戦)や東港航空隊(飛行艇部隊)のように地名を冠した隊名をつけていたが、前線の別基地に進出したことと、防諜のため、東港航空隊を第851航空隊のように隊名の呼称を変更した。

この航空写真は、1944年10月12日に台湾沖に来た米空母「イントレピッド(CV-11)」から出撃した第18攻撃隊の撮影したものであろう。
滑台付近の地上に3機、水面に1機、それに右端の掩体壕の前に1機見えるが、この写真では単葉か複葉か判らない。
おそらく、単葉の水上偵察機と思われる。
写真にはライジングサンの石油タンクや淡水線の鉄道線路も見える。

1945年3月には実戦部隊が淡水に移動してきた。
フィリピン方面を転戦していた第634海軍航空隊である。
水上偵察機24機(常用18機、補用6機)を擁する部隊で、司令、飛行隊長、搭乗員、地上員など250名の部隊であったので淡水基地には収容しきれず、士林にも兵舎が設営されたと言う。
この部隊は沖縄方面に来襲した米艦船に何度か爆撃を行い、直撃弾も与えている。
水上偵察機「瑞雲」という単葉双浮舟の機体は、急降下爆撃の出来るもので250kg爆弾、あるいは60kg爆弾2個を搭載可能であった。

2013年07月24日

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「友愛」第13号

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先月、友愛会誌第13号が届いた。

本号は「友愛日本語クラブ」を設立された陳絢暉先生の追悼特集であった。

陳絢暉は1992年に美しく正しい日本語を残そうと、同志6名と共に友愛日本語クラブを設立し、現在は百数十人の友愛グループとして月例会が継続されている。

機関誌「友愛」の第11号(353ページ)は2010年9月18日に、第12号(335ページ)は2011年12月31日(352ページ)に発行され、第13号は2013年5月16日の発行である。

第13号の内容は、陳絢暉先生への追悼文が約80ページ、エッセーが150ページ余り、華日翻訳が20ページ余り、スピーチ集が20ページ、それに月例会のテキスト(問題)が70ページにもわたって掲載されている。

例会では、大学生や院生たちがテキストが難しすぎるので、日本語文芸作品の朗読にしようという声もあったようであるが、未だに、ことわざ、熟語の読みと意味、例示文の正誤など、日本人でもどの程度出来るかという問題で例会が続けられている。

この友愛グループのほか、台湾歌壇の会の活動も活発で「台湾歌壇」も年に2度発行されている。

私も、うかうかしていてはいけないと自省している。


2013年08月15日

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流川教会

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日本基督教団広島流川教会は、ミッションスクール広島女学院の母体となった教会で、原爆被爆時には上流川源太堀角にあった。

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被爆時に屋根は吹き飛んだが修復されて戦後も使用されていた。
この写真は電車道路を隔てた中国新聞社屋から撮影されたものである。

鐘楼の右に平地が見えるのが幟町小学校の跡地である。
我々が基町の市営住宅に転居したときには木造バラックの校舎が建っていた。
広島に初めて設けられたという伝統のわりには校庭も狭かった。

写真中央奧に見える黒ずんだ2、3階建てのビルがNHK広島局(JOFK)であった。その広島局から北側に新たに校地が設けられ、木造二階建ての校舎が建設中であった。
その北に広島女学院の高校と中学があった。

4年生の終わりに幟町小学校の移転が終わり、5年生になるときにクラスの新編が行われ、松組になった。松・竹・梅・櫻の4組で各クラスとも六十数名であった。

流川教会は1970年ころ小学校の近くに移転した(上幟町11番3号)。

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そして、かって流川教会のあった場所は駐車場となり、そこから電車道までのスペースには酒造メーカーが庭を造り、池では田植えが行われていたが、いまでは錦鯉や亀が遊んでいる。

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2013年08月30日

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木下静涯画伯の色紙

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今日、松山から父の手紙や色紙などが届いた。

遠戚にあたる淡水海水浴場「和樂園」の清子さんが送ってくれたのもである。

父の描いた色紙や短冊と共に木下静涯画伯の色紙も複数入っていた。

見出しの写真は画伯が86歳のときに描かれたものである。

父の色紙は淡水を訪れたとき、紅毛城や淡水河を発着する渡船などであった。


2013年10月01日

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久しぶりの連絡

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一昨年の夏に、このブログを見て東京に居た淡水人、Yさんから連絡を貰った。

その後、何度かメールのやりとりをしていが、昨日久しぶりに連絡があったのである。

何時か、また何処かで連絡がとれるかも知れない。


2014年02月03日

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年賀の電子メール

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今日は節分である。

台湾から春節を祝う電子メールが届いた。

淡水の雅齢(クリスチーネ)が送ってくれたもので、健康を願い万事順調に進展すると寿いでくれた。
台湾から、あるいは太平洋を越えて、折に触れて電子メールを貰うのは嬉しいものである。

さあ、甲午の新年も前に向かって進もう。


2014年03月24日

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「被漏失的郷土史與周明徳の足跡」

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先日、孫 秀子さん、呉 信裕さん経由、標記の冊子が郵送されてきた。

秀子さんが三芝雙蓮安養中心に、周明徳さんを訪ねたときにわざわざお願いして戴いたものを送ってくれたものである。

周明徳さんは、これまでにも中文、英文、日本文で台湾の郷土史(大部分は淡水に関するもの)を執筆して来られたが、九十歳になった今年も書きためてあった原稿からまた冊子をまとめられたのである。

1996年に淡水国民学校創立百周年記念に選出された、卒業生五名のうち杜聡明博士、李登輝総統に次いで第三位(李登輝博士とは淡水中学校の同級生であった)の気象技官であった。

何度も読み返されたのであろう、訂正や補足のため別紙が添付されているほか米国の国会図書館収蔵文書のコピーには朱ペンで註記も入っている。

有り難いことである。

今月初旬には楊芝琳さんから、本人やお父さんの沢山の鮮明な写真を編集して音声(歌)までつけたものを送って貰った。

そのころボストンの鄭宏銘博士からも、新作映画「KANO」の予告編を添付した電子メールを頂戴した。

私はお世話になってばかりなのに、皆さんからこんなによくして貰えるのは父母や祖母が淡水街の皆さんと親しくして戴いたからであろう。

ちなみに今日、3月24日は父、研一の102回目の誕生日である。

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